第9話 デート
七月二十二日、午後十二時十分。(◼️◼️)
「……っと。こんなもんかな。織葉ぁ、買い忘れはなさそ?」
……あー、はいはい。デートでしたよね。
……こんなもんとは思ってましたけどね。
OKマークを片手でこさえ、僕はメモに書かれていた商品の入った商品カゴを凛さんに見せる。雑貨。雑貨。雑貨。色とりどりのカラーペンに画用紙、画鋲、セロハンテープ、はたまたトランプ等々。凛さんは満足げな顔で「じゃ、こーいうのは領収書をもらっておかないとだよねぇ」とレジへと歩いていく。僕もそれについていく。
(……使いっ走りでも、この甘酸っぱい時間を享受できたことを喜ぶべきか。さもなくば、こんなもんかと嘆くべきか)
階層はモールの二階。本屋と雑貨の併設したエリア。
カフェもありデザイン性が高く、なにより超涼しい。
曰く、文化祭の催し物である占い道具の買い出しを僕は知らぬ間にクラスの皆皆様方から仰せつかっていたらしい。
ようはデートとは名ばかりで、僕はただの荷物持ち要員ってわけだ。「ガラスと一緒に占い道具も壊されちゃったみたいでさぁ」と。気分はさながらジェットコースターであり、風情や風流に耽る時間すらろくにもらえず上下左右縦横斜めと弄ばれる僕であるのだ。
「……ん?どったの?浮かない顔やね」
「……そんなことないですよ。ほら、綺羅星のごとく輝くスマイルです」
「……似合わんよ?」
……笑顔が似合わんというのは侮蔑に入るだろうか。ギリ入りそう。僕もそう思いますよ、岸辺さん。
レジでの会計もいたってスムーズ。昨今はカード決済のほかにも電子決済、プリペイド決済、QR決済と、ポケモン御三家を選ぶことすら苦慮する人類を殺しにかかっている決済方法の数々。凛さんはキャッシュ決済派らしく、洒落たブランド財布から差し出されたお札は手慣れた手つきでレジ機にしまわれる。なんてブランドだろう。そんな僕の思案など現実の速度は颯爽と追い抜かしてしまい、気づいたときには凛さんはすでにお釣りを受け取ってしまっていた。
もうちょこっと手間取ってくれてもいいのにな。
そんなことを思う自分が女々しくてキモかった。
「……荷物、もつよ。おもいっしょ」
「えぇ、いいの?じゃ、よろしく♪」
よろしくされちゃったぜ、えへへ。このまま帰るってのも乙なのかもしれない。いや、きっと乙なのだ。乙ってなにかわからないけれど。
受け取った手提げ袋はずしりと重いが、ここで軽いと示しがつかないため、それなりの負荷があったほうが好ましいまである。男を見せるチャンスだ。(男ではないけれども。)(心は男なのだ。)(心も男である確証もないのだけれども。)帰ろうか。帰ろう。帰って「重かったねぇ」なんて気遣われながら「そうでもないっすよ」「楽勝っす」と答えてやるために帰ろう。
「買ったねぇ。荷物になるよね。どっかロッカーにでも預けよっか」
そうだね。でもやっぱり重いしね。
ロッカーにでも預けて、……預けて?
