第5話 そして、物語は動き出す

 七月二十一日、午後五時十二分。(◼️◼️)


 アルミ材の外階段は、いきがけに違わず錆の腐食が凄まじい。きっと折れるか曲がるか抜けるかで怪我人ないし死人が出るのはそう遠くないだろう。そのときは目元に一本線の入ったインタビューでこう答えてやろう。「やっぱりな」と。


「……ただいま。マイハウス」


 早退の身分でありながら夕方帰宅とは我ながら図太い神経を持っているようで安心した。

 しかし、もうちょっと図太さが逞しければお泊まりとかあったんだよな。可能性として。


「……帰ってきちゃった。マイハウス」


 あの小悪魔さんめ。しきりに僕を誘惑しやがってからに。僕が理性のある獣だったから良かったものの、純真無垢をいいように解釈したラノベ主人公だったならばいまごろ「はわわ⭐︎気になるあの子とお泊まり会!?♡」まで秒刻みだった。なんなら「勇気の告白⭐︎粉砕!玉砕!大喝采!」まで残り数行だった。あぶね、人生打ち切り最終回をギリ回避したぜ。

 

「……しかし。頭が上がらんな。あんな恩、どないしたら返せるんやろ」


 思い返すたびに数えきれない恩があった。

 ひきかえ、僕のていたらくは目に余った。


 ――――――財布から鍵を取り出し、

 ――――――鍵を、鍵穴に差し込む。


 気づけばカラスも鳴き止み、山々に太陽が沈む。

 肥大化する影は、次第に闇に飲み込まれる。


「……情報収集の結果、“岸辺織葉”はずいぶんと優等生やったんやろなって印象やな。姿見で見た感想そのまんまやけど。教師からも一週間の無断欠席にも関わらずお咎めはほとんどなかったし、凛さんの口ぶりからしても勉強三昧やったんやろ。……勉強三昧とか単語としての違和感半端ないけど」


 ――――――鍵穴に差し込んだ鍵を回す。

 ――――――ガチャリ。無機質な音を発する。

 

「……ぶっちゃけ。情報収集と胸を張れるほどの成果はなかったな。まぁ、一日目やし、こんなもんやろけれど、明日からはもうちょっと本腰入れて探っていかんとはたして何万年かかるかわからん。聞けば明後日は文化祭なんや。そこで岸辺織葉の交友関係ぐらいは整理ができればええんやが」


 ――――――錆を削り、重いドアを開ける。


「……ただ、わからんことがわかったってのは収穫や。ここ一週間、てっきりなんらかをしとったんやとばかり思っとったけど、……バリバリ優等生だったのであろう岸辺織葉が、どうして連絡もいれずに無断で学校を欠席したのか。真面目一徹の人間がそのような素行不良を能動的に行うとは考えられん。何かをしとった、んじゃなくって、何かをされとった、って考えるべきやないんか?」


 ――――――ギギギと、不健康なドアの叫びを横に。

 ――――――仄暗い廊下が斜陽色を侵食するを背に。

 ――――――ガチャリと、錆鉄のドアは閉ざされる。


「……岸辺織葉という人物像が、なんとなく、わかってきたように思う。思い違いかも知れんけど。きっと優等生で、己が習慣に固執する変人。親の痕跡もないから一人暮らしなんやろか。……それら含めて、これからいろんなことがわか、れ、ば、……」


 それは、ふと、異変とも捉えられない些細な“違和感”だった。

 ……暗鬱とした、陰鬱とした、一直線の年季の入った廊下。

 ……昭和レトロのフィルムから引っ張り出したような台所。

 ……干涸びた乾草を粗雑に編んだだけの、それっぽい和室。

 ……そして、和室には不恰好なカーテンがゆらりとはためく。

 途端、背筋に迸るのは、身の毛もよだつ悪寒だった。“違和感”からは曖昧さが削がれ落ち、それは看過できない言語化された異変へと変貌する。


「…………あ、あれ。…………な、なんでや」


 黒い黒い靄が、呼吸をするたび肺を犯す。

 次第に、それは心臓に、臓器に、肺に、澱を残す。


「……なんで、カーテンがはためくんや。……窓、閉めて行ったはずやろ」


 確かに、戸締りはして行ったはずだ。言い切ったっていい。戸締りは確実に行なった。

 ここがどこだかわからず、自分が誰だかもわかっていない状況下で、不安がひたすらに不安を呼び込む悪循環が外出前にはあった。不慣れなアパート室内で、なにより女の子の一人暮らしなのだ。戸締りはなにをおいても“しておかなくてはならないこと“だった。


