第4話 賤霧凛とかいう美少女

 七月二十一日、午前八時三十二分。(◼️◼️)


 綺麗な人は、関西弁なまりで僕のことを『織葉』と呼んだ。本当に綺麗な人だ。着崩したセーラー服に、丈の短いスカート。透き通るような長い髪はツインテールの要領で結ばれており、端正な顔立ちとともに切れ長の目が彼女の魅力を引き立たせている。

 彼女の凛とした双眸の奥に『僕』が映り込んでいるような気がする。

 岸辺織葉の皮をかぶっている以上そんなことあるはずないのに、心臓が浮く感覚が四肢にまで伝わる。


「……あ、あ〜、えっと。たぶん?」


 おかげでいかにも朧げな、霞みがかった返事しかできず、言葉を濁してしまう。

 目覚めてから此の方、僕の感情の起伏はさながら山を越え、谷を抜け、砂漠を駆け巡らんばかりの急勾配だったように思う。そう思うのだが、しかし。もしかすれば今が一番の峠ではないか、そう思えてしまうほどに浮き足立つ。なるほど、恥ずかしい話、僕はアガッてしまっているらしい。


「……あ、あの、…………何か?」


 絞り出すように僕は綺麗な人に問いかける。


「………………」


「……あぁ、え、えっと?」


 しかし、綺麗な人は閉口したまま、射抜くような眼差しで僕を見つめてくる。

 な、何かしでかしただろうか。それとも何かをしでかす前兆だろうか。ともかくここは得意の小粋なジョークでアイスブレイクを狙うべきだろうか。アイスブレイクというくらいなのだからドリルの話でもするべきじゃないか。しかし初対面の女の子相手にドリルの話はあまりに隠喩がすぎる気がするし、もはや直喩と言っても差し支えない比喩的表現な気がするけれども、なんらかを喋らなければ間が持たないことを考えるにこれはもうしでかすべきなのではないか。

 えと。ええっっっと――――――


「……ど、どうも。こんにちは」


 ……よし、楽しく話せたな。

 しかし得ていてコミニケーションにおいて自身の抱く感情と相手方の抱く感情には差異があるもので、機嫌が悪いのだろうか、綺麗な人の柳眉は逆立っているようだ。女性の感情の機微に疎い自覚のある僕だけれども、これほどわかりやすくわかりやすい感情の波動に何も思わないわけもなく、ただ何かができるわけでもなく、ゆえに何をするでもなく沈黙が答えとなってしまう。

 ただ、諸行無常、ものごとは意思に関わらず歯車を回す。


 ――――――あえ?……ちょ、ちょちょちょ。

 ――――――綺麗な人が一歩、また一歩と僕に近づいてくる。

 

 ど、どないしよう。どないしでかそ。

 このまま右頬をしばかれる分なら涙を飲んで耐え抜こう。

 それでも左頬を殴られるようなら涙を流して立ち去ろう。

 

「……よ、よっしゃこいっ」


 しかし、腹を括って歯を食いしばる僕を襲ったのは骨皮かくばる拳などではなく、甘く誘われるような香りだった。

 互いの距離がグンと近づき、縮まり、無と帰す、と。

 

 ――――――綺麗な人は僕を、力強く、逃がすつもりのないであろう力で、抱擁した。


「いままでどこ行っとってん!びっくりしたやんか!」


 ほんのまばたき一回分にも満たない刹那の出来事は、予測を百八十度裏切る。

 いや、いやいや。びっくりしているのは僕なのだが。抱きつかれているのだが。どう言うことなのだが。全国男子諸君があまりにも夢みがちな妄想を繰り広げるものだから夢の方が痺れを切らして現実に飛び出してきてしまったのか、はたまた普通に夢なのか。記憶喪失に性別の違和感に人格の違和感とアンハッピーセットを押し付けられた僕からすれば後者であってくれてもいいのだが、抱擁のぬくもりと柔らかさは、これが夢でないことを主張してくる。


「……よかった」


 な、何がでしょう、綺麗な人?


「……絶対に離さないから」


 え、ええ。ど、どういうこと?

 現状を正しく正確に文章化するに、『びっくり!教室のど真ん中で綺麗なあの子に突然ハグされちゃった(はーと)それに離さないって!きゃー(黄色い悲鳴)』なのだけれども、そんなもん全国の薄い本のご愛読の好事家だけの世界で許されるイベントであって、それはそれはもう空想の出来事であって、妄想の出来事のはずなのだけれども。しかしながら、これはしっかりと現実なけで。

 つまり、これは大事件なのである。


「…………あ、あのぉ」


 …………返事はない。どうやら、僕の胸に顔を埋めていらっしゃるようだ。

 ど、どないしよう。どない落とし前つけよう。責任とか取るべきだろうか、結婚だろうか。教育費用とか家のローンとかどないしよう。無責任な大人にはなりたくない僕ではあるのだけれども、ちょっと早すぎるというか、心の準備がまるでできていないっていうか、友達から始めるべきといいますか。


「……織葉。……いままで、どないしとったんや?」


「……え?」


「ずっと、……ずっと何処で何をしとったんやって聞いてるんや……っ!!」


 抱擁する距離、つまり≒ゼロ距離で、怒号が響く。

 力強く壮麗な眼差しが、僕の目線と交わる。

 

「“ここ一週間も姿を見せないで”、ずっと、ずっと、心配しとったんやからな……っ!!……ホンマにっ、心配でっ」


 消え入りそうな声音に乗せられて、綺麗な人は不可解を口走る。

 ……ここ一週間?姿を見せない?

 言わんとするところがあまりにも宜しきを得ず、心中を無造作に惑わす。しかし、まばらに散らばっていた点が突如として結実する。あったではないか。一週間前になんらかがあったのではないかと思わせられるような何かが。


「……話の腰を折るようで失礼なのですが、一つ伺ってもええですか?」


「……なに?」


「……とてもトンチキに聞こえるかもしれませんが、……ぼ、……ワタシがいなくなったっていうか、音信不通になったのって、約一週間前の“十五日“からで間違いないですか?」

 

 我ながら僕の所在を僕ではなく僕でない人が知っているような口振りはさぞ滑稽に映っただろう。

 案の定、綺麗な人は小首を傾げているような所作を抱きしめられながら感じるが、しゃがれた声で「そうだよ?なにゆーてんの」と至極当然といった口調で答えてくれる。嘘を言っているようなそぶりは感じないし、この場において嘘をつく意味なんて考えも及ばないものだから、ただ純粋に僕はこの不可解を飲み込んだ。


「織葉と会えなくなったのは、……十五日の日からだよ?」


 十五日。この日、僕は、岸辺織葉は、何かがあったのだろうか。

 冷蔵庫には賞味期限切れの菓子パンがあった。日付は十五日。期限切迫の廃棄前商品だったのだろう、割引シールも貼付されていた。つまり、十五日の前日あたりに購入され、しかし十五日に食べられることはなかったということだ。

 岸辺織葉の学習ノートの記載が滞ったのも十五日。十五日を皮ぎりに、岸辺織葉は慣習としていた復習も予習もされずにノートは放置されることとなった。

 つまり、岸辺織葉の動向が十五日以降、わからない。

 否、十五日以降“何かがあった”と考えるべきだろう。


「……十五日の日、なんか、特別なことはありましたか?」


「……ほんとに大丈夫?さっきから織葉、様子が変だけど」


「……そ、そんなことはないかと思いますが。……ともかく、十五日の日です。なんでもいいのですが、普段と一風変わったことはありませんでしたか、……なんだったら十四日の日からでもええのですが、……なんかっ」


 これは僥倖だ。ラッキーってやつだ。綺麗な人に抱きしめられる超イベントは超ラッキー枠として四隅においておくとしても、岸辺織葉のことをよく知っていそうな人物とのコンタクトを得られた。大きすぎる進展だ。このまま聞き出せれば、いずれ“僕”についてもそれっぽい推論が得られるのではないか。なんだ。こんなにもあっさりと、……。

 ……こんなにもあっさりと、

 ……さっきまでの動揺が嘘のように、

 ……あれ。なんか、目が回ってくる。


「……あ、あの、えーっと、……なんでもええんで、その、聞きたいことがぁ――――――」


 ――――――くらり。


 ……くらり。くらり?

