第3話 地球温暖化のせい

 七月二十一日、午前八時二十二分。(◼️◼️)


 紫外線の猛アタックに僕ちんクラクラきている炎天下ではございますが、そろそろ目的地周辺のようです。カーナビさんも「もー見つかるやろ?」と言わんばかりに駐車場の場所もろくに教えず役目を果たした気で黙りこくる困った距離ではあるが、本日は徒歩のため全ドライバーの憂慮は杞憂で終わるのです。


「……おいおい。高校だってよ。テンション上がるな、おい」


 白亜の巨塔、と言うにはあまりにおこがましいので、白っぽい中ぐらいの塔とでも濁しておこう、って塩梅の校舎が見えてくる。

 Jkの主食であるいいねボタンを心ばかし(言葉通り心だけ)灯し、JKの尻を後にした。

 校門の学校銘板には『県立 西大津高等学校』。

 絵に描いたような“普通”が特徴的な学舎である。

 ことなくして目的地に到着できたことはたいへん喜ばしい。ここが岸辺織葉の通っていた学舎であるのだろう。その証拠と言わんばかりに同じセーラー服のJKがわらわらと校門を通過していく。自分もそれらに倣いあとに続くが、場違いというか、名状し難い独特な緊張感があった。


(……ここで、……あっとんのかな。……見覚えは、……あるような?ないような。……ないよりのないかな)


 この緊張感をうまく表現できないけれども、まるで歓迎されていないような、ともすれば歓迎されたがっていないかのような緊張感とでも言い換えればいいのかも知れない。セーラー服だって数度と見直した。僕は列記としたJKである。なのだから、歓迎されないわけにはいかない身分のはずであるのだが、それでもぼんやりと輪郭のない疎外感ばかりが僕の心に積載されていくように感じた。

 

「……記憶喪失なんやから、そんなもんやろ。……そんなもんなのかは知らんけど」


 交通量の多い校門前で立ち止まっているわけにもいかない。さっさと校舎内へと向かおう。


(……セーラー服を再々再度チェックしたいところやけれど、よしておこう。

 ……男子学生は涼しげなカッターシャツか。……カッターシャツくんやないか。東日本でいうところのワイシャツくん)


 関西圏方々から「ワイシャツってなんやねんw」と鼻で笑われているカッターシャツだ。だが、どうか、落ち着いて聞いて欲しいのすけれども。全国的にみればカッターシャツ派が少数派らしいのです関西圏の皆々様。カッターシャツっていわば方言なのです関西圏の皆々様。方言だけにほげぇ〜なのです関西圏の皆々様。……だからと言って、関西圏民的にワイシャツという単語があまりにもしっくりとこないこともご査収いただけると幸いなのです関東圏の皆々様。

 ……で、カッターシャツに、ボトムスは一般的な紺のスラックス。ううぅむ、悪くない真面目にもチャラチャラにも対応できるバランス型制服といえよう。悪くあらへんのと思いまするがいかがだろうか。


(……ところで、……はぇ〜。JKのスカーフの色って三色なんや。紅色、……藍色、……翠色、……やな。学年別やろか?)


 キョロキョロと側から見られて恥ずかしいこと怪しいことこの上ない所作の僕であるが、間も無く昇降口だ。

 蒼天から天井へ。明度の落差に視細胞くんが全力で暗順応を試みる。


「……ウロウロ。…………ウロウロ」


 ……あ。しまった。


「……僕の下駄箱、どこやねん」


 ……わ、わかるわけがない。生徒の数あるんだぞ。誰かに聞ければいいのか。いいや、「僕の下駄箱どこですか」なんてただでさえ訳のわからない問いかけできるはずもないし、それに僕に記憶が残っていてもおそらく他人の下駄箱なんて記憶の片隅にもなければ記憶に残そうともしないだろう。だからといってそれは僕がとりわけイヤなやつだからというわけではなく、誰だって同じだろうけれども、それが赤の他人との適切な距離感というものだからだ。

 生徒たちは次から次へと昇降口へ入り、

 自身の外履きと上履きを履き替え、

 そのまま、廊下へと向かっていく。

 たくさんいるのに、これだけワラワラと生徒がいるのに、その誰もが僕にとっての赤の他人。


「………………」


 嫌な汗が頬を伝う。耳鳴りがひどく煩い。遠く蝉時雨や吹き抜ける風の音はよく聞こえるのに、近場の生徒一人の会話すら耳から素通りするような感覚。これほど暑い最中の悪寒と言い換えたっていい。たかが下駄箱の位置がわからないってだけなのに。たかが上履きと外履きを履き替えるってだけなのに。たかが教室までの道中でしかないのに。

