第二章 其ノ十  暗躍する影【京都編】

――翌朝

朝日が障子を照らす。

弥吉の家で目を覚ました一行は、それぞれ顔を洗い、朝食の支度を手伝った。


「昨夜は、すみませんでした」

弥吉が申し訳なさそうに頭を下げる。


「気にしないでください」

紗江が微笑む。


「それより、今日はどうするの?」


「今日は……織物場で、仕事をする予定です」


「じゃあ、私たちも見学させてもらっていい?」


「もちろんです」

弥吉が嬉しそうに頷いた。


葵がお蘭に小さく耳打ちする。

「昨夜の件、少し調べた方がいいな」


「ええ。私もそう思っておりました」

お蘭が頷く。


「織本という男……臭いますね」


「ああ、悪いが情報を集めてくれるか」


「お任せください」

二人は顔を見合わせ、静かに頷いた。


朝食後、一行は織物場へ向かった。


弥吉が機織り機の前に座る。

「では、始めますね」

カタン、カタン。

規則正しい音が響く。


紗江は目を輝かせながら、その様子を見つめていた。

「すごい……糸が、どんどん布になっていく」


「はい。これが機織りです」

弥吉が微笑む。


誠一は少し離れたところから、静かに見守っていた。

(弥吉……本当に、上手くなったな)

かつて自分が教えた技術を、弥吉は完璧に習得している。

いや——それ以上だ。


弥吉は、誠一を超えていた。

(嬉しい……)

誠一の目に、涙が浮かんだ。


葵がそっと誠一の隣に立つ。

「……良い弟子だな」


「ええ。自慢の弟子です」

誠一が静かに答える。


ーーその時

「失礼いたします」

織物場の戸が開き、一人の男が入ってきた。

五十代くらいの、商人らしい身なりの男だ。


「弥吉さん、注文の件で……」


男は途中で言葉を止め、誠一を見た。


「……あなたは、もしや」


「はい?」


「誠一さん……ですよね?」

男の目が輝く。

「誠一さん!」


「……私をご存知なのですか」

誠一が驚く。


「もちろんです!私、呉服商をしておりまして、昔から誠一さんの織物に憧れていました」


「そうでしたか……」


「まさか、京都に戻ってこられたとは!」

男は興奮気味に話し続ける。


弥吉が微笑んだ。

「師匠は、本当にすごい方なんです」


「それは存じ上げております!」

男はしばらく誠一と話をしてから、注文の件を済ませて帰っていった。


男が去った後、紗江が尋ねた。

「誠一さん、やはり有名な方だったんですね」


「昔の話です……」

誠一が照れくさそうに笑う。


「師匠は、伝説の職人なんですよ」

弥吉が誇らしげに言う。


「この京都で、師匠の名を知らない職人はいません」


「そうでしたか……」

紗江が感心する。


その時、お蘭が立ち上がった。

「紗江様、少し町を見て回ってもよろしいですか?」


「ええ、どうぞ」


「ありがとうございます」

お蘭は軽く会釈をして、織物場を出た。


――お蘭の潜入

お蘭は京都の町を歩きながら、情報を集めていた。

(織本という男……どこにいるのかしら)

茶屋で休憩しながら、周囲の会話に耳を澄ませる。


「最近、弥吉さんのところ、大変みたいだね」


「ああ、借金取りが来てるって」


「可哀想に……」


「でも、織本さんが助けてくれるって話だよ」


「織本さん?あの織物商の?」


「そう。親切な人だよね」


お蘭は眉をひそめた。

(親切……?)

何か、引っかかる。

お蘭はさらに情報を集めるため、祇園の茶屋街へ向かった。


――祇園にて

祇園の茶屋。

お蘭は、知り合いの芸者に会いに来た。


「お蘭さん!久しぶり!」


「楓ちゃん、元気だった?」


「ええ、相変わらずよ」

二人は奥の部屋で話をする。


「実は……少し、調べてほしいことがあるの」


「何?」


「織本という男、知ってる?」


楓の顔が、一瞬曇った。

「……織本?」


「知ってるの?」


「ええ……あまり良い噂は聞かないわね」

楓が小さく声を潜める。


「表向きは、立派な織物商だけど……裏で色々やってるって」

「色々?」

「借金の取り立てと手を組んで、悪どいことしてるみたいよ」


お蘭の目が鋭くなる。

「もっと詳しく教えて」


「今夜、この茶屋に来るらしいわ。お客を連れて」


「お客?」


「別の織物商よ。名前は……確か、大和屋の主人」


「今夜、私も行く」


「え?でも……」


「大丈夫。楓ちゃんに迷惑はかけないから」

お蘭が微笑む。


「私も、芸者として同行させて」


楓は心配そうだったが、頷いた。

「わかった。協力します」


――夜の茶屋

その夜。

お蘭は芸者の姿で、茶屋の一室に控えていた。

着物、髪飾り、化粧——すべて完璧だ。

(ちょっと前まで、こんなことばかりやってたっけ……)


