ある幸運また不運について

箱感望歩

第1話

 清井京は十七年生きていて特段困ることはなかった。お金に困ることのない裕福な家。優秀とされる成績が取れる頭と身体。老若男女から好感をもたれる顔。人の輪にいることが苦でもなければ、1人でいることが苦でもない。


 強いていうなら悩みがないことが悩み、というなんとも贅沢な悩みを持っていた。


 ある程度大人から提示されたいくつかの進路に向かって、大人たちからの潤沢な支援を受けて、ある程度の努力をしていれば、ある程度の場所には辿り着く。


 例えば親に勧められた中学受験を親に勧められた塾に通って合格した。

 例えば中学生の頃に顧問に勧誘された陸上部の走り高跳びでは、身長が伸びるのが早かったのも相まって地方ブロックに出場出来た。

 例えば高校生になってから担任に勧められた大学の名前を模試に書いたら判定はAだった。


 学生時代であればある程度の身体能力、学力、顔があれば人から好意を持たれることも多くなる。

 その中の1人はクラスでも人気のある生徒だったが、特に恋愛的に惹かれることはなかった。ただ交際の経験はあった方がいいのかもしれないと、不純な動機で交際を始めた。部活や勉強の合間に交流を続けたが、交際を始め一年経たずに別れた。


 別れの言葉も相手からだったし、彼女の顔には貴方は詰まらないと言う文字が浮かんでいた。

 確かにそうだろうなと思い、告白を受け入れることは無くなった。


 清井京はそんなつまらない自分の人生をとても恵まれたものだと思う。



 青い空の下、清井京は練習着を着てグラウンドに立っていた。京の視線は前方にある自分の身長より高いバーに向けられている。

 息を大きく吐いて吸い、呼吸を整えて走り出す。走るスピードをどんどん上げていき、バーの近くで力強く踏み切った。

 身体を捻りながら飛んで、マットに背中から着地する。小さい衝撃の後、視界に広がる空は広くそして青かった。こうやってマットに倒れながら見る空は好きだと思う。バーを落とさなかった時はより一層。

 視界に広がる空を見ている時だけは1人になれる気がした。



 ある日授業が終わり休み時間に入ると、京は体育館側の自動販売機に向かった。教室に一番近い自動販売機には飲みたいジュースが売り切れていたため、喉が乾いていたが体育館側まで来ることになってしまった。


 目当てのジュースを買い、一口飲んで教室に戻ろうとする。教室のある本校舎に近づくと。不意に空から黒が落ちてきた。


 そして次の瞬間ガシャン、と地面に叩きつけられる音がする。落ちてきた物にかけ寄ると誰かのものか分からない筆箱が落ちていた。


 上を見ると丁度自分のクラスから男子生徒が数人覗いていた。彼らは外にいる京に気がづくと大声を出した。


「それ拾わなくていーから!」

「大郷くんが落としちゃって!拾いに行くってー!」


 ギャハハとうるさい笑い声が耳に入った。京は何事もなかったかのようにいつもの調子で返事をする。


「……大郷に拾って持ってくって伝えてー!」


 上を見ないように散らばった筆記用具を拾っていると、後ろから声をかけられた。


「清井何してんの?」


 振り向くと去年同じクラスだった鶴海の姿があった。


「落ちた筆箱拾ってる」

「え?まさか落としたん?ドジっ子だったん?」


 鶴海は笑いながら地面に散らばった筆記用具を拾い始めた。


「いや俺じゃなくて大郷の」

「……誰?」

「クラスメイト」

「ふーん」

「手伝ってくれてありがとう鶴海」

「あいよ。そうだ金曜の夜空いてる?ゲームのイベントやろうぜ」

「やるやる」


 二人は筆箱を持って教室に戻ろうとすると、階段で息を切らした大郷に出会った。京は大郷に筆箱を返そうと手を伸ばした。


「あ、これ落としたんだろ?」

「返せ」

 筆箱を奪うように腕を振り払われた。突然のことで京が驚きすぎたのか、腕を振り払った大郷自身も目を少し見開いた。そしてすぐに彼は舌打ちしてから背を向けて階段を登っていった。京と鶴海は圧倒されて階段の途中で立ち尽くす。


