第一章 其ノ七 忍び寄る影

姫君の旅装束は、順調に仕上がっていた。

紗江は毎晩、行灯の灯りの下で針を握り続けた。淡い桃色の絹。動きやすさと品格を両立させた、紗江渾身の一着だった。


「もう少し……あと少しで完成」


お蘭が心配そうに覗く。

「紗江様、今夜こそお休みになってください。三日も徹夜では……」


「大丈夫。桔梗姫様のためだもの」

紗江は笑った。


だが、その顔には疲労が色濃く出ていた。


お蘭は部屋を出ると、蒼馬に報告した。

「紗江様、また徹夜です」


「……そうか」

蒼馬は屋根の上から町を見渡していた。


「夜鴉の動きは?」

「変わらず監視を続けています」


「……ただ」


「何だ?」

「数が増えています。昨夜は五人、今夜は八人。――監視にしては、多すぎます」

蒼馬の眉がわずかに動いた。


「そろそろ来るか……」



――その頃、夜鴉の里。


玄斎と黒羽三人が集まっていた。

「朧火、準備はできているか」

「はい、鴉主様」

朧火が微笑む。


「桔梗姫に着物を渡した後に、あの娘を捕らえよ」

玄斎は三人を見た。


「捕らえる……しかし、柳沢様は葵を亡き者にしたいのでは?」

無刄が低い声で呟いた。


玄斎は扇をぱちんと音を立てて閉じた。


「柳沢様とは所詮、金で結ばれた関係。どうしても葵を亡き者にしろと言うなら、柳沢様には消えてもらう」

玄斎の目が鋭く光った。


「葵は……必ずこちら側に引き入れる」

玄斎は不吉な笑みを浮かべた。



「葵を夜鴉にしたいなら、やっぱり紗江ちゃん捕まえなくちゃねえ」

鴦牙が皮肉な笑みを浮かべた。


「あの二人は必ず生け捕りにしろ。よいな」

玄斎は三人を鋭く見据えた。



――翌朝

紗江は完成した旅装束を前に、満足げに微笑んだ。

「……出来た」


「これなら、桔梗姫様も喜んでくださるはず」

お蘭が部屋に入ってきた。


「なんて可愛らしい!」

「ありがとう、お蘭」

紗江は嬉しそうに笑った。


「明日、お城に届けに行きます」


「……」

お蘭の表情がわずかに曇った。


「どうしたの?」

「いえ……何でもありません」

お蘭は笑顔を作ったが、心の中では不安が渦巻いていた。

(明日……何かが起きる)



