第10話 裏切り
七月二十二日、午後六時四十七分。(◼️◼️)
百万個の選択肢があって一番馬鹿な選択をした。絶対にした。
なにひとつ達成感のない悔恨の深海は、全力で走っているのも相まって信じられないくらいに息苦しかった。
(……プライドのために大事なもんを捨てて。
……馬鹿だ。僕は馬鹿野郎だ。ちくしょうめ!)
信号機は待てない。待てないというだけで、この信号機がいつ緑色に変わるかわかったものではなかったけれども、急く気分にめったうちにされ、気づけば歩道橋の階段を駆け上がっていた。一段飛ばしで、二、三、四、五、……。数段先、悶える息のまま橋桁へ。
(……やるべきことはただ一つ。あの青年をぶん殴ってでも止めてやることだ)
止めるだけ。とはいうが、止められる、とは思っていない。しかし難儀なことに、これはできるできないではなく、やれるやれないでもなく、もはや“やる”か“やってやる”なのであるからして、僕の介入が事態の収束に寄与するかは計算外であるのだ。むしろ悪手なのかもしれない。事態が悪化するだけかもしれない。そんな悪循環を頭の片隅ではわかっていながらもなお、飛び出さずにはいられないのである。
(……策どない。策などないのだが、……この憤懣やるかたない憤りをそのまましてやるもんか。絶対に!絶対にシバいてやる!あの諸悪の根源にして騒ぎの渦中にいる狂人に、今世紀最大の八つ当たりをしてやらねば腹の虫が治らない!!)
一方的な片思いを成就させに行くだけだ。
相手方にとってはいい迷惑だろうが。
「…………ハァ。…………ハァ。……くそう」
全力疾走をしただけで満身創痍であるこの身ではあるものの、橋桁も端から端へ、じきに下の階段である。
気炎万丈。先行する自意識の迸りに身体は追従するしかなく、勇足でここまできてしまった。可能か不可能かは度外視で、事態の治りなど興味がなく、ありのままの身勝手で僕はいまここにいる。そんな傍迷惑を僕は肯定などしないし、肯定できもしなければ、肯定する気もさらさらない。後世の僕はこの愚行を諌めるだろうし、今世の僕もそれに同調せざるを得ない。あまりにも愚かで、あまりのも直情的なナンセンスである。
「……あぁ、人を好きになるって大変だなぁ、おい!」
だからこそ、いまなのだ。いまを逃せば、明日にも昨日にも、僕はいなくなってしまう。
橋桁を渡り終わる。
降りに差し掛かる。
欄干で息を整える。
足を踏み出す。あとは降りるだけ。降りるだけ。降りるだ――――――
――――――。
結論から言おう。もっと思慮を巡らせるべきだった。もっと眼光をあるがままの裏まで徹するべきだった。事態の把握を怠るべきではなかったし、理解のしやすいように理解をし、ひっかかりを複雑怪奇と放置すべきではなかったのだ。伏線はあった。伏線というのも烏滸がましい。だって、青年はずっと「来るな」と言っていたじゃないか。
「来るな」「こっちに来るな」「こっちに来んなよ」
僕は考えておくべきだった。
僕は考えて然るべきだった。
「この青年は、いったい誰から逃げているのか」と。
――――――「……なんで、」
なんで。
なんで。
なんで。
なんで、
なんで。
「………………誰も、そこにいる化け物に気づかないんだ?」
夕日は蝋燭の火のように吹き消され、皓々たる街灯が道を照らす。往来は雑踏に溢れ、一点金属バットのカンカンたる打撃音を除けば、それは日常たり得ていた。平穏と言い換えたっていいのかもしれない。しかし、橋桁から見下ろした往来を僕は、口が裂けても平穏とはいえなかった。
『それは無色透明だった。
それは無味無臭だった。』
空気と同化していた。さながら空気であった。空気のようなものであった。しかし、存在するのだ。“ある”のだ。輪郭は捉えられないけれども、それがかえって照善とあるべき輪郭の想像を掻き立たてさせられた。それがわかるって時点でひどく常軌を逸していたのが、それは空気というあまりにも、……あまりにも、人間的な気持ちの悪さが吐き出されているかように溢れていた。