「何あれ感じ悪。礼もないのかよ」


 鶴海の口調には怒りが含んでいた。


「……あー多分筆箱落としたの大郷じゃなくて相楽」

「は?……あーね。好き嫌いがはっきりしてるもんな相楽クンは」


 鶴海と別れて自身の教室に戻ると、相楽は大郷と京をチラチラと見ながら少し呆れたように笑っていた。


「さすが優等生は優しいなあ」


 その後ろからギャハハと耳障りな笑い声がした。



 また別の日、京は職員室に併設している指導室に呼び出された。学生たちの間で独房と呼ばれている指導室に呼び出されたが、京は何も悪いことをしたわけではない。模試を受けるためという正当な理由があった。


 部活の遠征と模試の日程がバッティングし、特例として遠征に行く前に模試を別室で受けることとなったのだ。

 模試を解き終わり見直しも終了すると時間が余った。することもなく窓の外の空をぼんやりと見る。


 京がやろうと思えば問題文や選択肢をある程度覚えて、他の生徒たちにばら撒くと言うことも出来るのに、よく先に模試を受験するの許可を出すよなと他人事のように思った。


 ただ問題をバラした場合、先に模試を受けた京が真っ先に疑われるだろう。その場合部活は退部になるだろうし、受験も推薦は貰えなくなるリスクがあるから、教師たちは京が問題をばら撒くはずがないと考えているのかもしれない。


 そんなことを考えているうちに、何もかも嫌になったらそういうことをしてみてもいいなと思った。




 部活が終わり、部員の仲原と途中まで一緒に帰る。話すことはなんでことのない普通の話だ。部活のこと、学校の行事のこと、課題のこと、テレビや流行っている動画のこと。


 その日は2週間後のテストの話をした。京の通う高校では基本的にテストの1週間前から部活の停止期間となり、活動ができなくなる。とは言え朝練はその例外であり、京は朝練に行こうとしていた。


「テストだりぃなー」

「確かに提出物は面倒くさいな」

「とか言いつつ、もうやってんだろ?」

「……まあね」

「はあ。俺もやんないとなー。京は朝練もするんだろ?」

「そのつもり」

「分かってたけどマジか。本当よくやるよな」


 仲原のその言葉に少しだけドキリとする。文武両道と言えば聞こえはいいが、部活も勉強もある程度成績が残せることにどこか後ろめたさを感じていた。


 周囲の人よりは努力はしている分、成績が上位に上がるのは分かっている。しかしバイトをしていたり、片親だったりしているクラスメイトのことを聞くと、努力を出来る環境があるということがズルいように感じてしまう。


「……俺もちょっとだけ頑張ろー」


 小さく呟くように言われた言葉に悪く思われてるわけではないと安心する。


 その後もクラスや先生ゲームの話をしてから、仲原と別れた。一人になってからイヤホンを耳につける。ランキングに載っている曲が、曇ることのない青い春と歌っていた。



 鍵を開けて家に入ると京の好きな匂いがした。部活終わりの空腹に自然と足早になってリビングに向かう。


「ただいま。夜、唐揚げ?」

「おかえりー!唐揚げ!鶏ももが安かったのよ。温め直すからちょっと待ってて」

「うん」


 手を洗ってテーブルにつくと、テレビでは遠くの地方で発生した大きな地震についてのニュースが流れていた。水道が復旧されたこと報道されるともに、家が倒壊して避難所となった学校の体育館の様子が映った。


「一昨日の地震大きかったわよね。うちも防災用品確認しないと。……京、覚えてる?あんたがまだ2歳ぐらいのころかな、ちょうど震災が起きたのよ」

「覚えてない」

「ここに引っ越しに来る前でね。震源地から近かったから電気も水道もガスも止まっちゃったのよ。水道と電気は二日ぐらいで戻ったけどガスは長くかかったなぁ」

「へーそうなんだ」


 まだ幼くて覚えていない過去の被害を語る母親はどこか遠くに感じた。


 ニュースではちょうど避難所で赤ちゃんを抱くある母親の姿がインタビューされていた。その女性はやはり眠れていないのか、目元には隈ができており顔色が悪く感じた。しかし赤ちゃんを抱きしめ、優しく撫でる手つきからは力強く温かい印象を受けた。


 自分の母親もこの女性と同じように災害で環境が大きく変化した中を過ごしたのだろうか。


 そのことを覚えてることもなく、他に大きな災害に遭ったことのない自分は幸運だなと思った。

 