 記憶の奥の底の、大事なところにこべりついた何かが込み上げてくる。

 それは何かわからない。何かはわからない、が。

 ただ、疎ましい、悍ましい何かのように思えた。


「……大丈夫や」


 呟くように。囁くように。


「……大丈夫や」


 震える身体を自ら抱きしめ、


「……大丈夫」


 根拠などない慰めの言葉を唱える。もとより根拠など必要としていない。なんせ、僕は僕自身、この感情に驚いているところなのだから。怖がっている?怯えている?慄いている?ただただそれら全てが僕ではない何かの嗚咽のように思えて、そんな津波のような情動に成すすべなくたじろいでいるだけに過ぎない。

 ……記憶が戻れば、僕は心あたりと向き合えるのだろうか。


「……あぁ。もう。ごじゃごじゃと考えんな。感じろ。いややっぱ考えろ。

 ……下駄箱やぞ。底意地の悪い出題者が考える穴埋め試験とはわけがちゃうやろ」


 なにも難しく考える必要なんかないんだ。繰り返しになるが、たかが下駄箱の位置だ。それくらいなら岸辺織葉の個人情報を役立てれば随分と絞り込めるのではなかろうか。……つまり記憶喪失前の僕の個人情報ということになるんだろうけれども、便宜上、あるいは僕の心上、岸辺織葉と呼称することにしよう。

 で、ヒントは紅色スカーフ、三年一組、岸辺織葉。


「……まずは紅色スカーフ軍団へ流されるまま流されればいいのであって、」


 男子生徒はパッと見た目の区別はないが、女子生徒はわかりやすく区別の差があるのだから、同類の方へ流されるのは道理だろう。


「……三年一組。二組でも、三組でもなく、一組や。……つまり、端にあって然るべきであって、」


 端といえども右と左があるが、二年生であろう藍色スカーフ陣取る下駄箱のすぐ隣である右を選択する。

 二年〇〇組(ラスト)の次にくる三年〇〇組といえば、二組でも、三組でもなく、一組ってが相場だろう。


「……それでいて、岸辺織葉。……『き』や。わりと先頭から近い出席番号やろ」


 怪しまれることを承知で、順に下駄箱の蓋を開けていく。

 上履きってのはきっと学校指定のものだろう。だったら名前くらい書いてあるんじゃないか。そのはずだ。それに岸辺織葉、岸辺織葉、岸辺織葉、と馬鹿丁寧にノート一冊一冊名前を記していたのだから、上履きにだって所有者名を書いていなければ逆に不思議なくらいだ。

 ……そして10番目。


「……ぉ?……おぉ、あった。ビンゴや。みっけたぞ!」


 上履き発見。それも機械フォントさながらの岸辺織葉のサイン付き。

 達成感!感無量!感謝!圧倒的感謝っ……!涙!大粒の涙!

 さしぐむ涙もほどほどに上履きをはく。さて、泣いている場合じゃない。こっからどうしようか。いままでが行き当たりばったりすぎたのだが、やばいぐらいにプランがない。どれくらいにノープランかといえばリボ払い使っているやつの将来設計ぐらいにノープランである。なにがどうヤバいのかよくわからないけれどもリボ払いがヤバいことだけは知っているし、いま現状もなにがヤバいのかもう整理がつかないくらいにはヤバい。つまりいまの僕はリボ払いである。


「……くそう。いつだってツケを払うのは将来であったはずの今なんだ。過去の自分っていつもそうですよね。私たち(未来)のコトなんだと思ってるんですか」


 キーンコーン、カーンコーン。


 予鈴である。つまり、次は本鈴である。

 あ、ヤバい、ヤバい。ちゃんとヤバい。

 ふざけている場合ではないし、ふざけているつもりもないのだが、ふざけた現状は反省を促そうにも素知らぬふりである。吐き出される二酸化炭素は心ばかし環境に悪そうで、途端に家に引きこもっておけばよかったと後悔の念に苛まれながらも、僕は紅色スカーフの尻を引き続き追うこととする。


 ***


 七月二十一日。午前八時二十八分。(◼️◼️)


 左上。クラスプレートには三年一組。

 さぁて、諸君、これはジレンマってやつである。

 現時点、僕のもっぱらの目的は『僕』について、ひいては『岸辺織葉』についての情報収集である。『僕』=『岸辺織葉』の確信さえ抱けないいま、僕ないし岸辺織葉を知る第三者の存在はあまりにも重要であることは火を見るよりも明らかであろう。


(……だから突入あるのみ、……なんだけどなぁ)


