第8話 破壊と美少女
七月二十二日、午前八時二分。
「……で、結局、僕一人で登校することになってしまったわけやけど」
曇天。明日は雨かしらん。暑かったからちょうどいいのだけれども、カラッとした暑さの次はジメッとした暑さにシフトチェンジしたぐらいの差分に思えなくもない。スマホかな。あれもう数字を重ねているだけでカメラ機能ぐらいしか違いがわからないのです。
「……行きしなにでも傘を買って行った方がええんやろか。……あぁ、だめだ。金がない。さもしい。傘も買えないいまがさもしい」
明日はちゃんと自室にある傘を持参しよう。そう心に決める。
県庁があるがために新快速電車が止まってくれることだけが自負の駅の周辺を歩いていると、老若男女交々の服装が交差するけれども、昨日の道を間違えない限り制服はおのずと一色に染まってくる。制服、とりわけセーラー服は、都会風味のビルの灰色よりも冴え冴えとしており、また捲れた皮からジリリと見える田舎の緑色よりも映え映えとしているのだから、最強である。
「……にしても、思うようにはいかんもんやな」
想起する。岸辺さんは、どうして登校を拒んだのだろう。
サボる機会があるのだからサボるべきとする学生の本能は、元来リスペクトすべき本能なのだろうが、彼女の習性というか、特性というか、そのあまりにも勉学に取り憑かれているような生き様からして不思議に思えてならないのだ。いいや、だとすれば反面、僕が学校に登校することのほうが異端であろうか。確かに昨日とは比べ物にならんくらいに気が楽で、どうしてそこまで歴然たる差があるのかと問われれば、パッと思いつくかの人物のおかげなのだろうが、なんとなしに気恥ずかしいのでわかっていないふりをすることとする。
(……あと五分としないうちに僕は学校の校舎に着くだろう)
(……あと十分もしないうちに靴を履き替え、教室のドアを開ける)
(……あと三十分もしないうちにホームルームが始まり、)
(……あと一時間もしないうちに、誰もが誰も同じ日常に溶け込む)
あたりまえが、すぐそばにある。
それだけで心に余裕が生まれる。
馴染む。にじむ。集団の歯車に勝手ながら迎合してくるくる回される部品になれるというのは、一定ひどく自由を失っているようだけれども、昨日のようにはみ出た存在ではないことの証明は気が休まる。怖いのだ。怖気立つ。歯車ではないことに、歯車ではないことが筒抜けになることに、僕は耐え難い苦痛を感じる。つまり、僕は典型的で普遍的で模範的な小市民であるのだ。
「……今日も、会えるんかな」
校舎の白が視界に浮かぶ。
「……流石に彼女が欠席だと、いろいろと厳しいんやけど――――――」
しかし、僕の日常は、得てして非日常なのだ。
「――――――なんや、あれ」
五分後の目算など、どうして描けようか。
五秒後の目算だって、アテが外れるのに。
雑然と。騒然と。どこか胸がざわつくような騒々しさが、校舎前、校門付近で勃発していた。三色のスカーフの色々を見るに学年別ではなく全生徒まんべんなく、校庭に立ち入ることをためらっているかのように校門を越えようとしない。この騒動の原因はあまりいいことではないと、そんな直感があった。
「……揉め事でもあったんやろか」
校門に到着したはいいが、群衆の壁は矮躯な身としてはちと高かった。
気になった。気にならないわけがなかった。デバガメを気取るわけではないが、それでも一寸先に騒動の原因があるとわかっていて、その一寸先に無関心であれというのは酷である。矮躯を駆使し、人の壁の間を抜けていく。「すんません、すんません」と気のない謝罪で分け入り、合間を縫ったさき、僕は“光”をみた。
「……うっ。まぶし」
赤。赤。赤。断続的に点滅する赤を目撃したのは、人の壁を抜き切る前。
パトカーであることはすぐにわかった。ふと、今朝のサイレンが過ぎる。
「……警察沙汰なんか。サイレンこそなってへんけど、えらい大変なことに――――――」
――――――なってんのとちゃうのか。と。
好奇心が勝り、人の壁を無邪気にも割って出てきた僕は、ザリっと何かを踏んだ感覚に意識を引っ張られる。ザリ、ザリっ、と、それは一度でなく二度、三度と足を進めるたびに続く。状況が整理しかかる前だった。視界が広がり、校舎の全貌が明らかとなったのだ。
「……え?…………は?」
どうして、誰も踏み込もうとしないのか。
どうして、棒立ちのままのか。
どうして、微動だにしないのか。
どうして、とりあえず教室まで足を運ぼうという考えにならないのか。
疑問ともならない違和感は確かにあった。それが言語化されていないだけだった。愚鈍なのか、愚図なのか、あまりにもトロい僕の思考回路は全貌を見てようやっと逆算を始める。そして畏怖する。吹き出す脂汗は、きっと暑さのせいではない。
中庭を埋め尽くさんばかりに、窓ガラスが飛散していた。