 風呂に入って自分の部屋に戻った。髪をタオルで拭きながらスマホを見ていると、扉をコンコンとノックされた。


「由依?」

「お兄ちゃん、入っていい?」

「なんかあった?」


 扉を開けると、おでこに冷感シートを貼った由依が後ろでに何かを隠して立っていた。


「これね、プリミュのガチャガチャが出るんだって」


 由依が読んでいる子供向けの雑誌のあるページを見せてくる。プリミュ、正式名称のプリティーミュージックは女の子たちに人気だ。


 部活でも優秀な成績を残せる京の丈夫な身体と違って、妹の由依の体は弱かった。季節の変わり目にはすぐ熱を出すし、運動をすると直ぐに具合が悪くなってしまう。よく病院に行って点滴をしてもらう由依は、部屋の中で楽しむことの出来る本やタブレットで見ることができるアニメが好きだった。


「探してきて欲しくて」

「今度出かけるときでいいか?」

「いいの?」

「どれが欲しいんだ?」

「この子が欲しいの」


 由依はページの中のマスコットキャラクターを指を指す。


「分かった。6分の1か……。当たるか分からないけどやってみるよ」

「やったーありがとう!」


 ガチャガチャ一回で500円。昔と比べて少し高くなったような気がしたが、自分の小遣いで出そうになかったら親に頼めばなんとかしてくれるだろうと思った。

 由依は顔を綻ばせて部屋から出ていった。一人になると日課の筋トレと柔軟をしてから眠りについた。


 母の作った朝食を食べていると父親に話しかけられた。


「今日も朝練か?せっかくだし送るよ」

「ほんと?なら乗せてもらおうかな」


 父は出社の時間が合う時は、京を学校まで送ってくれる。父は仕事で普段家にいることが少ないから、意識的に家族といる時間を増やそうとしていると以前に聞いたことがある。車の送迎はその一環らしい。


 学生の京としては、そんなことを素直に伝えられても、どこかむず痒く、反応に困る。

 それでも車で送ってもらうのは楽だから、送ると言われれば甘えている。

 行ってらっしゃいと母に見送られ、父と二人で車に乗る。


 一つ目の信号のところで赤になった。

「部活はどうなんだ」

「んーぼちぼち」

「……まぁ無理はするな」

「うん」



 朝の少し冷たい空気が頬に触れて心地よい。こういう時に走ることも好きだった。走る身体は熱く、風が触れる肌は冷たく。

 練習の準備をしてから軽く体を伸ばす。


 位置について呼吸整え、右足から走り出す。徐々にスピードを上げて、バーの前で足を踏み切った。

 体を捻り背中からマットに着地する。その日も空は青かった。


 空を見ながらどうしてか中学校の頃を思い出した。京の住む県内の中学校で自殺者が出た時のことだ。


 そのことを受けて京の通う学校で全校集会が開かれた。確かその時の校長は、その事件に対してとても落ち込んで「そう思わせてしまう我々は頼りないと思うけれど、どうかその決断を先送りしてほしい。私たちに環境を変える時間を与えてほしい」とか言っていた気がする。


 でもその言葉を届けた方がいい相手は多分この集会に出てないよ、話を聞きながらそんな意地の悪いことを思った。


 教室戻った時に、長いこと使われていない教室の隅の席が目に入った。

 そんな中学生の頃の話を時折ふと思い出す。


 

 その日は部活がなくていつもより早く帰っていた。前を歩く女の子が目に入ったのは妹に似ていたからかもしれない。二つに結んだおさげ、赤いランドセルにはプリミュのマスコット。

 そして視線の奥からはトラックが減速することなく近づいてきた。


 呼吸を忘れて走り出す。女の子に近づいて力強く押した。小さな身体は歩道に押し出される。


 まるで低速再生しているかのように視界がゆっくり見えた。トラックは少しずつ少しずつ京に近づいてくる。

 これが走馬灯なのだろうか、様々な記憶が蘇る。

 清井京は十七年生きていて特段困ることはなかった。おおよそ学生生活を満喫することは出来たと思う。

 清井京はそんな自分の人生をとても恵まれたものだと思う。


 トラックにぶつかり衝撃で身体が飛んで、地面に背中から落ちる。視界に広がる空は青かった。横目に見ると女の子が目を押さえてしゃくりを上げて泣いていた。

 もう一度空を仰ぎ見る。青く見えた空が赤く染まっていた。

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