第13話 文化祭デート

 七月二十三日、午後十一時三十九分。(◼️◼️)


 諸兄諸姉よ。お聞きするまでもないと思うのだが、お仕事は好きかね。

 ……僕?おいおい、言わせないでくれよ。はは。


「……はい!いらっしゃいませ。二名様で?ええ、カップルで?なるほど、羨ましいですね!……はい!チケットは丁度ですね。楽しんで、占われてきてくださいね!」


 お仕事もらえてありがたいに、決まっているだろうが!!


(……ゆ、許された)


 ……。

 二、三発殴られても被害届は出さずにとどめておこうと胸に誓って教室に入った数時間前の出来事、ドアから押し寄せてきたのは絶好調のサウナさながらの熱波であり、中の様相はさながら汗腺から不純物ないし老廃物が流れ出て完成体となった青春プラトニウムと。その凄まじいエネルギーの爆発に巻き込まれた僕はひたすらに難民のそれであった。


「(僕に気付き、昨日帰ってこなくて心配した旨の会話を投げかけてくる女子学生)」


「……あ、ええ。……あ、はい。大丈夫です。むしろ、その、買い出しの品が、、、」


「(肩を撫で下ろす女子学生)(気にしなくていい旨の話)」

「(また別の男子学生)(今日は一日、盛り上げる旨の話)」

「(同調する他学生)」

「(肩を叩き、フォローしてくれる他学生)」

「(僕のために円陣を組んでくれる他学生)」


「……あ、う、うん。……えい、えい、おー」


 な、なんて。なんて優しい人たちなんだ。一生ついていこう。いや、卒業したら会えなくなるから卒業するまでの間はもうしゃにむに追従していこう。はいかYESで会話をし、飯の時間になったら割り箸を率先して割に行こう。そう心に誓う、数時間前の僕。


(……あ、あれ?)


 そして、もう一点。


(……賤霧さん、いない)


 一番許してほしい人がいないことに気づく、数時間前の僕。

 ……。

 文化祭開始の号令はスピーカー越しの放送部からだった。窓ガラスが粉砕された昨晩の代替として窓枠には段ボールが敷き詰められ、そのせいもあってハウリングするスピーカーや蛍光色一色に染められる校内など不穏な痕跡を漂わせる光景だったが、そんな些事などとるに足らぬと一蹴するかの如く始められた文化祭は盛況のひとことに尽き、その盛り上がりに翳りを見せずにいまに至る。


「……あ、はい。いらっしゃいませ。五名様で?はいはい、恋愛占いで?成就するといいですね!え?(クラスメイト)さんに占ってほしい?なるほど、いま丁度フリーだったと思うのでご案内できますよ!はい、では楽しんで、占われてきてくださいね!」


「(ありがとうと声をかけてくる男子生徒)」

「(気分が良さそうに教室に入る男子生徒)」

「(楽しそうについていく男子生徒)」


『ノリノリですね。向いているんじゃないですか?』『接客業。』


「……うるさい。僕は三年一組のキャストとしてゲストの皆様に最高の体験を届けたいだけです」


『』『たぶん天職ですよ。』『冗談ではなく。』


 うるさい。うるさい。知り合いに職場の自分を見られる気恥ずかしさが君にわかるもんか。ちなみに諸兄諸姉に説明すると、僕の仕事内容は受付だ。飾りつけ?運営?マネージャー?演者?おいおい、そんな大事な仕事に僕が任されるわけがないだろう!いい加減にしろ!クラスのみんなを侮辱するつもりか!?受付でさえ荷が重いというのに、クラスのみんな様が最大限のご厚意として預からせていただいているのだからしっかりしなければ。


「……いや、受付を軽んじるつもりは毛頭ないのだけれども」


『何を言っているのか不明瞭ですし、理解する気もありませんが。』

『その気色の悪い笑みを私の顔でできているのですから、』『受付業務を全うできていると言えるのではないですか?』


 ……褒められているのかな。貶されてはいないと思うが、若干引かれている気がしなくもない。

 ……引かれる道理がわからんのだが。仕事だぞ、これは。


『しかし、淡海祭。いいネーミングです。』『今日が文化祭であることを前もって知っていれば、この素晴らしいネーミングチョイスを褒め称えるハガキを認めるのに吝かではなかったことでしょう。』


