第一章 其ノ十四 準備と暗雲
翌日から、準備が始まった。
中村座の舞台裏。
紗江は団十郎の案内で、初めて芝居小屋の内部を見た。
「……広い」
思わず声が漏れる。
花道が客席を貫き、舞台は奥行きがある。天井からは幕が垂れ下がり、大道具が並んでいた。
「ここで、あなたの着物を魅せるのですね」
団十郎が微笑む。
「まずは、どうしますか?」
「まずは、モデルとなる娘たちを選びます」
「モデル……」
「着物を着て、この花道を歩く娘たちです」
紗江が説明する。
「この花道を歩くなら、背の高い娘を選ぶといい」
団十郎が花道を指差す。
「歩き方も大切だ。ただ歩くだけでは、着物の美しさは伝わらない」
「歩き方……」
紗江は目を輝かせた。
「そうです! 姿勢、歩幅、視線……全てが着物を引き立てます」
団十郎が頷く。
「私が、娘たちに芝居の所作を教えましょう」
「本当ですか!」
「ええ。私が関わるのです、失敗などあり得ない」
団十郎の目に、真剣な光が宿った。
加賀屋にて。
女将が町娘たちを集めてくれた。
十人ほどの娘たちが、緊張した面持ちで並んでいる。
「皆さん、今回の着物の舞台で、紗江様の着物を着てくださる方を探しています」
女将が説明する。
「芝居小屋で、大勢の前を歩くことになりますがどなたかお願いできませんか?」
娘たちがざわめく。
「やってみたいです!」
一人の娘が手を挙げた。
「私も!」
「私も!」
次々と手が挙がる。
紗江は嬉しさで胸がいっぱいになった。
「ありがとうございます……!」
その日から、猛特訓が始まった。
中村座の舞台で、団十郎が娘たちに指導する。
「背筋を伸ばして。そう、そのまま花道へ」
娘たちが一人ずつ歩く。
最初はぎこちなかったが、団十郎の指導で徐々に様になってきた。
「良い。次は視線だ。客席を見るのではなく、遠くを見るように」
「はい!」
娘たちの目が変わっていく。
紗江はその様子を見つめながら、衣装のデザインを考えていた。
「一人に何着か着てもらおう……」
次々とデザインを描いていく。
淡い桃色、藍色、薄紫……
色とりどりの着物が、紗江の頭の中で形になっていく。
クロが膝の上で丸くなっている。
「クロ、見ててね。きっと素敵な舞台にするから」
クロが小さく鳴いた。
一方、蒼馬、蓮、隼人、無刃は町中を駆け回っていた。
手には、チラシ。
「史上初! 着物の舞台だぞ!」
蓮大きな声で呼びかける。
「着物の好きな人寄っといでー!」
隼人も勢いよく配る。
蒼馬と無刃は冷静に、しかし、確実に手渡していた。
町中に、噂が広がり始めた。
「芝居小屋で着物を見せるんだって」
「市川団十郎様が協力してるらしいよ」
「紗江様の着物、見たいねぇ!」
人々の期待が高まっていく。
だが、その影で――
夜鴉も動いていた。
屋根の上、冥が中村座を見下ろしている。
「……ふん」
冥の仮面の奥から、冷たい視線。
「……祭り騒ぎも、今のうちだけだ」
背後に、朧火と鴦牙が現れた。
「ねぇ、下見は済んだ?」
朧火が聞く。
「ああ。舞台裏の構造も把握した」
冥が答える。
「当日、どう動く?」
鴦牙が聞く。
「舞台裏に火を放つ」
冥が静かに言った。
「火?」
朧火が眉をひそめる。
「ああ。ただし、燃え広がる前に消せる程度の火だ」
「つまり……」
「騒ぎを起こして、ショーを中止に追い込む」
冥の声が低くなる。
「紗江は信用を失い、団十郎の顔にも泥を塗る」
「なるほど」
鴦牙が笑った。
「誰も死なないが、確実にダメージを与える」
「その通り」
朧火も微笑む。
「ただし――」
冥が二人を見た。
「蒼馬たちが警戒している。おそらく、当日はかなり厳重な守りになるだろう」
「なら、……どうする?」
「お前たちが、蒼馬たちを引きつけろ」
「囮、か」
「そうだ。その隙に、私が舞台裏へ侵入する」
三人の目が、鋭く光った。
ーー柳沢邸
玄斎が柳沢に報告していた。
「計画は順調です」
「うむ」
柳沢が頷く。
「よいな、団十郎本人には手を出すな」
「承知しております」
「ただ、舞台を失敗させるだけだ」
柳沢の目が光る。
「それで十分。団十郎は二度と、葵たちに協力はすまい」
「はい」
玄斎が頭を下げる。
柳沢は窓の外を見た。
「葵……お前の周りから、一つずつ崩していく」
加賀屋
舞台の準備が進む中、紗江は新しい衣装の構想を練っていた。
だが、思い描く光沢と柔らかさを併せ持つ布が見つからない。
何度反物を手に取っても、心の奥に「違う」と響く。
「どうしても、あの"光"が出ない……」
呟いたその時、背後から穏やかな声がした。
「迷っておられるようですね、紗江様」
振り返ると、加賀屋の番頭・誠一が立っていた。
年季の入った手、落ち着いた物腰。
長年、反物を見てきた目には確かな経験が宿っている。
「お見せいただけますか」
紗江がデザイン画を差し出すと、誠一は黙って見つめた。
「なるほど……"光の衣"でございますね」
