第一章 其ノ九 桂昌院の間

――江戸城

長い廊下を歩きながら、紗江は緊張していた。

葵の後ろを少し離れて歩く。蒼馬も同行している。

(桂昌院様……どんな方なんだろう)

紗江は葵の背中を見つめた。

その背中は、いつもより少し硬く見えた。

やがて、大広間の前に着いた。

「紗江」

葵が振り向いた。

「何があっても、動揺するな。落ち着いて」

「は、はい」

紗江は頷いた。

葵の目に、わずかな不安が浮かんでいる。

(葵様も……緊張しているんだ)

障子が開かれた。

広間の奥、上座に一人の女性が座っていた。



―桂昌院―

六十を過ぎた身とは思えぬほど、姿には威厳と静謐な美が宿っていた。

鋭い目、伸びた背筋。高貴な着物を纏い、まるで女帝のような存在感。

「葵、久しいのぅ」

低く、しかし温かみのある声。

「桂昌院様」

葵が深々と頭を下げる。

紗江も慌てて頭を下げた。

「二人とも、面を上げよ」

二人が顔を上げると、桂昌院がじっと紗江を見つめていた。

「……そなたが、紗江か」

「は、はい……小織紗江と申します」

紗江の声は震えていた。

桂昌院の視線は、まるで全てを見透かすようだった。

「噂は聞いておる。江戸で評判だと」

「恐れ入ります……」

「姫にも、旅装束を仕立てたそうだな」

「はい。お気に召していただけたようで……」

「うむ。桔梗姫も喜んでおった」

桂昌院は微笑んだ。

だが、その目は笑っていなかった。


「して――」

桂昌院の声が、わずかに低くなる。

「そなたは、どこから来た?」

紗江は息を呑んだ。

「…それは」

「葵と同じく、光の中から現れたと聞いたが」

桂昌院の目が鋭く光る。

「本当か?」

紗江は答えに窮した。

(どう答えれば……)

その時、葵が前に出た。

「桂昌院様、紗江は私が庇護しております」

「それは承知しておる。だからこそ、聞いておるのだ」

桂昌院は葵を見た。

「葵、そなたは二十年前、光の中から現れた。宝樹院様が――そなたを拾い、我が子のように育てられた」

「……はい」

「宝樹院様が亡くなられた後、私がそなたを引き取った」

桂昌院の声に、深い感情が込められていた。

「そなたは、私にとっても大切な子だ」

「ありがたきお言葉……」

「だが――」

桂昌院の表情が変わった。

「そなたの傍に、また光の中から来た者が現れた。これは、偶然ではあるまい」

「……」

「紗江、正直に答えよ」

桂昌院が紗江を見た。

「そなた、葵と何か関係があるのか?」

紗江は首を振った。

「いいえ……私は、葵様とは初めてお会いしました。光の中から来たのは本当ですが、理由は分かりません」

「……」

桂昌院はじっと紗江を見つめた。

長い沈黙。

やがて、桂昌院は息を吐いた。

「……そなたの目は、嘘をついておらぬな」

「はい」

「ならば、もう一つ聞こう」

桂昌院の声が、さらに低くなる。

その場の空気が一瞬、凍りつく。


「――そなた、葵のことをどう思うておる?」


紗江の顔が真っ赤になった。

「え……!」

「答えよ」

「わ、私は……その……」

紗江は言葉に詰まった。

葵も驚いている。

「桂昌院様、それは……」

「黙っておれ、葵」

桂昌院は紗江だけを見ている。

「紗江、正直に答えよ」

紗江は震える声で答えた。

「……はい。葵様を……心より、お慕いしております」

その言葉に、葵の表情が揺れた。

桂昌院は満足そうに頷いた。その頬に、微かな安堵の色が差した。

「そうか。ならば、良い」

(……え?良いのですか)

「紗江、そなたは葵を支えられるか?」

桂昌院の目が、真剣だった。

「葵は、いずれ大きな運命を背負う。そなた、その重荷を共に担えるか?」

紗江は葵を見た。

葵は、わずかに首を横に振った。

(紗江を、巻き込みたくない……)