 ……なんでこの人、自分とこの文化祭の開催日を知らなかったのだろう。

 ……まぁ、うん。解釈一致ではあるのだけれども。


「……でも、淡海祭って、平凡なネーミングやない?」


『奇抜を好むのは凡夫である証左です。』『恥を知りなさい。』『どうしてか我々滋賀県民は、滋賀を名乗ることに関しては及び腰になってしまう節があるのは認めましょう。それが滋賀県のネームバリューによるところなのかは議論を呼ぶところではあるのでしょうが。』『しかし、琵琶湖、これを冠するところには余念がない。』『加えて「近江」と「淡海」、其の語源であるところの琵琶湖、これを好む我々滋賀県民の慣習はまさしく琵琶湖が精神的支柱であることの何よりの論拠でしょう。』


「……は?」


 ……はぁ。


「……は?」


『かのお方が京都に遷都され幾星霜、かのお方が東京へ奠都されて幾星霜、近江の国は旧時代の都となりました。』『その時代変遷のなかで、我々滋賀県民は多くの差別や嫌がらせ、迫害を受けてきました。「琵琶湖があるところ、だっけ?」「琵琶湖が、半分くらいの県?」「え?千葉?佐賀?あぁ、滋賀?どこ?」「え、琵琶湖って京都じゃなかったけ」など。挙句、とある京都の観光ポスターで比叡山延暦寺が京都扱いされる始末。県力の凋落が伺えます。』


 ……なんか、始まった。どうしよう。底抜けにキモい。

 ……ご高説賜っているので黙っておくべきか、ひとこと付して聞いている風を演じるべきか。う〜む。


「……ひ、比叡山って、古都京都の一部やないの?ほら、世界文化遺産?のリストにあるし」


『滋賀です。』『延暦寺は滋賀です。』『二度と間違えないでください。』


「……あ、はい」


『それに比叡山中・高は滋賀県代表として総体に出場しています。』『柔道など強豪です。』『私も滋賀県民として比叡山の学生の活躍は誇りですし、また比叡山の学生もそんな滋賀県を誇りに思っていることでしょう。』


 ……そっか。なら、それでいいんじゃないかな。うん。どうしよう。ゲリラ演説にドン引きを禁じ得ない。

 あと、比叡山中・高校が強豪だというなら強化選手を他県から呼んでいるだろうし、あんまし滋賀県にこだわりはないんじゃないかなぁ、なんて思ったりするけれども、僕は固く口を閉ざすことにする。これ以上関わりたくないから。


『つまり』『県力を高めるためにも』『我々滋賀県民は滋賀を愛し、滋賀を尊び、滋賀に誇りを持つべきなのです。』

『そのため琵琶湖とは、県力の象徴なのです。』

『最悪琵琶湖の水を堰き止める瀬田川洗堰か琵琶湖疏水路を爆破すれば京都と大阪は死にます。』


「……や、やめてくれ。こ、これ以上、滋賀県民の恥晒しを見たくないっ!」


 切に、……切に、これを他県民にしないことを望む。

 は、話を変えなければ。潮流を変えなければ。


「……と、ところで、文化祭は楽しめているカナ?我々三年一組の占いの館ものべつ幕なし賑わいを見せているけれども、どこもかしこも文化祭を謳歌しているクラスばかり。特にそろそろ校庭で開催されるらしい演奏のバンドグループはプロ並みの演奏をするって風の噂やし、どうだろう、隣県へのヘイトスピーチもほどほどに文化祭を思いっきり楽しんでみるっていうのもいいんやない?」


 クラスの皆様より賜ったワークスケジュールによれば休憩までまだ時間はあるが、雰囲気だけでも心踊るものがある。

 手帳が一ページ捲られ、文字が綴られる。


『あまり、よくわからないのです。』『文化祭の楽しみ方について。』


「……過去、文化祭には参加してたん?」


『参加はしていました。』『ただ、楽しむイベントではありませんでした。』『役割分担で任命された責務と裁量の間で、それなりを講じることが私の仕事であったと記憶しています。自発的行動はしていませんでしたし、受動的行動に徹底していたかと聞かれれば、』『思えば、単語帳の記憶しかないので、その限りでもありません。』


