第二章 岸辺織葉
第6話 岸辺織葉とかいうとかいう謎の女
七月二十一日、午後十時十三分。(◼️◼️)
照明の周囲で光の取り巻きを気取る羽虫どもごときに行手を阻まれる僕ではないことを証明するべく、無謀にもただまっすぐ直進、ポップでステップなミュージックを背にコンビニエンスストアに入店する。蒸し暑い日に虫なんて無視なんつってねウぇ。蜘蛛の巣が、顔にッ。ウぇ、ウぇ。
「……うぅ。……あ、涼し。……虫畜生も入ってくればいいのに」
そうなれば僕は出ますけどね。キモいからね。仕方がないね。
夜半午後十時過ぎ。コンビニエンスストアの店内には意外にも数人の客がまばらに買い物中だった。レジに並ぶ列はなく、店員はまるで残りの刑期を指で数える囚人のように、大きなあくびを気に留める様子もなく品の陳列を行っている。
「…………あ、はい。すんません。さっさと買い物を済ませますね。……はい」
ところで、ミーは何をしにコンビニへ?と兄姉諸賢はお思いだろう。何をしにきたかと問われればお察しの通り夜ご飯の調達なのだけれども、どちらかといえばそれはついでな気もするし、いやいや生命活動の維持のためだと力説されればそうな気もしてくる。とりもかくさずいえば、僕はいま頭を冷やしたいのである。
「……お、おるん、ですよね?」
……。
「……あ、はい。すみません」
我が家の冷蔵庫事情はさながら草木も生えない北極圏のような有様で、それはもう人様の住まうアパートとしてはまるで許容できる内容ではなかった。二、三日雨風を凌ぐホテル生活でもないのだから買い込んでおきたい気持ちもあったが、いかんせん予算は決めてある。いや、正しくは予算を“決められてある”。だから今晩は今晩ぶんだけの買い出しだけのつもりだ。ちなみに、今晩の予算は四百円である。
「……物価高の日本で四百円ぽっちじゃあ、…………あ、いえ。文句とかではなくってですね、……あ、はい」
節約節約と世俗の皆さまはいいますが、節約の結果に滞ったデフレーションはマクロな経済でみればより貧富の差を如実とするだけの行為であり、世のため人のためを思えばいま僕たちはありったけの贅沢で宵越し銭を持たない生き様を晒すべきなのかもしれないのですよ。そうだ。これからの子どもたちの未来を思えば、こんな味の落ちた値引き弁当ではなく、ちょっと豪華にお惣菜チキンでも……。
「…………くっ。……わ、わーい。この半額ひじき弁当オイシソウダナ〜」
そそくさと僕は398円の弁当を拾い上げ、レジで店員に渡す。
温めしますか、と聞かれた。お願いします、と言った。
箸いりますか、と聞かれた。お願いします、と言った。
レジ袋をもらいそびれてしまったけれど、一抹の逡巡が「袋ください」の口を塞ぐ。無料でもらえていたレジ袋がいつしかお金を払えば無料でもらえるレジ袋になっちまってからというもの全国民がどうにも覚えてしまう罪悪感に勝てず、っというよりも予算が超えてしまうことへの何処からかの無言のプレッシャーに怯み、僕は素手であっつあつな弁当を持ち上げホップでステップなミュージックを後にした。
「…………今晩はひじき、かぁ」
琵琶湖沿いの街道は夏の濁った匂いがした。
肺に溜まっていた空気を、大気の如く吐く。
夜空に舞う月光を眺めながらも綺麗だとは言ってやれない心情の渦中で、弁当を片手に持ち替え、もう一方の手で学生手帳を開く。否、“開き直す”。ここまでの道中、コンビニに赴くために靴を履いた時から、コンビニの出入り口でたむろをなす羽虫どもに再戦を挑むまでも、ずっと肌身離さず持っていた手帳を、僕は親の仇かのように睥睨するのだ。
「……なにがどうなったら、こんな目に遭う道理が成り立つんや。まったく」
学生手帳の白紙だったページは、今朝の面影をなくし、文字列にうなされていた。
いっぺんの狂いもない、機械的なフォントによって。
………………。(最新のページ)
『空腹なのですか?我慢できないものなのですか?』
『我慢できませんか。そうですか。我慢なりませんか。図々しいとは言いません。どうぞ、私のなけなしの所持金で私腹を肥やしてください。』
『ところで、私は人から食事を奢られたことがありません。楚々として精進し、謙虚に学び、阿諛追従たる生き様を恥と心得ていたからです。』
『すごいねではないのですが。』
『まさかとないとは思いますが、財布の中の二千円をそのまま使うつもりではないですよね。』
『400円です。400円であれば、拠出を許容します。』
