第二章 其ノ十一 女たちの居場所
ーー駆け落ち
ある日、江戸の町に不穏な噂が広がった。
花町で駆け落ちした若い男女が捕まり、男の方は見せしめに命を奪われたという。
「哀れなことだな」
「せめて女は助かったらしいが……」
行き交う町人たちが口々に噂を囁き合い、町全体に重い空気が流れていた。
その話を加賀屋の女将から聞いた紗江は、しばし言葉を失った。
恋をしただけで、命まで奪われるなんて。
現代では当たり前のように誰もが自由に恋をしていた。だがこの時代では、女も男も身分やしがらみに縛られ、自分の心のままに生きることは許されない。
胸の奥を鋭い針で刺されたように、痛みが走る。
「この時代でも……女の人が自分で生きていける力を持てたら。こんな悲しいこと、少しは減るんじゃないかな」
紗江の呟きは、涙のように静かで重かった。
その時、そっと隣に腰を下ろしたお蘭が、心配そうに彼女を見つめた。
「紗江様、どうかされましたか?」
紗江はしばし遠くを見つめていたが、やがてお蘭に向かって微笑んだ。
「お蘭……もっと事業を広げてみようと思うの」
「事業を……広げる?」
「縫い物をする広い工房と、お店を作るの。そこにたくさんの人を迎えて、一緒に働いてもらえるようにするわ。女の人が自分で生きる力を持てるように。そうすれば、少しでも未来が変わるかもしれない」
その決意に満ちた表情を見て、お蘭は深く息を吐いた。
「……その顔をした時の紗江様に、反対したって聞かないのは分かってますよ」
そして穏やかに微笑む。
「とても良いと思います。やってみましょう」
二人の視線が重なり合う。
新たな挑戦が、江戸の町にまたひとつ、小さな灯をともそうとしていた。
何十人と働ける広い裁縫所と紗江の店、そして働く人たちが住める長屋の建設は、町の話題をさらった。
瓦屋根が積まれ、柱が太く立ち上がるたびに、路地の噂は大きくふくらんだ。
「誰のお屋敷ができるんだろうなぁ」
「ほら、あの着物の舞台やった紗江って人のお屋敷らしいぜ」
「女だてらに、てぇしたもんじゃねぇか」
人々の噂は、少しずつ形を帯びて江戸の町に広がっていった。
だが、その影で、誰も気づかない憎悪も育っていた。
花町の路地裏。縁台には使い古された箪笥、壁には煤けた提灯。薄暗い部屋の隅で、一人の女が膝を抱え、ぶつぶつと呟き続けている。
「なんで……なんで私ばっかり……」
駆け落ちに失敗し、男を失った花町の女——お鈴は、膝を抱えてぶつぶつと呟き続けていた。
「ずっと不幸。あいつばっかり、幸せになりやがって……」
歯を食いしばる音。
「くそっ……紗江め……」
言葉は低いうめきへと変わり、やがて獣のような唸りになった。目は怒りで血走り、指先は汗でふるえている。
彼女の胸の内には、嫉妬と絶望が渦を巻いていた。
まるで、何かに取り憑かれているように。
建設が始まって数週間後。工房の骨組みがほぼ完成したころ、女は動きだした。
紗江の後をつける。人の群れに紛れ、角を曲がり、人気の途絶えた路地を選ぶ。夕闇が差し込む時間を待って、息を殺す。
彼女の懐には短刀がある。冷たい刃。重い決心。
紗江は一人で歩いていた。店の片付けを終え、夜風に髪をなびかせる。笑顔で通りを抜ける。
無邪気に、無防備に……。
今だ。
路地に人影がないのを確認した瞬間、女は跳んだ。音もなく背後に回り込み、短刀を抜く。鋭い刃先が、暗がりで鈍く光る。
「――あっ」
小さな悲鳴が宙に散る。
刃が背中にめり込んだ。紗江の細い身体が震える。血がじわりと広がり、着物を赤黒く染めていく。
膝から崩れ落ちる紗江。息が浅くなる。世界が淡く揺れる。血の匂いが風に混ざった。
その時――用事を済ませて合流しようとしていたお蘭が、路地の先から飛び出してきた。
「紗江様――!」
叫び声が路地に響き渡る。怒りが、お蘭の身体を貫いた。彼女は躊躇なく女に飛びかかり、地面に押し倒す。短刀を取り上げると、お蘭の手が震えた。
刃を振り上げる。
振り下ろそうとした瞬間――
「お蘭……待って……」
息を絞り出すように紗江が叫んだ。
「殺しては……だめ……」
お蘭の腕が、ギリギリで止まる。刃先が月光に揺れ、空気が凍りついた。