 どうして文化祭の日に単語帳を見ていたのかは聞かないとして。

 パンフを見せる。受付をしていると、この手の勧誘をよく受けた。


「……パンフ。いろいろ見てみましょう。見ているだけでも楽しそうやから」


 パンフを長机に広げる。


『貰いすぎです。』「……ええやないですか。ほら、これ美味しそう」『確かに美味しそうですが。私は食べられません。ご覧の通り。』「……なら、お化け屋敷」『私が楽しめますか?』「……むしろ幽霊が幽霊にビビるってのもおもろいんとちゃう?」『面白くありません。却下で。』「……さいですか。……あ、じゃあこれとか。ええんとちゃいますか?」『動物ふれあい?』「……ペットを持ち寄ったようですね。だいたいは人懐っこい犬猫らしいですが、フェレットもいるんですって。わぁ」『なるほど。』『なるほど。』「……奇術クラブのイベントもおもろそうやな。岸辺さんとか、こういうのトリックわかってしまうもんなんです?」『なんですか、その偏見は。苦手です。人が人を騙すために策を弄するのです。見極めるのが困難なのは、火を見るより明らかでしょう。』「……他も、……なんや、おもろそうなんばっかやな」


 なんとなく、ただなんとなく、この時間が尊く思えた。

 ふとした瞬間に、そう思った。

 まだお互いに敬語で、探り探りの距離感で、これといって合致する趣味があるわけでもなく、波長が合うわけでもなく、笑い転げるジョークが生まれるわけでもない。ただ平凡に、ただ凡庸な会話。なのに、なんというか、……変な感覚なのだが、報われた、気がしたのだ。


「……きっと、楽しいよ。文化祭を楽しんだことがないなら、きっと今日はええ日になる。

 ……踏み出さんと、……転ぶかもしれないけれど、分かり合えるはずもないんやから」


『小癪なことを言いますね。』


「……なんそれ。はは」


 報われる、ってのとは違うのかもしれない。ただ、彼女の会話を通じて、僕は“僕”として確立できていると思えたのかもしれない。きっと僕が岸辺織葉の偽物として社会に迎合して、そのくせ岸辺織葉の皮を被りながら悲劇を見て見ぬふりをしていたのであれば、僕は今日こんな風に笑えていただろうか。


『少し』『少しだけ席を外します。十分で帰ってきます。』『遠くには行きません。』『他のクラスの様子を見てきます。あなたが面白いと思えるクラスの催しがあれば、特別に教えて差し上げます。』



 ***


 七月二十三日、午前十一時四十◼️分(◼️◼️)


「……ほんまに一人で行きやがった、アイツ」


 ほんとうに置いていくやつがあるか。まったく。あれからもう、……もう、何分ぐらいだちくしょう。これだから文化祭ビギナーは。

 ……しかし、とはいえ、致し方がない気もする。

 ……ここは冷静でいるにしてはあまりにも熱い。

 受付業務も数時間経過。眼前の青々しい華やかさを目で追うのも慣れてきた時分だ。この一瞬を楽しむ青春と、流れるままに揺蕩う青春、嫉みのような青春に、大人ぶる青春、それを玉石混合と嘲るには少々眩しくって、それら含めて完全無欠の青春であった。


「……ふふ。アホや。はしゃぎすぎやろ」


 いかんな。僕も熱気にアテられているらしい。

 クールダウンだ。クールダウン。すー、はー。すー、、、

 ――――――こんこん。


「……ん?……ああ、すんません。こんにちは!恋愛ですか?探し物ですか?チケットをお持ち、な、……ら?」


 机をノックされ、呆けていた意識を覚醒、生徒会発行の文化祭専用通貨であるチケットを受け取ろうとキャスト第一主義精神からアイコンタクトも忘れずプライスレススマイルで接客に入ろうとした。した、のだ。もう一人目二人目ではなく、十人目二十人目の節目も超え、接客は経験の礎から速さと品質の向上の一途を辿っていた。故に、接客にもはや心理的障害などなかった。