「はい。舞台の最後を飾る衣装です。けれど、生地が決まらなくて」
誠一は少し考えた後、言った。
「少々、お待ちくださいませ」
誠一は加賀屋の奥へ消えた。
しばらくして、大切そうに反物を抱えて戻ってきた。
「これは……」
淡い金糸と白糸が織り交ぜられ、
触れると指先が光をすくうようだった。
「昔、京都にこのような反物を織る職人がおりました」
誠一が静かに語る。
「糸に"光を通す"ように撚るのだそうです」
誠一が続ける。
「光を通す糸……人の心が映る布になる、と」
紗江はその布を手に取った。
確かに、求めていた光がここにある。
「誠一さん、これを……使ってもよろしいのですか?」
「はい。この布は、紗江様のような方にこそ、
使っていただきたいと思っておりました」
誠一は穏やかに微笑んだ。
「良い生地は、使ってもらってこそ生きるものです」
紗江は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に、使わせていただきます」
「紗江様の夢に、命を織り込んでやってくださいませ」
誠一が静かに頭を下げる。
紗江が去った後――
誠一は一人、反物があった場所を見つめていた。
(……ついに、この日が来たか)
誠一の手が、わずかに震えた。
腕の古傷が、かすかに疼く。
(もう、糸を撚ることはできない)
(だが――)
誠一は目を閉じた。
(わしの最後の仕事が、あの娘の手で花開く)
(それ以上に、嬉しいことはない)
遠くから、紗江の明るい声が聞こえてくる。
誠一は静かに微笑んだ。
(頼んだぞ、紗江様)
紗江は裁縫所で針を握っていた。
お蘭とお針子たちも、黙々と作業を続けている。
「紗江様、無理なさらず……」
お蘭が心配そうに声をかける。
「大丈夫。あと少しで完成するから」
紗江は笑った。
だが、その目には全く疲れを感じさせない光があった。
葵が部屋に入ってきた。
「紗江、少し休まぬか」
「葵様……」
「このままでは、本番までに倒れてしまう」
葵が優しく言った。
「でも……」
「お前が倒れれば、舞台はできない」
葵は紗江の手を取った。
「だから、休むのも仕事だ」
「……はい……そうですね」
紗江は素直に頷いた。
葵と共に、庭へ出る。
月が綺麗だった。
「不安か?」
葵が聞く。
「……少し」
紗江は正直に答えた。
「こんなに大きなこと、初めてで……」
「そうだろうな」
葵は微笑んだ。
「だが、そなたなら大丈夫だ」
「葵様……」
「これまでも、そなたは多くの人を笑顔にしてきた」
葵が紗江を見つめる。
「……紗江の成功は嬉しい。だが……」
葵は少し言葉を詰まらせ、
「私との距離が遠のいていくようで……寂しくもある」
紗江は驚いたように顔をあげた。
「葵様、やきもち……ちょっと嬉しいです」
二人の手が自然と重なった。
温もりが伝わり、言葉よりも確かなものがそこにあった。
その頃、屋根の上。
蒼馬の所へ、無刄が現れた。
二人が向かい合う。
「夜鴉が、動き出した」
と、無刄。
「やはりか」
蒼馬が頷く。
「冥が中心となって、舞台を妨害するつもりだ」
「どうやって?」
「詳細は不明だが……おそらく、当日仕掛けてくる」
無刄の声が低くなる。
「朧火と鴦牙も動く」
「三人か……」
蒼馬が顔をしかめる。
「俺たちだけで防げるか?」
「……分からない」
無刄が正直に答えた。
「私が抜けたことで、夜鴉は本気で来る。自分たちの実力を示すためにも」
「なら…」
蒼馬が刀を握る。
「俺たちも、本気で迎え撃つまでだ」
無刄が頷いた。
「ああ」
二人の目が、鋭く光った。
――数日後。
モデルとなる娘たちの訓練も、佳境に入っていた。
舞台で、娘たちが堂々と歩いている。
「素晴らしい!」
団十郎が拍手する。
「もう、立派なモデルだ。明日に備えて、今日は帰りなさい」
娘たちが嬉しそうに顔を見合わせる。
紗江も笑顔で拍手した。
「みんな、ありがとう!」
「紗江様、私たち頑張ります!」
娘たちの声が響く。
――夜鴉の隠れ郷
玄斎が三人の黒羽を前に立っていた。
「明日だ」
「はい」
三人が頭を下げる。
「失敗は許されぬ」
玄斎の声が低くなる。
「紗江と団十郎の繋がりを、断ち切れ」
「御意」
三人が闇に消えた。
玄斎は月を見上げた。
「明日……どうなるか」
――澄月庵、中庭。
葵が月を見上げていた。
蒼馬、無刃、蓮、隼人、お蘭が葵を囲む。
「夜鴉は……必ず来る……」
「はい」
「どんな手を使って来るかは分からぬが……」
葵が続ける。
「大勢の命を守ってほしい。頼むぞ」」
みんなが静かに頷く。
蒼馬、蓮、隼人、無刄、お蘭も、それぞれの場所で準備を整えていた。
明日は、大きな戦いになる。
だが、誰もが決意していた。
紗江の夢を、守り抜く――と。
まだ月灯りも薄い静かな夜。
だが、その奥で、嵐が迫っていた。
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