「……締め具の型は、三日月型。……ロックをするときにズズズと鉄を擦るような感覚が、あった」

 

 それに、それに、だ。記憶があるのだ。記憶喪失であるはずの僕に、記憶が。

 ローファーの踵を踏み玄関にそのまま足先でほおる。カバンを落とす。塞き敢ない不安の激語にただただ翻弄されるがまま、あまりにも無警戒に、無防備に、考えなしに廊下を踏みしめる。窓の錠を確かめたい、ただその一心だけが、ひたすらに頭の中を鐘の音のように反芻した。

 のそり、のそり、と僕はキッチン横の障子を引き、和室へと赴く。

 たぶん、この早鐘を打つ脈拍とは裏腹に、それでも楽観はあった。

 どうせ、どうせ、思い違いか早とちりだ、と。


「………………あ」


 けれども、そうではないのだ、と。

 思い知らされるのだ。


「……窓、破れとる」


 窓が破れていた。それも一部ではない。全体である。まるで質量の大きなものでいたずらに殴り壊したかのような破れ方に、吹き抜ける生暖かい風とは裏腹の冷や汗と身震いが我が身を襲う。直感を働かせるまでもない。これは、“誰かが”やったんだとすぐにわかった。


(……野球ボールでも飛んできたんか。いいや、畳にボールなんて落ちてない。ボロ屋の耐久性に問題があったのか。いいや、それでもこんな破れ方なんてするものか。これは、……こんなもの、誰かが明確な意思を持って人為的に破ったとでも考えなければ辻褄が合わない。だったら、……だったら、どうやって割ったんだ?ここ、二階やぞ。外からなんて、――――――)


 途端、これまでに感じたことのないぐらいの悪寒が背筋を走る。

 しかし、それは空回る推論から導き出された答えに対する戦慄などではない。

 もっと視覚的で、シンプルで、単純明快な“物的証拠”の発見によるところだ。


 ――――――窓の破片は、畳の床にはなかった。


 僕はどうしてか、わかっているはずのある“可能性”を無視して、それでも窓の外の整理されていない雑草だらけの地面を見ておかなければならない強迫観念に囚われていた。そんなわけがない。これは、比類いないバカな僕の突飛な思い違いだ、と。そう証明したかったからかもしれない。

 しかし、そんな甘い思考が、そううまく通るわけもなかった。


 ――――――地面には、無数のガラス片が落ちていた。


 つまり、ここの窓のガラス片は、外にあったのだ。内ではなく、外に。

 つまり。

 つまり。

 つまり。

 ここの窓は外側からの影響で破られたという可能性は低い。外側から破られたのであれば、きっとその窓の破片はここの畳の床に散らばっていただろうから。外にガラス片が散らばっていたということは、それは内側から影響で破られたということに他ならない。ここの窓は、内側から、破られたのだ。

 つまり。

 つまり。

 つまり。

 ここの窓が内側から破られたということは、誰か侵入してきていたのだろうか。空き巣や、強盗といった類が。いいや、それはない。それはないんだ。言い切ったっていい。だって、玄関の鍵は閉まっていたのだ。どれほど律儀な泥棒であったとしても、きっと、玄関の鍵は開けていくはずなんだ。だって、鍵を持っているのは、いまの僕だけなのだから。鍵は、物理的に閉めることなどできないのだ。

 つまり。

 つまり。

 つまり。

 つまり、――――――


「――――――……あ、」


 瞬間、ある“可能性”があまりにも強い衝撃を持って僕の思考を殴る。そうだ。戸締りはした。鍵は閉まっていた。しかし窓は破られていた。鍵は施錠されていた。つまり、僕がぼんやりと起床した時も、風呂に入り足を伸ばしていた時も、霰もない姿でタンスの中をあさっていた時も、制服に着替えカバンに物を詰め込んでいた時も、ずっと、ずっと、ずっと。


 

 ――――――誰かが、ここにいたのだ。ずっと。

 ――――――誰かが、ここにいるのだ。いまも。


 