 視界がボヤけて焦点が合わなくなる。急速に思考が鈍り、いまがドコでここがダレかわからなくなってくる。激しい眩暈にひどい耳鳴り。四肢の感覚が奪われ何に触れて何にもたれかかり何に身を埋めているのかわからなくなる。っていうか、いま、起きているのかすらわからない。


 ――――――ぼすん。


 ……視界が、暗転する。 

 薄れゆく意識の中で、好きだなぁと思える匂いを嗅いだように思う。


 後で聞いたところによれば、僕はこの時、熱中症で気を失ってしまったらしい。


 ***


 七月◯◯日、午前◯時◯◯分。


 夢だと思う。心も体も浮遊しているように軽く、この身が塵芥になったような錯覚さえ覚える。

 しかし、ただ茫然と、ここが何気ない日常だってのはわかった。何気ない日常の教室。朝方か昼頃か夕暮れかはわからないけれども、スローモーションとも倍速ともとれる日常の大海原のなかでふと閃くような恐怖心が芽生えていたように思えた。記憶がないだとか、性別に違和感があるだとか、人格に違和感があるだとか、そういうチャチなもんではなく、誰だって共感の片鱗ぐらいは覚えられるであろう日常の“ある感覚”がひたすらに恐怖心を煽った。

 そうはいっても、その恐怖心の正体は杳として知れない。

 ただ、“私”は、この教室が、絶え間なく煮詰まる地獄のようにしか思えなかった。


 きっと、誰でもいいから、私を見つけて欲しかったのだと思う。


 ***


 七月二十一日、午前十一時四十分。(◼️◼️)


 えー、いま緊急で動画を回していま、せん!すみません!カメラがありません!


「どーお?美味しい?」


「……あ、はい。美味しゅうございます」


 しかし緊急事態につき、とりあえず緊急であることを諸兄諸姉にお伝えできればなと思うのです。

 その前に一つ、お聞きしたいことがあるのです、諸兄諸姉の皆皆様方。『ひも』という概念はご存知でしょうか。あたりまえですが、この場においてひもとはロープやベルトといった物質的なものではなく、かといって超ひも理論とかいう百回聞いてもよくわからない理論でもないのです。ひも、です。ひも。ずばりやることもやらずただ自堕落でパトロンの脛を貪る社会のゴミであります。そのくせ誰もが憧れる謎の職のことです。


「ほら、いっぱいあるからね。織葉、唐揚げとか好きっしょ?」


「……好きかどうかで聞かれれば大好きな部類かと思いますね、はい」


 ひもとは大抵、異性ないし同性のパートナーまたは親族の抱える負債であるところは広く知られているかとは思いますが、一方で昨今ではビジネスとしても昇華されているということも風聞に届くところであり、余剰すぎる供給と物好き極まる需要のマリアージュによって奇跡の資本主義が叶っているとも噂で耳にする時代になっています。いいのでしょうか。許されるのでしょうか。こんなこと、あっていいのでしょうか。


「たーんと食べていいからね。……はい、あーん」


「……あっ。……お、美味しく存じ上げます、はい」


 市場原理は、諸兄諸姉は、これを黙認してくださるでしょうか。この愚かで怠惰で馬鹿な無一文のプー太郎が、楚々として麗しい綺麗な人からアーンを受け取って、それはあってよいものなのでしょうかッ!

 ……あ、はい。やっぱダメですよね。はい。

 ……申し遅れましたが、現在、僕は保健室のベッドで綺麗な人からあ〜んを受け取っているナウでございます。


「ほんま、無事みたいでよかった〜。……急に倒れるもんやから、びっくりしたんやで?」


「……あ、はい。その、……すみません」


「ほら、これも!……あーん!」


 口腔に放り込まれる唐揚げ。もう胸もお腹もいっぱいで味なんて分かりませんが美味しいです、はい。なんせ、あーん、ですからね。これが仮にうんこ味のカレーでもカレー味のうんこでも僕はひたすらに美味しいといってやりますよ。だって、あーん、ですから。

 

「……あ、あの。……ここまで運んでもらったんですよね?……ありがとうございます」


 ここまでの経緯を僕目線で話せば単純で、意識を失い目が覚めたら知らない天井だった。

 聞けばここは保健室で、ここまで運んでくれたのはさっき教室で鉢合わせた綺麗な人で、ここで付き添い面倒を見てくれることになったもの綺麗な人で、腹の虫がぐーぐーと喚く僕の身体を案じて手作り唐揚げ弁当をあーんをしてくれているのもその綺麗な人だ。つまりかなりの借りを綺麗な人に作ってしまったことになる。


(……な、名前も知らないなんて言い出しづらすぎて唐揚げ吐きそう)


 それにしても、唐揚げ弁当、かなりの量だった。

 綺麗な人、この見た目で意外とガツガツ系なのかしら。


「……そういえば、ずっと横におってくれたんですか?……その、意識のない間からずっと」


「うん、そやけど。……やめてよ〜、敬語とか」


「……あ、あはは。すみません。なんか調子悪くて」


「え、大丈夫なん?……ウチことわかる?……なんちゃって」


 すみません、わからないのです、すみません。なるべくはやく名前と生年月日と岸辺織葉との関係性について調べたいのだけれども、なんも手段が思いつかない。どれくらい思いつかないかといえば近所のスーパーマーケットで「おう!ひさしぶり!」と肩を叩かれる振り向いた時の謎人物ぐらいに思いつかない。近所ってのもミソで、おそらく知り合いなのだと思われるだけに、今日買い足しせねばならない調味料を思い出す労力の数十倍は気合いを入れて思い出さねばならないが、得てしてそんな奴みんな思い出せないのである。……だからみなさん、肩を叩く時は名乗ってから叩いてください。名乗った上でわからないのであればそれはもとより知人ではないです。あきらめて今日から他人となっていたければ幸いです。


「……その、やっぱり、ありがとうござ、……ありがとね、いろいろ」


「なにさ〜、もう!そーいうのはナシやって!……その、ほら、私と織葉の仲やしな。と、も、か、く、これ以上は塩っぽいことは禁止です。敬語も禁止。いつもみたいに凛って呼んでよ。気兼ねない感じでさ」


 塩っぽいとはなんっすかね。海水系の話とかがダメなんですか、……凛?