「……?」
「で、何食べよっか。そろそろお腹減ってきちゃったしねぇ。私的にはガッツリ系もやぶさかではないんやけれども、イタリア系も捨てがたい。中華系までいくともうすごいって感じやけど、フランス系までいくといくとこまでいったなぁ感があって……う〜ん、どうしよっか」
何その系統。しかし、本人はいたって真面目なようで、う〜む、と指を顎に当てて悩むそぶりをしている。
ツッコむべきか。はたまた、自分がボケているだけなのか。
「……え、まだメモあるとか?」
「え、ないけど?」
「……え?」
「……え?」
お互い目を合わせて沈黙。パチリとした眼が、凛さんの瞳が、モノをわかっていない僕を捉えている。
マズイ。変な汗が出ている。
コミュニケーションの齟齬が生じていることが露わとなり、会話が噛み合っていないことが互いに如実となる。いままでになく走る思考は、それはもう全速力で、会話の節々にある凛さんの含意を探ろうと必死になる。が、まとまらない。
次第に苦渋の表情を悟られたのだろう、スンッとなった凛さんがひとこと。
「もしかして、帰るつもりでおんの?」
小首をかしげる凛さん。
「……え、違うの?」
「……違いますけど」
あ、まずい。まずい。怒らせている。ガッツリ鈍感系記憶喪失の僕でもわかりやすく、それはもう美麗な柳眉を逆立てていらっしゃる。
また気まずい沈黙が押し寄せる。それも、ハァ〜、と重く暗い溜息も添えて。秒針が進むにつれて、いてもたってもいられなくなり、「ごめんなさい」と鎮火を試みたものの、「なにが?」と水とガソリンを間違えたらしく炎が延焼していく。ヒィ。地雷踏んじゃったよ。地雷踏み抜いちゃったよ。
「……いや。帰らんと。ほら。あかんのとちゃうの。……だってこの荷物、みんな届くの待ってるやろし」
「……そんなこと、……どうでもいいじゃなん」
「……どうでもはぁ、……どうでもええっすね、はい」
「……はぁ。こっちは勇気を出してデートに誘ったのに。そんなもんなんだぁ。ふ〜ん」
……デート。デートだったのか。ほんとうに。これは。やっぱり。
心臓が飛び跳ねる。浮遊感は呼吸を乱す。
まるで不意打ちを喰らったかのような。ちゃんと聞いていたはずで覚悟もしていたはずなのに、そこまで本気だと思わなかった。心のどこかで冗談めかしなものとばかりとらえていた。空気を手で掬っているつもりだった。どうしよう。ちゃんとしないと。ちゃんとしないといけない。ちゃんと見てもらえているのだ。聞いてもらえているのだ。ここに一人と一人でいてくれているのだ。ちゃんとしなければ。ちゃんと、しなければ。
「……ご、ごめ――――――」
「――――――織葉は、さ」
視線が合う。呼吸が合う。
熱と鼓動の、波長が合う。
「……織葉は、楽しく、ない、のかな?」
上目遣い。
甘い吐息。
艶やかな黒髪に、女性らしい香り。
「…………」
こうなるのだ。この人と話していると、ひとつの世界に呑み込まれる。そこはすこし暑く、熱い。無駄な音や匂いが遮断されて、その他の視界が白ずんで、ここが君と僕だけなのだと思わされる。手の、指の一本でも動かせば君に届いてしまい、なにかが影響し合ってしまうかのように。君の唇の角度がほんのちょっと変わってしまうだけで僕の内側から外側にいたるまで決壊してしまうかのように。
ここは絶対なのだ。
絶対はここなのだ。
(…………っ?)
だから、違和感でしかないのだ。さっきから、ずっと、さっきから、ズキリと胸の奥が痛むのだ。
つんざくような疼痛に、視界が歪む。
手指の発汗がとどまらず、ここがさも嫌な夢のなかのようにさえ思えてしまう。床がぐるりとひっくり返され、踏んでいるタイルが外されてしまったかのように、僕は真っ直ぐに立てなくなってしまうかのような。その感情はまるで、、、
(……なんで、“モヤっと“するんや?……なんで、)
祓いたい。祓いたい。こんな感情、僕のものではない。
「……じゃあ、食べに、……行こっか。カフェでもどう?」
僕はおもむろに凛さんの手を引く。指が重なる。握る。凛さんが驚いているのがわかった。こんな大胆なことをしているのだ。僕だって驚いている。それでも衝動というか、情動というか、なんか抑えの効かないもので迸るままに僕はいま行動してしまっている。
やがて、手はギュッと握り返される。
凛さんの手は、すこし湿っぽかった。
「……やだ。ガッツリ系がいい」
優越感があった。なにに対してかわからないけれど、それは劣等感の裏返しであったのは確かだった。
***
七月二十二日、午後六時四十六分。(◼️◼️)
夕方。夕暮れ。じきに午後六時。真夏の夕焼けは灼熱との休戦協定ではあるものの、予熱で死ねるからこそ、ここが真夏であることをまざまざを肌身にわからされる。ショッピングモールのエントランスを出て通行量の多い歩道に出る。前には国道、歩道橋に十字路と、大津市きってのシティな顔だ。
「楽しかったねぇ。楽しかった!また行こな!」
「……そだね」
