第一章 其ノ十三 偶然の出会い

志乃の屋敷を後にした翌日。

紗江は加賀屋を訪れた。店先には相変わらず客が絶えず、紗江の作った着物を手に取る娘たちの笑顔が溢れている。

「紗江様」

女将が奥から現れ、嬉しそうに微笑んだ。

「おかげさまで、毎日大盛況でございます」

「それは良かったです」

紗江も笑顔で応える。


「ただ……」

女将が少し考え込むように言った。

「お客様方がもっと着物を見たいとおっしゃるんですよ。十枚や二十枚、一度にお披露目できませんでしょうか?」

「十枚も二十枚も……一度に?」

紗江は驚いた。

「はい。ただねぇ、紗江様の着物は吊るしてお見せするより、着た方がずっときれいに見えるんですよねぇ……」

その瞬間、紗江の頭に鮮やかな映像がよぎった。

ランウェイ。光の下でモデルたちが歩く、夢にまで見たファッションショーの景色。

「そうだわ……!」

思わず声が漏れる。

「女将さん、芝居小屋なら大勢の人が集まりますよね?」

「芝居小屋……?ええ、中村座なんかは毎日満員ですが」


「芝居小屋で、着物を見せる……」

紗江の目が輝いた。


「そんなこと、できるのかしら」

女将は目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑った。

「紗江様が何をなさるのかはわかりませんが、今度、市川団十郎様がお店に寄ってくださる予定なんですよ」 


「市川団十郎様……!」

紗江は息を呑んだ。

江戸一の歌舞伎役者。その名を知らぬ者はいない。

「お会いになってみますか?」

「はい、ぜひ!」

だが、団十郎が訪れるまでには数日の間がある。

紗江は考え事をしながら町を歩いていた。

日本橋の賑わいを抜け、少し静かな通りへ。


(芝居小屋で着物を見せる……でも、どうやって交渉すれば……)

その時、前から一人の男が歩いてきた。

深く被った笠、質素だが上質な着物。

すれ違う町人たちが、一瞬立ち止まり、小さく頭を下げている。

(……あの方、誰だろう)

紗江が見つめていると、男が立ち止まった。


「……ん? お嬢さん」

低く、響く声。

男が笑う。

「いや、失礼。突然声をかけて驚かせてしまったか」


笠を少し上げると、端正な顔立ちと、鋭い眼光。


だが、その目は温かく笑っていた。

男は紗江を見つめて言った。


「あなたは……ただの娘ではないな」


「え?」


「その目だ。何かが違う」

団十郎の目が、鋭く紗江を見つめる。


紗江は驚いた。

(初対面なのに、この人には何か……見抜かれている気がする)

「私は……ただの娘ですが……着物を作っています」

「ほう」

男は興味深そうに紗江を見た。


「多くの人に私の着物を見てもらいたいんです」

「ふむ」

「でも、店に並べるだけでは限界があって……」

紗江は熱を込めて語った。

「芝居小屋のように、大勢の前で一度に見せられたらと思うのですが……」

男は目を細めた。

「芝居小屋、か」

「はい。でも、そんな前例もなく……無謀でしょうか」

「いや」

男は首を横に振った。

「芝居も、元は無かったものだ。誰かが始めたから、今がある」

「……」

「新しいことを恐れぬ心、それこそが大切だ」

紗江は胸が熱くなった。

「あなた様は……どんなお仕事を?」

「私か」

男は少し笑った。

「……芸事に、関わっている」

「芸事……」

「人を魅了することの難しさは、よく知っているつもりだ」

男は真剣な目で紗江を見た。

「あなたの着物は、人を魅了できるか?」

「……はい」

紗江は頷いた。

「自信があります」

「ならば、恐れることはない」

男は立ち上がった。

「いつか、あなたの作った着物を見てみたいものだ」

「はい!ぜひ」


別れ際、男が振り返った。


「あなたの名は?」

「紗江です。小織紗江と申します」

男の目が、わずかに光った。

「……やはり」

「え?」

「いや」

男は微笑んだ。

「良い名だ。覚えておこう」

紗江は不思議な感覚を覚えた。

(今……何か言いかけた?)

だが、男は既に背を向けていた。


男が去った後、近くの商人が紗江に囁いた。

「お嬢さん、今の方、ご存知ないのかい?」

「え?」

「市川団十郎だよ」

紗江は息を呑んだ。

「え……! あの方が……!」


「江戸一の歌舞伎役者だよ」



――その夜、澄月庵


紗江は葵に今日のことを話した。

「それで、偶然お会いした方が団十郎様だったんです」


「ほう」

葵は興味深そうに聞いている。

「とても素敵な方でした。芝居のこと、人を魅了することの難しさを語ってくださって……」

紗江の目が輝いている。

葵はその横顔を見つめた。

(紗江は……本当に輝いているな)