『まさかその口で悪態を吐こうとしているのですか。』
『このまま学生手帳を開いたままにしておいていただければ、適当なタイミングで記入しますので。』
『あいうえお。』
『前を向いて歩いてください。その体で怪我は許しません。学業に響きます。』
『店舗入り口で立ち止まらないでください。人の迷惑など考えられませんか?』
『いちいち私の存在を確認しないでください。鬱陶しいです。』
『何か?』
『まだ何も書いていませんが。』
あぁ、うるさい、うるさい、うるさい。割った竹で引いた線の上で書かれたかのような整然たる文字列は、ただひたすらに機械フォントで、慇懃な物言いとは裏腹に文字列のくせしてうるさいが限界突破している。普通にうるさいが限界突破する分には耳を塞げばいいのだが、ちょっと奇抜なうるさいである今回は街道で目を塞ぐわけにはいかないために耐え難い苦痛を強要される。
再度、ため息。本当に、どうしてこんなことになっているのだろう。
「……記憶喪失云々でも既に充分キャパオーバーやのに……。
……なぁ、“岸辺織葉”さん」
うるさい文字列から目線を外し、月の鏡を気取る琵琶湖の方へ視線をあげる。
虚空であった。無色透明無味無臭。よほど大気中に占める窒素の割合に驚きを禁じ得ない化学初学者でもなければ空気をはむような真似はしないだろうが、確かに僕は空虚な虚空に話を投げかけたのだ。意図的に。それを“岸辺織葉”と呼ぶのだ。
「……あんたはいつからそうなんですか?」
正体見たり。
ポルターガイスト。
「……あんたはいつから幽霊になったんですか?」
一拍の間を置き、空虚な虚空は実像をなすかのように、ひとりでに文字列を綴り出す。はたからみれば、否、そばからみたって、これは異常そのものだ。その流暢な書きっぷりに感嘆するいとまもなく、またモノホンの怪奇現象に喫驚ばかりの悲鳴をあげる隙もなく、あたりまえのように並べられていく文字列は、その神秘性を全否定するかのような合理的解答を突きつける。
『私の現状が幽霊であると定義するのであれば、』
『今朝からです。偽物さん。歩きながらでは私の身が危ないので、そこのベンチに座りましょう。』
さながら自分が岸辺織葉であることを主張するように。
さながら自分が岸辺織葉ではないことに疑義を差し込まれないように。
『実は、私も貴方に興味があるのです。』
岸辺織葉は、無色透明の幽霊でありながら、犯されない自我を見せつける。
***
七月二十一日、午後十時二十八分。(◼️◼️)
現実逃避の行く末は、月光と琵琶湖、木製ベンチに湿度70パーセント。
あとはドーナッツの穴のような空虚であり虚空であり、幽霊がひとり。
この無色透明から逃げようって意気でここまで来てしまったのに、その逃げ出す先に無味無臭がついてきてしまっては逃げられないと悟るのにアホな僕でも時間を要しなかった。まったく、空気みたいなやつのくせして空気の読めないやつである。
『伺うところによれば、貴方は記憶喪失なのですね。』
筆の音。
「……そうですね。記憶喪失について詳しくはないですけれど、名前と住所と交友関係がわかんなくなっちゃうことを記憶喪失って言うんやったら、僕は正真正銘の記憶喪失ってことになるんかと思います」
岸辺さんは、確認というよりも整理するかのように再び文字を綴り始める。
思えば、これがちゃんとした初の会話かもしれない。投げられたボールを、正しく返球できた気分だ。出会った当初のこと、数時間前のことだけれども、本当にパニックだったものだから何も憶えていない。茫然自失と着の身着のままの逃避行の先でパニックの元凶と向き合わなくてはならなくなったのは想定外だったけれども、湖畔の風は頭を冷やすにはちょうどよかった。
『貴方の起床時刻は午前六時頃。八時頃に登校。』
『どうして、登校しようと思ったのですか?』
「……ここにずっといてもなんの解決にもならなさそうやった、から?」
我ながら思い切った行動だったと思う。自分はみんなのことを知らないけれど、みんなは自分のことを知っている空間。そんな空間は、澱んだ川の中で息をするかのように息苦しく、あのままだったならあぶくを眺めながら溺れてしまっていただろう。“あの人”がいなければいまごろどうなっていたかわからない。
『おかげで私と入れ違いました。』
「……存在を知らなかった相手を待てとでも?」
