第11話 疑心
七月二十二日。午後八時四十二分。(◼️◼️)
昔日の大航海時代、壊れた方位磁石での航海もあっただろうが、その心理はきっといまのようなものだったのだろう。不安や絶望、孤独感や現実逃避に加えて、どうにでもなれってヤケクソが命を引き延ばしていたに違いない。
「…………ハァ。………………ハァ。……………………し、死ぬ」
いま何時かもわからないけれど、あれから数時間、無我夢中になって走った。走って、走って、走って、行き着いた先は入り組んだ街路路のまん真ん中。一軒家が建ち並ぶ住宅街は、漏れ出る暖色の電灯の光や鼻腔をつく夕食の香りでにぎわっており、静謐ながら人の営みへ帰ってきたのだ実感が湧く。
「……し、死んだと、…………死んだかと、思った」
ふくらはぎの筋肉が痙攣を起こす。
肩で息をするのでさえ苦しくなる。
手を膝につき、ぼやける視界のなか、地べたにポタポタ落ちる汗の軌道を眺める。
(……いや。逆やろ。
……なんで死んでないんや。僕は)
目がまわる。酸素の供給が追いついていない。
しかし、意外にも思考はクリアだ。
九死に一生を得た。まさしく言葉通りに、僕は命拾いをしたのだ。
――――――――――
「――――――消えてなくなれ、この……っ」
まさに、直前だった。喉を震わせる、わずか一コンマ直前だった。
神の悪戯かとさえ勘繰ってしまいそうなタイミングで衆目を集めたのは、僕の決死の咆哮などではなく、ましては金属バットを振り回す加害未遂の男性のものでもない、聞き馴染みのあるサイレンの吹鳴であった。いまに思えば、きっと誰かが110番通報をしていたのだろう。
「(ここでなにをしている!?といった旨の怒号)」
「(その物騒なものを置け!!といった旨の警告)」
ガタイのいい警察官の二人組はパトカーから飛び出し、青年に静止を呼びかける。
「警察っ!助け、……助けてくれ!あそこに、……見えないのか!あそこにいる、化け物が!!」
青年はあおい顔をしたまま、警察に事態の深刻さを訴える。いまにも泣いてしまいそうな悲鳴に、されど、警察官は互いに顔を見合わせる他になかった。やはり青年は化け物を認識しているのだ。そしてまた、やはり他の人々は知覚さえしていない。気づけてすらいない。僕と青年の他に、誰もあの化け物を化け物として認知することはないのだ。
「(一旦落ち着くよう、宥めを試みる警察官)」
「(野次馬に離れるよう、呼びかける警察官)」
警察官が来てからの悶着は最低限だった。喚き散らす青年は必死の主張も虚しく警察官に抱えられ連行されていく。ものの数秒の出来事。現場は一時騒然となったものの、溶けた氷が水のなかにあぶくも残さず消えていくように、さもなにもなかったかのような平穏が再びやってくる。
(…………あ)
硬直していた思考が、隔たりを超えて駆動しだす。
心胆寒からしめるまで、一瞬たりも要しなかった。
平穏など訪れちゃいない。だって、……だって、まだ“化け物”はそこにいるのだから。
僕はかけだした。無我夢中で化け物とは逆方向に舵を切り、息をすることさえ忘れて全力疾走を試みる。
――――――――――
ここは、どこなのだろう。だいぶ離れた気もするし、回り回って回っただけな気もする。ただ景色は一変しており、車通りの多い国道から小道の多い住宅街へ。体力は底を尽きた。ふらふらと意識が朦朧のなか、いまはどこの誰よりも頼り甲斐のある住宅街の石塀に体重を預け座り込む。
「…………しかし、とんでもないのに遭遇してもうたな」
あの化け物は、いったい何だったのだろう。青年を追っかけているようにも思えたし、または青年が引っ張っていたようにも思えた。その実情は青年自身でさえわかっているか怪しいものだが、きっとタイミングが悪ければ(もといタイミングが順当なものであれば)、あの化け物の標的は僕になっていて然るべきだったのだろう。そういった存在に思えた。それほどに化け物は化け物じみていた。
「……化け物、か」
わからないものが、わからないまま現存している。
冴えることのない頭は、可能性ばかりを浮かべる。
そのたいていは碌でもないことだ。宇宙人の侵略だとか、政府の陰謀だとか、第三次世界大戦だとか。おしなべて似たり寄ったりなことばかりを想起してしまう凡庸な思考は、想像力とは脳のスペックに依存しないのだな、と呆れる吐息に混じる。ただ、しかし、そのうちの一つの“ありそうにない可能性”についてだけヘドロのように脳内にこびりつく。
「…………」
あれは、なんだったのか。わからない。わからないけれど。
どこかで、
どこかで、出会った気がする。出会っていた気がする。