やがて、客が来た。

織本ともう一人の男——大和屋の主人だ。


「いらっしゃいませ」

楓が二人を部屋に案内する。


お蘭も、別の芸者たちと一緒に部屋に入る。

「今宵は、よろしくお願いします」

お蘭が艶やかに微笑む。


織本は一瞬、お蘭を見たが、気づいた様子はなかった。

宴が始まる。

お蘭は酒を注ぎながら、二人の会話に耳を澄ませた。


「それで、弥吉の件だが……」

織本が小声で言う。


「ああ、あいつか」

大和屋の主人が笑う。


「最近、腕を上げてきてるからな。また潰すんですか」

お蘭の手が、一瞬止まった。

(潰す……?)


「例の借金取りを使ってるのはそのためか」


「ああ。不当な金利で追い込んでいます」


「上手くいってるのか?」


「まあな。もうすぐ、弥吉は店を畳むだろう」

二人が笑う。


お蘭は表情を変えずに、静かに酌を続けた。


「それにしても……」

織本が酒を飲みながら言う。

「やっと誠一の腕を潰して追い出せたのに、また戻ってきやがった」


お蘭の目が、見開かれた。

(誠一の腕を潰して……?)


大和屋の主人が笑う。

「あの火事、お前が仕組んだんだろ?」


「ああ。誠一がいる限り、俺は二番手だったからな」

織本の声が、冷たい。


「だから消した。弥吉を餌にしてな」


「あの時、誠一が弥吉を助けに行くことは、わかってたんだろ?」


「ああ。予想通りだったよ」


「そして、腕を潰して追い出した」


「今回も同じだ。弥吉を潰して、誠一も二度と戻ってこれないようにする」

二人が笑い合う。


お蘭は、静かに立ち上がった。

「失礼いたします」

部屋を出ると、お蘭は急いで着替えた。

(すぐに、葵様に知らせないと!)