 その考えに行き着くか否かの前後の刹那、それはもう反射としかいえない速度で。

 すでに、僕は和室の間を出ていた。

 警報。アラート。頭は完全に醒め、足がもつれそうになりながらも廊下を走っていた。

 廊下はいやらしいほどに滑りやすく感じた。転びかけ側のドアのぶに身体をぶつけた。邪魔なカバンを蹴飛ばした。また転びそうになりながら踏ん張り足を駆動させたが、玄関の段差に足を取られ盛大に玄関ドアに頭をぶつけた。デコから血が出た。鼻もぶつけたらしい。鼻から血が出た。だがそんな瑣末ごとなど気にもきれず玄関のドアのぶに手を伸ばした。鍵などかけていない。帰ってきたばかりなのだから。鍵などかけていない。鍵などかけて、いない、のに。

 僕の身に、朝方以来の“異常”が降りかかる。


「……は?」


 ドアはびくりともしなかった。


「……なんで」


 何度も何度も何度も何度も、捻り、押し、捻り、押し、捻り、引き、押した。叩く。叩く。叩く。

 それでも、

 それでも、

 それでも、

 ドアは、びくりともしなかった。


「……んで、あかねぇんだよっ!!!」


 これは、びくりともしない、なんて表現では物足りない。これは、鍵が閉まっているだとか、何かが挟まっているだとか、後ろの障害物があるだとか、そんな次元の話ではない。本当に、びくりともしないのだ。

 それは、まるで、まるで、壁にドアのぶだけが取り付けられているかのようで。


「……あ、…………あぁ」


 戦々恐々、滲む視界で、揺れる視界で、僕は肩を慄かせながら振り向く。

 そこにあったのは、“虚無”だった。夕日は沈み、残り乏しい陽光がかろうじて廊下の輪郭をなぞる。年季を示すかのようなフローリングの床の古傷に、何かが跳ねたのであろう汚れが壁にある。そんなどこにでもあるような生活痕を目で追えるぐらいには、“虚無”。ただ、“虚無”があったのだ。

 そう、“虚無”がそこにいるのだ。


「……くるな」


 その、“虚無”が、

 僕には“ある”ようにしか見えなかったのだ。


「……くるなっ!!!」


 僕は再び振り返り、ドアのぶに何度も何度も押し引きを繰り返す。開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け、開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け開け!!!

 血飛沫だ。ドアを無造作に殴る僕の手から、指先から、血が滴る。

 真っ白な、真っ白な、真っ白な怒りの矛先をこのドアにぶつける。

 はやく、はやく、はやく、はやく!!!


「……さっさと開けよ!!!開け!!!このっ――――――」


 そのときだった。


 ――――――バンッ!!!


 玄関ドアが、耳元で、鈍い鈍い轟音を響かせる。

 殴られたのだ。そう、見ずともわかった。何かがぶつかっただとか、何がか当たったとかではまるでない。底知れない悪意を持ってして、不明瞭でつかみどころのない嫌悪を持ってして、滲み出るような憎悪を持ってして、この玄関ドアはひしゃげてしまうと思わされるぐらいに大きな力で殴られたのだ。殴られたのだと、わかったのだ。


 ――――――。


 ……そして、それは外側からではないともわかった。わかってしまった。その衝撃を、その激情を、すぐそばで肌身に感じた僕だから間違えようがない。いっそ清々しいまでに間違ってしまえればいいとも思うが、それはもう“それ”そのものが概念であるかのような存在感と気迫であって、間違えなどおかそうはずがない。これは、外側からではない。これは、“内側”からの殴打である。

 つまり、

 いま、

 真後ろに、

 誰かいる。


「」


 振り返られるはずがない。


「」


 息ができない。いまの僕にできることはせいぜい、この鉄格子のようなアルミの玄関ドアに縋り付くように身を寄せる他になかった。

 怖い。怖い。怖い。感情が乱雑に絡まる線のような、ときほぐしのできそうにない恐怖にさらわれる。歯がガタガタと僕の意思など無視して成り続け、焦点が合わずに茫洋な未来がひたすらに世闇に落ちる錯覚に揺らぐ。思考は死者の心電図のように静かだ。キーンと脳みそを焼くような耳鳴りは、いまの状況から逃げ出せないことをただただ如実に物語っていた。