校舎にあったはずの窓ガラスは、すべて、破られていた。
全て、全て、全て。これは決して比喩表現や、誇張表現などではない。素足で歩こうものならば、足裏がズタズタに引き裂かれるかのような、ここはガラスの砂漠と化していた。地面を悲惨な色に反射させる窓ガラスは、考えるまでもなく校舎の窓ガラスのものだろう。まだ廃墟の方が建物の体裁を保てているかのような錯覚さえ覚える、そんな惨たらしい光景だった。
(……警察が、出張るわけや。……確実に、“誰かが”、これをやったんやってわかる)
誰が、なんのために。そんな意図が、微塵も伝わってこない。
ただ、ここで恐ろしい何かがあったことだけが伝わってくる。
眺めているだけにも関わらず悲鳴が耳をつんざくような惨状に、好奇心一つで乗り込んだことの後悔が襲ってくる。ここには血痕こそ残っていないだろうが、なまなましい事件現場の臭気が立ち込めている。立ち入るべきではなかった。立ち入って無事で済むとは思うべきではなかった。
(……窓ガラス。……全部、破られとる。
…………なんで、窓ガラスなんや)
考えるだけ無駄だろうが、気になってしまったのだから考えてしまう。
なぜ、どうして、犯人は窓ガラスを全て叩き破るような真似をしたのか。
それも全ての窓ガラスを。これじゃ、窓ガラスに恨みでもあるみたいだ。
……いいや、違う。そうじゃない。
……僕の疑問は、そこじゃない。
「……どうして僕は、こうも“窓ガラス”であることが気になるんや」
***
七月二十二日、午前十一時十一分。(◼️◼️)
我が校、西大津高等学校の本日の朝礼は、やはりというべきか、血相を変えたものだった。
「…………はぁ。どっと疲れた」
全校生徒を体育館に招集する事態と相なった事件の概要は、整列させられた生徒の前でマイクを握った生徒指導役を名乗る教諭によって、簡略ではあったものの説明があった。
曰く、昨日の夜の二時ごろ、激しい物音が聞こえたとの近隣からの情報があるらしい。
曰く、校舎の窓はすべて破られており、すべて内側から破られていたとのこと。
曰く、事件の発覚は今朝の五時半ごろ。学校関係者から110番通報があったそうだ。
立ちっぱなしで聞いた情報は、おおかたこんなものだった。
「……ま、だから何か知っている者は生徒指導室まで、って言われてもなんよなぁ」
と、ほうきでガラスの破片を集めながらものふける。急遽変更で校内美化の時間となった現在、それぞれ生徒は軍手を着用し、怪我をしない程度の美化に努めることとなっている。僕の場合、割り当てが校内の廊下である分まだいい。校庭組の後輩くんちゃんたちは暑い日差しに身を焼かれ、ガラスの破片は多さにげんなりしていることだろう。上階から見える汗水垂らす光景を、上階それなりに涼しい窓枠越しで眺めるのは、なんとも後ろめたさを感じてしまう。
「……ここまで人様に迷惑をかけておいて、犯人の目的は何やったんやろ。愉快犯なのか、それとも窓ガラスを破らんとアカン理由でもあったんか。……いや、窓ガラスを破らんとアカン理由ってなんやねん。窓ガラスアンチ勢かな。どんなニッチなアンチやねん」
理解不能。それに、窓ガラスの一枚二枚であればいざ知らず、校内すべての窓ガラスである。
衝動的というには限度が超えてやりすぎで、
計画的というには皆目動機の見当がつかない。
「……そもそも、」
そもそも、である。
「……こんなこと、普通の人間にできるもんなんか」
普通の、という文言に、自分のささくれたった猜疑があることにいやでも気づく。
……あー、もう、やめよう。やめよう。窓ガラスを破るだなんてことは手でも足でも頭でもできるのだ。誰だってできるし、誰だってしてしまうし、誰だってしたくなる時期ってもんが、……あるかもしれないじゃないか。窓ガラスが破られていたってことを一本に誰何を問うだなんて無理無駄無意味であるからして、なんだかもっと事態を俯瞰して見なければらないってもんじゃないのか。
……。
……っていうか、なんで僕がこんなに気掛かりにしているのかさえわからない。
「……んー。んんんー。ん〜。わからん」
「なにがわからんの?」
「……なにがわからんのかわかってないぐらいにまるではわからなぁぁぁあああ!!びっくりした!!」
賤霧凛さんだった。かわいかった。腰の丈もある長いツインテールは可愛げとも麗しげともとれる絶妙な塩梅で、それを何かに喩えようとするのであれば、……なんだろ、……わかんないけれども、えっちだと思いました。
「そんなにびっくりされるとは。忍足できた甲斐があったぜ」
左手にブイマーク。右手もブイマーク。
弓形の口元はいかにも嬉しそうだった。
「大変なことになったねぇ。ヤバいねぇ。ヤバヤバやねぇ」
「……そう、やね」
「明日、どうなっちゃうんやろ。このままやとさすがに中止かなぁ」
