第一章 其ノ十五 光の衣

ーー夜

中村座の楽屋には、ひとすじの灯がともっていた。

反物の上を、針の音が細やかに渡っていく。

紗江の手が縫うのは――

舞台の主役、団十郎がまとうための打掛。


誠一から受け取った布は、淡く金糸が光を放つ。

それはまるで、夜明け前の空気を閉じ込めたような反物だった。


「この光を、舞台で咲かせたい」

紗江が呟く。

その声は静かだが、胸の奥には炎が宿っていた。


針を通すたびに、布が微かに震える。

生地が命を得て、息を吹き返すように――。


やがて、障子の外から足音がした。

「まだ縫っているのか」

団十郎が現れる。

彼の視線が、机の上の反物を捉えた瞬間、わずかに息を呑んだ。


「……これは、誠一の布か」

「はい。光を通す糸で織られています」

紗江は打掛の裾を広げた。

淡い金と白が重なり、見る角度によって色が変わる。

まるで光そのものを纏ったような衣。


団十郎は静かに指で触れた。

「……温かい」

「はい。布が人を包むとき、想いが通うのだと、誠一さんが」


しばらく沈黙ののち、団十郎は低く呟いた。

「この衣で、光と闇の狭間に立とう」

紗江が不思議そうに見つめる。

(……光と闇の狭間?)

「舞台の最後、私がこの打掛を纏い、闇を切り裂く。それが、我らの“夢の衣”となる」


紗江の瞳が潤む。

「団十郎様……」

「おまえの針が導くなら、光は必ず届く」


その言葉に背を押され、紗江は再び針を取った。

夜更けの工房に、糸の音が優しく響く。


――その時。

庭の闇の向こうで、何かがかすかに動いた。


団十郎の目が鋭く光る。

瞬間、袖の中から扇子を抜き放ち、音もなく投げた。


「――誰だ」

扇子は闇の中で光を弾き、木の枝をかすめた。

ざわ、と風が揺れ、黒い影が飛び退く。


「何か、ございましたか!?」

紗江が驚く。

団十郎は扇を拾い上げ、微笑んだ。


「ただの夜風かもしれぬ」

「でも……」

「いや、風の方が退いたようだ」


穏やかに言うその声の奥に、凛とした威圧がある。

「心配はいらぬ。舞台の光は、闇を寄せつけぬ」


紗江はその背に、言葉を失った。

芸の世界に生きる者でありながら、まるで戦場に立つ侍のよう。

――この人なら、本当に闇を切り裂ける。


針の音が再び響く。

打掛は少しずつ、夜の帳を照らす“光の衣”へと姿を変えていった。


そして闇の中、退いた影――冥は、屋根の上からその様子を見下ろし、唇を歪めた。

「……さすがだ。あの男、やはり只者ではないな」


紗江は朝まで楽屋で針を握り続けた。

やがて東の空が白み始め――舞台の日が来た。



夢の舞台


舞台当日。

夜明け前の中村座。

蒼馬が屋根の上で警戒していた。

(……来るか)

鋭い視線で周囲を見渡す。

すると、遠くの屋根に黒い影が見えた。

(……やはり)

蒼馬は静かに刀を抜き、影を追う。


――中村座の舞台裏。

無刄が気配を消して見回っていた。

(冥は、必ずここを狙う)

侵入路を再確認する。

その時、わずかな気配を感じた。

無刄が振り向く。

闇から、冥が現れた。

「……無刄」

「冥」

二人が向かい合う。

「邪魔をするな」

冥が暗器を投げる。

無刄がそれを弾く。

「させない」

無刄が刀を抜いた。

二人の戦いが始まった。


――中村座、客席。

蓮と隼人が警戒している。

「俺は後ろを見る。隼人は前を見てろ」

「分かった」

その時、天井から朧火と鴦牙が飛び降りてきた。

「やぁ、お邪魔するよ」

鴦牙が笑う。

「させるか!」

蓮が短刀を抜く。

隼人も双短剣を構えた。

「隼人、表に出るぞ!」

激しい戦いが始まる。


舞台裏では、

無刄と冥の戦いが続いていた。

刃と暗器がぶつかり合う。

「無刄……お前はなぜ、裏切った」

冥が問う。

「私は、人の心を取り戻しただけだ」

無刄が答える。

「人の心だと……笑止」

冥が一瞬、動きを止めた。

その隙に、無刄が冥を押さえつけた。

「終わりだ」

無刄が冥を縛り上げる。

客席では、蓮と隼人が朧火と鴦牙を押していた。

「くっ……」

朧火が舌打ちする。

「撤退よ」

朧火が煙玉を投げ、姿を消した。

鴦牙も続く。

「チッ……お前ら、腕あげたんじゃない」

鴦牙が去った。


戦いは、葵側の勝利に終わった。

夜鴉は退き、舞台は守られた。



――控えの間


紗江は緊張で手が震えていた。

「大丈夫……」

お蘭が肩を抱く。

「紗江様、あんなに頑張ったんですから、きっと

上手くいきます」

「お蘭……」

蒼馬が現れた。

「紗江殿、ご安心を。夜鴉は追い払いました!もう危険はありません」

「蒼馬……みんな、ありがとうございます」

紗江は深く頭を下げた。


その時、柱の影から一人の男が現れた。

誠一だった。

「紗江様」

「誠一さん! 来てくださったんですね」

「はい。どうしても、この目で見たくて」

誠一の視線が、完成した打掛に注がれる。

淡い金糸と白糸が織り交ぜられた、光の衣。

その瞬間、誠一の目がわずかに潤んだ。

紗江は、その表情を静かに見つめた。

(やっぱり……)

