第7話 二日目
七月二十二日、午前五時五十二分。(◼️◼️)
――――――ピーポー、ピーポー、ウー、、、
けたたましいサイレンは、目覚ましというにはあまりにロックでパンクなヒートで、それがすぐそばの道路を颯爽と駆けていくのだから、僕はさながらヘッドバンキング後のロックンロッカーな気分だった早朝六時。もうちょこっと眠っていたかったと後悔が霧のように心を湿気らせたが、ボロ屋の薄壁が下界の轟音を遮断できるような殊勝なつくりになっているはずもなく、あまつさえ「……ここ、どこやっけ」と見慣れぬ天井に頭が冴えてしまうまでにそう時間はかからなかった。
『おはようございます。』
『私に敷かせた布団の寝心地はいかがでしたか?』
見覚えが、あるような、ないような、そんな文字列が視界を塞ぐように宙を舞っていた。
「……おはようございます。……どなたかは存じ上げませんですが、基本的に誰がどのように布団を敷こうとも、布団のスペック次第で寝心地は決まっちゃうってところがあると思うんで、……そのぉ、いい夢見心地でございました。ありがとう、布団ちゃん。愛してる」
『そうですか。偽物さん。余談ですが、私も貴方のことを存じ上げません。』
『ですので、たったいま、貴方に名前を差し上げようと思うのです。』
『馬鹿くん』『で、いかがでしょうか。似合ってますよ。似合います。よかったですね。馬鹿くん。』
……あらやだ。寝ぼけている間に命名されてしまったような気がする。それもわりとひどい蔑称な気もするが、まぁ、寝ぼけている間なんて夢の延長線上ってところだろうし、推定無罪で万事解決である。しかし、おかしいな。
「……昨日の晩の記憶がないんやけど、僕、いつの間に寝てもうてたんやろ?」
『さっそく名を体で表さないでください。馬鹿くん。』
『どうして私が寝起きの貴方へ開口一番に布団の心地を聞いたのか。そこからある程度の推察はできないものなのですか。』
……あらやだ。朝っぱらからナゾナゾなんて、馬鹿な馬鹿くんに解けるわけ、、、
「……あれ。制服のまんま。……う〜ん、もしかしてなんやけど?」
『コンビニ弁当を食してすぐのことです。和室でくつろぐように座ってしまったのが最後でしたね。』
『私が目を離した隙に、貴方は気を失うように熟睡していました。』
『何度か起きるよう試みましたが、私の根負けでした。あろうことか私の顔で無様な間抜け面を晒して眠ってしまうものですから、本当に呆れて言葉も失っていたのですよ。結局そのせいで私が布団を敷いて、貴方を運び、貴方に布団をかける羽目になったのです。』
「……お布団、その幽霊の状態でも敷けたんですね」
『そうです。私が、敷いたのです。お礼ぐらい欲しいものです。』
嫌味をこぼしながらも、岸辺さんはスイッチの切れた僕の世話を焼いてくれていたらしい。なるほどね。なるほど。でもお礼は述べない。お礼を述べないのは、なにか深い理由があってではなく、ただお礼を述べたくないからである。僕はね、岸辺さん、お礼ってのは心の奥底から出てくるべくして出てくるものだから意味があるのであって、心にもないことを言うもんじゃないって思うんだ。だから僕はお礼を言わない。これは勇気の(お礼の)切断なのです。
「……よく寝た朝はいい朝だ。なぜならよく寝たから」
『お礼はまだですか?』
「……なんだろう。いい朝ってのは、主観なんだよね」
『お礼はまだですか?』
「……う〜ん、朝日だ。気分がいい。僕の心はさながら太陽のように上昇し、誰からも邪魔されることのない光合成を享受しているようだ」
『お礼はまだですか?』
うるせぇ!なんだか負けた気分になりそうだから意固地になっている僕にも責任はあるのだろうが、それにしたってうるせぇ。ひと昔前のWindowsにいた謎イルカさんかお前は。消す方法調べんぞコラ。
