第二章 其ノ四 霞ノ郷への道
旅路――夕刻
一行は山道を進んでいた。
紗江は少し疲れた様子で歩いている。
「紗江、大丈夫?」
隼人が心配そうに声をかける。
「ありがとう、大丈夫です」
その後ろ、木々の影に清之助がいた。
(……大丈夫だろうか。あの笑顔の奥に、無理をしていないか)
心配そうに紗江を見つめる。
その夜――宿屋
「ふぅ……」
紗江が部屋に入ると、小さな包みが置いてあった。
「……これは?」
開けると、美しい和菓子が入っていた。
「わぁ……綺麗」
隼人が覗き込む。
「誰が置いたの?」
「さあ……?」
隼人がこっそりお蘭に耳打ちした。
「ねぇ、あの人、毒とか入れてないよね?」
お蘭が呆れたように眉を上げる。
「馬鹿なことを言うな」
紗江が湯から上がり、浴衣姿で廊下を歩いていた。
髪が濡れたまま、ほんのり頬が染まっている。
その姿を、清之助が物陰から見ていた。
(……美しい)
胸が高鳴る。
思わず顔を覆った。
(いかん、いかん……)
紗江とお蘭が部屋に戻ると、若い宿の娘が布団を敷いていた。
年の頃は十六ほど。
小柄で、着物の胸元のあたりが擦れて布が薄くなっている。
「……その着物、とても大事にしているのね」
紗江がそっと声をかけると、娘は恥ずかしそうに笑った。
「母の形見なんです。なかなか捨てられなくて」
紗江は思わず、手を止めた。
(……それなら)
幸い、旅の荷に木綿があった。
その夜、紗江は針を取り、胸当て付きのエプロンを仕立てた。
裾にはふんわりとした大きなフリル、肩には小さな飾りフリル。
――まるで異国の“メイド服”のような形だった。
夜更けに縫い上がったエプロンを娘に手渡した。
「これを着てみて。胸元が擦れないようにと思って」
娘は目を丸くしながらも、恐る恐る身につけた。
「かわいい!……あの、頂いてよろしいのですか」
そう言って紗江の顔をそっと覗きこむ。
「あなたの為に仕立てたのだから、使ってちょうだい」
紗江が微笑んだ。
「ありがとうございます、これで形見の着物を守れます。」
そう言って、右に左に身体を揺らす姿に、紗江の頬も思わず緩んだ。
その時、紗江はまだ気づいていなかった――
この何気なく作った”エプロン”が評判を呼び、宿場の茶屋や宿屋でおしゃれな作業着として広まっていくことになることを…。
ーー翌朝
部屋を出ると、玄関に新しい草履が並んでいた。
「これは……?」
全員分の草履。
紗江の分だけ、明らかに上質な作りだった。
「誰が……?」
蓮がにやりと笑う。
「さあね」
葵は黙って草履を履いた。
(……)
ーー物陰
清之助が満足そうに微笑んでいた。
(喜んでくれただろうか)
……その背後に、蒼馬が立っていた。
「清之助殿」
「うわっ!」
清之助が驚いて振り向く。
蒼馬が静かに笑った。
「もう少し、上手く隠れた方がよろしいかと」
「……バレてましたか」
「ええ。最初から」
清之助は恥ずかしそうに頭を下げた。
「申し訳ありません……」
「いえ。紗江様を想う気持ちは、よく分かります」
蒼馬が優しく言う。
「ですが、この先は危険です。引き返した方がよろしいかと」
「……」
清之助は黙って空を見上げた。
「それでも、行きます」
その目に、迷いはなかった。
蒼馬は小さく息をついた。
「……分かりました。」
霞ノ郷へ
霧に包まれた山あいの道をいくつも越えた。
夜明け前。
一行はついに霞ノ郷の入り口へ辿り着いた。
そこに待っていたのは、白髪の郷主・霞王かおうだった。
「よぅ、参ったな」
郷の歴史を感じるような深い皺のある老人が杖を突きながらゆっくりと近づいてくる…。
「来ることはわかっていた。幻に抗うには、心を制せねばならぬ」
葵が頷く。
霞王の鋭い視線が、一人一人を見渡す。
そして――清之助で止まった。
「……お主」
清之助が緊張した面持ちで頭を下げる。
「お主からは、覚悟が見えぬ」
霞王の声が冷たく響く。
「鏡の殿は、己と向き合う覚悟なき者を許さぬ。こちらで待たれよ」
清之助は一瞬、唇を噛んだ。
だが、すぐに深く頭を下げた。
「……はい。私は商人でございますので、控えさせていただきます」
そして、仲間たちに笑顔を向けた。
「では、皆様。こちらでお待ちしておりますね」
……だが、その言葉は誰の耳にも届かなかった。
鏡の殿からのただならぬ妖気を感じ皆、集中力を高め、真剣な眼差しで見えない何かを見つめていた。
清之助の笑顔が、わずかに揺れた。
神域の記憶試練――鏡の殿
深い樹々の間を抜けると、空が白く揺れていた。
鏡の殿かがみのとのと呼ばれる神域ーー
壁一面、天井、床に至るまで鏡で覆われ、光や人影が反射して無限に広がるように見える。
霞王が杖を突きながら言う。
「ここに入る者は、己の心と向き合う覚悟が要る」
霞王の声が低く沈む。
「殿の中では、心の奥底に潜む闇が形となって現れる。それに飲まれれば、精神は崩壊しーー二度と戻らぬ。」
場が静まり返る。
「嘘も偽りも、この鏡はすべてを映す。そして、お主らを喰らおうとする」
葵が一歩前に出る。
「それでも行く。もう、幻に惑わされるわけにはいかぬ」
霞王が頷いた。
「ならば……行け」
光の幕が降り、七人は一歩ずつ踏み出す。
それぞれの影が、湖面のような床に揺れた。
清之助は、ひとり里の入り口に残された。
七人の背中が、霧の中に消えていく。
(……俺は、ここまでか)
拳を握りしめる。
(紗江殿を守りたい。でも、俺には何もできない)
その時、背後で声がした。
「……心配か」
振り向くと、霞王が立っていた。
「はい」
清之助が答える。
霞王は清之助の隣に座った。
「鏡の殿は、古来より忍びの試練の場とされてきた」
「……」
「この郷が霧に包まれたのは、遥か昔。神々がこの地を選び、忍びの魂を試す場としたのだ」
霞王が空を見上げる。
「…この試練を乗り越えた者は少ない」
清之助の顔が強張る。
「多くの者が、己の心に飲まれ、戻ってこなかった」
「では……紗江殿たちは……」
「安心せよ」
霞王が微笑む。
「あの者たちは、強い絆で結ばれておる。一人ではない」
霞王が清之助を見つめた。
「お主も、その絆の一部だ」
「……え?」
「あの者たちの心の中に、小さくお主の姿がある。それも、彼らを支える」
清之助の胸が熱くなった。
「小さく…でございますか」
「だから…信じて待て」
「……はい」
清之助は、ただ祈るように空を見上げた。
鏡の殿の中
次の瞬間――
葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、紗江の七人は
互いの姿も、声も、届かない。
完全に、ひとり。
それぞれの試練が、今……始まろうとしていた。
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