稲穂と麺太の日常
黒本聖南
出会った頃の話
それ何、と
いつも通りに学校から帰って、いつもより早い時間に父が帰っていて、いつもならいるはずのない小さな男のガキが、自分の席に座っている。どういうことか。
稲穂はガキがいるテーブルの正面に座り、じっとガキを見つめた。彼は小さな手で箸を掴み、懸命にうどんを食べている。
「誰?」
「……めんた」
「めんま?」
「め・ん・た」
「変な名前」
「お前も大概だぞ」
父は立ち上がりながら稲穂にそう言うと、稲穂の夕食を用意するべく、台所に向かう。お前が付けた名前だろ、と父の背中を睨み付けながら、稲穂は父に尚も訊ねた。
「これ、どこで拾ったわけ?」
「隣の部屋の前に落ちてた」
「とうちゃん、まってた」
「……ほーん」
稲穂は隣の住人を知らない。自分よりも幼いガキが住んでることも、今の今まで知らなかった。隣は、静かなものだ。誰かが住んでいるなんて、考えられないくらいには。
「こいつ、食ったら帰んの?」
「帰しても、うちには入れねえだろうしな……。お前帰ってきたし、ちょっと色々電話するわ」
「大人お疲れ~」
「子守りよろたの~」
「は?」
うどんの入った丼をどんと置かれ、父はスマホ片手にベランダに行ってしまった。父の背中を見た後、ガキを──めんたを見る。
口回りがべちゃべちゃに汚れて汚い。
稲穂は舌打ちを一つして、そこらにあったティッシュを適当に取ると、身を乗り出してめんたの口回りを拭った。めんたはされるがままだった。
「アイスあるけど、食う?」
「……たべる」
◆◆◆
その後、大人達の間でどういう取り決めがあったのか、まだ小学生の稲穂には分からない。
取り敢えず、めんたこと隣人の
──そのように稲穂は聞いていたが、はて、それでは何故、麺太は稲穂の隣で寝息を立てているのだろう。
放課後にサッカーで大活躍して疲れた稲穂は、早めに布団に入った。父と麺太はまだ食べている最中だったが、夕食のカレーライスを掻き込んで、風呂も五分くらいで済ませて、そうして稲穂は一人で横になったはずなのに。
「……」
おい、と声を掛けようかと思ったが、あまりにも気持ち良さそうに麺太が眠っていた為に、稲穂は静かに傍に置いていた携帯を手に取って、父にメールを送った。
『何でこいついるの?』
『テレビでホラー特集やってんの観てビビったみたいだぜ。慰めてやれよ、おにいちゃん』
『俺に弟なんていねえし』
『作る?』
『お袋に顔向けできんなら作れば?』
『来世まで我慢しろや』
『来世でも親子になるつもりかい』
『来世でも夫婦になるつもりだからな、ついでにうち来いよ』
稲穂の母は、数年前に病死している。麺太にも母親がいないらしい。それで父親も不在がち、淋しくもなるか。
携帯を元あった場所に置き、寝返りを打つと、ぱっちりと目を見開いた麺太がそこにいた。
「うわっ。起きたのか?」
「……おきた」
「……怖いの観てビビったんだって? お子ちゃまだよな」
「だって、こわいもん」
「……怖いものは、怖いよな」
からかいつつも、稲穂だってホラーにそこまでの耐性はない。ものによってはビビり散らかすだろう。
それ以上稲穂が何も言わないでいると、麺太が腕の中に飛び込んでくる。一気に身体が温かくなった。
「おい」
「かあちゃんは、よくこうしてくれた。とうちゃんは、してくれない」
「……そうかよ」
在りし日の母との思い出を、ぼんやりと思い出す。あの時母は──。
「あったかい」
「……そうだな」
稲穂の背中を優しく叩いてくれたっけと思い返しながら、麺太の小さな背中を優しく叩いていった。
寝息を立てたのは、どちらが先だろう。
こっそりと様子を見にきた稲穂の父が、子供達の寝る姿があまりに可愛かった為に写真を撮るのだが、それが発覚するのは、もう少し二人が成長してからのこと。
◆◆◆
「クソ親父……」
恋人に誘われてアルバムを一緒に見ていたら、撮られた覚えのない写真と出くわし、青筋を立てている所。
「この頃の稲穂ちゃん、可愛い」
恋人となった幼馴染みと、何となく昔を振り返りたくなってアルバムを見ていたら、幼少期の可愛い恋人の姿を目にして喜んでいる所。
「肖像権の侵害だ」
「可愛いからいいじゃん」
「お前の寝顔は可愛いけど、俺のは何となく嫌だ」
「可愛いのに」
「黙れし」
「じゃあ、黙らせたら?」
楽しそうな麺太と、そんな麺太が可愛くて、でも怒りたくて、複雑な顔の稲穂。
幼少期から一緒に過ごした結果、誰といるよりも居心地の良さを覚え、事故でキスをしてからお互いを意識するようになり、めでたく、先日付き合い始めたばかりの、
「黙らす」
「わーい!」
今が一番楽しい時期の、二人だった。
稲穂と麺太の日常 黒本聖南 @black_book
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