第一章 其ノ六 桔梗姫の旅装束

加賀屋は、日に日に賑わいを増していた。

紗江が仕立てた新作のドレスを見に、町娘たちが朝から列を作る。


夕霧太夫のドレス姿が評判を呼び、「私もドレスを」という声が後を絶たなかった。


女将は嬉しい悲鳴を上げながら、紗江に次々と注文を伝える。

「紗江様、またご注文が!」


「はい……!」

紗江は驚きながらも、その忙しさが嬉しかった。


離れでは、毎晩遅くまで針を握る日々が続いた。お蘭が夜食を運んでくれる。

「紗江様、少しはお休みにならないと」


「ありがとう、お蘭!」

「でも大丈夫!とても、楽しいの」


紗江は笑った。


「私の作った服を、みんなが喜んでくれるって……こんな嬉しいことないもの」



お蘭は微笑んで、そっと部屋を出た。



――桔梗姫からの依頼


そんなある日の午後

加賀屋に、立派な駕籠が到着した。

女将が慌てて出迎える。


「これは、これは……お城の!」

駕籠から降りてきたのは、城の使者だった。


「加賀屋の女将殿に、お伝えする」

使者は巻物を広げた。


「桔梗姫様より、ご依頼がある」


女将は深々と頭を下げる。

「畏まりました」


「旅装束を、新しく仕立てよとのこと」


「旅装束……」


「ただし――」

使者は続けた。

「最近評判の、紗江という者のドレスが希望である」


女将の顔が一気に輝いた。

「はい! 畏まりました!」


女将は自らすぐに澄月庵へ走り、息を切らしながら紗江に告げた。

「紗江様! お城から、ご依頼が!」


「お城ですか?」


「はい! 桔梗姫様が、旅装束のお召し物を、紗江様に作っていただきたいと!」


「……?」

何を言われているのか理解するまでにしばらくの間があった。


「桔梗姫様から……!?」


「そう言ったでしょう! これは大変な名誉なんですよ!」

女将は、自分の言葉に興奮を抑えきれない様子だった。

紗江の心が踊った。


(お城のお姫様……)