 どうやら他人行儀な振る舞いはやめてくれって意図の会話だったのだろうが、思わぬ収穫だ。綺麗な人は、文脈通りに受け取れば、『凛』って名前だそうだ。それにおそらく岸辺織葉と気の置けない仲といった風体だ。おーけー、おーけー、なかなかの進展じゃないか。

 凛ちゃんね。凛さん?凛っち?凛のすけ?……ま、どれでもいいか。


「……ね、織葉?」


「……あ、うん。なに?」


「……えぇっと、な。……ここ一週間のこと、聞きたいな、とか、思って、な」 


 伺いづらそうに、でも聞かなきゃならない、そう揺れる瞳に上目遣いで僕の顔色を覗き込む凛さん。

 いわれのない疼痛のような罪悪感が胸にささくれたった。どうして記憶もなければ岸辺織葉であることに確信のない僕が罪悪感を覚えなければならないのか遺憾の意を示したいところではあるけれども、覚えてしまったものは覚えてしまったわけで、ともかく凛さんが岸辺織葉の動向を気にかけるのはまったくもって至極当然なのであるのだから僕が真摯に悩まなければならない理由たり得るというところだ。


「……質問に質問を重ねてしまってごめんなんやけれども、」


 しかし、わからないものはわからないのだから、まずはわかる努力から始めようと思う。


「……十五日の日について、……いいや、十四日の日からの私の動向について、君の知っていることを聞きたいんや」


 自覚はある。側から見なくとも変な質問をしている。案の定、凛さんもほうけ顔だ。かわいい。

 わからないことすらわかっていない新入社員勤務二日目のような僕だけれども、それでもわかっていることが一つだけある。

 冷蔵庫にあった賞味期限切れのパン、

 自主勉ノートの空白、

 そして何よりも、凛さんの発言と態度、これが決定的であった。

 つまり、岸辺織葉は十五日近辺、何かをしていた、ないし、何かをされていた、と考えるべきだろう。


「……ほんと、変な質問。……十四日の日、月曜日だったかな、ほんと変わり映えはなかったよ?普通に登校して、普通に授業を受けて、普通にHRがあって、普通に下校した、だけ。……織葉も、……うん、変わったところはなかったと思うねんけど」


 何もなかった。変わりなかった。少なくとも、十四日の日の下校時までは。

 すると、十四日の日の夕方以降から、十五日の日の登校時までの間、ここでことは起こったと考えるべきなのだろうか。


「……わからんな」


「自分のことやのに?」


「……わからんのです」


「……そっか」


 頭を悩ませる僕をよそめに、凛さんは指先で挟まれる箸に視線を落とす。そうかと思えば、「ごめんね」と口づさむように謝るのだ。誰に謝っているのだろう。何を謝っているのだろう。謝られるいわれのない僕ではないだろうけれども、ここには僕しかいないわけで、やっぱり僕なのかもしれない。きっと挙動不審であった狼狽える僕を見てか、凛さんは心内を吐露する。


「……言いづらかったんやないのかな、って。でしゃばりすぎだよね。……織葉も、……いろいろあるんだろうし。それなのに関係のない私が気にせず根掘り葉掘り深掘りするだなんて、私はダメな子や。……だから、ごめん」


「……そうじゃ――――――」


 ――――――そうじゃないんだ。

 そう言ってやろうにも言葉が詰まる。話してしまおうか。何もかも、全てを。僕は、君の思っている人ではない、と。岸辺織葉ではない、と。しかし、胸の奥がズキリと軋むのがわかる。思っていることと、口にすることとは天地の開きがある。僕が岸辺織葉ではないと公言することは、それほどまでに憚られた。

 それは僕の存在意味を否定するような気がしたから。

 だから、口走るままに任せることとする。

 

「――――――必ず、……必ず話すよ。だから、待っていてほしい」


 誠心誠意と捉えられるか、先延ばしの無責任野郎と蔑まれるか。

 だけれども、仕方がない。これくらいが限界だ。

 わからないことすらわからないまま、外の世界への扉に手をかけた。僕は外に何を望んだのだろう。その真意に自分自身気付けていないのだけれども、それでもきっと大事なものがあると思ったからここにいるのだろう。この先、歩みさえ止めなければ進展があるのだろう、と。その進展は、きっと明るいものばかりではないのだろうけれども、スポットライトは最後に自分を照らしてくれるのだ、と。


「……嘘も隠し事もなるべくしない。

 ……うん、なるべく。だから、その、身勝手なんだけども、信じていてほしい」


 その刹那、僕は血迷う。言い訳をするならば、言葉だけ、口だけ、そういった自身の誹りに耐えかねてだった。

 僕の弛緩した理性の隙をつき、無邪気なままに脳信号が青信号を示す。

 凛さんの手を取った。

 握った。

 箸が落ちた。

 気にせず握りしめた。


「……信じて、その、もうちょっとだけ、

 ……具体的にはわかんないけど、もうちょっとだけ時間が欲しい」


 血迷う、というと、血通う、もあるだろうわけで、クーラーの冷えた風が頭を冷ますまでそう時間はかからなかった。離してしまおうか、離れてしまおうかと思い悩んだけれども、ここでそんな日和った真似をすれば含みが生まれてしまう危惧から、僕は手を離すことなくただ起こりうる何かに備えるほかに手段はなかった。

 しかし、それをいたくお気に召したのか、「なにさぁ、それ!」とケタケタ笑う凛さんを姿を見て、僕は心底安堵を覚える。


「もー、だから塩っぽいの禁止!」


 だから、塩っぽいってなんだろう。ポテトとかがダメなのかな。


「……もー、全然意味わかんないけど、わからないなりにわかったから、織葉の気持ち。だから待っていてあげるね。時間が欲しいなら、たくさん待ってあげる。ずーっと待ってあげる。……それからでいいから、」


「……それからでいいから?」


「……それからでもいいからさ、

 ……ちゃんと私を選んでね?」


 ……選ぶとはなんだろう。なにとなにから彼女を選ぶのだろう。きっと僕は世界の命運か君の命かなら割と悩まず君を助けるぐらいには君を選ぶことになるのだろうけれども、凛さんはなにから選んで欲しいのだろう。

 意味するところはまるでわからないけれども、秋空に例えられる女の子の心は、きっと名だたる気象予報士にもわかるまい。

 だが、一つだけわかったことといえば、

 彼女は笑っている方が断然可愛い。それは間違いなかった。

 

 ***


 七月二十一日、午後十二時四十五分。(◼️◼️)


 職員室はどうにも匂いからして違う気がする。

 クーラーは暴走しているかのように寒いし、音も鉛の擦れるようなものではなくカタカタと機械的だ。


「――――――ともあれ、元気そうでよかったぞ。元気が一番だ」


 ごつい男。首から下げているIDケースから察するに、三年一組の担任教師だ。


「……あ、はい。どうもです」


 ところで、一般生徒が職員室に何用かと疑問に思われる諸兄諸姉は多くいるだろう。しかし、驚くこと勿れ、僕も特段の用事などないのだ。だけれどもこうして職員室にて担任と向かい合っている経緯を極限まで端的に説明すれば、僕は先ほどお呼び出しをくらったのだ。全校放送のアナウンスで満遍なく響き渡る『岸辺織葉さん、岸辺織葉さん、職員室まで来てください』は、凛さんとの甘いひとときが吹き飛ぶぐらいには心胆を寒からしめるものだった。こういうものはこそっと言ってほしい。あと二回繰り返さないでほしい。それくらいの配慮を令和の時代なら見出してほしいものだ。期待しているぞ、令和。


「しかし、岸辺、お前ともあろう優等生が一週間も音信不通にするとは。どれほど体調が悪かったとはいえ、学校を休む連絡くらいはできなかったものか。あまり大人に心配をかけるものではない。……で、顔色は良くなったようだが、どうだ、まだ不調か?」


「……あ、えっと。まぁまぁです」


 寝て食ってまた寝て、で復調の兆しはある。だが、まだ本調子でもなさそうだ。ゆえに、まぁまぁ。だから断じて大柄の恰幅のいい大人にビビって「あ」から始まる会話劇を演じているわけではない。演じているわけじゃ、ないんだからね!……うっ、また体調が悪くなりそうだ。

 ……で、担任曰く、岸辺織葉は学校にすら連絡を入れていなかったのか。


「……あ、あの、つかぬことを聞きますが」


「どうした?」


「……十四日の私は、その、元気そうでした?」


「……まだ調子が戻っていないようだな。聞いている内容が支離滅裂だぞ。どうしてお前のことを俺に聞くんだ、まったく。……見ていたところ、いつも通りだったぞ。いつも通りに朝のHRには参加していたし、俺の授業もいつも通り真面目にノートに認めていた。夕方のHRも、お前以上に真面目に聞く生徒はいないってくらいに真面目に聞いていてくれていたな。しかし、それもいつも通りだ。変わったところはなかったように思うが?」