 夕陽が落ちた。

 光が、死んだ。


「……ハ……ハ……ハ……」


 自分の息遣いだけが、僕が僕だと教えてくれた。

 同時に、これが夢ではなくうつつだと強調した。

 そして、

 ついぞ、

 僕は振り返れなかった。


「……なんで、……なんで、こんな目にあわなあかんねん」


 いつの間にか溢れるような涙が玄関に円の水たまりを作っていた。もう何も見えない、聞こえない、それでも“なにか”がいる状況下で、どうすればよかったのだろうか。足に力が入らず、その場に座り込むように倒れる僕に何ができたのだろうか。ドアのぶに手だけかかっているが、もうどうしようもできないとわかってしまっているのだろう。その手もやがて、指の二本、人差し指と中指と数を減らす。虚しい抵抗も尽きそうだった。


「……なんで、やねん。僕が何をしたっていうねん。記憶喪失になって、自分が誰だかもよくわからず、自分の身体も自分のもんじゃないってなかで必死にもがこうって思った最中やったのに。……なんで。……なんで、こんなことになるねん」


 ふざけるな。そう、沸々とした感情が込み上げてくる。

 それはきっと逞しいとかではない。

 ふさわしい言葉があるとすれば、それは自暴自棄だった。


「……ふざけるなよ。ふざけるな。できることしかできなかった僕になんでこんな仕打ちがされるいわれがあるねん。じゃあどうすればよかったんや。死ねばよかったんか。生まれてきたんが間違いやったんか。こっちも望んでねぇよ。望んでここにいるわけじゃねぇよ!……くそう。……くそう!」


 涙と一緒に感情の吐露がとめどない。

 それどころではないはずなのに、こんなことをしている場合じゃないはずなのに。


「……くそう。くそう」


 振り返る勇気も湧かない僕は、

 ここにいる“虚無”に聞かせてやりたくなった。


「……満足か、これで?」


 その後のことはあまり覚えていない。覚えているというよりも、思い出せるようになってきたのは、ここから数秒か、あるいは数分か、または数時間、数日後といった、だいぶ後のことだった。


 ***


 七月二十一日、午後九時(◼️◼️)


 ――――――ころん。

 ――――――ころん。

 ――――――ころん。


 物音がひとりで響いた。音。音。音。激しい拍動によって荒れていた呼吸はいつの間にか落ち着き、思考に文字列が生まれ始める。そうしてやっとなにか軽いものが“落とされている“音だとわかった。それが、ころん、ころん、ころん、と無機質に続くのだ。ころん、ころん、と。


「…………」


 ……僕、ここで何してるんやろ。……どんぐらいおってんやろ。

 涙はいつの間にか引っ込んでいた。滴っているのは汗だった。あつかった。ままならなかった呼吸も深く息を吸い肺から吐けるほどには落ち着き、玄関タイルの静かな冷たさが感じられる。手を退けた。手形の汗が玄関タイルに跡を残していた。

 

 ――――――ころん。ころん。ころん。

 

 なんの音だかわからない。

 だが、ずっと続いている。


 ――――――ころん。ころん。ころん。と。


 そして、ころん。その“落とされた“物体は、僕の目端に捉えられる位置へ転がってくる。

 それは白い、小さな固形だった。

 どうして、そんなものが転がってくるのか、そんな異常事態に対する恐怖は、脳が痺れてしまっているせいかあまり感じなかった。ただただ転がってきたものに注視する。白く、柔らかそうで、どこか歪な形の固形。ふと、それが千切られた消しゴムだとわかった。


「…………」


 あれだけ怖気付いていた関わらず、なんら躊躇もなく僕は振り返った。

 僕が背にしている後ろの廊下にもなにかあるのではないか、と。

 直感はその通りだった。小さく千切られた消しゴムは、まるで線を描くかのように廊下に一直線に落とされていた。廊下の先には他に何もない。奥の和室から微かな月光が侵入し、見渡したかぎり千切られた消しゴムだけがひときわ異様な雰囲気を放つだけの空間だった。

 

(……なんや、これ)


