第二章 其ノ三 霞ノ郷への決意

日が傾きかけた澄月庵。

障子越しの光が、柔らかくも確かな輪郭で紗江の横顔を浮かび上がらせていた。

玄関先で、控えめな声がした。

「……失礼いたします」

振り向くと、清之助が立っていた。

羽織もはおらず、少し息を切らしている。


「紗江殿…襲われたと! 町で噂を聞き、居ても立っても居られず……」

その顔に焦りと安堵が入り混じっていた。

「怪我は……? 本当に…ないのですか」

「はい、私は……葵様が守ってくださったので」

清之助は思わず一歩近づく。

「よかった……本当によかった」

そのまま、彼は思わず紗江を抱きしめた。

けれど触れた掌が、小刻みに震えていた。

それを感じた瞬間、何も言えなくなった。


廊下の影ーー

葵はその光景を見ていた。

拳を握りしめ、ゆっくりと背を向ける。

胸の奥が灼けるように熱いのに、

廊下に吹く風は、どこか冷たかった。


やがて清之助は、はっと気づき、すぐに身を離した。

「……申し訳ない、取り乱しました」

「いえ、清之助様……お気遣いありがとうございます」

空気が静かに戻る。


――澄月庵、奥の間。

葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、そして紗江が集まっていた。

紗江が、襲われた夜のことを話す。

「歪んだ空間に沢山の人影が、声にならない囁き……あの時、私は現実ではないものを見ていた気がします」


黙って聞いていた無刄が、静かに言った。

「……それは”冥幻めいげん“だ」

「冥幻?」

「冥が見せる幻覚。」


無刄の声が低く沈む。

「心の隙に入り込み、恐怖を増幅させる……己の影に呑まれる者も多い」

「葵様だから、かすり傷で済んだ……俺たちなら呑まれていたかも」

場が静まり返る。

「抗う術を持たねば…次は、命を落とします」

葵が眉をひそめる。

「……では、どうすればよい」

無刄が一同を見渡す。


「霞ノ郷に行けばーー」

その言葉に、場の空気が一気に張り詰めた。


霞ノ郷ーーかつて、忍たちが修行を積んだ伝説の地。

幻術を見破り、心を鎧う術が伝わるといわれていたが、ほとんどの者が心を壊すと。


「お蘭は残り、紗江を守ってくれるか」

葵が言う。

「いえ、私も行きます」と紗江。

「道中は危険が伴う。紗江はーー」

葵が言いかけた時、

「いえ」

紗江が立ち上がる。

「私も、行きます」

一同が驚いて紗江を見た。


葵が首を振る。

「紗江、お前は――」

「いえ、葵様」

紗江が真っ直ぐに葵を見つめる。

「私のせいで、また誰かが傷つくなんて、嫌です」

その声は震えていたが、瞳は真っ直ぐだった。


「戦えなくても、自分の身くらい守れるようになりたいのです。お願いします、連れて行ってください」


無刄が短く息を吐いた。

「……危険だぞ、紗江殿」

「それでも」

紗江は一歩も引かなかった。

「紗江様が行かれるなら、私も参ります」

お蘭が静かに言う。

「お蘭……」

「紗江様をお守りするのが、私の役目ですから」

葵がふと紗江の方を見た。

灯火の下、紗江の横顔は凛としていた。



こうして――

彼らは“霞ノ郷"への旅立ちを胸に刻み、

それぞれの覚悟を胸に、準備の日々を過ごすこととなった。

後に“己との戦い”の幕開けとなることを、

まだ誰も知らなかった。



ーー越後屋

清之助は店の奥で、ぼんやりと帳面を眺めていた。

(……紗江殿)

あの時、思わず抱きしめてしまった。

取り乱した自分が恥ずかしい。

(しばらくは、会えないな)

そう思うと、胸が締め付けられる。

(……会いたい)

ふと、立ち上がった。

「加賀屋に行ってくる」

番頭が驚いた顔をする。

「若旦那様、今日は大事な商談が……」

「後にしてくれ」

清之助は羽織を羽織り、店を飛び出した。


加賀屋ーー

「いらっしゃいませ、あらっ清之助様」

女将が笑顔で迎える。

「あの……紗江殿は、最近こちらに?」

清之助が恥ずかしそうに尋ねる。

「ああ、紗江様なら二日前にいらっしゃいましたよ。近々、旅に出られるそうで」

「旅……!」

「ええ。しばらく江戸を離れるって」

清之助の顔が曇る。

「……出立は、いつですか」

「明後日の早朝だと聞いております」

「そうですか……」

清之助は深々と頭を下げ、そそくさと店を出た。

外に出ると、冷たい風が頬を打った。

(明後日……)

清之助は空を見上げた。

(どこへ行かれるのか……いや、聞いても教えてはもらえまい)

胸の奥が疼く。

(せめて……無事を、この目で確かめたい)



――旅立ちの朝


明後日の早朝、夜明け前――澄月庵。


葵、蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭、そして紗江が旅支度を整えていた。

「では、行くとしよう」

葵が一同を見渡す。

一行が静かに庵を後にする。

朝靄の中、その姿が徐々に遠ざかっていく。

その時――

路地の奥、物陰に人影があった。

蒼馬がわずかに目を細める。

(……越後屋の若旦那か)

蓮も気づいている。

隼人が小声で囁いた。

「なあ、あの人ずっとついてきてるぞ」

蓮が冷静に答える。

「紗江様の商売相手だ。手荒な真似はするなよ」

「でも……」

「害にはならない。様子を見ろ」 

「……わかった」

隼人は頷いた。

物陰から、清之助がじっと一行を見つめていた。

紗江の後ろ姿を目で追いながら、静かに後を追う。

(……どこへ向かうのか分からないが)

心の中で、そう呟いた。

(せめて、無事を見届けたい)

朝靄の中、二つの影――

一つは旅立つ者たち。

もう一つは、その後を密かに追う者。

静かな江戸の朝に、それぞれの想いが交錯していた。

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