 怪訝な様子で僕を窺い見る担任。うぅ、そうですよね。そういう反応になりますよね。

 だが、これは収穫だ。岸辺織葉は真面目である。それも超弩級の、である。それは周知であり、既知であり、常識である。そんな人物が無断欠勤。真面目な人物は無断欠勤などしないし、もし仮に何かをするとなって休むことがあったとして事前に連絡を入れることは怠らないだろう。だって、真面目なのだから。

 つまり、岸辺織葉は、何かをしていた、とは考えづらい。

 何かをされていた、ないし、何かをされた状態だった、と考えるべきだ。


「……は、はは。そうですよね。変な質問すみません」


 愛想笑いで誤魔化す。収穫した情報は一見して無意味なようだが、あながちそうとも言い切れない。だって、何かをしていたという能動ではなく、何かをされていたとする受動であれば、僕が調べる目標は岸辺織葉自身だけではなく、岸辺織葉を取り巻く環境にあると考えねばならないのだから。

 つまり、調べるところが増えたってことだね。やったね。クソが。


「……本当に、大丈夫か?頭でも打ったんじゃないだろうな。岸辺、お前はもっと受け答えをはっきりする生徒だったように思うのだが、まぁ、賤霧も言っていたがお前も混乱している節があるんだろう。深くは聞かないさ」


 あ、あはは、面目ない。受け答えをはっきりできない類の生徒でごめんなさ、……賤霧?


「……先生?……賤霧って?」


「……お前、流石に酷いぞ。クラスメイトの名前じゃないか。賤霧凛だよ。友達なんだろ?」


 賤霧凛。……凛。

 凛さんの、本名?


「……岸辺、ちゃんと賤霧に礼は言っておくんだぞ。聞くに教室で倒れたお前を保健室にまで運んで、その後の面倒まで見てくれたっていうじゃないか。いい友達を持ったんだから、ちゃんと報いないとバチが当たるってもんだぞ」


「……そうですね。はは。卒業式で渡し合う色紙には筆で『ありがとう!』って書き殴りたいくらいには感謝してますよ」


「……?」


 くっ、渾身のギャグが。卒業式周辺で半強制的に書かされる謎サイン色紙に他十数名の有象無象は作業感覚で文字を入れるだろうが僕は賤霧凛さんのためなら魂を込めて『ありがとう!』と綴る覚悟を示した僕の珠玉のギャグがッ。……説明する羽目になるくらいには無反応の担任にショックを受ける僕ではあるが、あとで改めて彼女に礼を述べることにしようと心に誓う。賤霧さんに。凛さんに。凛ちゃん?賤霧凛ちゃん?すずりん?


「――――――べ。おい、岸辺」


「……あ、はい、すみません」


「……やはり調子は良くなさそうだな。今日はもう帰りなさい。真面目なお前のことだから学業に遅れが生じることはきっと気掛かりだろうが、勉学は健康な身体あってこそだろう?はやる気持ちもあるだろうが、今日はしっかりと休んで、しっかりと食べて、しっかりと寝て、また元気な顔を先生に見せてくれ」


「……あー、はい。なるほど。ありがとうございます」


 早退の許可をもらってしまった。なぜ体調不良で早退することに焦る気持ちが生じる心配をされるのかいまいちまったくこれっぽっちもわからないのだけれども、帰って寝ろだなんて言われなくとも帰って寝たいのだから今日のところは帰って寝ることとしよう。そうしよう。先生の言うことなのだ。間違いない。

 ……あ、いや、ダメじゃん。まだ全然情報収集ができていない。

 

「待ってろ。いま早退の手続きをするからな」


「……あ、あー、はい」


 ど、どうしたものだろう。一週間の空白期間についての弁明をうやむやにできるってのはありがたいことなのだけれども、岸辺織葉の個人情報を少なからず持っているであろう担任との会話の機会をそうそう易々と切り上げてしまっていいものなのか。

 僕は今日、いま、なんのためにここにいるのか、今一度考えなくちゃならんのではないか。


「……あ、あのー、先生?」


「……ん、なんだ、岸辺?」

 

 会話、会話、会話。意識して会話をしようってめっちゃハードルが高い。今日はいい天気ですね?そうですね?で、なんですか?あ、はい、なんなんでしょうね?うん、完璧なコミュニケーションすぎてタイムアタックが狙えそうだぜ。会話はキャッチボールというがボールがなくては会話は成り立たないし中島も磯を野球に誘えない。


「どうした?話しづらい内容か?」


「……話しづらいと言いますかぁ、話が辛いと言いますかぁ」


 困惑の表情をあらわとする担任。きっと僕はでしょうねって顔をしていることだろう。

 不毛とはまさしくこのことであり、生産性のない会話をエンジョイできるのはいつだってギャル様の特権である。故にギャルの対角線上にいる僕とZ軸から異なる担任とでは水と油であり油汚れにジョイぐらいにはキュキュットな関係性なのだ。何言ってんだろ。それくらいに難しいって言いたいんだよたぶん。


「……あー、なんとぁ、申しますかぁ」


 ……仕方がない。ここで蒸し返すのは悪手になりかねないが、岸辺織葉の無断欠席について聞き出そう。それが一番聞きたいことであるし、一番聞きたいことがここにあるのだから、避けようってのが悪手なのだ。


(……そういえば、一週間だったかな。無断欠席。よく親が許したな)


 ……ん、親?そういえば、岸辺織葉の親って何をしているんだ?

 ……親。……考えてみるとおかしい。不可解だ。あのアパートでも一緒に暮らしていた痕跡がまるでないのだから(服飾関係はもちろん生活用品もすべて岸辺織葉のものばかり)、一人暮らしだったのだろうか。それにしたって無断欠席を一週間もしていたのだから、娘の素行不良を諌めないってのは引っかかる。それくらいに放任主義なご家庭なのだろうか。……いいや、思えば思うほど辻褄が合わない。

 一週間も音信不通になるんだぞ。

 もはや親どうこうのレベルでもない。下手をすれば警察事案だ。


「……先生は〜、その〜、……わ、私が休んでいて、心配とかされました?」


 だ、だめだ。この聞き方は付き合いたてのメンドウくさい彼女だ。


「そりゃ、担任だからな。心配したぞ!」


 はっはっはー、と豪胆に笑う担任教師。笑いどころなのか、これ。担当しているクラスの生徒の行方が一時期とはいえわからなくなっていたんだぞ。だから呼び出しをされていると言われればそれまでなのだが、……この温度差は、何か、変ではないか。


「……あの、私の言える口ではないのは重々承知なんですけど」


 最悪、地雷を踏み抜く恐れを考慮し保険は掛けておいて。

 おずおずと、聞いておかねばならないことを聞く。


「……その、一週間も音信不通だと親とかにも連絡が入ってそうなもんですけど。そのへんって、どうなっているんですかね。……心配だったっていうなら、実家かなんかに電話をよこしていたり、なーんて……?」


「…………」


「……先生?」


「…………」


「……あれ、どうしたんですか。急に固まって」


「…………」


「……その、何か言って欲しいんですけど」


「…………」


「……あの、なんか、悪いことでも言いましたか?怒っているんですか?……あの、それ、……ええっと、その、不気味なんで、やめて欲しいんですけど。なんで眉一本動かさないんですか。なんで何も言わず真顔で僕のこと見ているんですか。……え、あれ、なんで」


「…………」


「……あ、あのっ!」


「そうだな、岸辺、連絡だったな」


「……あ、はい」


「連絡ならしてテテ手ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「え、え、何!?何何何!?」ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「な、何これ何これ何これ!?」ててててててててて「ふざけているんですか先生!?やめてください、これ怖いです!!先生!!先生ッ!!」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「先生!先生!先生ッ!!」ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手てて手ててって手ててててててててててててててててててててててててててててて「なんで止まらないんだよ、なん、なに、これ」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「やめて」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「やめて」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「やめててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手手手手手手手手手えっ手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手てててててててててえててっててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手てて手ててって手て「頭がおかしくなる」てててててててててててててててててててててててててててててて「うるさい。うるさい。うるさい。やめ。助けててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて得てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手手てててて手ててって手ててててててててててててててててててててててててててえっててててってててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手手てててて手ててって手てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「……」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「……」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手てて手ててって手ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて得てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「……」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて「……」てててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手てて手ててって手てててててててててて得ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててて手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手手ててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててててないな。それがどうした?」