 それでも、言葉を失った。驚きが優ったのだ。


「こんにちは」


 女の子だった。

 巫女服だった。

 狐の面だった。


「……こ、こんにちは。……お客様、ですよね?」


「違うわ。見てわからない?」


 ……違うのか。そりゃ違うか。巫女服に狐面だもんね。逆だよね。占う側だよね。なんだコイツ。

 その見た目、その声音から女の子なのだろうが。

 年端は岸辺さんと同じほど。細身でスタイルが良く、絹のようになめらかな黒のショートヘアーは黒曜石のように透き通る。狐面をしていながらも美人なんだろうなぁ、なんて思わされる彼女の振る舞い。そんな美人(推定)を差し引いてさえも不審者のそれであるのだから困っちゃう。


「……なら、なんなんです?……なんか、御用で、三年一組に?」


「は?あんたとお話がしたくって来ただけなんですけど」


 は?と言い返したいのは僕の方なんですけれども。

 どうしよう。会話が噛み合わない。会話の正解がわからない。彼女は岸辺さんの友人だったりするのだろうか。いや、やはり岸辺さんに友人はいる訳がない(断言)。だから友人以下の知人なのだろうが、知人である彼女がこうも横柄に僕(岸辺さん)とおしゃべりをしたがっているのはどういう了見なのだろう。


「……お話というからには、なんか、あるんですか?話題とか」


 政治のお話とかなら得意です。時の政権の悪口か野党の悪口かで会話が成立するので。

 しかし、狐面の少女はスンとした佇まいで、


「ないわ。そんなの」


 と、言い放つ。これにはさしもの僕も「えぇ」と困惑を隠しきれない。


「え?私がわざわざ話しかけてあげているのに、話のネタもないの?」


「……あの、傍若無人とかってよくいわれません?」


「言われないわ。天涯孤独だもの」


「……あ、そっすか」


「それだけ?」


「……」


「……」

 

「……こほん。『傍若無人』とかけまして、『天涯孤独』と解きます。その心は、……どちらもお話にならなくって虫(無視)の息(域)でしょ――――――」


「――――――あんた、名前は?」


「……え、知り合いじゃなかったの!?」


 嘘だろ。渾身の謎かけで抱腹絶倒(謎かけで笑っている人を見たことがないよね、ねずっちだよ)請け合いの大一番を流水のごとく受け流されたのは気に食わないが、それ以上に驚きが勝つ。こいつ、まさかの友人以下で知人以下の他人だったのか。僕のことも知らないみたいだし。なんで僕に話しかけてきて、尚且つお喋りに興じたかったんだ。意味がわからない。


「知り合いじゃないわ。初対面だもの。あんたも私をいま初めて知ったでしょ?」


「……そうっすね。こんな強烈なやつ、街中で出会おうものなら一生忘れま「で、名前は?」」


 くそう。こいつ、おしゃべりをしたいのか、おしゃべりを邪魔したいのかどっちなんだ!!


「……岸辺織葉、です」


 名乗る。嘘ではない。なぜなら僕の皮は岸辺織葉なのだから。

 名乗った。しかし、狐面の少女は微動だにしない。ジッとこちらを見つめてくる。まだ、何かを待っているように。


「早く自己紹介よ。はりーあっぷ」


「……だから、岸辺おり「違うわ」」


 また遮られる。ちょっとカチンとくる。


「……あの、さっきからわけわかんな「岸辺織葉はあんたの『皮』の話でしょ?」……いんです、け、……ど」


 ……は?


「私はいま、岸辺織葉と話をしていないわ。

 私はいま、“あんた”と話をしているの」


 ……心臓が跳ね上がり、言葉に詰まる。言い分を咀嚼し、解釈しようにも、彼女の言葉は至ってシンプルだ。彼女の会話の相手は、岸辺織葉ではない。僕の皮の岸辺織葉ではない。この“僕”なのだ。それがどういう意味なのか、それがどれだけ意味のあることなのか、わからない僕ではない。


「……何者ですか、あなた」


「質問を質問で返さないで」


「……記憶喪失なんで、わかりません」


 急く心を留め、会話を成り立たせようとする。それでも狐面の少女はそっけない返事で「そんなこと知っているわ。あんたの呼び名や愛称、趣味、楽しかったことややりたいことを聞いているの」と、まるで“全てを知っている”かのような口ぶりで僕のことを聞いてくる。