お蘭は織物場へ急いだ。

夜遅く、織物場には誠一と葵が残っていた。

「お蘭、どうした?」

葵が驚く。

「大変なことがわかりました!」

お蘭が息を切らしながら報告する。

織本の計画、十年前の火事の真相、すべて。

誠一の顔が、青ざめた。

「……火事は、織本が仕組んだのですか?」

「ええ。すべて、計画的だったんです」

葵が拳を握る。

「許せん……」

「それだけではありません。弥吉さんの借金も、織本が裏で操っています」


「やはりな」

葵が歯を食いしばる。

「明日、決着をつける」


誠一が静かに言った。

「弥吉を……守らなければ」


「ああ」

葵が頷く。


その夜、三人は作戦を練った。

明日——

すべてが明らかになる。


――弥吉の家

翌朝。

弥吉の家に、再び借金取りがやってきた。

そして——

織本も、大和屋の主人も、一緒にいた。

「よう、弥吉」

織本が薄く笑う。

「今日こそ、金を返してもらうぜ」

「でも……」

「返せないなら、この織物場を貰うぞ」

借金取りの一人が凄む。

その時——

「待て」

葵が立ちはだかった。

「また、お前か」

織本が舌打ちする。

「今日で終わりだ」

葵の目が、鋭く光る。

「何が?」

「お前の悪事だ」

葵がお蘭を見る。

お蘭が一歩前に出た。

「昨夜、あなた方の会話を聞きました」

織本の顔が、一瞬強張った。

「……何の話だ」

「火事のこと。弥吉さんの借金のこと。すべて、あなたが仕組んだことですね」

紗江と誠一、そして弥吉が、息を呑む。

「証拠はあるのか?」

織本が開き直る。



「ええ。私に見覚えはありませんか。昨夜の茶屋にいた芸者です」

お蘭が微笑む。

「それに……」

お蘭が懐から小さな巻物を取り出す。

「あなたと金貸しの契約書。不当な金利の証拠です」

織本の顔が、みるみる青ざめた。

「ど、どこで……!」

「忍びを甘く見ないことね」

お蘭が冷たく笑う。

「くそっ!」

織本が逃げようとした瞬間——

葵が素早く動き、織本の腕を捻り上げた。

「動くな」

借金取りたちも、葵の気迫に怯んで動けない。

「弥吉」

誠一が静かに言った。

「真実を聞いたな」

「はい……」

弥吉の目から、涙がこぼれる。

「火事は……私のせいじゃなかったんですね」

「ああ。お前のせいじゃない」

誠一が弥吉の肩を抱く。

「すべて……織本の仕業だった」


弥吉は声を上げて泣いた。

「師匠……師匠……!」

誠一も、涙を流していた。

紗江も、お蘭も、目を潤ませていた。

葵が役人を呼び、織本と借金取りたちは連行された。

大和屋の主人も、共犯として捕らえられた。


――静かな夜

その夜。

弥吉の家で、一行は静かに茶を飲んでいた。

「ありがとうございました……本当に、ありがとうございました」

弥吉が何度も頭を下げる。

「気にするな」

葵が短く答える。

「お蘭のお手柄ですね」

紗江が微笑む。

「いえ、葵様も紗江様も、皆さんのおかげです」

お蘭が謙遜する。

誠一が静かに言った。

「弥吉……これで、お前は自由だ」

「はい……」

弥吉の目に、涙が浮かぶ。

「でも、師匠……私は……」

「何だ?」

「本当は……ずっと、師匠に謝りたかったんです」

弥吉が顔を覆う。

「私のせいで、師匠の腕が……」

「弥吉」

誠一が優しく言う。

「お前のせいじゃない。何度も言っただろう」

「でも……」

「それに……」

誠一が微笑む。

「俺は、お前が立派に育ってくれて、嬉しい」

「師匠……」

「お前は、俺の誇りだ」

誠一の言葉に、弥吉はまた泣いた。

誠一も、そっと涙を拭った。

紗江は、その光景を見て、胸が熱くなった。

(本当に……良かった)



――決断

その夜、弥吉の家。

一同が夕食を囲んでいると、誠一が口を開いた。

「皆さん……少し、お話があります」

「何ですか?」

紗江が尋ねる。

「私は……しばらく、京都に残ろうと思います」

一同が驚く。

「残る……?」

「はい。弥吉が、まだ心配で……」

誠一が弥吉を見る。


「織本は捕まりましたが、まだ他に敵がいるかもしれません」

「それに……」

誠一が微笑む。

「弥吉の成長を、もっと見守りたい」

弥吉の目が、大きく見開かれた。

「師匠……本当ですか……?」

「ああ。迷惑でなければ」

「迷惑だなんて、そんなことありません!」

弥吉が立ち上がる。

「嬉しいです!本当に、嬉しいです!」

誠一が笑う。



――別れの朝

弥吉が紗江たちを織物場に呼んだ。


「紗江様……これを」

弥吉が大切そうに、一反の反物を差し出した。


「これは……」

紗江が息を呑む。


淡い金色の布。光が当たるたびに、まるで水面のように色が揺れる。


「師匠から受け継いだ技術で織りました」

弥吉が静かに微笑む。



「どうか……これを、紗江様に」

「私が受け取っても……?」


「ええ。紗江様がいてくださったから、師匠と再び会えました」

弥吉の目が潤む。

「この反物は……感謝の印です」


紗江は震える手で、反物を受け取った。

「ありがとうございます……大切にします」

誠一が静かに言った。


「弥吉の最高傑作だ。江戸で、素晴らしい着物にしてやってください」

「はい……必ず」

紗江が深く頷いた。


「葵様、お蘭様も本当にありがとうございました」

誠一と弥吉は深く、深く頭を下げた。


その背には、長い年月を越えてようやく辿り着いた安らぎがあった。


二人に別れを告げ、葵、紗江、お蘭の三人は京都を後にした。

秋の風が吹き抜け、紗江は大切な反物を胸に抱いた。

(誠一さん、弥吉さん……きっと、素晴らしい着物にします)


師弟の絆が紡いだ、最高の布。


それは、紗江の手で新たな命を吹き込まれることになる。


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