……ん?入れ違い?……すると、あの時点(裸で部屋を散策したり、裸で赤本の問題を解いていたり、裸で窓から身を乗り出してみたり)では彼女はいなかったということだろうか。確かに存在感はなかったように思う。あっぶね。もうすこし登校時間が遅れていれば瞬コロされるところだったぜ。
『不便もあったでしょう。頼れる人もいませんからね。』
『授業内容はちゃんとノートにまとめられていますか。』
「……あ、びっくりした。心配されてるんかと思った」
『心配しているではありませんか。』
「……心配されていないんだよなぁ」
心配しなくとも早退だからノートも取れてねぇよ。と、口を滑らせでもすれば第三次世界大戦の引き金になりかねないから僕は大人の判断をしておくことにした。危ないよね。飛行機と核爆弾の次がオカルトとか、世界滅びかねないからね。さしずめ僕はたったいま世界を救ったといっても過言ではない。
『なら心配して差し上げます。』
『学校生活はいかがでしたか。不便もあったでしょう。』
「……まぁ、そうですね。ただ助けてもらえたので」
『誰にですか?』
「……友達、やね」
『友達ですか。どなたのですか?』
「……あなたの以外に誰がいるっていうんですか。
……賤霧凛さんです。ご存知あるでしょ?」
『私に友達がいた覚えはありませんが。』
「……まぁた、強がっちゃってさ」
『何か言いましたか?』
「……星が綺麗だなっ、てね!」
『そうですか。余談ですが、自分の容姿でも気持ちの悪い言動はそのまま気持ちの悪いものとして思考が処理するのだと今さっき知見を得れました。ありがとうございます。また一つ無駄な教養を身につけることができました。』
そよ風が吹くように生徒手帳のページが捲られ白紙が現れる。
そうですね。気持ち悪いですよね。そうですよね。……風情を知らぬ小娘め!ぺッ!
「……で!次はこっちが聞きたい番なんですけど!いろいろ聞きたいことしかないんやけど、まずは、
……それ、どうなってるの?なんで幽霊になってるの?」
『私にもわかりません。』
「……そりゃないよ。寝て起きたら幽霊になってましたって、フィクションじゃないんやから」
『しかし、現実です。起きたらこのようになっていました。』
「……ホンマに?」
『不毛な会話を続けるおつもりですか?』
……問い詰めるべきか。いやしかし、問い詰めるだけ無駄か。嘘か誠かこれだけでは峻別がつかないが、僕の詰問で、この岸辺織葉とかいう女が口を割るとは到底思えない。たかが数時間前に出会ったばかりだけれども、この身体になってからというもの、岸辺織葉という人物について考えに考えてきたのだ。
そんな僕の勘だが、こいつは絶対に口を割らない。
加えて僕の勘だが、こいつは嘘“は”言っていない。
そんな気がする。
「……なら、この一週間ちょっとどこにおったんや。……あんな気の狂いそうな自主勉ノートの空白が一週間で、真面目に拍車をかけた真面目生徒が無断欠席も一週間。グレたにしては急すぎるし長すぎる。……なんかしとったか、なんかされとったとしか考えられへんけど?」
虚空を睨むように目を眇める。
だが、返答は淡々としたものだった。
『眠っていました。一週間。』
「……ずっと?」
『はい。すやすや、でした。』
こいつ、どのツラさげてすやすやとか綴っているのだろう。眉間に彫刻刀の跡があるような女だぞ。ネットの情報商材ぐらいに怪しいけれど、悔しいかな、得心のいくことが多い。
だから起床時、ああもフラフラだったのだ。食っていないのだから当然だ。
だから熱中症だったのだ。あっつい部屋で寝ていればそうなるのは当然だ。
だから教室で倒れたのだ。一週間をもぶっとおしで寝ていたのだ。当然だ。
そうか。なるほど。
納得してしまった。
「……まぁ、それでいいです。すると、岸辺さんはいつから幽霊になってしまったのです?」
『今朝からです。九時ぐらいでしょうか。だから入れ違ったのです。』
あぁ、なるほど。入れ違うとはどういう意味かと思っていたが、まだ意識がなかったから。
……なるほど。
……なるほど、と思う反面、いいしれぬ違和感も内包しているようにも思う。ちょうどすぎやしないだろうか。一週間もの期間があり、どうして七月二十一日という日に僕と岸辺さんが(多少のタイムラグがあったけれども)同時に覚醒したのだろう。二十日でもよかったわけだし、二十二日でもよかったわけだ。
「……なんか、今日って岸辺さんにとって特別な日だったりするのですか?」
『藪から棒に。なぜですか。』
『七月二十一日は、特に思い入れのない日です。』
……なおらさ謎だ。
……う〜ん。
……わからん!
