第12話 三日目

七月二十三日、午前七時十分。(◼️◼️)


 雨だった。篠つく雨。大雨。豪雨。セーラー服の袖を通すのはこれで三日目。スカーフをくるりと巻くのも三日目。三日目ともなれば、新鮮さは損なわれ、マンネリ路線へ舵きりするらしい。劇的な非日常も日常へと味変をしてしまうのだから、非日常の賞味期限は三日であるのだ。


「……文化祭の日って、セーラー服着用でええんやろか」


『問題ありません。』


「……文化祭の日って、普通でええんやろか。そこはかとないオシャレっていうか、誰が見てんねん的なマイナーチェンジをしていかなあかんねやろか。ネイルとか。くるくるウェーブな髪とか。パンツ見えるか見えないかチキンレースなスカートの裾上げとか」


『問題ありません。』


「……ふぅむ。しかし時には思い切り。いっそのこと年相応の園児服で」


『問題しかありません。』


 痛い、痛い、痛い。聞き流されているかと思ったのにツネられる。暴力反対。元を糺せばユーの身体なのだから回り回ってご自愛くださいまであるが、暴行もそこそこに『3』と数字が紙の上に浮かぶ。なんの“3”だろう。マジでわからないけれども増やしちゃいけない数がしてならないので黙ることにする。

 七月二十三日。

 本日は文化祭。

 昨日のやらかしもあってかなり気が重い。やらかしすぎて開き直ってしまいそうなほどのやらかしの数々を犯してしまっているのだが、ことクラスメイトへのやらかし(買い出しの品を遅れて届けることになるどころか何処かに落としてきてしまった!)をモジモジしながら告白しようものならみんなはどんな反応を見せてくれるのだろう。罵詈雑言かな。……いまとあんま変わらないな?


「……はぁ。朝ごはん食べよ。考えるのはそれからや」


 キッチンに寄り、昨日の作り置きである野菜炒めと米をレンジでチン。

 くるくるとマイクロ波を浴びる食材を眺めながら、昨日の回想に耽る。

 やらかしの数々ではあったけれども、その最たるやらかしは、やはり“彼女”との、……賤霧さんとの別れ方だっただろう。あれほど悔恨残る去り方もなかった。勇気と蛮勇を履き違え、頭にのぼった血に逆らえず、衝動のまま行動に出てしまった。わかっていたが甚だ身勝手がすぎる行為だ。猛省だ。

 あのとき、あの一瞬、漂う雰囲気を一変させた賤霧さん。

 きっとメチャクチャに、それはもうハチャメチャに怒っていたことだろう。


(……うぅ。腹いたい。どないしよう。気まずすぎて気まずい)


 チンっと小気味のいい音と同時にレンジを開ける。

 皿の底に触れる。よし、いい塩梅かな。

 ホクホクと湯気をたてる野菜炒め。その正体は昨晩、どこから出現したのか岸辺さんの恵みである千円で揃えられた食材で炒められたものであり、『今日の夜と明日の朝をこれで賄いなさい。』と差し出された時は思わず「汚い金はちょっと」と楚々とした態度をとってしまったものの、『2』というカウントが何を意味するのかまるでわからず恐怖のままに受け取っていたのだ。

 

「……いただきます」


 ……うまい。


「……ところで、岸辺さんは今日はどないなさるんですか。……来ますか。それとも今日も、ここで留守番されますか?」


 ……無言だった。急に話しかけるべきではなかったのかもしれない。悩んでいるのだろうか、それとも固辞の言葉を探しているのだろうか、その真意は定かではないけれど、積極的に行きたい旨ではないことは伝わってくる。「……別に一緒にこんでも僕は困らんけど」と間を持たすために口つく言葉は力無く、尻すぼみにでもなっていたのだろう、遮るように『お聞きしたいのですが、』と几帳面な文字列が浮かび上がる。


『学校はどうですか。楽しいですか?』


 まるで普段、子供の会話に介せない父親のようなセリフだった。


『いままで学校には行けと言われていたので行っていました。学校は行くべき場所だと教わってきたので行っていました。いまのいままで自発的に学校に行きたいがために行ったいたことは一度としてありません。』『馬鹿君は、学校を楽しめていますか?』