そう、昔のことではない。最近だ。記憶のない僕が最近の出来事だといっているのだ。その記憶の所在はきっと昨日以降なものであることが確実なのだろうが、『無色』『透明』の存在感との邂逅。『無味』『無臭』の恐怖感との対峙。“気がする”だなんてていよく言ってしまうのはよそう。思い返す作業をせずとも、思い起こされるデジャブ。
鮮明に、
明瞭に、
緻密に、
掘り起こされる記憶の奈落の底、暗澹たる洞穴の奥、そこにいるのは“彼女”の――――――
『こんなところで何をしているのですか?』
――――――文字だった。余熱の残るアスファルトに白線を引く要領で、それはもう几帳面な字面の文字が書かれていたのだ。文字に所有の概念などない。近所のガキんちょの消し忘れかもしれない。自分宛ではないのかもしれないし、いまさっき書かれたものとも限らない。しかし、視界に捉えたそれを、僕は事実であると確認することもなく、ある確信だけをしていた。
「……そっちこそ。こんなところで何をしてるんですか。
……岸辺さん」
その文字の認めた主が、その文字を浮かび上がらせた奇怪な存在が、岸辺織葉だということを。
『もう21時前です。心配にもなるでしょう。あなたを探しに近所を散策していました。』
自ら浮かび上がる文字列。実際にはそうではないのだが、そうなっているようにか見えない。無色透明、無味無臭、幽霊となった岸辺さんでしか、こんな芸当ができるはずもなく、『何かあったのですか?ひどい顔色ですよ。』と書かれた文字の筆跡からもはや彼女が岸辺織葉であることを疑うことはなかった。
「……すみません。寄り道を、していまして」
嘘。
「……いろいろありましたんで、……とても、疲れちゃって」
心臓が、張り裂けそうなほどにバクバクと脈打っている。発汗が止まらない。暑くはない。むしろ背筋が寒い。目を合わせられない。透明な人間相手に目を合わせられないとは変な話ではあるけれど、俯いていないだけで朧げな視界は彼女を捉える気がなかった。
『馬鹿君。あなたは子供なのですか。こんな時間に、こんな場所で、一人うずくまっているだなんて。』
『いろいろ、とは言いますが、何があったのですか。』
嘘を考えた。しかし、下手に糊塗した事実は、あっけなく捲られる気がした。
心が覗かれているような、
硝子の上に立たされているような危うさがあった。
「……学校の、買い出し当番で。でも、慣れない道やったから、その、……迷って」
『そのまま路頭に迷ってここにいると?』
「……そう、なりますよね。はは」
『馬鹿ですね。』『で、買い出しの品はどこにあるのですか?』
「……どっかに落としてきました」
『大馬鹿ですね。』『買い出しの途中で迷子だなんて幼子でも度し難いですが、買い出しの品さえなくして帰ってくるとはクラスメイトのいい晒し者でしょう。挙げ句に学校を経由していないということは、カバンも持って帰ってきていない。馬鹿を通り越して大馬鹿です。超馬鹿です。ギネス記録更新級の馬鹿です。』
「……あ、あはは。ですよねぇ」
タジタジの僕を見兼ねてなのか、それ以上の追求はなかった。『帰りますよ。』と文字が浮かび上がり、「家まで近いんですか?」と聞く僕に、『近所を散策していたと言ったでしょう。徒歩3分弱です。』と呆れて答える岸辺さん。
特に変わった様子はなかった。
呑気ささえ、あった気がした。
何もなかった、何もしていなかった、当たり障りもない一日だった、とでもいいたげな。
だから、「……岸辺さん、ひとつ聞きたいんですけど」と。口をつくように聞いていた。
「……今日、どっかで出会いませんでした?」
答えは、あっけらかんとしたものだった。
『いいえ。』
『ずっとアパートに居ましたから。』
言葉の色が読み取れなかった。ともすれば、読み取らないよう努めたのかもしれない。ただ言葉通りの言葉を信じたかった僕は、「そうっすか」と再びその文字を見ることもなくその場を後にする。
どこにも行っていなかったと、言っていた。
ならばその通りなのだろうと疑わなかった。
夜の九時は暗かった。街灯に群がる小虫も背に浴びる皓々たる光を人工物に頼らざるをえない時間帯だ。涼しい場所など何処にもない真夏ではあるが、夜も夜ともなれば多少の寒暖差で涼しいと思えなくもない気温に収まる。風に囁く街路樹は昼間の喧騒の残像のように新緑を鳴らし、草草は実る種々を飛ばさんと頭をもたげ活気に溢れる。
どうして、聞けようか。
あの場にいた“化け物”は、その正体は、君だったんじゃないか、なんて。
曇り空は、輝く星々をその身で隠した。
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