第二章 其ノ九 再会の涙【京都編】

――京の朝

京都の朝は、静かだった。

一行が泊まった宿の窓から、朝靄に包まれた町並みが見える。

「綺麗ね……」

紗江が窓辺に立ち、京の風景を眺めている。

お蘭が茶を淹れながら微笑んだ。

「江戸とは、また違った趣がございますね」

「ええ。落ち着いているのに、どこか華やか」

葵が部屋に入ってきた。

「誠一殿は?」

「もう起きて、散歩に行かれました」

お蘭が答える。

「そうか……」

葵は窓の外を見た。

遠くに、杖をつきながらゆっくりと歩く誠一の姿が見える。

「……緊張しているんだろうな」

紗江が頷く。

「十年ぶりの再会だもの」


朝食を済ませ、一行は織物場へ向かった。

誠一が先頭を歩く。その足取りは、どこか重い。

「誠一さん、大丈夫ですか?」

紗江が心配そうに声をかける。

「はい……大丈夫です」

誠一が微笑むが、その笑顔は少し強張っている。

やがて、古い木造の建物が見えてきた。


「……あれです」

誠一が立ち止まる。


看板には「誠一織物」と書かれている。

「誠一さんのお店なんですか」

紗江が微笑む。


「いいえ、違います」

誠一の声が、震えている。

「……あいつ」


葵が誠一の肩に手を置いた。

「行こう」

「……はい」

誠一は深く息を吐き、織物場の戸を叩いた。


「はい、どちら様で……」

戸を開けたのは、三十代半ばの男だった。

誠実そうな顔立ち。少し疲れた様子だが、目は優しい。

その男が、誠一を見た瞬間——


「……し、師匠……?」

声が震える。

「弥吉……」

誠一が静かに答える。

弥吉の目が、みるみる涙で溢れた。

「師匠……師匠!!」

弥吉は誠一に駆け寄り、その場に膝をついた。


「師匠……本当に、師匠なんですか……!」

「ああ。久しぶりだな、弥吉」

誠一が優しく微笑む。

弥吉は顔を覆って、声を上げて泣いた。

「すみません……すみません……!」

「謝ることはない」

「いえ……私のせいで……師匠の人生を……!」

弥吉の肩が激しく震えている。

誠一は静かに弥吉の肩に手を置いた。

「弥吉。気にするな」

「でも……!」

「それより……」

誠一が微笑む。


「お前の反物、加賀屋で見たぞ」

弥吉が顔を上げる。

「良い物を作れるようになったな」


誠一の言葉に、弥吉はまた涙を流した。

「師匠……」

「立派だ。よく頑張った」

誠一の目にも、涙が光っていた。


紗江とお蘭も、その光景を見て目を潤ませていた。

葵は黙って二人を見守っていた。


しばらくして、弥吉が涙を拭いて立ち上がった。

「すみません……お見苦しいところを」

「いや」

葵が首を振る。

「二人とも良かったな」


弥吉は改めて一行を見た。

「こちらの方々は……?」

「江戸から一緒に来てくださった方々だ」

誠一が紹介する。

「こちらは紗江様。加賀屋でお世話になっている」

「紗江と申します。誠一さんから、たくさんお話を伺っていました」

紗江が微笑む。

「こちらはお蘭さん」

「お蘭でございます」

「そして、こちらが徳ーー」

「葵だ」

葵が短く答える。

弥吉は深く頭を下げた。

「ようこそ、京都へ。そして……師匠を連れてきてくださって、ありがとうございます」

「どうぞ、中へ」

弥吉が一行を織物場の中へ案内した。


――機織りの音

織物場の中は、とても清潔だった。

機織り機が何台か並んでいる。

カタン、カタン。

規則正しい音が響く。

「わあ……」

紗江が目を輝かせる。

「これが、機織り機……」

「はい。こちらで糸を織って、反物にします」

弥吉が丁寧に説明する。

誠一は静かに機織り機を見つめていた。

(懐かしい……)

