第二章 其ノ十ニ 新たな門出 

ーー新たな門出


裁縫所とお店、そして働く人々が暮らす長屋の建設は、完成を目前に控えていた。

木槌の音が響き、白壁に日差しがきらめき、町の人々は誰もがその大きさに目を丸くする。


「どんな大店ができるんだ?」

「いや、呉服屋らしいぞ。女が仕切るって話だ」


そんな噂が町中に広がり、人々の期待と好奇心は日に日に高まっていった。


お店の店員として六人、お針子として五十人を採用することに決めた。


募集の張り紙を出すや否や、町中の若い娘たちが押し寄せ、面接会場には朝早くから長い行列ができた。

みな新しい未来に望みを託し、真剣な眼差しで順番を待っている。


面接にあたったのは紗江、お蘭、お梅の三人。

護衛として控える蒼馬、蓮、隼人、無刄は壁際に立ち、面接を受ける娘たちを鋭い眼差しで見ていた。


緊張で手を震わせる娘、必死に自分を売り込む娘、涙ぐみながら過去を語る娘。それぞれの人生が、短い面接の時間に詰まっていた。


ようやく全員の面接が終わると、三人はホッとしたように深く息を吐いた。


「ふぅ……一人ひとりの緊張が伝わってきますね」

紗江が思わず胸に手をやる。


お梅は畳の上にぐったりと座り込み、

「わ、わたし……倒れそうです」と小声でつぶやいた。


すると隣でお蘭がきっぱりとした声をかける。

「お梅、大変なのはこれからですよ」

その目は真剣そのもので、未来を切り拓く覚悟が宿っていた。

三人は見つめ合い、何も言わずに頷き合った。



いよいよ、新しい挑戦が始まる。


ーー入社式


入社式の日、紗江は静かな声で、しかし一語一句を大切に語った。


「人との絆を大事にしてください。そして、道具の管理は命です。特に針は、一本でも足りなければ、見つかるまで探すこと。朝に渡された数を、必ず夕べに返す。これは私が商いを始めてから、ずっと守り続けてきた約束です」