「……にしても、まだ六時なんか。まだまだ早朝やんけ。もう一回寝たろかな」
そうは言ってみるものの、意識は覚醒しきっている。二度寝のベストコンディションには程遠い。
ぐぅ〜っと、両手を天井めがけて伸ばし、筋肉と血が身体の内側で躍動する。
改めておはようございます。しっかし、朝からサイレンとは、何ごとだろう。
「……岸辺さんも、あのサイレンの音で起きたんですか?」
『私は眠っていません。眠る必要がなさそうでしたので。』
「……眠たくなんないんっすか?」
『必要がないことに欲求は伴いません。幽体であることの恩恵ですね。』
……本当にそうかなぁ?必要がないからこそ、人は欲が出てくるもんだし、その欲を人は抑えられないもんだし、そのせいで人は休みの日に無為無策のまま日暮れまでベッドから動けなくなっていまうってもんではないでしょうか。そんなことをマズローさんが言っていた気がするのだけれども、いいや、この岸辺織葉とかいう奇人変人変わり者を人の範疇に代入してしまうことはちょっと無理ってもんかもしれない。僕としたことが、僕としたことが。
『なにか?』
「……いえ?」
さて、起きてしまったのだ。起きてしまったからには、なにか起きていないとできないことをしていないとムズズっとする。
ご飯にしようか。いいや、ご飯なんてない。ないったらないのだ。
買いに行こうか。いいや、お金なんてない。ないったらないのだ。
散歩に行こうか。いいや、意欲なんてない。ないったらないのだ。
なんにもないな、おい。
「……ふぅむ。……それなら、」
寝ぼけ眼で望まず寝巻きになってしまっていたセーラー服の胸元を覗く。案の定、汗だくだ。そうだった。暑い。暑いのだ。夏なのだから。だからせっかくのセーラー服も、ほら、一部界隈で付加価値がついてしまいそうな有様である。日本のGDPのことを考えればひとつ飯の種とでも思って思い切るのもやぶさかではないのだが、僕は仮に値になるとわかっていてなおも所有することに重きを置くタイプの人間だったらしいのでやめておく。
つまり、僕はいま無性に着替えたいのである。
「……よい……っしょっと」
『何をしているのですか?』
『何をしているのですか?』(筆圧濃)
「……え、いや、着替えようかと」
見ればわかるじゃないっすか。なんなんすか。あ。あと、セーラー服を洗いたいかな。いまから洗濯となれば登校時間までに乾燥は間に合わなさそうだから、予備があるか聞かないと。
と、あまりに常識的な思考である僕に、どこか焦ったような筆圧で文字列を綴る奇人変人代表の岸辺さん。
『着替えたら裸になるじゃないですか。』
「……え、あ、はい。そうっすね?」
『裸になるということは裸を見られるということじゃないですか。』
「……まぁ、そうっすね。そうなりますねぇ。……あ。風呂も借りさせてもらってもええですか。いやぁ、もうべちょべちょで、風呂に入ってスッキリさっぱりとしたいのですよ。髪もほら、ボサボサで。僕ってばお風呂に夜と朝と入らなければ気が済まないお風呂の妖精さんでして――――――」
筆記音。筆記音。筆記音。
『許可しません。』
「……ええ。なぜ?」
『逆にどうして、許可が出ると思うのですか。』
『裸を見られるのですよ。由々しき問題です。』
えぇ、別にいいじゃん。減るもんじゃないんだし。と口をつきそうになる、そのほんの刹那、あぁ、いや、よくないか、と死んでいた僕の理性がすんでで食い止める。危ない、危ない。昨今の「どこからどこまでがセクハラかわからん!」とケツも触られたことのない中年男性みたいな発言をするところだったぜ。
しかし、まいった。