「…………」


「おいおい、岸辺、聞いているのか?」


「…………」


「おーい」


 早退、します。


 ***

 

 七月二十一日、午後一時五分。(◼️◼️)


「――――――ねぇってばっ!」


 重心がすこしズレる衝撃がスクールバッグをぶつけられたものだとわかると、磨りガラスを開けたかのようにあたりが明瞭となり、いまばかし耳朶を打った鈴の音のような声が賤霧凛さんのものであることが理解できた。そうこうあってようやく今の自分が下駄箱で靴を履き替えていることに気づく。


「……どうしたのさ、何かあったの?」


「……な、にか?」


 あれは、なんだったんだ。まるで壊れた機械かのように、まるで進行不能の致命的なゲームのバグに際会してしまったかのように、あまりにも突拍子もなく先生は、……うっ、思い出そうとすると激しい頭痛が。やめよう。あれを考えたくない。考えようとさえしたくない。


「……な、んにも、なかった、よ」


「……そっか」


 ……あれ。そういえば、どうしてここに凛さんがいるのだろう。

 色濃く落ちる影に覆われてなお色彩豊かな瞳の凛さんは、まだ昼休みが終わるか終わりそうかの時刻に、さながら帰り支度を整えたかのようにここにいた。早退の許可が下った僕がここにいる道理はあれど、彼女がここにいていい道理はないはずなのだが。


「……もしかして、もう放課後だったりする?」


 そんなに呆けていたんだろうか、僕。


「ふひひ、そんなことあらへんで。ほんまにぼーっとしとってんな。……いやぁ、ほら、病み上がりの友人を一人帰路にほっぽっておくだなんて私の正義の心が許さへんかったから、そのぉ、……持病の仮病で私も早退、てきな?私もサボりぃ〜、てきな!へっへ〜」


 不遜な笑い方をする凛さん。なんと失敬な。『も』とはなんだね、『も』とは。

 しかし、ただほんのちょっとだけだけれども心寂しかったので、今日のところはこの失敬にあやかって言及しないこととする。


「ほら、はよ帰ろ!せっかくの早退なんやから、有意義な早退にしないと!」


「……ふっ。有意義な早退ってなんやねん」


「あ、鼻で笑いやがったなぁ!せーっかくぼっち帰宅を阻止してやったのに」


「……ぼっち帰宅を阻止ってなんやねん。ラーメン屋にぼっちで入られへんってのはまだわからんでもないことすらわからないぐらいにはわからないのやけれども(わからない)、帰宅までぼっちであることを恐れてしまっては毎日誰か一人は帰られへんやつが出てくるやんけ」


「……ヘェ〜、じゃあ感謝の気持ちとかないわけや」


「……ないぃ、とはぁ、言ってへんねんけどなぁ」


「……べっつにぃ、ウチとしては良かれと思ってのことやからなぁ。あ〜あ、織葉にとってはありがた迷惑やったんやなぁ。はぁ〜、はぁぁ〜〜〜。じゃあウチが保健室に連れて行ったことも、看病してあげたことも、唐揚げあーんも織葉にとっては邪魔やったんやなぁ。……弁当代ももらってへんのになぁ〜」


「……あ、あのぉ、じょ、冗談とかなしでお金は明日までは必ず払うので」


「ふひ、冗談やって!関西人ジョークとイギリス人の外交は間に受けたらあかんって!ほら、弁当代とか要らへんし、一緒に帰ろぉぜ〜!なんやったらちゃんとした昼ごはんもご馳走してあげるけんね〜、凛さんに任せなさい!!」


 腕まくりをし、ふんっすと得意げに鼻息を荒げる凛さん。あらやだ、イギリス人のくだりは本場のブラックジョーク感があって嫌いではなくってよ。まぁ、関西人ジョークはさておきお金のことはきっちりしておかないといけない。なんたって僕は完済(関西)人なのだから。

 凛さんは慣れた手つきで下駄箱から靴を吐き出させ、靴を履く。

 ふと、現実に戻されるような鼓動の高鳴りを覚える。

 腕まくりした袖からの白い柔肌は細く女性的で、じんわりと滲むような汗は時折頬を伝い熱っぽさを感じさせる。着崩したセーラー服の襟元はゆるゆるのリボン帯のせいかやたらとスレンダーな胸元が色めくように見えるし、息遣いのひとつひとつが艶然とした婀娜婀娜しさがある。


「……ん?……なにぃ、ジロジロ見てぇ。織葉のえっち」


「……見てないやい」


 ウソです。めっちゃエロい目で見てしまう。これが夏の魔物というやつなのだろうか。あまりに度し難い感情がありありと胸にひしめき、言語化しようとも捕球もエラーの連続で相手にならない。さすがは魔物。十点差ぐらいのビハインドならエラーだけで逆転サヨナラだ。

 

(……僕は女の子をエロい目で見れるのか)


 性自認が男であるのだから妙な話ではないのだけれども、別に性自認が女でも妙な話じゃない時代がいまなのだから厄介だ。


(……この感情が、僕を見つける手掛かりになったりせんもんか)


 昼休憩後で五時間目は体育なのだろう。幾人かの生徒は薄手の体操服に衣替えし、運動シューズに履き替えている。一般論の話ではあるけれども体操服はフツーにエロいと巷では噂なものだから(エロいよね。エロいだろ。エロいっていえ)、ジッと凝視してみたものの、これといって興奮のようなものはなかった(なんでやエロいやろ)。むしろこれからクッソ暑い外での授業に心の底からの同情の念しか湧かない。

 結局一団が去るまでの間、男女共々、顔も胸元も視姦してやったが、むしろ(鍛えてる男子ってエロいよね。ふくらはぎとか)が心電図のピークだった。


(……男子って、エロいやつとエロくないやつの落差が酷いな。酷い。誠に酷い。水嶋◯ロを見た後にノンス◯井上を見たら同じ人類の枠にないことがあまりにも如実となってしまう。これは由々しき事態だ。差別である。割と真面目にエロ論文は書かれるべきであり、それこそが人類の進歩へと――――――)


「――――――そういう目で他人を見るのはいかがなものかと思います。織葉、目がエロい」


「……そうですね。そんなにエロい目をしてましたかね、……あ、はい、ごめんなさい」


 そうですよね。そうなんです。そんな男子をそこはかとなくエロい目で見れる僕ではあるのですが、頬をつねられ、ジト目で僕を睨む凛さんの顔によからぬ欲情を見出すだなんて、ほんと、だめだと思うのです。


(……わからん。なんや、この気持ち)


 心が躍る。僕はサイズの合ったローファーに履き替え、昇降口を出る。

 空は快晴だった。


 ***


 七月二十一日、午後一時三十三分。(◼️◼️)


 ちくしょう。暑い。暑い。夏い。これは七月の暑さじゃねぇ。


「……毎年暑くなってない?ウチ、ここ最近のニュースで記録的猛暑ってすでに百回は聞いたんやけど、去年も一昨年もいっとったやんな。ボルトでもそんなに記録更新せんのとちゃう?織葉はどう思う?」


「……わかんないっぴ」


「……あ、やばいね。壊れかけてる。ほらぁ、頑張って。ウチの家までもうすぐやから」


 はえぇ。どうして頑張ることと凛さんの家までの近さに相関が生まれるんですかぁ。どういうことですかぁ。まさか誘われでもしているんですかね。そんなわけないじゃないですかぁ。ねぇ。……え、マジで。誘われてんの。