だが、紗江は真っ直ぐ桂昌院を見つめた。

「はい。私は、葵様をお支えしたいです」

「紗江…」 

葵の声は低かったが、その視線はまっすぐに紗江を見つめていた。


桂昌院は微笑んだ。

「良い娘だ。気に入った」

そして、立ち上がった。

「葵、そなたは幸せ者だな」

「桂昌院様……」


「葵、この娘を大切にせよ。そなたの心を、この娘に預けてもよい」


桂昌院は紗江に近づいた。

「紗江、そなたに一つ頼みがある」

「はい」

「葵を、独りにするな」

その声は、母親のように優しかった。

「あの子は、ずっと独りで戦ってきた。宝樹院様も、私も、守ろうとしたが――」

桂昌院の目に、わずかな悲しみが浮かぶ。

「あの子の孤独を、完全には癒せなかった」

「……」

「だが、そなたなら――」

桂昌院は紗江の手を取った。

「葵を、救えるかもしれぬ」

紗江は頷いた。

「はい。私、葵様を独りにはしません」

桂昌院は満足そうに微笑んだ。

「頼んだぞ」

広間を出た後、葵と紗江は庭を歩いていた。

蒼馬は少し離れている。


「紗江……さっきは、すまなかった」

「いえ……」

「桂昌院様は、ああいう方だ。遠慮がない」

葵は苦笑した。

「でも――」

葵は立ち止まり、紗江を見た。

「そなたの言葉、嬉しかった」

「……葵様」

「私も、そなたを……」

言葉が続かない。

だが、その目が全てを語っていた。

紗江は頬を染めながら、微笑んだ。

「私、葵様を絶対に独りにしません」

「……あぁ」

葵は静かに微笑んだ。

二人の間に、温かな空気が流れた。


――その頃、城のとある場所

柳沢吉保が、玄斎と密談していた。

「桂昌院様が、あの娘を気に入られたそうだな」

「はい。『葵を支えよ』とまで仰ったとか」

玄斎が報告する。

柳沢の表情が険しくなった。

「……まずいな」

「と、言いますと?」

「桂昌院様が、あの娘を認めたということは――」

柳沢は立ち上がった。

「葵の立場が、さらに強固になる」

「……」

「このままでは、本当に葵が――」

柳沢は拳を握った。


「徳川を継ぐことになるかもしれぬ」


「では、どうなさいますか?」

「紗江を、利用する」

柳沢の目が光った。

「あの娘を人質に取れば、葵はこちらの思う壺」

「ですが、桂昌院様が庇護しておられます」

「だからこそ、慎重に動かねば」

柳沢は玄斎を見た。

「玄斎、お前に任せる。必ず、あの娘を捕らえよ」

「御意」

玄斎は深々と頭を下げた。


――その夜

紗江は一人、今日のことを思い返していた。

(桂昌院様……優しい方だったな)

「葵を独りにするな」という言葉が、胸に残っている。

(私、本人の前でかなり大胆なことを言っちゃった!……)

その時、障子が開いた。

お蘭だった。

「紗江様、お疲れ様でした」

「お蘭……」

「桂昌院様との謁見、大変だったでしょう」

「うん……でも、葵様がいてくれたから」

紗江は微笑んだ。

お蘭も微笑み返した。

「紗江様、葵様のこと、お好きなんですね」

「え……!」

紗江の顔が真っ赤になる。

「わ、わかり……ますか?」

「はい。とても分かりやすいです」

お蘭は笑った。

「でも、良いことです。殿も、紗江様を大切に思っておられます」

「本当に……?」

「はい。葵様の目を見れば、分かります」

お蘭は優しく言った。

「どうか、葵様を支えてくださいね」

「……はい」

紗江は頷いた。



その夜、屋敷の屋根


蒼馬が警戒していると、無刄が現れた。

「……来たか」

「……」

無刄は答えない。

「今日は、戦わないのか?」

蒼馬は座ったまま。

無刄は首を横に振った。

「では、何の用だ?」

無刄は、しばらく沈黙した後、面をゆっくりと外した。

蒼馬は息を呑んだ。

(久しぶりに見る、素顔……)


若く、整った顔立ち。かつて見た少年の面影が残っている。

だが、その目には、深い悲しみと諦念が宿っていた。


「……忠告だ」

無刄の声は、いつもより柔らかかった。

「玄斎が、紗江を狙っている」


蒼馬の表情が険しくなった。

「いつだ?」


「……近いうちに。今度は、必ず捕らえると」


「なぜ、そんなことを教える」

無刄は、紗江がいる離れの方を見た。

「……あの娘は、妹に似ている」

「妹……?」

「お前が里を出て行った後、あの里が襲われた……」

無刄の声が、わずかに震えた。

「守れなかった――」

無刄の声が途切れた。

「それ以来、私は心を殺して生きてきた」

「……」

「だが、あの娘を見た時――」

無刄は蒼馬を見た。

「妹を、思い出した」

「無刄……」

「だから、妹の代わりにあの娘だけは守りたい」

無刄は面を戻した。そして、去ろうとした。

「待て」

蒼馬が呼び止める。

「……玄斎を裏切るつもりか」

「……分からない。だが、玄斎には恩もない」

無刄は振り向かず、小さく呟いた。


「お前が紗江殿を守るなら、お前は味方だ」

蒼馬は刀を収めた。

「私も、お前を守る」

無刄が振り向いた。

「なぜだ……私は、お前の敵だぞ」

「敵、か」

蒼馬は微笑んだ。

「確かに、立場は敵だ。だが――」

蒼馬は月を見上げた。

「お前との戦いは、楽しい」

「……」

「お前がいなければ、この人生はもっと退屈だった」

その言葉に、無刄は言葉を失った。

「だから、死なれては困る」

蒼馬は無刄を見た。

「こちら側に来ないか!葵様は良い方だぞ」


やがて無刄は、小さく頷いた。

「……ああ、知っている」

そして、闇に消えた。


蒼馬は月を見上げた。

月光が、彼の影を長く引き伸ばしていた。


「無刄……お前の答えを、待っている」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る