風呂にぃ入りたい。
「……なるほど。確かに、由々しき問題ですね、それは」
僕は、文字列の綴られる白紙の前に対面するようにあぐらをかく。
そして、まっすぐ透明な幽霊と相対する。こころなしか、身構えているかのような、そんな存在感の前で、
「……しかし、こうとも思いませんか。不衛生で、周りから臭いと指摘をもらう方が、由々しき問題だと」
交渉を持ちかける。
「……僕はね、常々思うんですよ。デブとかハゲとか、人の身体的特徴をあげつらって指をさして笑うだなんて恥ずべきことや、と。だって変えられないことですからね。だから君の、ひいてはいまの僕の胸事情とか、……ふふ。……笑っちゃダメだと思うのですよ!」
『呪いますよ。』
やめて。シャレになってないから。
「……しかし、ですよ。個性やらなんやら御託を並べてさも自身の努力不足の自己責任を社会様に肯定してもらおうって連中は、申し訳ないのだけれども鉄面皮を被った恥ずかしいやつらとしか思えんのです。笑われたっていいじゃない、っていう殊勝な心がけなら否定をしませんが、やはりできることはしておいて損はないと思うのです。
……例えば、そう。それは体臭問題です」
シャープペンシルの軌道がピタリと止まる。
「……いやぁ、かねてより選挙中だけいいことをいう政治家の戯言とか、思わせぶりな女の子の甘言なんかは重罪として司法は処理をしなければならないものやと思っていたのですけれども、またいっぽうでバスの密室やら電車なんかの隣席で、なんとも独特なスパイシーを放つ乗客も然るべきかじゃないかと。臭いんじゃないのかもしれません。臭いんじゃないのかもしれないのだろうけれども、その独特さは、なんといったらいいのか、うるさいキモい汚らしいよりも時として人の気分を害する結果になりうるのです。
……ところで、くっさい女の子って、どうです?」
『私は臭くありません。』
「……岸辺さんのことは言ってませんよ」
『私は臭くなりません。』
「……それはちょっと無理がありません?」
よし、効いているぞ!落とせる!間違いなく、コイツは落とせる!
いまのコイツはさながらピサの斜塔だ。蹴れば地盤沈下で崩れる!
「……いやぁ、仕方がないにゃあ。諦めるしかないのかにゃあ。まぁ、僕は色んな意味で居候の穀潰しみたいなもんやしなぁ〜(棒読み)。やったらこのまま今日という日を汗だくのセーラー服とボッサボサの髪に下着も変えずボリボリ爪で肌を掻いたそばから垢がポロポロ落ちるようなくっさい女のまま出迎えるしかないのかしらん。いや、迎えるしかない(反語)。迎えるしかないんや(追い反語)」
我ながら熱弁だった。その熱波はさながら夏の鳥取砂丘である。
「……あぁ。叶うのならば、お風呂につかりたい人生だったなぁ」
……沈黙。続くのは沈黙だった。
それは肯定ではない。
だが、否定でもない。
どうだ。
緊張が走る。汗だくの肌に、また一縷の汗が伝った。
『許可 し ます』
ヨォし!!
『ただし、条件があります。』
『視界は塞ぎます。』『身の回りの全てを私が行います。何も触らないでください。』『音もなるべく聞かないでください。』『息も極力抑えてください。』『あと次に私の身体的特徴に言及すれば貴方を呪い殺します。』『守らなかった場合も呪い殺します。』『私が上で貴方が下です。』『徹底してください。』
あれ。なんか割と不平等条約を結ばされそうになっている気もするが。
しかし、交渉とは得てしてこんなもんだろう。日米もそんな感じだし。よし👈🐈。
ともかく風呂!風呂だ!幸せは、いつだって風呂の中にあるんだ!
***
七月二十二日、午前六時十分。(◼️◼️)
諸兄諸姉の皆皆様、聞いてばかりでごめんなさい、目隠しとかされたことはありますか?