その言葉を、皆が息を呑むように聞いていた。

お鈴は胸の奥が熱くなるのを感じた。


あの時、自分を裁くことなく、逆に救いの手を差し伸べてくれた紗江。その恩に報いるためなら、眠る間も惜しんで働こう。そう心に誓っていた。



実際に、お鈴は誰よりも早く仕事場に入り、誰よりも遅くまで針を動かした。ひたむきなその姿は、やがて周囲の尊敬を集めていった。


だが、全員がそうではなかった。

「……なにが”紗江様、紗江様”よ」

新入りのお針子の一人、お夏が口の端を歪めると、同じく新入りのお政とお文が頷いた。


「いい子ぶっちゃってさ。あんなの、気に入らない」

「ちょっと困らせてやりたいわね」


入社式から数日が経ったある日の昼下がり。

お鈴が水を汲みに席を外した。

その刹那――お夏が周囲を盗み見し、素早く机に手を伸ばす。

「……」

一本の針を、懐に滑り込ませた。何食わぬ顔で針仕事に戻るお夏。その表情は氷のように冷たかった。



やがて戻ってきたお鈴は、いつものように道具を確認し、すぐに異変に気付いた。

「……一本、足りない」


心臓が凍りつくような感覚。慌てて机の下、布の隙間を探すが、見当たらない。次第に顔から血の気が引いていき、指先まで冷えていく。


仕事が終わる頃、心配した仲間が声をかけた。

「お鈴さん、一緒に探そうか?」

「ありがとう。でも……大丈夫よ」

お鈴は必死に笑顔を作って断った。


ーー夜

皆が帰り、裁縫所がしんと静まり返る。月明かりが障子から差し込む中、お鈴はただひとり、畳に膝をつき、布をめくり、机の影をのぞき込み、何度も何度も同じ場所を探した。

「見つけなきゃ……必ず……」

その目は涙で滲んでいたが、決して諦めることはなかった。


ーー翌朝

紗江とお蘭が裁縫所に入ると、まだ夜も明けきらぬうちに、お鈴が机の下に潜り込むようにして何かを探していた。

「おはよう、お鈴。早いのね」

紗江が声をかけると、お鈴は顔を上げ、眉を寄せて深々と頭を下げた。


「申し訳ありません。昨日から針が一本、どうしても見つからず……。まだ探しているのです」

その声に、紗江の表情がわずかに引き締まる。


「……なら、私たちも探しましょう」

お蘭も頷き、三人で畳を撫でながら探し始めた。

やがて出勤してきたお針子たちが次々と工場に入ってくる。紗江は皆の前に立ち、きっぱりと告げた。


「針が、1本見当たりません」

「仕事に入る前に、まず針を探してください。」


その言葉に空気が張り詰め、女たちは一斉に持ち場を離れ、床や机を探り始めた。


ーー昼近く

ふと、お蘭の鋭い視線が、お夏の袖口に向けられた。彼女は気づかぬふりで、袖の内側から細い針をつまみ出し、畳の縁へそっと滑り込ませようとしていた。


「……お夏!」

お蘭の声が雷のように響いた。場が凍りつき、全員の視線が一斉にお夏へ注がれる。

「今、何をした?」

お蘭が一歩詰め寄る。お夏の手は小さく震え、目は泳いでいた。


やがて、堪えきれずに口を開く。

「……こんな大事になるなんて思わなかったんです。ただ……ちょっと困らせてやろうと……」

その声を遮るように、紗江が前に出た。


その眼差しは、普段の優しい色をすべて失い、冷たい光を宿していた。


「お夏さん。あなたは、なぜ私が針の管理を厳しくしているか、わかっていますか?」


お夏は言葉を失い、唇を噛みしめる。


「一本の針が商品に混ざれば、お客様が怪我をするかもしれない。たとえ怪我がなくても、信用を失えば、この工房は一日で潰れます。その重さを、少しでも考えましたか?」

お夏の肩が小さく震え、周りの者たちは息を呑んだ。


しばしの沈黙の後、紗江は静かに、しかし鋭く言い放った。


「……あなたは、今日限りで辞めていただきます」


裁縫所に重苦しい沈黙が落ちた。

誰もが息を飲み、背筋を正す思いで立ち尽くしている。優しい紗江からは想像できなかった強い口調に、その場の全員が身を硬くした。


お夏の唇が震え、絞り出すような声が漏れた。

「す、すみません……もう二度といたしません。……どうか……」


彼女は堪えきれず、ぽつぽつと自分の身の上を語り始めた。


「うちは……農家で、生まれたときからずっと貧乏でした。昨年の流行り病で、両親を亡くして……それからは、悪いことばかり繰り返して、生き延びてきました。ここを追い出されたら……私には行くところがありません。……どうか、ご慈悲を……」