 それら落ちている千切られた消しゴムを拾い辿るように、廊下を進む。

 すると、消しゴムの列は和室へと続いていることがわかった。

 何ものかの作為なのだろうか。

 どういった意図なのだろうか。

 それは本来であれば心胆寒からしめる異常事態であり、事実さきほどまであまりの恐怖で縮こまってしまっていた僕なのだが、それを自覚し一瞬の緊張が全身を走ったもののあまり迷いはなかった。当たり前を当たり前に感じられないぐらいに、当たり前じゃないことを当たり前じゃないと判断できないぐらいに、もう疲れてしまっていただけなのかもしれないけれども、僕はもう腹の奥で決めていたことがあったから、決断できたのだろうと思う。


「……こっちに誘導されとるんかな」


 維持か。

 進展か。


「……びっくりすることだけは起こらんでくれよ」


 僕は和室の畳に足を踏み入れ、和室の吊り下げ照明の紐を引く。すると間髪入れずパチっパチっと数回電流の接触音が鳴り、パッと白色灯が光を作り出す。影のひとつやふたつあれば遠慮なく悲鳴を上げられたのだが(無論、そんなのはごめんではあるけれど)、そんなことはなく夕方に見た和室のままだった。

 たったの一点を除いて。


「……これ、……手紙?」


 破れた窓はそのまま、家具の配置にも違いはない和室でひとつ、丸机の上に異物があった。

 一枚の紙と、一本のシャープペンシル。

 手紙というにはあまりに簡素で、だけれども手紙という単語がふと出てくるぐらいには手紙をしている紙。文字が書かれているのだ。おそらく横のシャープペンシルで書いたのだろうが、不思議とその文字に既視感を覚えたのは記憶喪失あるあるだったりするのだろうか。

 

「……読めって、……こと?」


 まさか読んでいる最中にドンって展開もあるのだろうか。いいや、近頃はそういった質の悪いフラッシュ系ドッキリは嫌われる傾向なのだ。あるとすれば手紙の内容が不気味オブ不気味で『お前を見ているぞぉ』的なもので、手紙を置き、振り返った瞬間にドンだ。やばいぐらいに笑えない。

 意を決し、しかし万が一のために薄目で手紙に目を通す。

 案の定読み解くのに時間を要した手紙は、たったの二行だった。


『こんにちは。

 貴方は、誰ですか。』


 ……誰、とは。僕のことか。僕が誰ということ?

 ……いや。いやいや。僕のセリフなんですけど。

 内容を要約するに、「こんにちは。貴方は誰ですか。」という旨の手紙な訳だけれども、ここにどんな含意があるかを推察しようにも深すぎて読めない。夏目漱石の『心』に出てくる親友のKの心情ぐらいに難解だ。あれはNTR(ネトラレ)なのかBSS(僕が先に好きだったのに)なのかはたまたOKS(お前のことが好きだったんだよ)のどれなのだろう。どれでもないのだろうか。どれでもあるのかもしれない。議論が議論を呼ぶ。ともかくそれぐらいには超難解だ。


「……誰、と聞かれても」


 ボソリと独り言をつぶやく。

 誰に聞かせるわけでもなく、誰かが聞いているわけでもない言葉。

 ……その、はずだったのだ。


「……ん、……え?…………はッ!?」


 たぶん、しばらくぶりの生気のある声だったように思う。

 いろいろあった。いろいろだ。記憶喪失から始まり、性別の違和感、人格の違和感と雑な右ストレート三連発に打開策をまるで見つけられない試合運びに当人含め嘆息を禁じ得ない一日だったけれども、ともかく何があったのかフィードバックすれば、いろいろとあったと答えるぐらいにはいろいろあった。

 それでも、これが一番だ。一番の驚きだった。

 

 ――――――なんせ、モノホンの怪奇現象なのだから。


 ――――――トントントン、こぎみよい音を鳴らし、

 ――――――紙の上に文字が綴られていくのだ。

 ――――――“ひとりでに踊る”シャープペンシルによって。


「……え、え!?な、何これ!?……え、何これ!?ぽ、ポルターガイスト!?」


 驚き慄き喚く僕など眼にもくれないようなペン捌きで綴られていく文字は、次第に文となり、伝わるものへと変貌していく。

 状況を把握できていない僕を置き去りにし、

 シャープペンシルはコトリと力なく倒れる。


 物事は、加速的に進展していく。



 

『私は岸辺織葉です。

 貴方は、誰ですか。』

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