(誠一さんが、作られたんだ)

だが、紗江は何も言わず、ただ微笑んだ。

「素晴らしい布でした」

「……」

「誠一さんの選んでくださった布のおかげで、こんなに美しい打掛ができました」

誠一は、紗江の目を見た。

その瞳には、全てを理解した優しさが宿っていた。

(……この子には気づかれてしまったようだ)


誠一の目から、一筋の涙が流れた。

「……紗江様」

声が震える。

「本当に……ありがとうございました」

紗江も、目に涙を浮かべながら微笑んだ。

「こちらこそ」

二人は、深々と頭を下げ合った。

それだけで、想いは確かに通じ合っている。


「さあ、皆様、お時間です。素晴らしい舞台を」

「はい」

三味線の音が響き始めた。

賑やかだった客席が静まり返り、

幕がゆっくりと上がる。

舞台には、紗江が仕立てた新作の着物を纏う町娘たちが並んでいた。

淡い桃色、藍色、薄紫……色とりどりの絹が光をまとい、帯の彩りが波のように揺れる。

三味線の音に合わせて、娘たちが花道をゆっくりと歩き始めた。

一歩、一歩。

着物の裾が揺れるたびに、客席からため息が漏れる。

「きれい……」

「あの着物、欲しい……」

「素晴らしい……」

舞台裏で、紗江は娘たちの姿を見守っていた。

涙が溢れそうになる。

(みんな……)

お蘭が隣で微笑む。

「……紗江様」

順番にゆっくりと華やかに、あでやかに着物を魅せていく。

四十点の披露が終わり、娘たちが花道を下がっていく。

客席が拍手に包まれた。


そして――

三味線の音が変わった。

力強く、荘厳な音色。

舞台の奥から、市川団十郎が現れた。


光の打掛を纏っている。

淡い金糸と白糸が織り交ぜられた、誠一の最後の反物で仕立てられた衣。

一歩踏み出すたびに、打掛が舞台の灯りを受けてきらめく。

客席から、どよめきが起こる。


「なんて……美しい……」


「まるで、光そのものだ……」


「息を呑むほど……」


舞台裏で、誠一が柱の影から見つめていた。

(……ああ)

誠一の目から、涙が溢れた。

(わしが織った最後の布が)

(こんなにも……こんなにも美しく咲いている……)

団十郎が、花道で大きく見栄を切る。

その瞬間――

桜の花びらを象った吹雪が、天井から舞い散った。

光の打掛が、桜吹雪の中できらめく。

客席が一斉に立ち上がった。

割れんばかりの拍手と歓声。

「団十郎様ーっ!」

「中村座ーっ!」

叫び声が渦となって、芝居小屋を揺らした。

誠一は、もう声も出なかった。

ただ、涙を流しながら、その光景を見つめていた。

(ありがとう……)

(紗江様……団十郎様……)

(わしの人生に、こんな日が来るとは……)

紗江が舞台裏から、誠一の姿を見つけた。

涙を流しながら、舞台を見つめる誠一。

紗江も、目に涙を浮かべながら微笑んだ。

そして、小さく頭を下げた。

誠一も、静かに頭を下げ返した。

言葉はいらない。

全ては、あの光の中にある。

幕の陰で、紗江は胸を押さえていた。

涙が止まらない。

「……夢みたい」

紗江が頬をそっとつねる。

痛い。

(夢じゃない……本当なんだ……)

葵が舞台裏に現れた。

「紗江」

「葵様……!」

紗江が駆け寄る。

葵は紗江を抱きしめた。

「よく頑張ったな」

「……はい」

紗江の声が震える。

「素晴らしい舞台だった」

葵の声が温かい。

「そなたの夢が、叶ったな」

紗江は葵の胸で泣いた。

嬉しさと安堵が、一度に押し寄せる。

「葵様……ありがとうございました……」

「いや、そなたの力だ」

葵が優しく紗江の頭を撫でる。

「私は、ただ見守っていただけだ」

「そんなこと……」

紗江が顔を上げる。

「葵様がいてくれたから……ここまで来られました」

二人の目が合う。

その瞳に、深い想いが宿っていた。


ーー終演後

舞台裏は、祝福の言葉で溢れていた。

「紗江様、ありがとうございました!」

モデルの娘たちが笑顔で駆け寄る。

「みんな、ありがとう」

紗江も笑顔で応える。

団十郎も笑顔で近づいてきた。

「紗江殿、見事だった」

「団十郎様のおかげです」

「いや、あなたの才能だ」

団十郎が真剣な目で言った。


「これからも、江戸に新しい風を吹かせてください」


「団十郎様!本当にありがとうございました」

紗江が深く頭を下げる。


誰もいなくなった舞台には桜吹雪が舞い、鳴り止まない大きな拍手が……

これからの紗江の未来を物語っていた。



――同じ頃、松雲の庵。

松雲が水晶を見つめていた。

その中に、笑顔の紗江と葵が映っている。

松雲の表情は複雑だった。


「葵……そなたはまだ知らぬ」

松雲が呟く。

「そなたが何者で、なぜここにいるのかを」

水晶の光が強くなる。

「だが、紗江が現れた今──」

松雲の目が鋭く光る。

「運命が動き始めた」


松雲は目を閉じた。

「来たるべき時が、近づいている」


障子が風に揺れた。

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