喜びと同時に、大きなプレッシャーも感じた。


そのとき、襖が開いてお蘭が現れた。

「桔梗姫様からのご依頼ですか?」


「お蘭……」


「……よかったですね、紗江様」

お蘭は優しく微笑んだ。


だが、その目はどこか心配そうだ。

「これで、紗江様はもっとお忙しくなりますね……」

そっと呟いた。



2日後、紗江はお城へ招かれた。

葵と蒼馬が同行する。

「緊張する……」


「大丈夫。私がついている」

葵が言った。


城内に入ると、廊下は長く、静寂に包まれている。

やがて、奥座敷に通された。 


そこに、若い姫君が座っていた。


淡藤色の着物に、金糸の帯。上品な微笑みの奥に、年若いとは思えぬ聡明な光があった。


「これは、葵様」

姫君が葵に声をかける。


「お久しぶりでございます、桔梗姫様」

葵が礼をする。


「そして、こちらが紗江様か」

桔梗姫が紗江を見た。


「は、はい……小織紗江と申します」

紗江は緊張で声が震えた。


桔梗姫は柔らかく笑った。

「そなたの作ったドレス、町で娘達が着ているのを見ました」

「……!」


「とても可愛らしかったの。それで、私もぜひお願いしたいと思って」

桔梗姫の声は優しかった。


「大山詣は、長い旅になります。相模国の大山まで、数日はかかりますから。だから――」

桔梗姫は続けた。

「可愛らしいだけでなく、窮屈でない装束がほしいのです」

桔梗姫は少し照れたように笑った。


「桔梗姫様、私、精一杯作らせていただきます」

紗江は真っ直ぐ姫君を見つめる。

「桔梗姫様が、旅を心から楽しめるような衣装を……必ず」


桔梗姫は嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう、紗江様。楽しみにしています」


 城を出た後、紗江は考え込んでいた。

「大山詣の旅装束……」


「どうした?」

葵が聞く。


「動きやすくて、楽で、可愛らしくて……」

紗江の頭の中で、デザインが次々と浮かんでは消える。

「肌を出すのは控えた方が……でも少しなら」

「……」


「楽しそうだな」

葵が微笑む。


「はい! すごく楽しいです」

紗江は目を輝かせた。

「桔梗姫様に喜んでもらえるもの、絶対に作ります!」


その笑顔を見て、葵の胸が温かくなった。

この娘は、本当にいつも楽しそうだ……

葵の心に、温かな感情が広がった。



――その夜、裁縫所


紗江は何枚ものデザイン画を描いていた。

「袖は短めにして……」

「裾は動きやすいように、少し上げて……」

「でも、品が良くなくては」

試行錯誤を繰り返す。


クロが膝の上で丸くなっている。

「クロ、どう思う?」

「ニャア」

クロが鳴いた。


「そうだよね。もっと工夫が必要だよね」

紗江は再び筆を走らせた。



その頃、柳沢邸。

玄斎が柳沢吉保と、茶室で向かい合っていた。

「柳沢様、あの娘……紗江が、桔梗姫様から依頼を受けたそうです」


「ほう」

柳沢が興味を示す。


「桔梗姫様が、か」


「はい。大山詣の旅装束を、紗江に依頼されたとのこと」

玄斎が続ける。


「桔梗姫様まで、あの娘を気に入られたようでございます」


「……」

柳沢は考え込んだ。


「玄斎、あの娘は使えそうか」

「はい。才能があり、人望もある。そして何より──」

玄斎が微笑む。

「葵様が、深く信頼しておられる」


「ならば」

柳沢の目が光った。


「その娘を通じて、葵を……」

柳沢の指が、茶碗の縁に静かに触れる。


「人の心ほど……使い道のあるものはない」


玄斎は深々と頭を下げた。



――数日後

デザインが完成した。


襟と袖と裾にフリルをあしらった、綿のオフホワイトのインナードレス。

その上に着物を重ねる。

着物の裾からは、インナードレスのフリルがのぞく。

全体に細かい花模様。

膝丈の着物は、裾に向かうほど濃いピンク色のグラデーションになっている。

帯は花の一色と同じ緑で、華やかな模様入り。


「……華やかな衣装だな」

葵が声をかけた。

「これなら、桔梗姫様も必ずお喜びになる」


「本当ですか?」


「ああ。自信を持て」

葵は紗江の頭に手を置いた。

「そなたは、素晴らしい職人だ」


その言葉に、紗江の胸が熱くなった。

「……ありがとうございます」


そして、制作が始まった。



ーー夜鴉の郷


玄斎が、夜鴉の幹部である黒羽の三人を前に語る。

三人はいずれも顔を隠す面を着けており、その奥の表情は窺い知れない。


「朧火、お前の毒は百人を眠らせる」

「鴦牙、お前は千の兵を惑わす」

「無刄、お前の剣は……誰も見切れぬ」

「お前達は間違いなく強い」

三人が同時に頭を下げる。

玄斎が茶をすする。


「なのに……葵は、三人がかりでやっと互角……」


朧火が眉をひそめる。

「ですから、紗江を使うのですね」


「そうだ。愛する者がこちらの手のうちにあれば、葵は我らの思うままに動くであろう」



――その夜

屋敷の周囲に、複数の黒い影が集まり始めていた。

夜鴉の羽――実働部隊の者たちだ。


「……数が増えている」

「どうやら、本格的に動き始めたみたいだな」

蓮の声が低くなる。


「紗江を……狙うつもりか」

隼人が震える声で言った。


「いや、まだ羽の姿しか見えない。黒羽は……動いていない」

蒼馬が続ける。


「だが、それが逆に不気味だ」

蒼馬は離れの灯りを見た。


「桔梗姫様の依頼を知り、焦ったか……」


「どういうことだ?」


「いや、さだかではない。だが、警戒を怠るな」

三人は、夜鴉の羽たちと睨み合い、緊迫した時間が一晩中続いた。


紗江が針を握っていた。

「姫様、気に入ってくれると良いけど……」

一針一針、心を込めて縫う。


クロが紗江を見守っているように見えた。

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