「……え、ええっとぉ」


「はぁ。青空が嫌いになりそう。もう晴れはいいかなぁ」


「……そのぉ」


「ね。食べるなら冷たいもんがええよね?あ、でも織葉の体調を考えるんなら元気の出るやつが第一候補かな。スタミナ丼とか。ラーメンとか。でも食欲ないかなぁ。ほら、さっき唐揚げ弁当食べたばっかやし。スイーツでもいいかも。ウーバーで持ってきてもらえるかな。織葉はどう思う?」


 あ、さっきのはジョークじゃなかったのですね。なるほどです。

 病人的には安静に帰ったほうがいいんじゃないかと思わずにはいられないけれども、わたくし的には美女からのお呼ばれなんてコロナ罹患中でも行きますのでもーまんたいですね。え、感染?しっかりとウイルスを熱で殺してから馳せ参じますけど。五十度ぐらいなら踏ん張れるかな。死ぬかな。死ぬな。ウイルスより先に僕が死ぬ。死んでも行くけど。


「ねぇってば。なにが食べたい?」


「……あー、なんでも?」


「なんでも禁止令なので」


「……お任せしますは?」


「お任せ禁止条例なので」


「……生きづらい法律やなぁ。香川県やん」


「あぁ〜、ゲーム禁止条例ね。誰が守るんだろうね、あんなの。バカだよねぇ。……じゃなくってさ、なんでもいいとかおまかせとかはダメなのです。今日から滋賀県大津市では「奢られる人が食べるものを決める」条例が発布されましたので決めていただかないといけないのです」


「……罰則は何がありますのん?」


「死刑です」


「……おっも」


 女と罰は重いのは嫌われちゃうぜ。……いやしかし、女も罰も軽すぎるってのは、それはそれで嫌われる元だと思うのです。いい塩梅ってのがいいって昔の偉い人も言ってたから、やっぱり中庸って大事なんだな、と。だからいいぐらいの食い物でいいのだけれども。


「……っていうか、ほんとに奢られてもええの?」


「ええで。奢るって言ってるんやから奢られんとむしろアカンで」


「……悪いで。お金のことはきっちりとせんと」


「……あー、もー!なら今度!今度に奢ってや!飯でも旅行でもベンツでも!だから今回はウチが奢るの!で、奢られる側の織葉はなにを食べたいかさっさと答えるの!はい!10、9、7、6、……」


「……ええ。……なら、おうどんで」


「……香川県に引っ張られてない?」


「……いや。でも赤こんにゃくとか言われてもちょっと困るやろ。滋賀県の特産って万人ウケするイメージないし」


「……せやな。よし、ならおうどんや!決定!」

 

 ――――――と、紆余曲折あり、笑いもあり、涙もあり、汗もあり、もう死にそうまであり。概ねつつがなく凛さんのご自宅へ到着できた。そこはかとなく裕福さを感じるのはボロアパートの一室が記憶に新しいからかと思ったけれども、「ほら入って!」と手招きされた凛さんの手をかける門はたいそう立派で僕の勘はあながち間違っていないのだろうと悟る。


「……お、お邪魔します」


 ギギギ、など言わず、躾のなった玄関ドアはドアであることの品格を感じさせる、さながらガチャリといった具合の音を鳴らし開く。まだゼロ勝二敗だ。焦る必要はない。いや、どっちにしろ焦る必要など本当にないのだ。今から暗黒期のベースターズが連戦で常勝ドジャーズに挑もうって腹なのだから。シーズン全敗でなければ御の字だな。


「邪魔するんやったら帰って〜」


「……あいよ〜。で、靴はここでええの?」


「うん。そこでええよ。ほら、スリッパ使って〜。ようこそ我が家へ!」

 

 ホールにはシンプルな絵画に陽の光を七色に変えるステンドグラス。ドアを二、三戸素通りし、リビングへと通される。いかにも上質そうなダークグレーのソファになんたらKの大きな薄型テレビ。モダンなシャンデリアに照らされるのは、これまたモダンな石造りの机。椅子は三つ。キッチンも大理石だろうか。


「……親御さんとかおらんの?挨拶しときたいんやけど」


「おらんよ〜、共働きやから。……あ、言い直すね。きょお、うちに誰もおらへんのよぉ」


「……そっか」


「もっと動揺しろよぉ」


 しとる、やろ、がい!見えんのか、この唇から滴る血を。何かは判然としないが、ともかく何かを噛み締め、その何かが暴走し始めないように痛みで誅する、この血の滲むような努力の結晶を。ニッとイタズラっぽく笑う凛さんを焦点に、目を泳がせないよう努めていると、凛さんはおもむろにスマホを取り出しポチポチっと澱むことなく何かの操作を始める。


「おうどん以外に何か食べる?……あ、遠慮とかなしで」


「……え、はい。なら甘いもんで。……スイーツとか?」


「スイーツってまた色々あるんやけど。まぁ、えっか。ウチ、なんかピザ食べたくなってきたからピザもひとつ、……いやふたつでええかな。それとぉ、……あ、甘いもんならアイスとかどう?あっついし、ちょうどええやろ?」


「……ご、ご随意のままに」


「りょーかい。注文したから、あとは待つだけやねぇ」


 あまりにも手際がいい。遠慮をするなと言われたものの、遠慮を差し込む余地すらなかった。いかほどの金額になったのか聞くのも恐ろしいのだが、僕はてっきり、ご馳走というのだから作ってもらえるものと思っていたのだが。どうやって返済すべきだろうか。肩叩きとか?これから世話になるかもしれないことも加味すればざっと五万年くらいかかってなお負債の方が大きくなりそうなことを除けば妙案だ。ぜひやめておこう。


「……こうなったら、身体で支払うしか」


「……ウチ、ほんとそんな貧乏じゃないから。落ち着いて」


 ウチの話をしているんじゃない。ワイの話や。しかし、身体で払おうにも、この貧相だ。だめだ。このthe貧相⭐︎に値がつくとは思えない。資本主義をあまり舐めない方がいいな。うん。地道に肩叩きでもしよう。揉み揉みもオプションでつけておこう。長い付き合いになりそうだ。ざっと五万年ほど。


「……なんか、ありがとね。すごいね。慣れとるの?」


「まぁねぇ。ウチ、陽キャやから」


「……なるほど、納得」


「で、問題です。陽キャはウーバーの余り時間をどうやって過ごすでしょうか!」


「……え、なに。王様ゲームとか?ツイスターゲームとか野球拳とか脱衣麻雀なんてのも」


「なんで全部ちょっとずつエッチやねん。……まー、言っておいてなんやけど、正解ってのもよくわからへんねんけどな。ケータイいじったり、せんせーの愚痴で盛り上がったり、誰々が〜とかどこどこが〜とか?……他はぁ」


 ニマッと弓形な口元を覗かせたかと思えば、僕はそのまま手を引かれ、ソファに座らされる。凛さんは僕の隣に、それも広いソファにも関わらずギュッと詰めるようにして腰掛けるものだから、腰が、肩が、肌が、吐息が、それぞれ触れ合う距離にいるのだ。たいへん危険な距離だと気づいた頃にはもう遅かった。


「……こーやって、久闊を叙す、とか」


「……」


「……聞かんよ。別に。この一週間のこととか。私が話したいことがたくさんあって、織葉にはただ聞いてもらいたいだけだから。……でもなに話そ。……うーーーん。……マルゲリータって、結局なんなんやろな」