目隠しというと、その含意は千差万別といっても差し支えはなく、かたや戦々恐々おどろおどろしい場面から、かたや亀甲縛りさながらあだあだしい場面とも受け取れるという、それはもうあまりにも広い意味合いを持つ行為であることは言を俟たないものなのです。
「……むむむ」
え?いまの僕はどっちかって?どっちなんでしょうね、これ。
「……あの、目隠しをされながら服をひん剥かれて裸にさせられるの慣れてないんですけど、このまま立ってるだけでええんですか?」
されるがまま、なされるがままに、一枚一枚衣類を取られていき、残すところは下着のみとなっていた。
手拭いタオルを顔面に巻かれ、視界を塞がれたまま脱衣所に押し込められたかと思えば、戸惑いの間隙もなく脱がされる。これはアダルティックと言われればアダルティックな気もするけれども、どちらかといえば介護ティックな気もしなくもない。少なくともエロティックではない。複雑だ。
「……思うんですけど、これやとコミュニケーションが取れんですよね?」
しばしの沈黙。のちに、
「アヒャん!」
嬌声。裸体となり露出している肌に、何かがなぞられる。
それは線となって、……やがて文字だと気づく。
……なになに。『しゃべるな。』と。あ、はい。
「……いや、でも。そんな融通の効かない看守みたいなことしてたって続かんでしょう。おしっこの時とかどうすればええんですか。いちいち排尿のたびに「岸辺さん!おしっこに行きたいで候(そうろう)(候と早漏を掛けている)(うまい!)」とかなんとか言えばええんですかアヒャん!!!」
『がまんして。』
「……無理言わんでくださいよ。その場で漏らしますよアヒん!!!」
『うるさい。』
『もらしたら、』
……漏らしたら、なんなんですかね。漢字でしか書けないことですかね、殺すとか呪うとか滅するとか。キャ。
しかしこの女、口は悪いが手際がいい。みるみるうちにひんむかれ、躊躇いなく下着を下ろされたのち、やがて僕は裸となる。天衣無縫。カムバック裸族。故郷への帰還である。ちょうどホームシックってたから助かるが、こんなにお色気のない脱衣があっていいものなのだろうか。
「……いやん」
『◯ね。』
やだこの人、とうとう包み隠さず。
様式美に百合の花を添えることさえ許されず、視界不良で敏感になった五感は冴え渡り止まるところを知らない。聴覚は折りたたみドアの開扉音を聴き、肌色の肌で湯気をかぶる。湿度を全身に浴びながら、不意に甘い香りが鼻腔をくすぐった。なんだろう、この香り。バブかな。バブだろ。風呂原理主義者の僕みたいなやつはバブの存在を許さないって思われがちだろう諸兄諸姉に言及しておくと、風呂ならいいんだよ、温泉ないし銭湯はダメだろ、とだけ付しておくこととする。
『からだ、』
『ながします。』
サブン!と桶の水を浴びせられた音を知覚するのが早かったか、露出した肌が紅帯びるのが早かったか。
どのみち、待ちに待った風呂だ。
鼓動が高まり、興奮で有頂天である。
「……では、失礼します!」
礼節をわきまえ、足の指先から湯船に沈める。
その快感はまさしく天上天下唯我独尊、儚い理性などなすすべなく、ずるずると堕ちるように湯に身体が堕ちていく。あぁ、極楽だ。極楽はここだったのか。「あぁあ゙あ゙あ゙あ゙あ゙」と声帯が極限をもって気持ちよさを体現し、呼応するかのように血の流れが豊かになることを感じる。
気持ちがいい。
と、視界が黒から白へ。目隠しを外されたらしい。
「……ええんですか?」
しかし、僕の憂慮など、この才媛にはお見通であったようで、
『バスミルクです。使い残しがあったので。』
風呂の壁の結露に文字が浮かぶ。
ドヤ顔が見える見える。このお勉強の虫さんがわざわざ入浴剤を所持していたことに驚きを禁じ得ないが、なるほど、この濁った湯船であれば裸体が見えなくなる、と。すごい!賢い!僕でも思いつきそう!
「……はぁ。ええ湯や。目隠しのまんまじゃ風情がなかったからなぁ。風呂は五臓六腑まで楽しまないと」
きもぢいい。イェイ。イェイ。風呂、最高。風呂、最高。みんなも風呂最高を叫びなさい。
はい、いっせーのーで、
「……あ゙あ゙あ゙、い゙きがえ゙る゙」
『ここまで喜んでもらえるなら冥利です。』
「……この狭さがええんよ。広いとかいらんのです。うん、この狭さ。こーいうのでいいんだよ、こーいうので」
『記憶喪失でも入浴の記憶はあるのですか。』
「……そりゃ、昨日の朝にも入ったしねぇ。あ゙あ゙あ゙」
『初耳です。』
「……言ってなかったけ。すんません。あまりに汗だくだったのでつい『初耳です。』」
……。…………。
……おっと、マズったかな。これはマズいのではないのかな。う〜ん。うん。マズったな?