 文字を目で追い、読後はなんともイメージ違いな印象を受ける。

 もっと学校生活に誇りを持っているタイプかと思っていたのに。


「……岸辺さんは、楽しくなかったのですか?」


『楽しくはありませんでした。早起きも苦手でしたから。』


「……めちゃくちゃ意外ですね。早起きは三文の徳ってのを地で行く人かと思ってたんで」


『睡眠時間が確保できての早起きは三文程度徳はあるかもしれませんが、』

『睡眠時間の確保できていない早起きは、十文ほどの損です。赤字です。』


「……睡眠時間が確保できてようができていまいが、寝れる時に寝ておきたいところではあるんやけど。……まぁ、そうやなー、学校が楽しいか、なぁ。……まだ三日目やしな。よくわからんけど。……でも、」


 言葉を選ぶつもりはなかった。

 ただ、僕の言葉になるまでに時間を要した。


「……なんもせんでいるってのが、……なんか、自分が嫌いになりそうで」


『難しい話ですか?』


「……そんなんじゃないし、頭のいい人にこんなことゆーのもなんなんやけど。記憶喪失ってわりとなんの言い訳にもできるヤバい状態やし、ここでなんもせんとぼーっとしてたってええんかもしれんねんな。……でも、そんときはきっと楽やし傷つくこともないんやけど、……そんな状態を“維持”することは、すっごい苦しい“進展”よりも、ずっと自分を見失ってしまって、目が回って、立てなくなってしまう気がするから」


 だから、外への世界に足を踏み出し、

 だから、教室のなかで深く傷つき、

 だから、恩人を裏切ってまで向かい側の街路に向かうのだ。


「……自分を騙したくないんや。これでええって思いたくない。

 ……そんなもんで、僕はよろしきを得るために学校に行く……みたいなもんやろか」


 話のオチはついただろうか。自分でもよくわからない。よくわかっていない感情なのだから。

 ただ聞かれたから答えてみたけれど、我ながら不明瞭だ。

 これはお誘い失敗かな、と野菜炒めを箸で突っついていると、


『今日の登校、私も同伴します。』


 野菜をこぼしそうになる。


「……え。その。ええんですか?誘っておいてですが、透明人間というか、幽霊というか、そーゆう身体でうまい具合に登校できるもんなんですか。それも今日は文化祭ですよ。生身の岸辺さんでも息苦しそうなイベントに不慣れな身体でイケるもんなのかはちょっと未知数っていうか未曾有っていうか無理っしょ(笑)って感じっていうか、」


『うるさいです。口を閉じて「喜んで」とでも言っておきなさい。』


 口を閉じてたら「喜んで」も言えないのですが。

 

『そうと決まれば善は急げです。さっさと食事を済ませなさい。』


 言われなくとも僕は箸を再び動かすつもりでいたので、止まっていた野菜は僕の口に放り込まれるまでそうラグはなかった。う〜ん、雰囲気がない。まるでオカンとイオンに行くノリである。ちょっといいことを言ったつもりだったのに。もっと、こう、「あなたのお御心に感銘を受け、ぜひお供しさせていただきたく……」みたいな。……いや、相手は岸辺さんだ。それはそれでひどい他意がありそうで、それはそれで身構える。

 しかし、なるほど。僕も隅に置けない。


 おかげで記憶史上、二度目のデートである。

 お味はというと、炒めたキャベツの味だった。


 ***

 

 七月二十三日、午前七時四十二分。(◼️◼️)


 相合傘(あいあいがさ)だなんて口触りのいい語呂で人口を膾炙するものだから、多く国民はそのラブラブチックなあざとさから当て字で『愛愛傘』だなんて綴りそうなものだけれども、実際は押し付けがましい遠慮と遠慮の折衷案で『(押し付け)あい(罵り)あい傘(どころじゃねぇ状態)』だったりもすることもあるだなんてことは聡明であらせられる諸兄諸姉はお分かりだろうことだと思う。


