第一章 其ノ八 月下の誓い

鴦牙が紗江に近づく。

「さあ、来てもらおうか」


その手が、紗江の腕を掴もうとした――


その瞬間、風が揺れた。

無刄が、影のように間に割り込んだ。

鴦牙の腕が止まる。


「……?」

鴦牙が驚く。

「無刄、何を……」


無刄は何も言わず、ただ首を横に振った。


「お前……まさか」

朧火が気づく。


「この娘を、捕らえないつもり?」

無刄は答えない。


だが、その沈黙が全てを語っていた。


「……使えないわね」

朧火が舌打ちする。


その時、葵が現れた。

静かに刀を抜く。その動きは無駄がなく、ただ一歩立つだけで空気が変わる。


鴦牙が一歩後退する。

「あーらら……葵様、直々のお出ましとは」


「紗江を――返せ」

その声は静寂を裂き、夜気すら震わせた。


鴦牙は肩をすくめた。


「返すも何も、まだ捕まえていませんよ」


「ならば、好都合だ」

葵が一歩前に出る。

「お前たちを、ここで斬る」


その殺気に、夜鴉の羽たちが怯む。


朧火が笑った。

「まあ、怖い。でも――」


朧火が毒粉を撒こうとした――その瞬間、葵の刀が閃いた。

風が起こり、毒粉が吹き飛ぶ。


「……!」

朧火の顔色が変わった。

「速い……」


葵は既に朧火の目の前にいた。

「お前の毒は、私の風で無効化できる」

刀の切っ先が、朧火の喉元に触れる。


「動くな」

朧火は動けなかった。

鴦牙が舌打ちする。


「やれやれ……本気ですか」

「当然だ」


葵は鴦牙を睨んだ。

「紗江を狙った時点で、お前たちは私の敵だ」

(葵様……)

紗江の胸に、震えるような想いがはしる。


その隙に、蒼馬が無刄に向き合った。

二人の刀がぶつかり、火花が散る。

「無刄……お前は、なぜ玄斎に従う」

蒼馬が問う。


無刄は答えない。


「お前にも、心があるはずだ」

「なぜ、ただの道具として生きる」


無刄の動きが、わずかに鈍った。

蒼馬はそれを見逃さなかった。


「やはり……お前は迷っている」

無刄が面の奥から、小さく呟いた。

「……迷う資格など、ない」


「そんなことはない」


蒼馬が刀を収め、静かに息を吐いた。


言葉を選ぶように呟く。

「お前は、人間だ」


無刄の動きが、明らかに止まった。


蒼馬は、静かに続けた。

「私は、お前を斬りたくない」


蒼馬の目は真剣だった。

「だから――」


その時、鴦牙の声が響いた。

「無刄! 撤退だ!」


無刄は蒼馬を見つめた後、無言で闇に消えた。

蒼馬は、小さく呟いた。


「……また、会おう」


夜鴉たちが撤退した後、葵は紗江のもとへ駆け寄った。

「紗江、怪我は?」


「だ、大丈夫です……」

紗江の声は震えていた。


恐怖と安堵が一度に押し寄せ、涙が溢れる。

「葵様……」


「もう大丈夫だ」

葵は紗江を、そっと抱きしめた。


その温もりに包まれて、紗江の涙が止まらなくなった。

「ごめんなさい……私のせいで、みんなが……」


「違う」

葵が優しく言った。


「悪いのは、そなたではない」

「でも……」


「そなたは、何も悪くない」

葵は紗江の涙を拭った。


葵の瞳が、優しく紗江を見つめている。

「私は、そなたを守る。だから心配するな」

その言葉に込められた想いが、紗江の心に深く響いた。

(葵様……)


お蘭も無事だった。

「紗江様、もう大丈夫です」


葵、紗江、蒼馬、蓮、隼人、お蘭の六人は夕陽に照らされ、澄月庵へと帰った。



――その夜、澄月庵。


紗江は一人、庭を眺めていた。

月が明るく、竹林を照らしている。


(あの時、葵様が来てくださらなければ、どうなっていたか……)