だが、同時に不安も感じていた。

団十郎は、ただの役者ではない。

徳川家にも、裏の世界にも顔が利く人物だ。

その男が紗江に興味を持った。

それは、紗江がさらなる危険に巻き込まれることを意味する。


「葵様?」

紗江が心配そうに見つめる。

「……いや、何でもない」

葵は微笑んだ。

「団十郎殿に会えて、良かったな」

「はい!」



――同じ頃、柳沢邸


書院で、柳沢が玄斎の報告を聞いていた。

「紗江が、市川団十郎と接触したようです」

柳沢の顔色が変わった。

「何……? 団十郎が」

「はい。どうやら、芝居小屋を借りる話が進んでいるようです」

「……これはまずい」

柳沢が立ち上がる。

「団十郎か……厄介な相手だ」

柳沢が続ける。

「将軍の寵愛を受け、裏の世界にも顔が利く。あの男と手を組まれては、もはや我々に勝ち目はない」


玄斎も頷いた。

「我々夜鴉も、団十郎には手を出せません」


柳沢は拳を握りしめた。

「もはや手の出しようがなくなる」


「紗江の才能、葵の地位、団十郎の影響力……三つが揃えば……」

「桂昌院様は、その組み合わせを喜ばれるだろう」

柳沢は苦々しく言った。


「そうなれば、葵の次期将軍の話も現実味を帯びてくる」

玄斎が静かに言った。


「では……今のうちに、手を打ちますか」

「ああ」

柳沢の目が光った。


「紗江と団十郎の繋がりを、断ち切れ」




――数日後

紗江は加賀屋を訪れた。

「紗江様、お待ちしておりました」

女将が奥へ案内する。

そこに座っていたのは――


「あの時の……!」


「やはり、あなたでしたか」

団十郎が微笑む。

紗江は驚いた。

「やはり……とは?」


「ふふ」

団十郎が穏やかに笑う。

「実は、女将から既にあなたのことを聞いておりました」

「え……?」

「町で見かけた時、もしやと思ったのですが」

団十郎の目が優しい。

「確かめたくて、声をかけてしまった」

「そうでしたか……」

紗江は顔を赤らめた。

「では、あの時……」

「はい。あなたが小織紗江殿だと、薄々気づいておりました」

団十郎が頭を下げる。

「不躾な真似をして、申し訳ない」

「いえ…」

紗江は驚きながらも、嬉しかった。

(団十郎様が……私のことをご存知だった)


「あの時、芝居小屋で着物を見せたいと仰っていましたね」

団十郎が微笑む。

「本気で、やるおつもりですか?」

「はい!」

団十郎の目が輝いた。

「新しいことを恐れぬ心、それこそが芸の神髄です」

「団十郎様……」


「中村座、お貸ししましょう」


紗江は驚いて顔を上げた。

「本当ですか……!」

「ええ。ただし――」

団十郎の表情が、わずかに真剣になる。


「私が手を貸すということは、敵も増えるということです」

「……敵?」


「表向きは役者ですが……私には様々な繋がりがある」

団十郎の目が、わずかに鋭くなる。

「それが、あなたや葵殿を危険に晒すかもしれない」


「それでも……」

紗江は真っすぐ団十郎を見た。

「それでも、やりたいんです」


団十郎は満足そうに微笑んだ。

「……良い目だ」

「私も、覚悟を決めましょう」



――その夜、夜鴉の隠れ家


玄斎が黒羽三人を前に立っていた。

朧火、鴦牙、そして新たな黒羽・冥。

「紗江が、団十郎と手を組んだ」

三人が顔を見合わせる。

「団十郎か……相手が悪いな」

鴦牙が舌打ちする。

「だが、団十郎本人には手を出すな」

玄斎が釘を刺す。

「あの男に睨まれれば、我々も無事では済まぬ」

「では、どうするのです?」

朧火が聞く。

「舞台を、失敗させる」

玄斎の目が光った。

「団十郎の顔に泥を塗れば、二度と葵たちに協力はすまい」

「なるほど」

冥が静かに頷いた。

「冥、お前が中心となれ」

「御意」

「朧火、鴦牙、お前たちも協力しろ」

「はっ」

二人が頷く。

「無刄が抜けたが――」


玄斎は三人を見渡した。

「お前たちの力を見せる時だ」

三人の目が、鋭く光った。



ーー加賀屋から帰ると、

紗江は葵に報告した。

「団十郎様が、中村座を貸してくださるそうです!」


「それは良かったな」

葵は微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。


立ち上がり、障子を閉める。

外の気配を遮るように。


「だが、紗江。これからはより用心してくれるか」

その目は真剣だった。

「……はい」

紗江の声が、わずかに震えた。

葵が歩み寄り、紗江の手を取る。

「紗江には今のままでいて欲しい」

温かく、強い手だった。

「その為なら何があっても、お前は私が守る」

「葵様……」

「約束だ」

二人の手が、強く握り合わされた。


その夜──澄月庵の屋根の上。

蒼馬が警戒していた。

ふと、気配を感じる。

「……来たか」

闇から、黒羽・鴦牙が現れた。

「やぁ、蒼馬。久しぶりだね」

飄々とした笑み。

「何の用だ」

「挨拶だよ。無刄が抜けて、寂しくてね」

鴦牙は肩をすくめた。

「でも安心して。俺たちは、まだまだ健在だから」

「……」

「近いうちに、また会おう」

鴦牙が消える。

蒼馬は刀を握りしめた。


(……また、何かが起きる)



遠くの闇で、何かが蠢いていた。

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