声が震え、畳に涙が落ちる。


その時だった。


「……お願いします!」

張りつめた空気を破ったのは、お鈴の声だった。彼女は誰よりもまっすぐ紗江を見上げ、深く頭を下げた。

「紗江様。お夏さんを……どうか今回だけ、見逃していただけませんか」

お夏は目を見開き、お鈴を見つめた。かつて自分が困らせようとした相手が、自分をかばっている。その事実に、胸が揺れる。


やがて、お夏も畳に額をつける。

「お願いします」


続いて、お政とお文も進み出て、お鈴の隣で頭を垂れた。

三人の額が床に並ぶ。その姿に、場の者たちは息を呑んだ。


紗江は一呼吸を置き、静かに言葉を紡いだ。


「……今回だけですよ!」

叱るような声で言い放ち、きつく睨んでみせる。


だが、背を向けて歩き出した紗江の横顔は、堪えきれぬほど柔らかく、どこか嬉しそうにほころんでいた。



ーーその夜

静まり返った女子寮の廊下を、お夏はそろそろと歩いていた。胸がざわつき、何度も行ったり来たりを繰り返していたが、結局お鈴の部屋の前に立っていた。


「……あの」

小さな声で戸を叩く。

「どうぞ」

扉を開けると、お鈴が布団の上に座っていた。灯りが柔らかく彼女の横顔を照らす。

お夏は思わず視線を落とし、深々と頭を下げた。

「……針を隠して、ごめんなさい。それに……一緒に謝ってくれて、本当にありがとう」

言葉は震えていた。

「でも、どうして……どうして許してくれたの?」


お鈴はしばらく黙ってお夏を見つめ、やがて小さく笑った。けれどその笑みはどこか影を帯びている。


「……私もね、あなたと同じ。ううん、もっとひどいことをしたの」


お夏の目が驚きに揺れた。

「……え?」


お鈴は視線を落とし、苦い顔をしながら言葉を続ける。


「……私ね、自分だけが不幸だって思うことがあって。同じ女なのに、華やかで人に慕われる紗江様が……妬ましくて、羨ましくて……」


言葉が途切れ、長い沈黙が流れる。


そしてお鈴は、かすれた声で吐き出した。


「私は……紗江様を刺してしまったの」


お夏は絶句した。

「……さ、紗江様を……!?」


お鈴はまぶたを伏せ、唇を噛みしめる。

「それなのに……紗江様は私を許してくれた。……花街から救い出して、働く場所まで与えてくれたの」

その声は震えていたが、どこか誇らしげでもあった。


「だから……針を隠されたくらいのこと、許さなきゃって思ったのよ」


静かな部屋に、虫の声が遠く聞こえる。


お夏はただ呆然と立ち尽くし、目の奥に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。

しばらくして、お夏は小さく呟いた。


「……あんないい人、刺すなんて……人としてダメね」

お鈴はくすっと笑い、肩をすくめる。


「そうよ、わかってる。でも……お夏に言われたくないわ」

二人は見つめ合い、笑いがこぼれる。


その笑顔の中に、少しだけ安心と誇りが混ざっていた。


この出来事を境に、裁縫所の空気は大きく変わった。

お夏、お政、お文の三人も態度を改め、他の仲間たちも自然と協力するようになる。そして、お鈴は自然と中心となり、皆をまとめる存在へと成長していった。


紗江の真摯な言葉、そして一連の出来事を胸に刻んだ仲間たちは、互いに信頼を築きながら、それぞれの仕事に真剣に向き合った。


針一本、糸一本にさえ気を配るその姿勢は、やがてプロの集団として裁縫所を支える礎となったのである。

ある日、裁縫所の一角でみんながざわめきながら顔を上げる。


「裁縫所、あなたたちの大切な場所だと思えるように、名前をつけてみない?」

紗江が微笑む。


「名前がつくなんてお店みたいで素敵! 誇らしいわね」

「そうね、図案が形になって生まれる場所だから……」

紗江が少し考え、柔らかな声で言った。


「彩案工房はどうかしら」

「彩案工房!」


お針子たちの目が輝き、とりどりの糸が光を帯びたような想像が頭に広がる。みんなの胸に期待と誇りがわき上がった。


「決まりだね!」

元気な声が重なり、歓声が広がる。


続いてお蘭が、女子寮の名前について提案した。

「あなたたちの女子寮の名前はどうしたい?」


お鈴が手を挙げ、にっこりと笑った。

「はいはい、紗江様が桜の花がお好きだと伺いました。蘭様のお名前もいただいて……桜蘭寮ではいかがでしょう?」


「桜蘭寮……いい響きだわ」

紗江がうなずくと、女子寮の一角に大きな歓声がわき上がった。


その瞬間、誰もが心の中で、ここが自分たちの第二の家であり、夢を紡ぐ場所だと実感したのである。


彩案工房の看板が掲げられた日、秋の陽が白壁を照らしていた。

紗江は看板を見上げ、静かに微笑んだ。


お梅、お蘭、お鈴、そして五十人の仲間たち。


ここから、新しい物語が始まる。


女たちが自分の力で生きていける――


そんな未来へ向かって。

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