『だから私は濡れないのです。必要がないのです。わからないのですか?わかろうとしないのですか?わかるだけの脳みそがないのですか?』

『その傘を自分のためだけにお使いください。』『合理的判断をしなさい。』『拒否権はありません。』


「……わっかんない人だなぁ。濡れる濡れないの問題じゃなくって、気分の問題で、どうせちっこい身体で半分しか使わないんだから入ってこればええじゃないですか。自分一人傘を使って、ツレが悪天候にさらされているってのが気に食わないです。感情論です。はい、どうぞ、おかげさまでおちびな身体じゃ濡れませんので傘の半分お使いください、はい、どうぞ!!はい!!!」


『4』


「……だからなんの数字なんです!?ほんとに怖い!」


 登校、三日目。通学路は流石に把握済み。青筋立てて言い争っている内容は自分ごとながら大したことでもなく、傘下を独占することに後ろめたさを感じる僕と傘下の必要性を感じない岸辺さんとのコンフリクトである。だが、しかし、わかってほしいのです。大したことではないのだけれど、隣で雨に打たれる女の子を他所目に傘の恩恵を受けるだなんてことは大それたことなのです。この心の機微をどうかわかってほしいのだが、そこのわからずやは心中を察するだけの人間力が欠如しているのです。


「……ええ。わかりました。わかりましたとも!どうぞ、入らなくてもいいですが、僕は意地でも傘を半分しか使いませんので結局のところ余剰にできるリソースは宙ぶらりんになりますね。エコではないですね。無駄ですね。なんら生産性を与えない空間が君の子供みたいな意地で浪費されるのです。ですが入らなくて結構です、それが君の決断ですもんね、どうぞ!!」


 ムカっ腹が立ち、そのまま筆圧を感じる手帳から視線を外し遠くの山へそっぽ向く。

 カキカキカキ。

 カキカキカキ。

 カキカキカキ。

 ……怖い怖い怖い。筆音が止まない。それに強い。雨音よりも強い。怖い。しつこい。怖い。まじ怖い。


(……あぁ、拍子抜けや。気負っとって損したわ)


 ただそこはかとない安堵もあるのも確かだ。昨日のモール前での疑惑もあって実はちょっと気まずくなっていたこっちの身にもなってほしいのだが。様子ことずっとオカしい岸辺さんだけれども、この態度があの青年を襲っていた直後のものとは思えない。やはり思い過ごしだったのだろう。

 依然として雨足は強い。

 筆音を感じながら。

 湿度を感じながら。

 岸辺さんに何気なく、もしくは何気なくを装って聞いてみる。


「……どうして、一緒に来てくれる気になったんですか?」


 筆音がぴたりと止まる。するとザッと、雨音が自己主張を強める。ちらっと手帳を見ると、それはもう呪詛のような書き殴り方のページだったような気がしたので(一文字たりとも言葉として認識しないよう努めて)、そっとページを捲り、返事を待つ。


『理由などありません。単なる気まぐれです。』


「……どうしてその気まぐれを起こしてくれたんかって聞いとるんやけど」


『ですから、理由などありません。気まぐれとは元来そういうものです。』


「……そうどすか」


『』『ですが、あなたの哲学に共感しないこともなかったのです。』『慚愧の念に堪えませんが。』『自分を騙したくない。記憶喪失の馬鹿君にしては、いいことを言う、と感嘆したのも事実です。ともすれば、気まぐれのきっかけになっていた可能性も否定できません。』


 ……素直じゃないやつ。……慚愧、って何?

 ともあれ素面でこんなことを言える肝の座り方を見習いたいものだ。


「……でも、学校、そんなに好きではないんやろ?」


『そうですね。』


「……でも、勉強は好きなんですもんね」


『勉強も好きではありません。』


 嘘だ。あんなに頑張っていたのに。頑張れるってのは天性だろうし、頑張れないってのが病気だとするのであれば頑張るしかないってのもある種の病気だったりするのだろうが、その理由は自他ともに求めるものだろうし、その理由なしには頑張る気力も湧き出ない。ましては、あの量の勉強量だ。多少なり好きでもなければ狂気の沙汰だ。