「次は京都の伊勢丹とか、大阪もええなぁ!梅田に心斎橋、歩くだけでもおもろいと思うで!」
「……もうちょっと、涼しくなったらね」
……しかし、疲れた。弄ばれ疲れた。いまだにドクドクと治りを知らない心臓の高鳴りのせいもあって、なにをするにしても筋肉痛になりそうなほどに体力と気力を持っていかれた。神経をすり鉢で擦り切られたような気分だ。疲れた。とっても疲れた。
「でもでも、今日だけでも発見がたくさんあって有意義やったよ!ほんま、似合う似合うとは思っていたんよ!ファッションにコスメ!織葉、ファッションに一ミリも興味がないから、勿体無いなぁ、なんてずっとおもっとったけど。ほら!案の定、お化粧ひとつで印象が180度変わったね!かわいいよ、織葉!」
そっか。すると180度戻ったらブスなのかな、織葉ちゃん。
デートとは一見煌びやかで、その実は過酷なサバイバルだ。
どうして。どうしてアパレル業界はみんな試着させようとしてくるんだ。買わんとあかん雰囲気になるやろ。買わんと気まずいやろ。買うって心づもりしてから試着させろ。それにお化粧も。赤で何色あんねん。星の数より多いやろ、あれ。わからん世界だ。反転、終始ニコニコしながら「織葉、これ!これいいよ!」と勧めてくる凛さんは実に愉快そうで、それに対し「いくら?」と怯えながら聴くだけの僕はさながらモルモットだった。
(……しかし、記憶がないから定かではないんやけど、)
……。なんか。
(……このショッピングモール、こんなにオシャレなテナントあったっけ)
海外高級ブランドやら。
セレクトショップやら。
デパコス専門店やら。
……まぁ、いいか。それよりも、僕はそろそろこの肩にのっかる重い荷物が気がかりでどうにかなってしまいそうだ。買い出しを頼まれていたはずの我々が道草どころかいちゃいちゃデートをしていただなんて、週刊文春も書き出しに困る事態だ。罪悪感が。いまなら「重い?」と聞かれれば、「重い」と即答できそうまである。主に心と足取りが。
「あ、ちょっとたんま。お手洗い行ってくるから、織葉は待っててもらってもええ?」
「……あーい」
ごめんね、と拝むポーズのあと、軽い足取りでトイレに向かう凛さん。
ところで僕も行きたいのだけれども、許されるだろうか。あの幽霊に。
「……いいや。待っとこ」
人ゆく往来は慌しく日々を邁進している。日常を繰り広げている。
彼ら彼女らは皆皆一同にこの往来にさしかかってはいるけれども、今日という一日を過ごし、明日のあゆみに歩幅を合わせ、過ぎていく日々の交差がここであるのだ。その断片をさながら歴史の一片としてカメラのフレームにおさめんとするのが僕なのだ。僕は彼ら彼女らの日々の営みなど知らないし、数秒前どこからここに来たのかも知らない。数秒後、ここからどこにいくのかなんて知りようがない。
(……わからんことだらけや。なんも知らん。あるいは知ろうとしていないだけなのかもしれん。ただ、いまここが、偶然にしろ必然にしろ複雑な糸をたどっていった道中であることはわかる。……いろいろあったなぁ。いろいろと。なんというか、記憶のあるうちの記憶がいろいろあり過ぎるようにも思う)
昨日を振り返れば、記憶喪失に人格と性別の違和感。救世主登場に、幽霊との出会い。
本日を振り返れば、発見よりも驚きの一日だった。まず岸辺さんの不登校。どうして学校に行きたがらないのかがわからなかったけれど、それが幽霊である身の上と関係があるのかどうかを結べば関係がないとする方が不自然であるのだろう。だから、なんだというわけでもないけれど。それに驚きといえば、ガラス破壊の一件である。見るも無惨な有様は、遠い過去のモノクロにみた戦場であった。事故や災害ではない。まさに明瞭なる悪意の事件であるのだろう。
(……それに、棚からぼたもち、なんやろか。……いま、ここにおるんも)
最大級の驚きは、僕がいまデートをしていることだ。
(……化粧とか衣類とか、よくわからなかったけれど、……楽しかった、気がする)
働き者の心臓がたびたび僕の集中を切らしていたけれども、はねる髪に甘い香り、手のひらの熱は現実に引き戻されるには十分な衝撃だった。同時に、苛む心の隙間風があったのも確かだ。“モヤっ“とするのだ。それも、彼女の透き通る声から「織葉」と呼ばれるたびに。
僕は、岸辺織葉だ。岸辺なのだ。織葉なのだ。
それがどうしてこんな感情を想起させるのか。
「……わからん一日やった。……明日にでも、わかるもんやねやろか」
西の太陽は眠気を誘われるように舟をこぎ、東の空はすでに就寝を始めている。
夜が来る。記憶にある二度目の夜だ。
そろそろ明日に想いを馳せてもいいのだろうか。明日は何を食べようか。明日は何を学ぼうか。明日は何を成そうか。明日は明日の風が吹くのだろうが、風聞にきく文化祭は、僕の感情にどう色を染めるのだろうか。
「――――――……ん?」
明日に想いを馳せる。明日に想いが先走る。
だから過ぎたる日々を見失ってしまうのだ。
まだ何も、始まってすらいないのに。
――――――!!