「……あ、明日?……なんだっけ。なんかあったっけ」
「え、なに、忘れたの?文化祭やって。昨日お話してたやんかぁ!」
「……あぁ。そうやった。そうやった、け」
「忘れるぐらいのもんなん?べっつにええけどさぁ〜。先生たちも事後処理でてんやわんややし、ガラスの破片も飛散しまくりでやし、……文化祭だぁ!!って感じじゃなくなってきてもうたもんなぁ。……もう中止にしておくべきなんかなぁ」
「……まぁ、でも中止にしておかなくとも、……その、中止にはしなくともええんとちゃう?」
誰目線やねん、というコメントでお茶を濁す。
いや、急にはダメですやん。わかりますやん。反則ですやん。出会い頭の美少女はライン越えでしょ。僕のような人間は前もっての前準備で九割なのだから、いつだって死角からの攻撃に弱いのですよ。だからアポイントというかいまから飛び出しますよ3・2・1!って具合でなければまともなコメントを残せるわけがないのです。通年ROM勢なのです。
「……ふ〜ん、そっか。中止にはしたくないんや」
「……そう、っすね。あったほうがええんとちゃうかと思います。はい。せっかくなんで」
しかし、そんなしどろもどろな僕を他所目に耽る凛さん。
なにを考えているのだろう。なにを思っているのだろう。
てんでわからないけれど、わかってやりたいと想い起こしてしまうのは烏滸がましかったりするのだろうか。
「……あの、賤霧さ――――――」
「ちょっと待ってて。ね、ね!」
しかし、会話は噛み合うことなく、トテトテと教室の方へ戻る凛さん。風のような人だ。捉えどころがないけれど、そばにいてくれるだけで安心にさせてくれる人。やがて姿が見えなくなるまで、その残穢を目で追っている自分に気恥ずかしさを覚え目線を逸らしたが、逸らしたさきは痛々しいガラスであった。
「……午前の二時に、……こんだけの窓ガラスを全部破ったんか」
午前二時というと。当然僕は意識のなかった時間帯だ。
……そっか。寝ていたのか。僕。そのとき。
「……んんん。ん〜、んん〜。ん〜?」
「あ、また悩んでる」
「……いや、悩んでも悩んでも距離が縮まっている気がしなぁぁぁあああ!!びっくりした!!」
「今度は忍び歩きしてないんですけど。むむむ」
不満げな表情の凛さんは、なんの用事だったのかすでに教室から戻ってきていたらしい。ところで美人って、どうして怒った表情まで様になってしまうのだろう。美人だからか。そっか、美人だから。眉を逆立てる御尊顔に手を合わせることもやぶさかではない僕ではあるものの、節度を知る僕でもあるため、ここはおとなしくしておこうと思う。
「ね!さっき教室で話聞いてきたんやけどさ、文化祭、やろぉってなってたで!」
「……おお。そうなん?」
「うん!なんかぁ、生徒も先生もみんなやる気!っていうか、こんなときだからこそ!ってモチベーションで張り切ってたよ!いやぁ、実は私もちょっと楽しみにしとったからさ、……ほら、織葉との文化祭も思えば最後やし。やっぱり、嬉しかったり、とか?するんだよなぁ。ふひひ」
なるほど。先生と生徒が。そりゃいい。
しかし先生というと、あの担任だろう。
……思い出したくもないのだが、あの担任がまともな判断をくだせるものなのだろうか。常識がない云々とかではなく、もっと根本的にあの様子の人間に物事の判断を委ねるのは、……だめだ。本当に思い出したくもないのだろう、記憶にノイズが走ってまともに顔も声も言葉も思い出せない。もとい、ほんとうに思い出したくない。
「……それはよかった。うん。よかった」
とりあえず、気取られないよう賛同はしておく。
「織葉は?……どう?嬉しい?」
しかし、どこか見透かされるような視線に内心たじろぐ。
担任のことはこの際なかったこととして、文化祭の復活は素直に喜ばしいことだ。喜ばしくないわけがない。凛さんがやりたいと言っているのだから。一緒に祭りに参加ができる、そんな兆しが見えてくる景色というのは太陽を直視したときのような晴れ晴れしさがある。それも中止の危機からの大逆転開催。開催背景も十二分に劇的だ。もちろん喜ばしい。喜ばしいの、だが。
……いまは、それどころではないだろう、と。
……そんな冷めるようなことを言う僕がいる。
(……この窓ガラスの事件。なんか、……なんか、)
……軽視してはいけない、そんな気がするのだ。
渦巻く。渦巻く。渦巻く。繋がらない点と点がぐるぐると乱れた線を描き、それは支離滅裂な回答を下しそうになる。そんなもんで信用ならない邪推ばかりが生まれては捨てられていくわけだが、この推論が仮に線となったとき、この推論が導き出した答えに直面したとき、この推論が僕の口からポトリとでもつぶやかれてしまったとき、――――――――――
――――――――――僕はいよいよ、逃げられなくなる。そんな気がするのだ。
(……逃げられない?……誰が?僕が?)