『訝しげですね。』『努力の原動力と、それに対する好感度に相関関係はありません。特段苦手意識もありませんでしたが、それでも自主勉強等の動機の大半は、勉強はすべきもの、だったからです。』『だからです。』『やりたいことがあったという理由もありません。なりたくないものがあったから、ぐらいの思いはあったのかもしれませんが。』

 

 意外だった。しかし、文体から強がりや衒った態度には思えなかった。

 話してみないとわからないものだ。会話がなければ、きっと嬉々として将来に邁進しているものとばかり思い込んでいたことだろう。文系に進めば愚民から参政権を奪う法案を本気で考えるような奴で、かたや理系に進めば人体実験の倫理的障害をものともせずに成果を出すような奴かと思っていた。まぁ、流石に言い過ぎだろうが、野心が彼女をこうも彼女たらしめているとばかり見ていたのだが。


『あなたは見るからに勉強が嫌いそうですね。』


「……鏡を見ている気分になったりしないの?」


『私がそんな間抜け面をする訳ないじゃないですか。』


 ぐぬぬ。こいつ、舌に、もとい筆に悪口専用の潤滑油でも塗っているんじゃないか。潤滑油なんてもんが活躍するのは工業の世界か就活の新卒の面接ぐらいのものと思っていたけれど、横暴さに拍車をかける際にも用いられるとは初知りだった。


『表情が豊かな方ですね。あなたは。』

『さぞかし記憶喪失前のあなたは滑稽で。きっと愉快な――――――』


 ……と。シャープペンシルが止まる。

 ながら手帳はよくないと、僕もふと前を向く。すでにそこは西大津高校の校舎だった。

 ただ、昨日と景色が違う。『淡海祭』と大層な名の立て看板が校門に置かれており、校庭には種々の屋台が占めている。雨だというのに活気に溢れ、よくぞ昨日の今日でここまでの形を作ったと驚嘆の思いがため息として出る。っていうか、本当にすごい。できるもんなんだな。一日で。これほどのもんが。


「……すっごい熱気っすね。ここだけ真夏も真夏で50度ぐらいあるんじゃないかって感じです」


 全生徒がやる気に満ちている。モチベーションが高いのだろう。中止の危機を乗り越えたってのが、かえっていいカンフル剤になったのかもしれない。

 ここまでくると、もとよりわりと本当に申し訳ない気分だった罪悪感も容赦の色が見えにくくなってくる。

 昨日のやらかし(買い出しの品の遅延、あまつさえ紛失)もあって、これ、本気でクラスメイトから煙たがられるんじゃないだろうか。


「……うぅ。今更胸の疼きがぶり返してくる。

 ……賤霧さんにも謝らなアカンし、……は、腹が痛い」


 助けを求める視線を送る。ただ虚しさに気づき、手帳を見る。

 空白だった。否、現在進行形でシャープペンシルが動き始める。


『――――――窓ガラスは、いつから破られていたのですか?』


 あっ、と思い、校舎の窓を見る。文化祭仕様なのか装飾こそされているものの、ダンボールで雨風を凌げるよう窓枠を塞がれている。じきに夏休みとあって学校側も応急措置を講じるにとどまっているのかもしれない。


「……いつからって。……一昨日の、……いや、昨日の深夜やな。午前の二時とかなんとか言っとったけど」


 急に聞かれたものだからびっくりした。いや、当然の反応か。窓ガラスが全部破られているだなんて、大事件なのだから。

 返答に対する返答はない。シャープペンシルは動かない。

 顔色を伺ったわけではない。無色透明に色などないから。


「……あの、」


 だが、なんとなく勘が囁いた。


「……どないしたんですか?なんか、気がかりでも?」


 見えない。見えない、ながら、なんとなく、ためらっているように感じた。佇む足の指先を伸ばせなくなっているかのような気配がした気がした。その理由はわからないけれど、買い出しをほっぽってしまった自分よりかはずっと文化祭への敷居は低いはずなのに、その足取りが重く感じたのが気になった。

 反応はなかった。肯定こそなかったが、否定もなかった。

 ただ、ひとこと。

 綴られただけだった。


『今日は。』『楽しみましょうか。』『二人で。』


 ……?なんだろう。

 ……らしく、なかった。

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