第一章 番外編 大山詣の夢

葵は蒼馬を呼び寄せていた。

「桔梗姫の大山詣の供をしてくれるか。

お前が行ってくれると安心だ」


蒼馬は短く「はっ」と答え、静かに頭を下げると、風のように姿を消した。


やがて数日が経ち、大山詣の一行が江戸を発った。


槍持ちの侍、御用人、女中衆、そして豪華な蒔絵の施された桔梗姫の籠。旗差しがひるがえり、総勢五十余名の行列は、道端の庶民たちの目を奪った。


人々が頭を下げる中、蒼馬は桔梗姫の籠の脇に控え、無言で鋭い視線を放っていた。


江戸を離れた頃、桔梗姫が籠の御簾を少し上げ、外を覗いた。


「蒼馬、あちらをご覧なさい。川に子どもたちが……」


蒼馬の目が向けられた先では、小さな子らが紙の船を流して遊んでいる。沈まず遠くまで行けば願いが叶うという。


桔梗姫は興味深げに微笑み、籠を降りたいとねだった。

困ったようにため息をつきながらも、蒼馬はその手を取り外へ出す。


陽の光を浴びて、紗江が仕立てた衣がきらきらと輝いた。


「……よくお似合い……おきれい…です」


「まあ、蒼馬に褒められるなんて嬉しい。ありがとう」


「……私にも、美しいものを美しいと思う気持ちはあるのです。」


桔梗姫は頬を染め、嬉しそうに笑った。


蒼馬は懐から紙を取り出し、船を折って渡した。


「願いを心に秘めて、川へ流されると宜しいかと」


桔梗姫は目を閉じ、そっと船を水面に置いた。小舟は流れに乗り、やがて遠くへ消えていった。


「……叶うかしら」


「あれほど遠くまで流れました。きっと」


桔梗姫が横を見ると、蒼馬も同じように目を細め、川の流れを見送っていた。


「何をお願いしたかは、蒼馬にだけ……」


桔梗姫がそっと耳打ちすると、蒼馬の表情がわずかに揺らいだ。


――旅の道中。杉並木に朝霧がかかり、庶民の参拝者と桔梗姫一行が混じり合う。桔梗姫は珍しげに辺りを見回し、時折子どものように声をあげた。


「蒼馬、あれお団子屋さん……食べてみたいわ」


「桔梗姫様……」


抑え気味にたしなめたが、結局は折れて買ってきた団子を渡す。


「美味しい!」


桔梗姫の笑みに、蒼馬は小さくため息をつきながらも、その横顔から目を逸らせなかった。


旅は数日に及んだ。ある夜、宿坊の庭。月明かりに照らされ、桔梗姫が空を仰いでいた。


「眠れないのですか」


蒼馬が声をかけると、桔梗姫は小さく首を振った。


「とっても幸せで……寝てしまうのがもったいないのです。何を見ても輝いていて、いつもと違って見えるのですもの」


蒼馬は隣に立ち、同じ夜空を見上げた。


――しばしの沈黙。夜風が衣を揺らす。


「……私の……嫁ぎ先が決まりました」

その声にはかすかな震えがあった。


蒼馬は静かに答える。


「……それは……おめでとうございます」


「桔梗姫様ならば……どこにいらしても、ご自身の力で幸せを掴まれるお方です」

間を置いて、続ける。


「ですが、もし何かあれば、私は必ず駆けつけますから」


桔梗姫は頬を染め、泣きそうになるのをこらえた。

(……蒼馬)

その名を呼びかけそうになり、唇を噛みしめて押しとどめる。


蒼馬はただ月を見上げる。

その横顔は静かで、けれどどこか切なげだった。


旅は無事に終わり、一行は江戸へと戻った。


桔梗姫の参拝の様子は庶民の間でも語り草となった。


桔梗姫様が団子を召し上がった、とか。


町娘に声をかけてくださった、とか。


中でも、お人形のように美しい桔梗姫様のお召しになっていたお着物の可愛らしさと言ったらと旅装束の噂はいつまでも消えることがなかった。


まるで芝居の一幕のように語られ、瞬く間に評判を呼び、また加賀屋に長い行列が出来た。



大山詣は桔梗姫にとっても、蒼馬にとっても。束の間の開放と、胸に秘めた想いを刻む、静かな思い出の旅となった。


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