このまま振り下ろせば取り返しのつかないことになる。許しではなく、憎しみで裁くこと。それは紗江の望みではない。
「紗江様……!」
泣きながら女の手足を縛る。お蘭の動作は慌ただしく、しかし確実だった。縄が擦れる音。手ごたえ。女は暴れたが、やがて力尽きた。
「葵様に預けます。しっかり取り調べていただきますように」
お蘭は低く言うと、震える手で紗江を背負った。
「大丈夫ですか、紗江様……しっかりして……すぐに見てもらいますから……!」
鍛えた身体で、紗江を背負ったまま走り出すお蘭。
路地には短い静寂。石畳に残る血痕。まだ生温かい血の匂いが、夜風に漂っていた。
ーー目覚めと願い
三日三晩。
紗江の意識は戻らなかった。熱にうなされるように浅い呼吸を繰り返し、額には冷や汗が浮かび続けた。
お蘭はほとんど寝ずに傍らに付き添い、布を絞っては額を拭い、祈るようにその手を握りしめた。
四日目の朝、淡い陽が障子を透かして差し込むころ――
紗江の瞼が、ゆっくりと震えた。
「……ここは……?」
かすかな声。お蘭ははっとして身を乗り出した。
「紗江様! よかった……本当に……!」
涙が一気に溢れ、目尻を濡らす。震える声で、彼女は何度も「よかった」と繰り返した。
紗江はまだ身体に力が入らず、横たわったままお蘭の顔を見つめた。
「お蘭……私、ごめんなさい」
「今は、何も言わないでくださいませ。紗江様が目を開けてくださった……それだけで十分でございます」
やがて少し落ち着いたところで、紗江は事件の経緯を聞かされた。
襲ったのは、駆け落ちに失敗し、男を失った花町の女だったという。
紗江の胸の奥に、重い衝動が広がる。
(あの人……そんな思いを抱えていたのか)
しばし沈黙ののち、紗江は決意をこめて呟いた。
「……その人と、話したい」
「なりません!」
お蘭の声は鋭く、部屋の空気を震わせた。
「紗江様のお命を狙ったのですよ! 近づけるなど、絶対に……!」
しかし紗江は、静かに首を振った。その表情はまだ弱々しいが、不思議な力を宿している。
「お願い……お蘭。あの人の気持ちを……聞きたいの」
お蘭は言葉を失い、しばらく紗江の瞳を見返した。そこには恐れも恨みもなく、ただ真摯な願いだけが映っていた。
長い沈黙。
「……ならば……まずは葵様に伺ってからにいたしましょう」
お蘭の声はかすれ、諦めにも似た響きを帯びていた。
紗江は小さく微笑み、力の抜けたまま目を閉じた。
障子の外では、秋の風が庭木を揺らし、虫の音が細やかに重なっていた。
後日。
病室の障子がゆっくりと開き、お蘭が厳重に縛られた女を伴って入ってきた。
部屋の隅には葵が立ち、廊下には蒼馬、蓮、隼人、無刄が控え、張り詰めた空気が部屋を支配している。
女はその空気に圧されるように膝を折り、額を畳に擦りつけた。
「……申し訳、ございませんでした……」
その声は震え、頬を伝う涙が畳にぽたりと落ちる。
忍びたちは憤怒の色を隠せず、拳を握りしめた。蒼馬の肩がわずかに震え、蓮の目は鋭い刃のように光っている。隼人は一歩前へ踏み出しかけたが、葵の静かな視線に制されて立ち止まった。無刄は黙したまま、冷たい眼差しで女を見下ろしている。
沈黙が続く。
紗江は布団に身を起こし、静かに息を整えてから口を開いた。
「……私ね、あなたの話を聞いて……決心することができたの」
女のすすり泣きが止まり、顔がわずかに上がる。
「不幸な人を少しでも減らしたいって。そのために事業を広げようと。……あなたが背負った苦しみが、私を動かしたの」
女の瞳に驚きが宿る。信じられない、という色がにじむ。
紗江はその視線を正面から受け止め、静かに問いかけた。
「……あなたのお名前は?」
女はためらい、震える唇をかすかに動かす。
「……鈴……鈴と申します……」
「お鈴さん」
紗江は優しく微笑んだ。
「うちで、一緒に働かない?」
一瞬、時が止まった。
「紗江……!」
葵が低く、鋭い声を出す。
蒼馬も蓮も隼人も、無刄でさえも一斉に驚愕に目を見開いた。お蘭は手で口を塞ぎ、信じられないという表情を浮かべている。
張りつめた空気の中で、ただ一人。
紗江だけが静かに、そっと笑った。
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