かつて、自分もこの音を聞きながら、布を織っていた。

今はできない。

でも——

(弥吉が、続けてくれている)


それだけで、嬉しかった。

「紗江様、触ってみますか?」

弥吉が微笑む。


「いいんですか?」

「ええ、どうぞ」

紗江が機織り機に触れる。

糸の感触、木の温もり。


「すごい……これで、あんなに綺麗な布ができるんですね」

「はい。糸を一本一本、丁寧に織っていきます」

弥吉が実際に機織り機を動かして見せる。

カタン、カタン。

糸が交差し、布が生まれていく。


「きれい……」

紗江が感嘆の声を上げる。


お蘭も興味深そうに見ている。

「これは、大変な作業ですね」

「ええ。でも、楽しいんです」

弥吉が微笑む。

「一枚一枚、心を込めて織ります」

誠一が静かに言った。

「弥吉……お前は、本当に立派になったな」

弥吉の目が、また潤んだ。

「師匠……」


昼時になり、弥吉が一行を食事に誘った。

「近くに良い蕎麦屋があります。ぜひ」

「ありがとう」

紗江が微笑む。

五人は蕎麦屋へ向かった。

京都らしい、風情のある店だ。

「にしんそば、お願いします」

弥吉が注文する。

「京都名物ですよ」

「楽しみだな」

葵が頷く。

蕎麦が運ばれてくると、紗江が目を輝かせた。

「美味しそう!」

「どうぞ」

弥吉が微笑む。

一同、箸を取る。

「……美味しい」

紗江が感嘆の声を上げる。

「江戸の蕎麦とは、また違いますね」

お蘭も頷く。

葵も黙々と食べている。

誠一は、弥吉の横顔を見ていた。

(本当に……立派になった)

食事が終わり、弥吉が口を開いた。

「師匠……今夜.うちに泊まっていただけませんか」

「え?」

「狭い家ですが……ぜひ」

弥吉が真剣な顔で言う。

「皆様も、ぜひ」

誠一は紗江たちを見た。

紗江が微笑む。

「お邪魔してもいいですか?」

「もちろんです!」

弥吉が嬉しそうに頷いた。


夕方、一行は弥吉の家を訪れた。

小さいが、清潔で居心地の良い家だ。

「どうぞ、上がってください」

弥吉が案内する。

「お邪魔します」

紗江たちが靴を脱いで上がる。

部屋の中には、機織りの道具や糸が整然と並んでいる。

「ここで、夜も仕事をするんですか?」

お蘭が尋ねる。

「ええ。注文が多い時は、夜遅くまで」

弥吉が笑う。

「でも、好きな仕事ですから」

誠一が静かに言った。

「無理はするなよ」

「はい……ありがとうございます、師匠」

夕食の準備を手伝いながら、紗江が弥吉に尋ねた。

「弥吉さん、お一人で暮らしているんですか?」

「はい。妻は……三年前に亡くなりました」

「……そうだったんですか」

紗江が申し訳なさそうに俯く。

「いえ、気になさらないでください」

弥吉が微笑む。

「今は、仕事に打ち込んでいます」

夕食は、質素だが温かい料理だった。

五人で囲む食卓は、どこか家族のような温もりがあった。

「美味しいです、弥吉さん」

紗江が微笑む。

「ありがとうございます」

弥吉も嬉しそうだ。

食事が終わり、茶を飲みながら、誠一が尋ねた。

「弥吉……あの火事の後、どうしていた?」

弥吉の表情が、少し曇った。

「……師匠がいなくなって、最初は途方に暮れました」

「でも……」

「師匠のように、立派な職人になりたいと思いました」

「だから、必死に機を織りました」

弥吉の目が、遠くを見ている。

「火事で失った道具や家の修理のために、お金を借りて……」

「それでも、続けたかったんです」

誠一は静かに頷いた。

「……そうか」

「でも……」

弥吉が俯く。

「最近、少し……大変で」

「大変?」

葵が眉を上げる。



「実は……」

弥吉が言いかけた時——


ドンドンドン!