「……ひとつ目それでええの?っていうか、わからずマルゲリータ頼んじゃったのかよ」


「じゃあ、なんなのさ、マルゲリータって」


「……いや、知らんけど」


「なんやねん」


 溶けるような時間の使い方だ。まるで生産性もなければ、かといって生産性に代替する有意義さもない。無駄とか、浪費とか、意識高い高い系の富士山型現代日本人が唾棄してしまいそうな時間の贅沢使いは、ともすればJKの特権だったりするのだろうか。「このペスカトーレとか、パルマってゆーのも美味しそうじゃない!?」だとかなんとかスマホをいじりながらだべり、「カロリーの暴力とは〜」と無駄な抵抗を勇ましく高説したり、「そもそも努力なしに可愛くなれるって幻想を男子は抱きすぎ!」と僕に言われても困る愚痴を聞かされたり、と。


「あ、織葉ぁ、このリップええんじゃない?私のなんやけど、似合うと思うんだぁ」


「……そうっすかね」


「絶対に似合うよぉ。織葉って化粧っ気ないけど素材はいいんだからさ。ほら、動かんで」


「……え、いや困る。関節キッスじゃん」


「気にせんでええよ〜」


「……気にしちゃうんだよなぁ〜」


 まぁ、塗りたくられるんですけどねみなさん。あ、味とか聞かないでくださいね。いま息止めてるんで。こんなシチュエーションで鼻の穴ひとつ動かそうものなら他意が生まれるってもんだし、そんな他意なぞ誰も気にしないったって僕が気にしてしまうのだからこれは他意というより自意識なのだろう。

 あれもこれも、この0㍉が僕を惑わせるのが悪い。


「……あの〜、賤霧さん?距離がちょっと近すぎるって気がしてきませんか?」


「ん〜?そうかな〜、こんなもんちゃうかな?」


  なるほど、こんなものなのか。なるほど。世俗に疎いと申しますか、世俗の記憶が記憶喪失ゆえに信用ならん僕ですけれども、いまばかりは世俗の常識とやらに深い謝意を述べたい気分だ。ありがとう。ありがとう。ありがとう。

 これが巷で噂の『エモい』なのだろうか。

 いや、これ『エロい』の親戚だろ。

 ……い、いかん。このままではムフフな妄想で理性がエクスプロージョンの爆発四散である。


「……ふひひ。はい、メイク終了!さすが私。なかなかのお手前やない?……あー、でももうちょっと可愛い系の方が似合ってたかな。すくなくともブルベじゃなかったな、大人っぽい色気は織葉皆無なわけやし。……でもぉ、こんな美人さんが明後日の文化祭で出し物なんかしちゃっていたらナンパとかにあっちゃうんやない?きゃー、他校の男子とかについてっちゃダメやで、織葉!」


 ……文化祭?


「……まだ一学期やろ?……こんな時期に文化祭があるん?」


「……えぇ。勉強バカの織葉さん、文化祭の日ぐらい憶えてなよ」


「……あ、あはは。そうなんですよ。勉強大好きなもんで文化祭とか忘れてたんすよ、いやぁお恥ずかしい」


 不自然じゃなかっただろうか。いや、不自然だった。まったくもって不自然であるし、森林伐採して築いたソーラーパネルでこしらえた電力をエコと称するぐらいには不自然である。僕が、勉強を、好き、だと?……あぁ、いや、そこじゃない。文化祭の日を憶えていないことが不自然なのである。

 だが気にする様子もない凛さんは、「一週間休んどったし、しゃーないな」と納得してくれているようで。

 コホンっとわざとらしい咳払いをひとつ。

 凛さんは、エアー眼鏡をクイッとあげる。


「では、では、では、忘れんぼうな織葉さんに凛先生がご教示いたしましょう。我らが文化祭、『淡海祭』を!……って言っても、たいした催しじゃないねんけどな。組ごと、部活ごとに出し物を行うの。

 今年の文化祭は明後日からの二日間開催やねんけど、一組の出し物は『占いの館』やな。占ってやるぞぉ〜」


「……はえー、占い、ねぇ。タロットとか、水晶占いとか?」


「……ん〜、有志の人が頑張ってるらしいけど、どうなんだろ、そんなんちゃう?知らんけど」


 おいおい解説、仕事を放棄するんじゃない。

 しかし、占い、ね。寡聞にして存じ上げないのだが、出し物レベルの占いだとカードやら鉄の延べ棒なんかを用いて「貴様の恋心を半裸にひん剥いでやるぜぐへへへへ」ぐらいのもんなのだろうか。しかるに、どうしてJKはこうも占いが好きなのだろう。バーナム効果やらなんやら心理学的作用があるのだろうが、それにしたって世のJKは占いを過信しすぎである。いや、昔の偉い人は占いで戦況を見極めていたともいう。JKは昔の偉い人だった?


「ところで、淡海祭だなんてネーミングセンスはあまりに滋賀県的だよねぇ。体感やけど滋賀県にある中高の二分の一ぐらいは文化祭の名前にこれを採用しているんやないかってぐらいには馴染みがあるんやけど、織葉はどう思う?」


「……そうやね。だって滋賀県民はまたの名を淡海人(あみんちゅ)やもんね」


「……どうして滋賀県民は、……琵琶湖が偉大すぎるのか、はたまた琵琶湖しかないんか、どっちなんやろ」


 どっちもだろう、知らんけど。

 しかし、文化祭、か。僕はどういったポジションで楽しむべきなのだろう。ここがどこかもよくわかっておらず、そこにいるのが誰々かもまるでわかっていない僕が、文化祭という青春に呼ばれてもいいものなのだろうか。すくなくとも、純粋には楽しめそうにない。僕は僕さえも知らないのだから、僕を取り囲む諸事情など知る由もないのだ。限りなく無知なのである。はっきりいって、それどころではない状態なのだ。


(……淡海祭、ねぇ)


 けれども、胸中の、僕以外の誰にも触れられなさそうな奥底にて、確かにあった不燃物が燃やされているかのような微々たる炎。

 それを“期待”だなんて呼称するにはあまりにも大袈裟だったけれども、なんとなく、明後日の自分を夢想することが明るく思えたのは事実だった。


「あー、でも明後日の天気予報は雨やね。こんなことなら晴れでもよかったなぁ」


「……なんで天気を操る側の目線やねん」


「私、晴れ女やから」


「……聞いてへんのよ」


「……晴れのが良かったの?」


「……暑いし、雨でよろしく」


 りょーかい!と手刀をおでこに置き敬礼ポーズの凛さん。何を了解されているのかよくわからないけれども、文化祭の出し物なんて屋内で十分だろうから、ちょっとこの殺人的暑さを和らげてくれるのであれば神にでも仏にでも凛仏神にでも頼んでおこうと思い、手を合わせておく。

 湯水のように時間を消費した。まるでエコではない使い方だ。

 そろそろウーバーも近所にいるのではないか。奢ってもらう身でなんだが、腹の虫が小洒落たソングをシングしてしまいそうになるくらいには腹が減った。


「……出前、もうそろそろかな?」


「……ん〜。そうやねぇ。もうちょっとぐらいやない?」

 

 この小さな身体は、その小ささに反比例するかのようにエネルギー消費が激しいのだろう。つい数時間前に唐揚げを山盛りあ〜んされたというのに、次はうどんをちゅるちゅるしたくて涎がウヘヘ。勤勉ロリッ子高校三年生にまさかの腹ペコ属性だなんて平成のアニメキャラかよ。萌えかよ。キュンキュンかよ。我ながら自分のポテンシャルに戦慄を覚えそうになるが令和とかいう胸と尻だけ出しておけば萌え萌えしていた時代を燃え燃えすることにはばかりのない時代ではたして僕は生きていけるのだろうか。


「…………」


「…………」


 これは、誰の沈黙だったのだろう。普通であれば、普段であれば、普遍的日常であれば、いまごろ硬い椅子と机で黒板を必死に模写していた時間帯である。子供である自分たちでなくとも、大人だって仕事の真っ最中だ。故に、閑散さは単なる物悲しさを生むのではなく、引っかかるところのない歯車が憂鬱ながらも空回りしているかのような、分かち合えない玉響に浸っている気分だ。