所謂、『憎悪』。
所謂、『懊悩』。
所謂、『妬心』。
所謂、『寂寥』。
形容すべき形を持たないそれは、されども、姿形や質量を些事とでも据え置くかのように存在していた。存在しているとしかいいようのないものであった。それほどまでに気味の悪い邪悪であった。信じられないほどの無色で、目を覆い隠したくなるような透明であった。
すなわち、所謂それは“化け物”であった。
***
七月二十二日、午後六時四十七分。(◼️◼️)
気づけば、僕は欄干の陰に身を潜めていた。防衛本能だった。息を殺し、気配を殺した。
数秒前の死にいそぐ意気込みが、泡のように弾ける。
足がすくむ。手が震える。
あんなもの、人が相手をしていい存在じゃない。化け物だ。昨日からいままで記憶喪失やら性格・人格の違和感やら特異なことばかりに巻き込まれてきたけれども、これはその一種であるだろうし、またはその一種というには異質に過ぎたものかもしれない。
(……なんだアレ)
(……なんだアレ)
(……なんだアレ)
さながら恐怖の象徴であった。人間的侮蔑の総称であった。
混在し合った身に覚えのある悪意が、人に向けられていた。
即ちアレは、正真正銘の“化け物”だ。
(……あのまま飛び出していたら、僕はどうなってしまっていたのだろう)
心臓が口から出そうだ。
ドクドクドクと、強烈にがなり立てる。
(……違う。そうじゃない。
……このままだと、あの青年はどうなるんだ)
想像は易かった。このまま、そのままであれば、きっと、命の保証すら……。なんで、こんなことになるのだろう。一念発起、ただ血迷っただけではないか。どうしてあんな化け物と邂逅せねばならないんだ。運が悪ければ警察署にでもしょっ引かれるかもと思っていたけれど、まさか生死を分つだなんて想像だにしなかった。人の命を背負う覚悟が必要だなんて、思いもしなかった。
「……泣けてくるな、ほんま」
で、逃げようか。
……。
論外だろう。逃げられるわけがない
「……偽善をしにきたんだ。女の子をフッておいて。こんだけ大見得きっておいて逃げられる男がいるもんか。
……そのついでや。助けてやらんでもない」
むしろよかったではないか。あれはちゃんと助けを求めるべき事態なのだ。だったなら、憂慮のうちの九割は杞憂になる。あとの一割は?そんなものは知らんが対処は簡単だ。なんとかしてやればいいのだ。憂慮を踏み越え目的を遂行してしまえば、一割だなんて誤差である。
「……殴るのはやめや。っていうか、あの青年を止めることにもはや意味はない。無駄や。なら、一個だけやってやれることがある。
……囮や。囮になってやれればええ」
幸か不幸か、あの化け物に理性があるとは思えない。
ひとつ、「この見窄らしい化け物め!」と喉を枯らせばいい。
きっと立ち所に目標を変え、侮辱をした僕の元へ来るだろう。
そうすれば、晴れて僕の偽善は完遂される。容易だ。“やる”か、“やってやる”か、はじめから首尾一貫そのつもりなのだから。
「……っ」
欄干から身を乗り出し、化け物を見据える。空気のようなもの相手を見据えるだなんて不思議だが、見ている、気がする。
途端、持ち手が震える。喉が気体の侵入を拒むように塞がる。怖い。心底、怖い。
だめだ。時間を置くな。時間が全てを消し炭にしてしまう。あの青年も、もう限界が近いはずだ。僕だって、この足の力が抜けてしまう前に決着をつけねばならない。だから、いま、ここで、終わらせなければ。決断が鈍る前に、早く。
「……せっかくのデートでいい気分だったのに邪魔、しやがって」
囮のための言葉は決まっていた。もとい、罵倒の言葉は決まっていた。
口汚い罵倒でなければならなかった。
好きな子を傷つけておいて、格好のつくことはやりたくなかったから。
スーーーー。
――――――――消えてなくなれ、この……っ。
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