クロが膝の上に乗ってきた。

「クロ……葵様、強いんだよ」


クロは「ニャア」と鳴いた。

その時、庭に人の気配がした。


「……葵様?」


葵が静かに歩いてきた。

「まだ起きていたのか」


「はい……眠れなくて」

葵は紗江の隣に座った。


二人、しばらく無言で月を見上げる。

「葵様」

「ん?」

「今日、助けてくださって……ありがとうございました」

「礼には及ばぬ」

葵は微笑んだ。

「私は、そなたを守ると決めたのだ」


「……どうして、そこまで」

葵が紗江の手を取った。


「紗江……私は」

葵は言葉を探すように、一瞬、沈黙した。


月明かりの中、その横顔が揺れている。


「そなたを失うことを考えるだけで……胸が苦しい」

葵の手が、わずかに震えていた。


「これは、守れと言われたからではない」

葵が紗江を見つめる。


「ただ……そなたが、そこにいてほしい。それだけだ」


(葵様……これは……私の勘違いじゃない……よね?)


葵の瞳が、真っ直ぐに紗江を見つめている。


その中に、深い想いが宿っていた。


「私は……そなたが……」

言葉が続かない。


だが、その目が全てを語っていた。


紗江は、自分の感情に気づいた。

(私は……私も……葵様を……)


二人の間に、静かな時間が流れる。


月だけが、その様子を見守っていた。


やがて葵が深く息を吐きながら、立ち上がった。

「遅くなった。休め」

葵は必死に心を隠した。


(私は常に命を狙われている。これ以上、紗江に近づいてはならぬ)


「……」

葵が去ろうとした時、紗江が声をかけた。


「葵様」

「ん?」


「私も……葵様のこと……」

紗江は顔を真っ赤にしながら、でも真っ直ぐ言った。


「とても大切に思っております」


葵の表情が、柔らかく崩れた。

「……ありがとう」


葵は一瞬、紗江の頬に触れようとして――やめた。そして、優しく微笑んで去っていった。


紗江は胸に手を当てた。

心臓が、激しく打っている。


「これは……恋よね……?」


クロが「ニャア」と鳴いた。

まるで、肯定するように。



――その頃、夜鴉の隠れ家


玄斎は三人の黒羽から報告を受けていた。

「失敗か」


「申し訳ございません」

鴦牙が頭を下げる。

「葵が、想像以上に強く……」


玄斎は茶を啜る。

「……やはり、葵を夜鴉に迎えたい」


「だが――」

玄斎の目が光った。


「鴉主様、今回で分かったことがあります」


「なんだ?」


「葵は、紗江を深く想っている様子」


玄斎は微笑んだ。

「それは良い。奴の弱点だ」


三人が顔を見合わせる。

「次は、もっと巧妙に仕掛ける」


玄斎は茶碗を置いた。

「紗江を使って、葵を追い詰めろ」


「御意」

三人が声を揃えた。


 


――翌朝

紗江は目を覚ますと、昨夜のことを思い出して頬が赤くなった。


(葵様……)


お蘭が朝食を運んできた。

「紗江様、おはようございます」


「おはよう、お蘭」


「昨夜は、よくお眠りになれましたか?」


「え、ええ……」


紗江の様子がおかしいことに、お蘭は気づいた。

「……昨夜……何かありました?」


「な、何も!」

紗江は慌てて首を振る。


お蘭は察した様子で微笑んだ。

(何かあったな……紗江様と殿、もしかして)


その日の午後、葵は紗江を呼んだ。


「紗江、話がある」


「は、はい」

紗江は緊張しながら葵の前に座った。


「昨夜のことだが――」


葵が言いかけた時、蒼馬が駆け込んできた。


「殿、桂昌院様がお呼びです」

「桂昌院様が……?」


葵の表情が変わった。

「何の用だ」


「それが……」

蒼馬は言いにくそうに続けた。


「紗江殿も、一緒に来るようにとのことです」

紗江と葵は、顔を見合わせた。


(桂昌院様……なぜ、私まで?)


不安が胸をよぎる。 


葵は静かに立ち上がった。

「行こう、紗江」


「はい……」


二人は、城へと向かった。

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