 他方、じゃあどないして情報収集すればええねんとの批判も当然あるだろう。答えてやろう。ノープランなんだぞ僕は、と。情報収集プランなんてあるわけがないじゃあないか。どこまでノープランかと聞かれれば、ノーはノーでもノーブラノーパンならよかったんだけどなぁ、とかぼんやり思っているくらいにはノープランである。すなわちジレンマである。


(……開口一番からして、つまずく気配がしかない)


 とはいえ、何をすればいいかはシンプルである。つまり、『岸辺織葉』を知らない僕が、『岸辺織葉』を知る学友に、『岸辺織葉』と認識されながら、『岸辺織葉』を知らねばならない、って塩梅である。俄然、無理な気がしてくるであろう。


(……いっそ、記憶喪失であることを打ち明ける、とか)


 ……ま、そんなことをしでかせば情報収集どころではないだろうが。

 そもそも『岸辺織葉』=『僕』の確信すらない現状、これ以上に拗れることは望ましくない。予期できない未来に無策でツッコむほど僕は関西人でもなければ、拗れに拗れるであろう未来にそれっぽい横文字でプレゼンを始められるほど僕は業界人でもないし、どうにでもなれぇ!!ができるほど僕はサイヤ人もないのだから。


(……この間、わずか一分。……ふっ、思考のトロさに反して現実の時の流れが速すぎるぜ)


 結局、何も決められないまま引き戸に手を掛ける。

 二酸化炭素多めのため息をひとつまみ。この先の完全アウェーな空気感に尻込みしながら、それでも決まりきった運命に瞑目する。


 ――――――進展か、維持か。


 不思議と維持だけは選びたくないってのは、なけなしの意地っ張りってところだろうか。あまりにも忘れたことが多く、それはきっと失ったものの数すら失ってしまっているということなのだろうけれども、意固地になったとて進展をしようってあたりにビビりな僕がここにいる理由となっているのだろう。

 だったら、僕は引き戸をどうすればいいのか知っているはずだ。

 そうでなければ、僕はほんとうに僕を見失ってしまうのだから。


「……ど、どうにでもなりやがれッ」


 サイヤ人よろしく、僕は引き戸を力強くスライドする。


 ***


 七月二十一日、午前八時三十分。(◼️◼️)


 キーンコーン、カーンコーン。

 

 暁光。曙光。斜光に目が眩み、のちにじんわりと教室は輪郭を表す。制汗剤と香水の匂い。チョークの煙たさ。ひとつひとつの意味のない会話が連なり連なり雑音となる三年一組を、僕はその五感で味わう。


「…………っ」


 不意に、ただ不意に、僕は“あるもの”を言語化してしまいそうになる。否、言語化してしまう。その衝動は、いわば衝撃だ。僕の内側から、わけのわからない何かが外側へ引っ張られるように出てくる。僕はこの教室を知っているし、僕はこの空気を知っているし、僕はこの雑音を知っている、と。どれもが些細なことなのに、どれもがありふれたものなのに、……僕はただの記憶喪失ではいられなくなる。


「……やめろ。なんも思うな。

 ……なんも、考えるな」


 ドクドクと血流が血管をこじ開ける感覚。恐怖。純粋きわまる恐怖である。

 だが、記憶のない僕にはその恐怖心がわからない。すなわち、これは僕の恐怖心ではない。だからだろうか。僕はこの身の丈に合わない恐怖を、その恐怖心だけを、ただ受動的に自分ごとのように置換されようとしている。やめろ。何も思うな。何も考えるな。そんな抵抗も虚しく、血管を昇る血流を留められないように、ただ、ドクドクと、“僕”のことへと変貌していく。

 改めて言おう。これはきっと、僕の恐怖心ではない。

 だが、それは、僕に恐怖心がないことにはならない。


「……なんも、思いたくな――――――」


 ――――――この教室では、僕は『岸辺織葉』である。

 岸辺織葉。誰だかわからない少女。だけれども、きっと僕よりも誰から認知されており、僕よりも愛され、僕よりも青春を送るのだ。僕ではない。岸辺織葉なんだ。そんな事実が否応なく突きつけられる。それがあまりにも、自己が希釈されていくような。あまりにも、他者が濃密となるような。

 ……僕は、誰なんだ。

 

「……なんも、考えたくな――――――」


 ――――――岸辺織葉が嫌われることが怖い。岸辺織葉が嫌われることを怖がる自分がまた、怖い。

 僕が岸辺織葉でないのなら、僕は僕の思うままにすればよかったはずなのだ。下駄箱の位置がわからない?気にせず他人の下駄箱を開ければいい。教室の位置がわからない?気にせず誰かに教室の場所を聞けばいい。教室に入るのが怖い?そんなはずはない。だって、僕は岸辺織葉ではないのだから、僕は岸辺織葉と知り合いですらないのだから、岸辺織葉の体面など気にせず僕は僕の思うままにすればいいはずなのだ。