声のようなものだと認識するのに時間を要した。それが叫び声だと分かったのは声と知覚してからすぐだった。
悲鳴であると確信にいたるまで、数秒を刻まなかった。
悲鳴。悲鳴。悲鳴。阿鼻叫喚。
テレビジョンではない、空と空気だけを隔たりとした距離で叫ばれる声が悲鳴であると気付いたのは、その騒然たる有様であった。往来と往来、車道を挟んだ向かい側、歩道橋を跨いだ先の出来事。人、人、人の往来に生じる空間。その空間は川の流れに逆らう石のように遡上し、その空間は反発しあう砂鉄と磁石のように広がりをみせ、その空間は威嚇をする獰猛な獣のようにカンカンっと異音を発している。
「……なんや。……なんか、起こっとるんか?」
向かい側の話で、こちら側からすれば対岸の火事。
気になり往来の人ごみを掻き分け向かい側を見る。
「――――――なッ!」
男の、切羽詰まった断末魔のような悲鳴。
その悲鳴だけが、往来の異口同音のものでないことがわかるまで刹那も要しなかった。異様であった。異質であった。異物であった。その悲鳴が、空間の中心地から聞こえてきたこともあったが、それよりも、その発する言葉の意味に僕の思考は囚われていたのだ。
曰く、
「……「来るな?」
……なにをいってんだ?誰かに追われとるんか?…………なんか、やばいんとちゃうか?」
向かい側も人ごみの壁。状況がいまいちわからない。ただ、ただごとでないことだけが伝わってくる。
瞬間、「こっちに来るなッ!」と、
喉が潰れてしまいそうな絶叫ののち、蜘蛛の子散るが如く人ごみが空間の中心地から遠ざかる。見える。見えた。空間からでてきたのは、青年であった。半袖のカッターシャツに紺色のスラックス。学生風の青年は、ルックスにして好青年のそれであったが、焦点のあわない視線に汗と泥に塗れた白のカッターシャツ、青々とした蒼白の顔つきから、尋常ではないことがいやでもわかった。
「……おいおい。……おいおい、危ないぞ」
そしてなにより、
「……あいつ、金属バット持っとるやんけ」
でこぼこ、おうとつ、歪んだ金属バットは、青年の悲鳴とともにカン!カン!と空を切り地面に叩きつけられる。
血生臭い臭気がした。予期したというべきか。
怖気立った。寒気がした。輪郭のない危機感からリアルな警鐘へと切り替わる。これは事件だ。事件が目の前で起こっている。大事件になりうる事件が目の前で起こっているのだ。その事実が手足をすくみ上げた。
(……どう、しよう。……どうしよう)
目と鼻の先の出来事だ。動かなければ被害が出る。加害者が生まれる。その瀬戸際。
(……なんで、誰もなにもしないんだ。とめろよ。あれ、危ないだろ。……喋ってる場合じゃないだろ。指差している場合じゃないだろ。……なんで撮ってんだ。なにを撮ってんだ。それどころじゃないだろ、その携帯で警察を呼べよ。男なら力があるだろ、あの暴挙を止めろよ。お前ら近くにいるなら落ち着くよう声ぐらいかけてやれよ。誰でもいいから、……さっさとなんかしろよっ!)
――――――こっちに来るな!
――――――来るなよ、来んな!!
――――――こっちに来んなよ!!!
青年の怒号が時間が経つにつれヒートアップしていく。なにが見えているのか、なにに怯えているのか、なにから逃げているのか、まるでわからないけれども、この先の結果だけは火を見るよりも明らかだった。その金属バットが、カンカンと容赦なく叩きつけられるそれが、人身に被害を及ぼすまであと、……。
(……誰でもいいから、)
そんななか、僕は、
(……いまの僕にはなんにないんだから、誰か、動けよ!)
