第二章 其ノ十四 真文堂
ーー数日後
蔵之介が彩案工房を訪ねてきた。
「改めまして、真文堂の蔵之介でございます」
今度は少し改まった口調で、深々と頭を下げる。
「先日は突然で失礼いたしました。でも、どうしても紗江殿にお願いしたくて」
蔵之介は懐から何枚かの版画を取り出した。
「これが、うちで出してる本の見本です」
紗江が手に取ると、そこには美しい風景や人物が描かれていた。
「すごい……まるで写真みたい」
「写真? 何ですかそれは……まあ、喜んでいただけたようで」
蔵之介が身を乗り出す。
「紗江殿の着物を、絵師に描いてもらう。それを本にして売る。そうすれば、遠くの人にも紗江殿のデザインが届く」
お蘭が口を挟む。
「それは……素晴らしいことですね。紗江様の着物が、もっと多くの方に知っていただける」
紗江も目を輝かせた。
「ファッション雑誌……みたいなもの、ですね!」
「ふぁっしょん……?」
「あ、えっと……着物の本、ということです」
紗江が慌てて言い直す。
蔵之介が懐から一枚の絵を取り出した。
「絵は、亀山先生にお願いしようと思っています」
その絵を見た瞬間、紗江とお蘭は息を呑んだ。
女性が着物を着て立っている——ただそれだけの絵なのに、布の質感、帯の結び目、髪の流れ、すべてが生きているように見える。
「すごい……」
「女人の姿を描かせれば、右に出る者はいねえってもんです」
蔵之介が胸を張る。
「今から亀山先生のところへ頼みに行きますが……紗江殿も一緒に来ませんか?」
「はい、ぜひ!」
紗江が即答した。
亀山の工房は、町の外れにあった。
古い長屋の一室。障子越しに差し込む光が、埃を照らしている。
戸を開けると、墨と絵の具の匂いが鼻をつく。
「亀山先生、いらっしゃいますか」
蔵之介が声をかけると、奥から初老の男性が現れた。
痩せた体、白髪混じりの髪、しかし目だけは鋭く光っている。
「おお、蔵之介か。どうした」
「先生、お願いがあって参りました」
蔵之介が紗江を紹介する。
「こちらが、噂の紗江様です」
亀山は紗江をじっと見つめた。
その視線は、まるで絵を描くように紗江の姿を観察している。
「……なるほど。良い立ち姿だ」
亀山が小さく頷く。
「蔵之介、この方の着物を描くのか?」
「ええ。紗江殿が仕立てた着物を、本にしたいんです」
亀山はしばし考えた後、静かに頷いた。
「……心得ました」
「布の質感、刺繍糸の細やかさまで、描き尽くしましょう」
紗江が思わず前に出る。
「本当ですか! ありがとうございます!」
亀山は静かに微笑んだ。
「町で噂を聞いております。お米を配ったお方ですよね。
今この江戸にあなた様の頼みを聞かないやぼなやつはいませんよ」
「ありがとうございます……亀山先生」
ーーそれからというもの、
紗江は毎日、亀山の工房に通った。
彩案工房から、選りすぐりの着物を持っていく。
夕霧太夫のマーメイドドレス、桔梗姫の旅装束からはじまり、舞台で使った衣装ーーどれも紗江がデザインしたもの。
そして、特別な二着。
中村団十郎が着用した、誠一さんの織った反物から仕立てた
"光の打掛"と京都から持ち帰った反物を使った着物。
「今日は……この着物をお願いします」
紗江が慎重に広げると、亀山は目を見開いた。
「これは……!」
光が当たるたびに、布が水面のように揺れる。淡い金色が、まるで生きているよう。
「京都の西陣で、誠一さんとそのお弟子さんが織ってくれた反物から仕立てたんです」
紗江が静かに言う。
「京都の伝説の職人さんが……私に託してくれました」
亀山は黙って反物を見つめていた。
しばらくして、静かに口を開く。
「この2枚の着物は……本の最後に載せましょう」
亀山が真剣な目で着物を見る。
「この光を、私の筆で表現させてください」
紙の上に、着物の姿が浮かび上がっていく。ただの線が、やがて布となり、色となり、光となる。
紗江は息を呑んで見つめた。
「すごい……本当に、生きているみたい」
「喜んでもらえて何よりだ」
工房には、若い絵師たちもいた。
亀山の弟子たちが、彩色を施し、細部を描き込んでいく。
「師匠、この帯の結び目、もう少し影をつけた方が……」
「ああ、そうだな。頼む」
皆、真剣な眼差しで筆を動かしていた。
ある日、一人の若い絵師が紗江に声をかけた。
「紗江様……俺たちも、米をいただきました」
「え?」
「あの時は飢えてて……もう筆を握る力もなくなりかけてました」
若い絵師の目が潤む。
「でも、紗江様の米のおかげで、また絵が描けるようになりました」
「だから……この本には、俺たちの感謝も込めます」
紗江は胸が熱くなった。
自分がしたことが、こんなにも多くの人に繋がっていたなんて。
ーーある秋の日
蔵之介が興奮した様子で彩案工房を訪れた。
「紗江殿、できましたよ!」
手には、美しい表紙の本が握られていた。
桃色の表紙、金の文字で書かれた題名。
『元禄美装録』
紗江は震える手でその本を受け取った。
そっとページをめくる。
最初のページには、二部式の着物を着た女性が立っている。亀山の筆が生き生きと、布の艶やかさや刺繍の細やかさを描き出していた。
次のページには、旅装束。その次には、夕霧太夫。
舞台で使った衣装も全部……!
最高のページ、特別なニ着の表現は見事な再現力で
圧巻だったーー
「凄い!……形になったのですね」
紗江の目から、涙がこぼれた。
お蘭も、お梅も、隣で涙を拭いている。
蔵之介が胸を張る。
「この本は、真文堂だけじゃなく、絵文社、加賀屋、越後屋の店頭にも並べます」
「江戸中の人が、紗江殿の着物を見られるようになる」
蔵之介が紗江の目を見つめた。
「紗江殿が配った米は、人々の命を救った。そして、この本は……人々の心を彩るでしょう」
ーー数日後
『元禄美装録』は、瞬く間に江戸中で評判となった。
書店の前には行列ができ、娘たちが本を手に取って目を輝かせている。
「見て! この着物、素敵!」
「私もこんな着物が欲しいわ」
「紗江様の店に行きましょう!」
彩案工房にも、今まで以上に客が押し寄せた。
「『元禄美装録』で見た着物を作ってほしいのですが」
「この本の通りに!」
お針子たちは嬉しい悲鳴を上げつつ、針を動かし続けた。
ーーその夜
紗江は『元禄美装録』を膝の上に置き、静かに微笑んだ。
「お蘭……私たち、すごいことをしたのかもしれないわね」
「ええ。紗江様の優しさが、形になったのです」
お蘭が紗江の肩にそっと手を置く。
窓の外では、秋の虫が鳴いている。
江戸の町に、新しい風が吹き始めていた。
そして――
この『元禄美装録』は、時を越えて、未来へと受け継がれていくことになる。
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