 ……そんなことにおっかなびっくりな僕は、本当に誰なんだ。


「………………」


 ――――――誰なんだ、誰なんだ、僕は、誰なんだ。

 僕が希釈されていく。僕ではない誰だかわからない岸辺織葉が濃密となる。結局、僕なんてものは存在せず、全て全て全て全て錯覚の賜物で、産物で、存廃で、出来損ないで。いつの間にか薄らぼんやりの岸辺織葉の自我が確立されてしまえば、僕だったものは塵も芥も残さない完璧な死を味わうのだ。

 ……ほら、やっぱり、一番怖い死に様だ。

 ……僕も、僕さえも、気づかれない死だ。

 

「………………」


 ……何も、思いたくない。

 ……何も、考えたくない。


「…………あぁ、えっと。どないしよっか」

 

 …………あぁ、そうか、そうか。

 ひとまず席に着こうか。席に着きさえすれば、そうすれば、あとは自分の席で復習ノートの文字列でも目で追っておこう。きっと頭には入らないだろうけれども、漫然と過ぎ去る時間に身を預けられる。緩慢と、惰性的に、ともかく時間だけは過ぎてくれる。穏便に、保守的に、じっとしておくだけ。それだけ。

 肺が痛い。制汗剤の強いミントの匂いに嘔吐感を覚える。

 頭が痛い。無遠慮で無秩序な、雑然たる雑音に眩暈がする。


「…………あ、あれ、そういえば、席って」


 見回せど、見回せど、見回せども、自分の席すらわからない。

 みんな同じスカーフの色で、岸辺織葉の出席番号が10番。ここからわかるのは、……あぁ、やめよう。虚しいだけな気がしてきた。もうそういう次元の問題ではないのだから。席順がわかって、じゃあ、どうするんだ。授業がはじまり、休憩時間を挟んで、それから、……それから、どうすればいいんだ。

 ……進展を希い進んだドアの向こうで足踏みしている。

 ……こんなことなら、おもいとどまるべきだったんだ。


「……帰ろうかな。……帰ろうか」


 ……帰ろうたって、もうすでに教室内の他の生徒が僕を視認してしまっているじゃないか。きっといま踵を返せば訝しがられる。訝しがられるだなんて、ただそんな思い煩いにぴたりと足を止めてしまうのだから、もはや僕は僕が何をしたいのかがわからなくなってくる。結局、僕自身、僕がわからなくなってくる。

 ……戻る勇気も、進む勇気もなくなる。

 ……ただただ、教室の隅で立ちすくむ。


 ――――――進展か、維持か。


 わからなくなってくる。

 わからなくなってくる。

 わからなくなってくる。


「……だ、れ、でもいい。……誰でも、いいから」


 鈍化している思考。質量のない重圧。立っているだけなのに足先が遠く感じ、指先が痺れるように動かなくなる。晴天の斜光はあまりにも眩しく影を伸ばし、拍動のうるささに呼応して影に沈む闇があざ笑うように肩を震わせている。見るに堪えない、見せるに堪えない、それがあまりにも恥辱に思えた。

 ……それでも、それだからこそ、

 ……いやしくも、欲してしまう。


「……誰でもいいから――――――」


 ……誰でもいいんだ。誰だっていい。

 ……そんな奴がいるのであれば、もう誰でもいいから、


 ――――――僕を、見つけてくれ。




 

「………………織葉?」 

 

 鈴の音色が、おもむろに、僕の耳朶を打った。丸められた紙のシワのようにひどい憂き目にあっていた僕など尻目に、すでに本鈴がなり終わった教室は生徒がそれぞれ着席し、揃えられた個性のように前へ向き、ホームルームの号令を待っているところだった。そんなあまりにも日常的光景への遭遇も、たったいま気づけたのだ。

 いつの間にか潤んでいた視野が、その声の主の輪郭を捉える。


「……織葉、やんな?」


 声の主は、さながらどんな写真も背景にしてしまえるような人だった。それがきっとひらりと舞う蝶であっても、荘厳な庭園でも、満開の花々であっても、きっと彼女は映えてしまう。そんな彼女は、彼女だけは、僕のことをジッと見つめていた。

 ……きっと、もっと、思うべきことはたくさんあったはずだった。

 ……だけれども、僕は不意にもその子を目の当たりにして、「綺麗な人だ」と、そう思った。

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