自分が行かない理由ばかりが頭を占領していた。「邪魔になるだけだ」「邪魔」「邪魔」「邪魔」「第一、下手すれば二次被害になるかも知れないじゃないか」「実は何かのドッキリかも知れない」「実はいろいろと複雑な事情があるのかもしれない」「そしたら恥をかくだけ」「ヒーロー気取りだなんてキモいだけだ」「カメラに撮られている」「肖像権の侵害だ」「もう実は誰かが警察を呼んでいるんじゃないのか」「青年相手に僕がなにをするっていうんだ。なにができるっていうんだ」「そもそも誰から止めてくれって求められていないじゃないか」「あそこの人が被害者になるだけで、僕にはなにも影響がないじゃないか」「誰も僕を責めないじゃないか」「責められる謂れもないじゃないか」「僕じゃなくてもいいじゃないか」と。
だから、
僕は、
一歩、身を引いた。
「……そういや、今日、デートしてたんやった。
……そうやな。そうやった。……じゃあ、こんなとこにおるわけにいかへんな」
思考が冷める。そうだ、このまま、このままでいよう、と。介入しないことへの罪悪感なんて覚えず、向こうの往来を眺めるだけに留めておこう、と。
いまのままを、“維持”。
それでいいじゃないか。
帰路でコンビニに寄って帰ろう。次こそ彼女の好みのジュースを当ててやろう。重い荷物はすべて僕が引き受けて、会話も切らすことなく、昨日の礼と今日の反省と明日への淡い期待なんかも含めた談笑を楽しもう。彼女が「明日は晴れるといいね」というならば、「きっと晴れるよ」と囁いてやろう。すこし照れたぐらいじゃ、夕方の日差しで誤魔化せる。小っ恥ずかしくなる話をしてやろう。そうすれば、数分後には、これらはすべて過去へとなる。待てばいい。それでいいじゃないか。それがいいじゃないか。
「……こっから離れよう」
そうだ。それで、
「……凛さんのもとへ――――――」
――――――そのときだった。視線を逸らす、ほんの一瞬。目が合った。青年と。
……やめろよ。
……なんでだよ。
……お前は加害者だろ。それなのに、
(――――――どうして、お前が助けを求める視線を“僕”に送るんだよ)
一瞬だった。悲壮に溢れる眼差しが、僕を射抜くのだ。きっと錯乱状態の青年は僕を認知していないだろうし、認識だってしていないはずだ。ただ僕と目が合っただけ、それだけでしかないのだ。それなのに、
「……ほら、離れないと」(……彼の目に僕はどう映ったのだろう)「……やめろ、考えるな」(……きっとなにもしない群衆の一人に映ったに違いない)「……それでいいじゃないか。それのどこかダメなんだ」(……卑怯者だ。僕は卑怯者だ)「……卑怯だって戦略だ。間違っていない」(……それなら嫉妬などすべきではないんだ)「……なにをほざいているんだ。嫉妬?意味がわからない。わからない。意味がわからないッ!
……僕は、なににこうも“腹立てているんだ”!」
(……それは、それだけは、簡単だろう。わかっていただろう)
(……とどのつまり、僕はこんなことを終始思っているわけだ)
(……僕は、結局、何者なんだ)と。
***
七月二十二日、午後◼️時◼️◼️分。(◼️◼️)
「お待たせ。そんじゃ、帰ろっか」
「……」
「ふひひ。今日は楽しい一日やったね。まだまだ足りないくらいだよ。今日がこのままずっと続けばいいだなんて思わない?ね、明日はどうしよっか。文化祭やもんね。祭りやもんね。楽しまないと。どうせなら、さっき買った化粧品を使いなよ。ファンデの使い方とか、教えてあげるからさ。……そっか、いっそお泊まりしていったらええんとちゃう?そうだよ。それがいい。そうしよう。そうすれば、きっと明日の織葉はもっと可愛くなれるよ」
大衆の喧騒も、車のガソリン音も、鳥の鳴き声も、知らずむ世界。
まるで彼女のための、彼女の声を届けるためだけの世界のようだ。
「占いの館で織葉になにを占ってあげようか考えてるんだ。恋愛とかは織葉のことやから興味がないやろし、……合格成就?は、占いの館の仕事じゃないもんね。で、テキトーなとこで抜け出して、タピオカキメて綿菓子食べながらロックを聴くの。全部きっとあるよ。文化祭ってそういうもんやから。だから、早く帰ろ。……こんなところでぼーっとしてたらアカンで?」