……なにから、逃げるっていうんだ?
「ね!」
うつつに引き戻される。曇天。廊下。そして凛さん。
瞬間、ガヤガヤとした生徒たちの愚痴や会話の端々が環境音となって耳朶を打つが、またスッと潮騒さえ波立たない静けさが支配する。はにかむ凛さん。口をひらく凛さん。問いかける凛さん。その挙措の一つ一つに、囚われる僕はさながら化学室の人体模型像のように視線を動かせなくなる。
「このあと時間ある?あるよね?無いなら作ってよ!」
「……強引やなぁ」
「……え、いや、やった?じゃあ、やめとこ、かな?」
「……いやとかいうてへんですやん。超前向きに検討いたしますよ。前向きすぎて倒れるぐらいには検討いたしますね。ぼ、……私はね、国勢調査の回答期限と一宿はせずとも一飯させてもらった恩は忘れん主義なんです。なんでもいうてください。はいもちろんですと答えてやりますよ」
「え、早口なんちょっとキモいんやけど。……ふふ。でも、“なんでも”いうこと聞いてくれるんやぁ」
甘っぽい声音。熱っぽい頬。新緑が風になびき、ざわざわと落ち着きなく擦れ合う。
どうしたのだろう、と、そんな間があった。
サボりの口述ならもっとテキトーでいいのに、どこか切羽詰まった、青色のような春色のような、決断めいた雰囲気に僕は固唾を飲むばかりだった。秒刻みがさながら分刻みを思わせるなか、甘そうな唇が楚々として動く。「なら、」と。
「――――しよっか」
聞こえなかった。もしくは、聞いていなかった。
熱に浮かされていたのは、きっと僕の方だったのだ。
「……だから、」
いいなおす凛さん。
「……デート、しよっか」
***
七月二十二日、午前十一時二十八分。(◼️◼️)
二択を間違える人生だなんて決して珍しいものではない。やるか、やらないか、たったこれだけの意思決定にさえ度量やら環境やら経緯やらが複雑怪奇に絡まって不合理極まる合理的判断がなされるのだから、掴んだ未来と逃した可能性で当たり前のいまがあるのだな、とさえずる雀よりもおしゃべりな僕は炎天下の自販機前でもの思うのだ。
「…………っ」
諸兄諸姉よ、たびたびで申し訳ないのだけれども、お聞きしたい。切実にお聞きしたい。
二択までは絞れたのだ。
どちらかではあるのだ。
「……緑茶か、スポドリか。……無難なのは緑茶なのですよ。こんなウザいぐらいに暑い日に甘ったるいジュースだなんて奇を衒ったチョイスは外すに決まっていることぐらいわかっているのです。無難。無難こそ無難なのです。しかし!しかし、暑い日にスポドリってチョイスこそ無難なのではないか、と。ただ糖分も多く、人によっては好き嫌いのあるスポドリを果たして無難だと割り切っていいものか。いいものなのか」
悩ましい。実に悩ましい。“彼女”なら、どっちを選ぶ僕を許してくれるのだろうか。
場所は琵琶湖沿いにあるショッピングモール。西大津高校から駅を使って 大津市にある店舗にしては映画館もあって規模もそれなりに大きく客入りも多い気がするが、草津市にある例のワオンなモールに比べればご愛嬌な規模感ではある。最寄りの膳所駅から数分歩く都合上、この灼熱の天下往来を仰がなければならず、きっとじきに合流する“彼女”のことを思えば思うほど、この選択は究極の選択と言っても過言ではない。
「……どっちなんや。緑茶か、スポドリかッ」
つまり、このどっちを選べば凛さんに喜んでもらえるか、ということに腐心しているのだ。
「……僕の昼飯代の半分の半分を注ぎ込むんや。間違えるな。これをひとつ間違えるだけでこのあとの数時間のテンションの持ちようが天と地の差になっちまう。もし間違ってでもみろ。「あ、あはは。おいしいなぁ、これ。私あんまり飲まんけど」みたいな雰囲気になるぞ。……いやだ。僕との会話の節々で「でもこの人の飲み物のセンスないからなぁ」って醸し出されるのは絶対に嫌や」