『何がまずいのですか?』
お前、無惨様かよ。
「……いやぁ。たはは」
『いえ、言い訳は結構です。』
『一人で入浴をしたということですね。なるほど、つまり一人で入浴をしたということです。一人で服を脱ぎ、一人で裸体を晒し、一人で体の隅々まで泡立たせ、そんな私の体を一人で視姦したということになります。それは、それは、さぞ気持ちが良かったことでしょう。』
「……」
『馬鹿くん。』『お湯加減はいかがでしたか?』
……スーーーっ。
……失言だった。
……こういったとき、先人はどうしていたのだろう。記憶喪失で見ず知らずの女の子の身体に憑依した先人の方がいるのであればぜひ拝聴したい。
「……弁明の余地は?」
『一言だけですよ。』
「……視姦は、してない」
午前六時、パチンと景気のいいビンタ音が浴室にこだますることとなる。幽霊にシバかれるだなんてボケを生き甲斐にする関西人きっての得難い経験を得た僕ではあるけれども、後世に自叙伝を認めることがあったとて、僕はこの有史以来の出来事を残さないであろう。もう一発は勘弁だからね。
***
七月二十二日、午前六時四十五分。(◼️◼️)
「……このあと学校には行こうと思うねんけど、岸辺さんはいかがしますか?」
脱衣所にて。目隠しのタオルを再装着され、かの着せ替え人形のように衣を着させられていく。
『とうこうするの?』
『なぜ?』
肌越しに文字として伝わる疑念。不思議だった。この人のことだから、無理をしてでも行けと折檻を受けたって納得できると思っていたのに。昨日も、授業がぁノートがぁ云々と文字を綴っていたのだから、登校に関しては積極的なものとばかり思っていたが。
「……まぁ、いかん理由がないから?」
もう明日には文化祭らしいし。
「……岸辺さんはどうです?行かんのです?」
登校に際して幽霊の一匹や二匹ついてこようがたいした差異はない。守護霊だと思えば心強いぐらいだ。しかし岸辺さんの回答は遅い。決めあぐねているのか、もしくは口実を探しているのか。しばらくして肌に『✖️』と二本線を綴った。欠席のようだ。
「……正直、来て欲しいのですが。それでもですか?」
もともと、この身体は自分のものではない。岸辺さんのものだ。
あまり自分がでしゃばりたくないってのもある。
あと、単純に他人が自分を岸辺さんだと思って話しかけられるシチュエーションの負担が重い。
『すみません。』
しかし、返答はやはり固辞だった。
いや、謝られるほどでもないのだが。
『すみません。』
……なぜ、二度も謝るのだろう。別に気にしなくてもいいし、気にもしていないし、気にされるほどのことでもない。
誘っておいてなんだが、些細な問題なのだ。幽霊である岸辺さんが同伴して登校するってなっても、所詮は幽霊なのだから、できることなど限られてくる。もちろん岸辺さんの身体を預かっているのだから、その岸辺さんが一緒にいてくれるとなれば心強くはあるが。
「……そうですか。わかりました。今日はなるべく直帰しますんで」
……。
……返答はなかった。
あまり深入りすべきではないと思い、閉口する。黙れと言われて黙らなかった口が、こうも重くなってしまうとは思わなかった。岸辺さんという人間と出会ってまで一日と経ってはいないけれど、なんとなくわかった、だなんて思っていたのは思い違いだったのだろうか。
「……」
手が止まっていた。手といって齟齬がないのかは不確かだけれども、少なくとも僕は下着姿のまま脱衣所に取り残されていた。
ふと、目隠し用のタオルがズレる。おのずと光が視界に流入し、色をなし、判然とした下界がありのままを表す。
「……?」
そこで一つの不思議と逢着する。
些細なものだった。言及するほどのことでもない些細なことだ。
しかし、明確な差異として、違和感を想起せざるを得なかった。
(……なんで、姿見鏡が後ろを向いているのだろう?)
かつて、……といっても昨日ではあるものの、そこにあった姿見鏡は確かにこちらに向けられていた。
僕はこの姿見鏡で岸辺織葉の皮と出会ったのだ。出会い、困惑し、逡巡した、その重要なファクター。
僕がこの違和感の正体を知るのは、もうすこしあとの話だ。
だが、あれだけ恥ずかしがっていた自身の裸体を掩うための目隠しタオルがズレていることさえ気が付かないほどの事態であることを、僕はもっと真剣に考えておくべきだったのだ。鏡。姿見鏡。自分を映す鏡。古くより、鏡は神事と深く根付くと聞く。ともすれば、鏡は僕の思っていた何倍も映し出してしまうのかもしれない。
例えば、例えば。
自分の罪のカタチだとか。
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