華やかな声音で、耳障りのいい言葉で、愛嬌のある顔で、
賤霧凛は、僕のすべてを肯定してくれているようで。
……でも、その実、彼女は“僕を世界で一番認めてくれていないかのように“語るのだ。
「……賤霧さん。……私は、」
「いくの?あっちに?」
小首をかしげる凛さん。瞳の中はなにも読み取れない黒だった。
……しかし、そっか。
……行きたがってるのか。あっちに。僕は。そんなことがわかった。
「やめときなよ。危ないよ?……それに、誰も君になにも求めてないんだからさ」
「……」
「怪我したらどうするの?逆にさせちゃったりして?人に迷惑をかけたら?いろいろ考えて動かないとダメだよ。……それってさ、“偽善”っていうんだよ。回り回って自分のことしか考えてない。自己中で、身勝手。
……やめてよ、そんなこと。私を失望させないで」
剣呑な響きが耳朶を打つ。失意。悪意。敵意。攪拌された感情が浮かびあがる。
はじめて、賤霧凛という人物に出会えた気がした。虚像ではない実像。偽造ではない本物。あの太陽のような笑みも、鈴の音のような声で紡がれた台詞も、恥ずかしそうに赤面する顔も、熱も、……そのどれもが表面であり、表層であり、見られたがっていただけの贋作のように思えた。それほどまでに、ここにいる賤霧凛は飾らぬ姿で僕の前に立っているように思えた。
「……ちょっと親近感が湧くね。そんなふうにものを考えるんだ、君も」
それが、心の底から嬉しく思えたのは、僕が記憶喪失の馬鹿君だからだろうか。
そうか。
そうか。
……そんなに、僕は、君のことが好きになってしまっていたんだ。
「……なにそれ。ふざけてん――――――」
「――――――“僕”は、岸辺織葉ではないんだ」
だから告白する。
本心を、見せてくれたのだから。
「……僕は、記憶喪失なんだ。昨日からね。摩訶不思議なことではあるのだけど、訳あって自分が岸辺織葉でないこともわかっている。だから、君が親愛の情を寄せてくれる岸辺織葉は僕ではないし、ここに岸辺織葉はいないんだ。……それなのに、なにを勘違いしたのか、君が言い寄ってくれていることで舞い上がっていた僕は、
……あろうことか、岸辺織葉に嫉妬してしまった」
君の唇から「織葉」と呼ばれるたびに、
湧き上がってきたのは、劣等感だった。
君の麗しい唇から『岸辺織葉』の名で呼ばれるたび、憂いを帯びた雲が薄氷のように心を塞ぐのだ。
「……屈辱だよ。さっきこの気持ちに気づいた時、わりと死にたくなったね。惨めだった。醜かった。卑しかった。どれほどこの悪辣な感情に言い訳を立てようとしても、無意味だった。……僕は君の隣にいるとき、岸辺織葉よりも岸辺織葉になろうとしたんだ。君をもっと赤らめさせたかった。君をもっと恥ずかしがらせたかった。自分の存在が希薄になることが怖かった教室での出来事を、あまりにも無碍にして。……僕は、岸辺織葉になろうとした」
その上で、許せないことがある。
自分の心の弱さに、反吐が出る。
「……そんな岸辺織葉になろうとした僕が、
……その偽善のひとつもこなそうとしないことにあまりに腹が立った」
いい思いだけをして、自分を殺しておいて、
助けを求める向こう側に行く気概すらない。
見たくない“ありのまま”を見つけてしまった。故に、自意識は爆発するのだ。
「……僕は、“僕”だ。……その証明もせずに、君を好きになる資格なんてない」
自分すら知らない自分の名前を、君に呼んでもらうために。
ただただ自分の言いたいことを言いたいままにぶちまけて。
無様に、逃げるように、その場から去った。
目的地は、向かい側の歩道、その騒動の中心地。きっと解けることのない感情の糸をもつれさせるだけもつれさせて、振り返ることもなく走った。その後ろで、か細い声で、感情の読み取れない声で、「善処するだなんて言っておいて、……嘘つき」と。ひたすら聞こえないふりをして、恩を最低最悪な形で返しておいて、僕はいまから世界で最も身勝手な偽善を遂行することとする。
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