 間違いない。これは、異変だ。

 僕や岸辺さんと、同じ現象だ。


「……馬鹿君、と呼ばれていますが」


「なるほど。ちゃーみんぐですね」


「……どこが。じゃあ君は?」


「なら、阿保子ちゃんとでも呼んでもらっていいわ」


「……なら、って」


「言ったでしょう。私、天涯孤独だもの」


「……だからって、僕にちなまなくたっていいじゃないか」


 だめだ。苛立ってくる。全てを知っている少女が目の前にいる。もはや色々とありすぎて考えもしなかった、この異常事態の解決、その糸口になりそうな存在が突然に降って湧いたのだ。聞かねばならない。問わねばならない。自分は何者なのか。これは何事なのか。どうなっているのか。どうすればいいのか。


「……あ、あの!!「ダメよ。だめ」」


 声を荒げる。否、荒げようとする。

 しかし、例の如く割って入られる。


「焦っちゃダメ」「しゃらっぷよ」「アンタは産まれたばかりで、不安もいっぱいなんでしょ?わかるよ。わかるわ。わかるんだもの。私もそうだったから。でも、焦るのだけはダメなの。アンタのためにならないわ。……だって、この世界はなににもならないけれど、時間だけは腐るほどにあるのだから」


 ……同じ言語を話していると思えない。理解の範疇外だ。オカルトか?それとも哲学か?

 ただ、僕だって目の前にニンジンがあって走り出さないほど理性的でもなければバカでもない。


「……あのさ。僕の身の上がわかるなら。……教えてよ。もったいぶらないで」


「いまじゃない」


「……ならっ!」


 息を切らし、彼女を咎めるように叫ぶ。

 ただ、とうの彼女はくるりと身を翻し、


「いまじゃないわ。いまじゃないの。……神社に来て。お話の続きはそこでしましょう。

 ……今日は挨拶に来ただけだから」


 突然に会話は断ち切られる。ボソリと「ふふ。楽しく話せたわね」と狐面の少女は呟いていたような気がするが、こっちはそれどころではない。まさに棚から牡丹餅だ。その牡丹餅が逃げようってんだから、僕は急いで彼女の後を追おうとする。椅子を転がし、受付用の長机を蹴飛ばして、彼女の背を、……。


「……ちょ、待っ…………て」


 ほんの一瞬、否、瞬きの一瞬もないコンマ0秒、目を離しただけなのに。

 その姿は、まるで霞のように霧散していた。


『どうしたのですか。』『突然。』


 代わりに紙が机に投下される。岸辺さん本人がご帰宅だった。その時、ふと力が抜け、転げた椅子の横で尻餅をつく。廊下の雑踏が蘇り、文化祭の青春オーラが目と耳と鼻と肌を刺激する。まるで、“さっきまで、空気が死んでいたかのように”。やはり、異変なのだ、あれは。だって、狐面の巫女服の少女なんて強烈な個性を、誰も不思議ととらえなかったのだから。


『間抜けな方ですね。』『それより、二年生フロアで占いの催しがありました。』『勝手ながらあなたを占ってみたところ、あなたには死相が出ているようです。死神の正位置でした。夜道には気をつけて帰られてください。』


 は、はは。乾いた笑みがこぼれ出る。


「……占いなら、うちでもやってるよ。岸辺さん」


 ***


 七月二十三日、午後五時。(◼️◼️)


 校内チャイムが鳴り響く。キリ良く五時。文化祭一日目終了の合図である。

 出し渋ったチケット(主に岸辺さんのご意向)を財布にしまい、三年一組の教室に足を向ける。片付けだ。ここでなんの義理だてもせずに遊び呆けようものなら明日から僕の居場所はない。きっと常時白い目を向け続けられ、陰で舌打ちをされ、かと思えばしっかり目の前でも舌打ちをされ、あげく机や椅子を校庭に投げ捨てられたのち「お前の席、ねぇから!!」と嘲笑われるまである。


「……ふふ。泣きそう」


『それほど楽しかったのですか?』『輪投げ。』


「……いろいろ文化祭回ったのに岸辺さんの中の僕は輪投げが楽しすぎて泣きそうになっているやつって認識なんですか?心外にもほどがある。……それに輪投げのプレイ中に茶々入れてくる人がおったんで、わりかし文化祭楽しかったなランキングでは下位の方です、反省してください」


