第二章 其ノ十三 豊かさの中で

紗江のデザインした着物は評判を呼び、店先ではどの商品も飛ぶように売れていった。


お梅が手がける小物も、若い娘たちの間で大人気だった。扇子、巾着、帯留めーーどれも繊細な刺繍が施され、手に取る者の心を捉えて離さない。


彩案工房の看板は、今や江戸でも指折りの呉服屋として知られるようになっていた。


店の帳場を支えるのは、お蘭であった。

新人の教育に取引先とのやり取り、賃金の支払いに金の管理ーーその全般を一手に引き受けていた。それでもなお、紗江の身の回りの世話は欠かさなかった。


ある晩、灯りの下で針仕事をしているお蘭に、紗江は心配そうに声をかけた。

「ねえお蘭、家のことを専門にしてくれる人を雇わない? あなたに全部、任せきりで、申し訳ないわ」


お蘭はすぐに首を横に振った。


「いけません。紗江様のお世話こそ、私にとって一番大切なお仕事ですから」


間を置いて続けた。

「それに、紗江様のお部屋には新作のデザイン画が置いてございます。軽々しく掃除を任せられるものではありません」


真剣な眼差しで言い切るお蘭を見て、紗江は胸が熱くなった。

これほどまでに自分を思ってくれているのだと、嬉しくて仕方なかった。



そんな折、町では不穏な噂が流れてきた。

「米が高騰しているらしい」

「八百屋にも、芋ひとつ残ってねえってよ」


加賀屋のおかみが深刻な顔で語った。

「紗江様、今年は長雨と日照りが重なって、各地で不作だったそうです。江戸にも米が入ってこない。このままでは……」


数日後、町を歩いていた紗江は、その現実を目の当たりにした。

路地裏に座り込む痩せ細った老人。母親の懐で泣き続ける幼子。閉ざされた米屋の戸板には、「米なし」の張り紙。


紗江の足が止まる。

(こんなに……苦しんでいる人がいるのに)

自分の店は繁盛し、毎日豊かな食事を口にしている。その対比が、胸を締め付けた。


その夜、紗江はお蘭を呼んだ。


「お蘭……私、決めました」


紗江の真剣な表情に、お蘭は息を呑む。


「江戸の人たちに、お米を配ります!」


お蘭は一瞬、言葉を失った。

(それでは商いの資金が減ってしまいます)

そう言いかけたが、紗江の顔を見た瞬間、言葉を呑み込んだ。

この顔の紗江は、決して引かない。長年仕えてきたお蘭だからこそ、わかることだった。


「私は江戸に来て、たくさんの人に助けられてきたわ。加賀屋のおかみさん、葵様、蒼馬たち……そして、お蘭」

紗江の目が潤む。


「だから今度は、困っている人を私が助けたい。私も幼い頃、お腹を空かせて泣いた日があったの。その苦しさを知っているから……黙っていられないの」


お蘭は深くため息をついた。


だがその声音には、誇らしさがにじんでいた。


「……全く。紗江様らしいお考えでございますね」


お蘭が微笑む。

「では、私も全力でお手伝いいたします」


翌日から、紗江は奔走した。

米問屋を回り、頭を下げ、金を積む。普段なら売らない蔵の米も、紗江の真剣な願いに心を動かされた商人たちが応じてくれた。

「紗江様のためなら」

「あんたの着物には、うちの娘も世話になってる」

「困った時はお互い様だ」



ーー週間後


彩案工房の蔵には、十七俵もの米が積まれていた。

「これだけあれば……千人は助けられる」

紗江が呟く。


蒼馬、蓮、隼人が米俵を担ぎ上げる。

「重てえな、これ!」


隼人が笑いながら肩に乗せる。

「町の広場で配りましょう。皆が集まりやすい」

お蘭が指示を出し、お梅とお針子たちが米を小分けにする袋を用意した。


ーー秋の朝

町の広場に、人々が集まり始めた。

「本当に米が配られるのかい?」

「紗江様が、だって」

「あの着物屋の?」

噂を聞きつけた人々が、列を作っていた。


老人、母親、病人を抱えた家族ーー皆、痩せ細り、疲れ果てた顔をしている。


紗江が米袋を手に、一人一人に声をかける。

「どうぞ。少しですが、お役に立てれば」

「ありがてえ……ありがてえ……」

老人が震える手で米袋を受け取り、何度も何度も頭を下げた。

「神様じゃ……紗江様は女神様じゃ」

若い母親が涙を流しながら、幼子を抱きしめる。

「これで……この子に粥を食わせられる……」


お針子たちも、目頭を押さえながら米を配り続けた。

お鈴は一人の老婆に米を渡しながら、そっと呟いた。

「私も……紗江様に助けられたんです」

お夏も、お政も、お文もーー皆、同じ気持ちだった。

自分たちが救われたように、今度は誰かを救う番だと。



ーー夕暮れ

すべての米が配り終わった。


人々は笑顔で家路につき、広場には静けさが戻ってきた。

紗江は疲れ果てて座り込み、お蘭が肩に手を置く。

「よくやりましたね、紗江様」

「……みんなの笑顔が見られて、よかった」

紗江が静かに微笑んだ。


その光景を、遠くから見つめている男がいた。

羽織姿の若い男ーー三十代前半、鋭い目つきだが、どこか人懐っこい笑みを浮かべている。

「うーん……あれが紗江か」

男は腕を組んで呟いた。

「初めて見たが、いいじゃねえか。きっぷが良くて器量が良くて……気に入った」


男は懐から小さな手帳を取り出し、何かを書きつけた。

(それに、あの着物……)

蔵之介の目が光る。


広場の女たちが着ている前掛けや小物ーーどれも紗江の工房で作られたものだ。 


(評判は聞いていたが、実物を見ると……こりゃあ、本物だ!)

(この人と組めば、面白いものが作れる。それに……)

蔵之介が紗江を見つめる。


(絶対に売れる。俺の勘がそう言ってる)

蔵之介は広場に向かって歩き出した。


「紗江殿!」

紗江が振り向く。見知らぬ男が、にこやかに近づいてきた。

「突然すまねえ。真文堂の蔵之介ってもんです」

「真文堂……?」

「版元でさあ。本を作って売ってる商売でね」

蔵之介が懐から一冊の本を取り出す。

「こういうのを作ってるんですが……紗江殿、本を出しませんか?」

あまりに唐突な申し出に、紗江は目を丸くした。

「本……ですか?」


「ええ。思い立ったらすぐ口に出さねえと気が済まない性分でしてね」

蔵之介が豪快に笑う。


「紗江殿の着物姿を、絵で描いて本にする。そうすりゃ、江戸中ーーいや、日本中の人が紗江殿の着物を見られる」

蔵之介の目が輝く。

「それに……」

蔵之介がニヤリと笑う。


「絶対に売れる。俺の商人としての勘がそう言ってる」

紗江は少し驚いたが、すぐに笑った。

「正直な方ですね」

「商売は正直が一番でさあ。紗江殿も儲かる、俺も儲かるーー良いことずくめじゃないですか」


蔵之介が手を差し出す。


「今日は突然で驚かせちまったが……また改めて伺います」


そう言って、蔵之介は颯爽と去っていった。


紗江はその背中を見送りながら、小さく微笑んだ。


(本……か)


新しい挑戦の予感が、胸の奥に灯り始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る