ぐぬぬぬぬ。人生は選択の連続とはいうが、こんな苦しいことを強いられるのが人生なのか。人生の先輩ってやつはやっぱすげぇな。
思えば顔も知らぬ父も母も、この選択の末に子供を産んだのだろう。
選択と選択の間に産まれたのが僕。そんな僕もまた選択を繰り返す。
なるほど。そうやって、大人に、ひいては、
「……そっか。僕、お父さんになるのかもしれんのか」
「いや、それはないと思うで」
「――――――」
「あれ、驚かないんだぁ。成長したなぁ、って、あれ。……し、死んでるッ」
死んでません。死にたいだけです。「あ、もしかして気分わるい?脱水症?これ、飲んで」と手渡されたのはオレンジジュース。冷たかった。きっと来る途中で買ってきてくれていたのだろう。結局飲料水を買えず格好がつかない僕は一礼をふし、やり場のない悔しさの思いのたけぶんオレンジジュースの硬いキャップにぶつけるよう力いっぱい捻った。
「なか入っててくれてよかったのに。……ごめんね。デートっぽくしたくて待ち合わせにしようって言ったのがよくなかったね。気分アガるかなぁって思ってさきに織葉に行ってもらってたけど、……なんか。うまくいかないね。ふひひ……」
誘った本人として体裁が悪いと感じたのだろう。
困ったように笑みを浮かべる凛さんは、そっと肩を落とした。
みていられなかった。これは自分のミスだ。もっと楽しそうに出迎えてやれば。もっと明るく元気に受け答えをしてやれば。もっとスマートにドリンクを手渡せていてば。未熟でしかない僕の失態だ。だからだろう。気づけば、僕は滑るままの口で口上を述べていた。
「……まぁ。うん。でも」
「…………?」
「……そんなに思い悩むほど、うまくいってないことも、……ないんじゃないかなぁって思うんやけどな。ほら、受験でも面接でもうまくいってへんなぁって時の方がうまくいってる説なんかも巷で呟かれることがあるくらいで。どこのだれかの内心を推しはかろうだなんて、そんなもの、雲に張り手をかましているようなもんじゃないんかなぁとも思えるわけで」
目を丸くする凛さん。フォローの言葉はこんなものでよかったのだろうか。
僕だっておべっかでこんな気恥ずかしいことを言っているわけではない。そっと見やる凛さんは、うっすらと汗の滲んだ白い頬に、ふんわりとした前髪、艶やかな唇に、同じセーラー服でも陽光を浴びているだけでさながら魔法少女にでもなったかのような特別感だった。なによりも、この二人っきりのシチュエーションってだけで、筆舌に尽くしがたい、うまくいいようのない感慨深さがあるものだ。
「……まぁ、その。……成功の範囲内ってところじゃないですかね」
「まだ待ち合わせしていただけやのに?」
「……そういうのも含めて、……その、いい感じやと、言いますか」
いかん。暑い。恥ずかしくて顔から火が出そうだ。まともに目を合わせられない。
この感情をどう伝えるべきだろう。いいや、伝わらないようにすべきなのだろう。
相反する煩悶に終止符を打つことなどできず、なによりきょとんとしている凛さんとの間を持たせることなどできず、僕はこの衝動を財布の中にあった硬貨数枚と自販機に投げつけるように投入し、ガラんと落ちてきた飲料水を凛さんに押し付けるように手渡す。
「……これ。レモンの炭酸水?」
なぜ?という視線。
「……同じ気持ちを味わって欲しかった、から?」
自分でも判然としないが、これがいいと、これでもくらえと、思った。
この、甘酸っぱくって顔をしかめたくなるような、そんなジュースを。
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