『失礼ですね。』『叱咤激励です。』


 さいですか。叱咤激励ですか、あれが。と、手帳を開き直す。『ナイスです。今のはあの棒の回避がうまかったですね。惜しむらくは先ほどから棒が動いていない点です。』『上手(右手)で投げているのに下手ですね。なぜなのですか。』『シンプルに下手ですね。』『あー。』『わざとですか?』『――――』違うよね、これ悪口雑言だよね、これ。猛省してください。


「……でも、なんだかんだ楽しんでくれてそうでよかったです」


『及第点ですね。』『『淡海』の名を冠するのですから、これくらいしてもらわねば。』


 なぜ上から目線なのだろう。地下から目線でも烏滸がましい身分なのに。この文化祭単語帳女が。

 ただ、文字がそのまま文字通り彼女の心情を表しているとは限らないのだろう。斜めから読むぐらいが、彼女を正確に表していると読み取っていいんじゃないかと思わせられている近頃。


「……しかし、ただの学校行事とは思えないくらいの盛況っぷりやね。正直、ここまでの規模感でやるもんだとは思わんかったよ。軽音部の校庭ライブは雨天でも凄まじい集客だったし、一年生クラスのカフェでも舌鼓を打つ料理ばっかり。野球部の万本ノックは涙なしでは見られない感動があったし、囲碁部は白黒はっきりしているはずなのにどっちが勝ったのかわからなかったね」


『一理ありますね。』『訂正します。0,1理ぐらいならありますね。』


 うそだぁ。囲碁部どっちが優勢なのか聞いた時にはぐらかしたくせに。

 

「……明日はどうしましょうか。シフトでは、もう、空白で……。用済みなのかな。そうね、そうだよね、文化祭準備もまるっきしやっていない僕が文化祭当日だけメンバー扱いしろってのが図々しいよね。三年一組の皆様は優しいから表立っては言わないけど、どうせ僕なんてお荷物でしか『シフトがないなら遊べばいいじゃないですか。』」


 ……。まぁ、そうなんですけどね。


『個人的にバルーンアート展が気になります。』『バルーンで凱旋門を作った生徒がいるとのことですが、明日は琵琶湖の1/165,000,000スケールの実演作成があるそうなのです。見過ごせません。』


「……琵琶湖に対する愛が重い。どうせなら滋賀県とか作りなよ。そっちの方が簡単でしょ」


『馬鹿ですね。』『琵琶湖を抜いた滋賀県なんて、具のない炒飯です。』


 ……美味しそうじゃねぇか。なんなんだ、こいつの滋賀県への偏愛は。滋賀県そこまで君のこと好きじゃないと思うぞ。琵琶湖もたぶん君を遠巻きにしているだろうし。信楽焼君も君の前だと見たことないような顔をしそう。そんなやつだよ、君は。

 段ボール。廊下。蛍光灯。

 熱気の余韻。興奮の残穢。

 三年一組までの道中は、“普段”を忘れ、“特別”に彩られている。


『聞きたいことがあります。』


 藪から棒に、手帳に文字が綴られる。


「……どうしたんっすか?」


『楽しいですか?』『文化祭は、楽しめましたか?』


「……楽しい、っすよ」


『明日も、文化祭を楽しみたいですか?』


 ……?なんというか、婉曲的に、あえてわかりにくく何かを聞き出そうとしているような作意を感じる。岸辺さんらしくもなく、それでも幽霊ながらスカした表情で綴っているであろう文字なのだろうけれども、その心情はどこか一貫性を欠くような立場にあるような気がしてならない。

 ……なにを、聞きたいのだろうか。


『あの。』『今日は、雨で。足元も悪いです。高温多湿で過ごしにくく、なおかつ疲れているであろうことは察します。』『それでもよければでいいです。気が乗らないのであれば、無視していただいてもいいことなのですが。』


 ……ほんと、どうしたのだろう。告白でもされるのだろうか。断るが。

 文字が綴られる。一文字、一文字。僕ははじめて、綴られていく文字の先に目線が追いついていた。


『今晩、散歩でもいかがですか?』

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