「……まぁ、ええか。ところで、」
もう一個、聞いておかなくてはならないことがある。
「……なんで和室の窓ガラスが割れとったん?」
シャープペンシルが止まった、気がした。僕はアパートに戻った夕方五時の廊下の風景を回顧する。
たなびくカーテン。吹き抜ける一陣の風。そして、割られた窓ガラス。
割られた窓ガラス。
異変に気付けたのは、透明な存在感よりも先にこっちだったように思う。いまわかってきたそれぞれの異変の理由は、とてもじゃないが非科学的なものばかりで嫌になるけれども、一足飛びの論理はかろうじて成り立っているようにも思える。しかし、窓ガラス、これはどこか暴力的な匂いが滲むのだ。まるで窓枠に残る歯形のガラス破片が、さながら血流を滴らせているかのように。
「……割られたガラス片が外にあったってことは、あの窓ガラスは内側から割られとったってことや。
……いろいろ考えたんやけど、……岸辺さんが割ったん?」
シャープペンシルで文字を綴ることが可能なのだ。
物理的接触は可能だと考えていい。
一瞬、帰宅後のアパートで岸辺さんに追い詰められたことがフラッシュバックする。僕は逃げたのだ。振り返ることすら躊躇われる君から、一目散に逃げたのだ。その時の君の表情を、僕も、きっと君自身も知らないだろうけれど、
「……答えられん?」
それは、悍ましいものなのではなかったのだろうか。
『びっくりしてです。』
そんな僕のかすかな疑心に対し、返答はあまりにも簡素なものだった。
自分がやったのだと白状したのだ。
ただし、意図的ではないとしたが。
しかし、これは僕が単純だからか真理なのかは知らないけれども、得心がいく。なるほど。朝目が覚めて幽霊になっちまっていた女の子目線で一日が始まるとすれば、きっとクールで冷静沈着な始まり方ではないだろう。ひとしきり暴れ回ったって、誰も咎めやしない。
なるほど。
なるほど……。
なるほど、なのだが。
「……?」
僕はこの日、この会話で、
はじめて、嘘っぽいと思った。
『帰りましょう。深夜前に学生が一人では、警察官に怪しまれます。』
ただ、生じた疑念に明瞭な言葉が紐づかない。結果、僕は岸辺さんの提案にとぼとぼと従うほかなかった。
帰ろうか、岸辺さんのいう通りだ、と、腰を上げスカートを払う。ただふと学生手帳に筆圧を感じ、そこに視線を送る。新しく文字列があった。なんとなくどこか他の文字列のなかに紛れ込ませたがっているように見えたその文字列には、
『今日は、本当に七月二十一日なのですか?』
と、まるでその意図が測れない言葉が綴られていた。
「……そのはず、やけど」
僕は小首を傾げる。どうしてそこに改めて疑問に思うことがあるのだろう。和室に日付のわかる電子時計も置いてあったはずだ。一週間ほど意識がなかったから自信がなかったのだろうか。それでも、わざわざ僕にそんなトンチキな質問を投げかけるぐらいなら、さっきのコンビニの新聞かスポーツ誌でも目を通せそうなものだが。
『弁当が冷えてしまいます。帰りましょう。』
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