 キッチンの蛇口から滴る水飛沫。

 無機質な陽光。赤裸々な静謐。

 だからこそ、ボスん、と。

 僕の膝に凛さんが頭をのっけた音もよく聞き取れた。

 

「…………」

 

「……え、あ。……り、凛、さん?」


 こ、これは。俗にいう“膝枕”じゃないのか。

 すっとんきょうな声をあげる僕に対し、凛さんは依然として無反応だった。ただ何事というわけでもなく、それでもそこにある何事かを察して欲しがっているような。そんな虚な目が僕の視線と交わった。


「……さ、サービスが過ぎるんじゃないですか?過剰な接待はちょっと受け手も困っちゃうと言いますか、なぁなぁそれなりそれっぽい形だけ身なりだけの形式的な接待ばかりの昨今ですが、これだけのことをされちゃ余計な勘違いを生んじゃうと言いますか気を使うと言いますか、その、つまり、ええっと」


 我ながらドモドモと何を口走っているのかわからない僕の戯言など右耳から左耳に通り抜けているのだろう。

 僕の膝を我が物顔で占拠する凛さんは口をつぐんだままだ。

 苦悩と葛藤と煩悶。それぞれの苦行をやっとの思いで耐え凌ぐこと一分とちょっと、沈黙ののち、されど口を開いたのも凛さんだった。いまにもぷっつりと途切れてしまいそうな小さな声音で、凛さんは僕の顔なんて見ずにボソッと呟く。


「…………お願い。もう、私をひとりにしないで」


 この声が、声の主が、あの爛漫な印象でしか構成されていない凛さんの声だと脳が認識するまでに、僕は異様に時間を要してしまった。寂しげで、甘えっぽくて、ちょっと恨めしそうな声音。僕の解釈するところの賤霧凛のものではない、他の誰かの声音のようだった。


「……もう、ひとりは嫌なの」


 ひとり。意味するところは孤独なのだろうが、彼女のような明るいキャラクターの人間が、どうしてこんなことを言うのだろう。

 友達だっているに決まっている。これほど気立が良く気さくで明るく楽しい子なのだ。どうして孤独でいられようか。もし仮にいじめかそれに類する何かが原因でハブられていたってんなら、僕がそれを許さない。僕でなくたって、誰かがそれを許さないはずだ。そのくらいのことだってしてやっていいと思える程には、彼女は陽キャなのだ。それに彼氏だっているのかもしれない。


「……」


「……あ、あのぉ」


 それとも、あれか、僕と、……いいや、岸辺織葉と賤霧凛の関係は、友達以上のやんごとなき関係だったのかもしれない。

 今の時代、同性同士だなんて、珍しいだろうが、変な話ではない。

 わからない。まるで、わからない。

 わかってやれない。それが、怖い。

 答えあぐねている僕の様子を、凛さんはどう思っているのだろう。僕から見る凛さんは、さならが幼児のように拗ねているようで。寝返りを打つように僕の下腹部に顔を埋め、よれた制服の裾に執拗に指を絡ませ、掴み、なにか大事なことをじっと待っているように黙りこくる。

 ともすれば、凛さんは岸辺織葉でなく、“僕”の言葉を待っているかのような、そんな錯覚さえして。


「…………あ、あの。えっと」


 舌先まででかかっている言葉はいつくかあった。

 されども、その全てがどうしようもなく嘘っぽく、宝石のように白い初雪の上で無造作に足跡をつけていくかのような、そんな胸焼けがしてしまいそうな言葉ばかりだった。仮に出てくる言葉が嘘でなくとも、それはきっと本心ではないことだけは確かたった。何が悪いのか、僕の頭が悪いのか、ろくな言葉が出てくる気配すらなかった。

 そんな沈没しそうな言葉の群れで、いったい、何を為せようか。

 しかし、彼女は“岸辺織葉”の言葉を待っているのだ。

 さりとて、僕は“岸辺織葉”を知らない。言葉も無い。


「……そのさ、君を満足させられるかわからんし、……これといって安心させてあげられるような返事の持ち合わせもないんやけどさ」


 ただ、烏滸がましくも、“僕”がこれに答えてやれるのであれば。

 すくなくとも、微々たる本心は伝えられるんじゃないだろうか。


「……善処、させてもらえればな、って思ってたり、します」 


 きっと満足のいくものではなかっただろう。だが、これが僕の、“僕”としての所信表明だ。僕は“岸辺織葉”を知らない。“岸辺織葉”の用いる言葉を知らない。賤霧凛の切望する“岸辺織葉”ではないし、“岸辺織葉”にもなってやれない。だから、僕の成し得る限りのことを言葉に載せるのであれば、これなのだ。

 伝わってくれるかな。伝わってくれればいいな。

 なんたって、彼女は一番に僕の孤独を癒してくれた人なのだから。


(……さきに救われていたのは、僕の方やったんや。あの教室で、あの空気で、沈みそうになっていた僕を力強く抱きしめてくれたのは、他でもない凛さんやった。気を失って倒れた僕を甲斐甲斐しく介抱してくれたのも凛さんやった。……どのくらいの恩があるんやろ。

 ……その恩を返してやるのは、“僕”でありたい)


 ……あぁ、そうか。だから、“こんなに嬉しい”んだ。

 ……まるでいま。

 ……彼女が、“僕”を必要としてくれているように思えたから。


「…………」


「……あの、凛さん?さすがにレスポンスがないのはちょっと、堪えるんやけど」


 聞こえていないのか、聞く気がないのか、当人の凛さんは怒るでも呆れるでもなく微動だにされない。むしろなんだったら埋められた顔をさらにぐりぐりと僕の下腹部に押し込もうとする始末である。どないしよう。


 ――――――ピンポーン。

 ――――――宅配でーす。


 そうこう一進一退の攻防戦を繰り広げていた僕らだけれども、突如として呼び鈴が屋内に反芻する。

 ようやっと出前が到着したらしい。急かすように、もう一度、呼び鈴を鳴らされる。


「……凛さーん。ちょっとばかし離れてもらってもええですか?」


「……いーやーだー」


 いや、いやだ、じゃないのですが。困っちゃうのですが。


「……もう、全然嫌だし。全然良くないし。善処だなんて政治家の言葉濁しみたいで信用なんてんてこれっっっぽっちもままならないけど。ずーっと、ずーーーっと、こんなふうに君を捕まえてやりたいのだかれども、さ」


 しかし、いよいよ抵抗を諦め、僕の膝から撤退する凛さん。


「……言ったからね。聞いたからね。

 …………善処のほど、よろしくお願いします」


 小声でボソボソとぼやくように、彼女は僕の耳元で囁いた。

 結局、その後の僕たちはしばらく目も合わせられなかった。

 記憶も朧げだ。出前で頼んだピザの味も、マルゲリータがマルゲリータである所以も、朧月を眺望しているかのようなひとときにありったけの感情をさらわれてしまった。ただ、もうちょっと歯切れのいい言葉を捻り出せないものなのか、と、スマホの相手をしている凛さんから逃げるように駆け込んだトイレで煩悶していたことのような情けない思いばかりはいやに克明に心に残った。

 僕たちは早退していたことすら忘却に捨て、ただただ時間を浪費した。

 昨日までのこととか。

 明日からのこととか。

 ただただ凛さんが一笑してくれただけで、要らぬ不安もあるべき不安も融解し、僕らは時間に身を委ねる舟となった。


 だからだろう。この時の僕は、これっぽっちとして気にしてはなかったのだが。

 僕は、“いくつも“見逃していた。

 違和感を。

 不自然を。


 ひとつ、例を挙げるならば。

 どうしてスマホの相手をしている凛さんから逃げるようにしてリビングを出ていった僕が、

 なんら迷うこともなくトイレに避難できたか、とか。

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