葵は紗江を呼んだ。

「明日、城へ行くそうだな」

「はい。姫様に、直接お渡ししたくて」


「そうか」

葵は少し考えた後、言った。

「蒼馬たちを同行させる」


「え? でも、そんな大げさな……」


「いや」

葵の声は静かだが、強かった。

「紗江の監視の数が増えた。そなたが狙われる可能性がある」

紗江は息を呑んだ。

「私が……?」


「ああ。そなたは今、江戸で有名になった。そして――」

葵は紗江の目を見つめた。

「私の傍にいる」

「……」

「それだけで、柳沢にとってはそなたを利用する価値がある」

葵は紗江の手を取った。


「頼む。言うことを聞いてくれ」


「……はい。わかりました」



――翌日

紗江は完成した旅装束を丁寧に包み、城へと向かった。

蒼馬、蓮、隼人、そしてお蘭が同行する。


「なんだか、物々しいですね」

紗江が苦笑する。


「用心に越したことはありません」

蒼馬が答えた。


城に到着すると、桔梗姫が待っていた。


「紗江様」

桔梗姫は旅装束を手に取り、目を輝かせた。


「まあ……素敵!」

そして、その場で袖を通した。


裾に向かうほど濃くなるピンク色のグラデーションが、桔梗姫の透けるような白い肌に映える。

膝下の裾からのぞくオフホワイトのフリルがふわりと揺れ、全体に施された細かい花模様が淡く輝く。

緑色の華やかな帯が、装い全体を引き締めている。


まるで桜の精のようだった。


「軽い……それに、とても可愛い!」

姫君はゆっくりと回った。



「紗江様、本当にありがとう。これなら、旅が楽しくなるわ」

「桔梗姫様……お気に召していただいて本当に良かった……」

紗江の目に涙が浮かんだ。


姫君は紗江の手を取った。

「あなたは、素晴らしい才能を持っているわ。また、お願いしても良いかしら」


「はい!」



城を出た後、一行は町を歩いていた。

だが、蒼馬の表情は険しいままだった。


「……気配が増えている」

「ああ。囲まれてるな」


蓮も周囲を警戒している。

「どこから来る?」


隼人が緊張した声で聞いた。

「まだ見えない。けどーー」


蒼馬が立ち止まった。


「来る」


ーーその瞬間


路地の奥から、黒い影が飛び出してきた。

夜鴉の羽たちだ。


「紗江様!」


お蘭が紗江を庇う。


「させるか!」

蓮が飛び出し、短刀で応戦する。

隼人も双短剣を構えた。


「紗江を守るんだ!」

だが、夜鴉は次々と現れる。


五人、十人、十五人――


「数が――多い!」

蒼馬の刀が月光を裂いた。


「蓮、隼人! 紗江殿を連れて離れろ!」

「しかし!」


「行け!」

その声は、鋼を打つように響いた。


……次の刹那、屋根の上に影が揺れた。


黒羽――朧火、無刄、鴦牙。


「やはり、来たか」

蒼馬が低く呟いた。


無刄が屋根から飛び降り、蒼馬の前に立つ。

「……」

蒼馬が構える。


(……無刄……殺気がない?)


交わした刃の中に、ためらいの匂いを感じた。


二人の刀が火花を散らす。だが無刄の剣には――迷いがあった。何度か刀を交えたが、無刄は何も言わず身を翻した。


(……無刄、何を考えている?)


一方、蓮と隼人は紗江とお蘭を連れて路地を抜けようとしていた。


だが、前方に朧火が立ちはだかった。


「どこへ行くのかしら?」

妖艶な笑み。


「朧火……!」

蓮が短刀を構える。


「お前の相手は、私だ」

朧火が毒粉を撒く。

甘い香りが立ちこめる。


「くっ……!」

蓮の視界が歪む。


「蓮!」

隼人が蓮を支えた。


「大丈夫……これくらい」


蓮が必死に抵抗する。


お蘭が扇を構えた。


「紗江様、私の後ろに」

「お蘭……」


その時、鴦牙が現れた。

飄々とした笑み。


「お蘭ちゃん、久しぶり」

「鴦牙……!」


お蘭の顔色が変わった。

「お前、まだ夜鴉にいたのか」


「そうね」

鴦牙が刀を構える。


「さて、紗江さん。大人しく来てくれないかな?」

「私……?」


「そう、君を人質に取れば、葵を操れる。しかも、葵を我らの仲間にもできるんだって……一石二鳥らしいからさ」

鴦牙の目が冷たく光った。

「それが俺らのお仕事」


隼人が紗江を庇って前に出た。

「紗江から離れろ!」

短剣を振るう。


だが、鴦牙は軽々とかわした。

「勇敢だね、坊主。でも――」

鴦牙が隼人の腕を掴む。

「力不足だ」


隼人が吹き飛ばされる。

「隼人!」

紗江が叫んだ。

お蘭が扇で鴦牙に斬りかかるが、朧火が邪魔をする。

「お蘭、あなたの相手は私よ」

「くっ……!」

状況は絶望的だった。

蓮は朧火の毒で動けない。

隼人は倒れている。

お蘭も朧火に押されている。


鴦牙が紗江に近づく。

「さあ、来てもらおうか」

鴦牙の指先が、紗江の肩先に触れかけた。

その瞬間、空気が震えた。


――何かが、起きようとしていた。



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