激しく戸を叩く音がした。


「弥吉!開けろ!」

荒々しい声。

弥吉の顔が青ざめた。

「……来たか」

「誰だ?」

葵が立ち上がる。

「借金取りです……」

弥吉が小さく答える。

ドンドンドン!

「開けねえと、壊すぞ!」

「待ってください!今開けます!」

弥吉が慌てて戸を開けると——

人相の悪い男が三人、乱暴に入ってきた。

「よう、弥吉。金は用意できたか?」

「それが……まだ……」

「まだだと?」

男の一人が弥吉の胸倉を掴む。

「いい加減にしろよ。利子がどんどん膨らんでいるんだぞ」

「でも……こんな金額は……」

「借りたもんは返せ!」

「待て」

葵が一歩前に出た。

「……誰だ、てめえは」

男が葵を睨む。

「話を聞かせてもらおう。いくら借りて、いくら返せと言っている?」

「関係ねえだろ」

「ある。弥吉さんの客だ」

葵の目が、鋭く光る。

男たちは一瞬怯んだが、すぐに開き直った。

「客がいようが関係ねえ。弥吉さん、借りたもんは返さねぇとダメだろ」


その時——


別の男が入ってきた。

四十代くらいの、小綺麗な身なりの男だ。

しかし、その目は冷たい。

「お、織本はん……」

弥吉の声が震える。

「織本」

誠一が顔を上げる。

「……誠一?」

織本が誠一を見て、目を見開いた。

「久しぶりだな、織本」

誠一が静かに言う。

織本の顔が、一瞬歪んだ。

「……なんで、お前がここに」

「弥吉に会いに来た」

「そうか……」

織本が薄く笑う。

「懐かしいな。十年ぶりか?」

「ああ」

誠一の目が、鋭くなる。

紗江とお蘭は、緊張した空気を感じ取っていた。

(この人……何か、おかしい)

織本が借金取りの男たちに言う。

「今日はこの辺で帰りなさい。お客もいることだしな」


「……」

「いいから、帰るぞ」

男たちは不満そうだったが、仕方なく引き下がった。

「じゃあな、弥吉。また来るぜ」

三人が去ると、織本が弥吉に言った。

「困ったことがあったら、いつでも言ってくれ。俺たちは仲間だろ?」

「……はい」

弥吉が力なく答える。

「じゃあな」

織本が去ろうとした時、誠一が言った。

「織本」

「ん?」

「お前……何か企んでいるんじゃないだろうな」

織本の目が、一瞬鋭く光った。

「何を言ってるんだ、誠一。俺はただ、弥吉を心配してるだけだ」

「……そうか」

誠一は何も言わなかったが、その目は織本を見据えていた。

織本は薄く笑って、去っていった。


――不安な夜

織本が去った後、弥吉はその場に座り込んだ。

「すみません……お見苦しいところを」

「気にするな」

葵が言う。

「借金とは、どういうことだ?」

弥吉は俯いたまま、ゆっくりと語り始めた。

「火事の後……道具や家の修理にお金が必要でした」

「それで、金を借りたんです」

「はい……でも、利子が高くて……」

「いくら借りた?」

「十両です。でも、今は……三十両返せと」

「三十両!?」

紗江が驚く。

「それは……不当だわ」

お蘭が眉をひそめる。

「わかっています……でも、どうすることもできなくて」

弥吉が顔を覆う。

誠一が静かに言った。

「織本が、裏で糸を引いているな」

「え……?」

弥吉が顔を上げる。

「昔から、あいつはそういう男だった」

誠一の目が、暗い。

「気をつけろ、弥吉」

「はい……」

その夜、一行は弥吉の家に泊まった。

しかし、誰も安心して眠れなかった。


明日、何が起こるのか——。


誰にもわからなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る