第2話 謎の女の子(ワイ)
七月二十一日、午前六時二十三分。(◼️◼️)
広辞苑で索引するところの『真面目』『腐った』『眼』の例示のような、そんな単語群の生き字引のような眼をした少女は、あいも変わらず姿見鏡に降臨なされている。齢は見たところ中学生ぐらいか。眼の下にはひどい隈があり、これを真面目だなんて形容するのだから世も末だ。現代っ子の未来が危ぶまれる。
「……二、三人呪い殺してても「だろうな〜」って感想しか湧きそうにないほどに目つきの悪い。……前科あったらどうしよう」
とはいえ、きっと前科があるにしろ暴力沙汰じゃないのだろう。それぐらいに華奢な印象だ。生真面目そうにぱっつんと揃えられた前髪に、肩にかかるほどの後ろ髪。ルームウェアというにもあまりにもセンスのない灰色のトレーナーとカジュアルパンツに身を包み、女性らしさへの無頓着さが滲み出ている。
「…………はは、ははは。でも、ほら、お可愛いですよ。寝癖とか、とってもチャーミングで」
姿見鏡に独り言。ご覧の通り、僕の現実逃避スキルもそろそろ地上スレスレで擦り切れそうな様相だ。刮目すべき諸問題が無限大に広がりを見せるもんだから八方塞がり甚だしく、非常口看板のアイツも引き返すぐらいに逃げ場のない現状、真面目腐った眼には変わり映えのしない非情さだけが見えた。
後先考えないタイプの脚本家が、酒場のノリで書き殴ったかのような現実。
それすなわち、記憶喪失に飽き足らず、まさかの性転換まで盛り込む現実。
「……男の子やった気がするんやけど。男の子やった気が、……あぁ、どないしよう」
こんな妙ちきりんキテレツ展開、聞くも嘲笑、話すも失笑だろう。誰に何も言えばいいってんだ。
病院に赴き診察を受けようにもうまい問答さえ思いつかない。「僕、こう見えて記憶喪失に加えて男の子だった気がするんですけど女の子なんです、どないしましょう」とでも言えばいいのだろうか。ならば受診すべきは精神科か心療内科になるだろう。強めのお薬を処方されるかもしれない。
もっとも、信じてもらおうにも、一番信じられていないのが自分だったりするのだから救えない。
「……誰でもいい。誰でもいいから、腕が良くって頭のおかしい患者相手にも親身に話を聞いてくれるお医者さんを紹介してほしい」
国民健康保険の対象なのだろうか。記憶喪失と性の違和感って。
……いや、待て。しばし。
「……ところで、だけれども」
ところで、である。この可愛げのカケラもないチビを女の子だろうと僕はまるで疑うことなく断定してしまっているわけだけれども、この弓矢よりも速い即断になんらかの違和感を覚えたっていいんじゃなかろうか。だって、女の子は可愛いものだ。可愛いから女の子なのだ。お砂糖とスパイスと素敵なもので出来ているくらいなのだから、可愛くなければなんだというのだろう。妥当に料理だろうか。ともかくきっとおそらく三時のティータイムと相性のいい身分に違いのない、はずなのだ。
「……すんすんすん、……なるほど。汗臭い。あせくっさぁい」
女の子はお花屋さんの薫りってのは都市伝説らしい。田舎現実は汗と皮脂と世知辛さを煮詰めた何かだった。
大きな括りで人類であることぐらいは断定してしまっていいのだろうが、オスかメスかで言われれば、メスのような気がするしオスであってもへぇとなるぐらいにはオスのような気もする。メスよりのメス、ときどきドキドキオスかもしれないってところだろうか。
「……じゃあ、うん」
じゃあ、である。古今東西、森羅万象、悠久の歴史において、男か女か、その峻別に当たる手段ってのは極めて単純で明瞭である。
お胸である。お胸があれば女の子なのである。
姿見鏡はダボつくトレーナーの少女(?)を鮮明に映し出す。控えめな肉付き、細々とした腕、チラリと襟元から覗く肋はどことなく不健康そうな印象を与える。ろくに食っていないのだろうか。こころなし頬をコケているように見える。こんな幼気けな子の胸をまさぐろうなどと、ちょっとばかし心が痛むというか、やるせない気持ちになるものだ。あぁ、叶うなら、みんながハッピーでラッキーでいられればいいのに。そうすれば世界は平和でいられるのに。こんなもの(胸)っ!こんなもの(胸)があるからっ!
「……はい。では失礼して」
ひとしき葛藤をしたので、遠慮なく失礼してみる。
「……?」「…………んー?」「………………うん」と。
失礼しておきながら失礼なことを言うようで大変失礼なのだが、僕は+ないし±を期待していたのだけれども、これはむしろ−ではなかろうか。胸が虚数とはどう言うことなのだろう。哲学すぎる。見晴らしのいい高原からの眺めは、山でも境界線でもなく、でっかくくり抜かれた隕石衝突の跡地だったのだ。胸(おっぱい!)か胸(体の部位)か、その区別のための失礼だったのに、この胸は胸(胸であって胸ではない。おっぱいでなどでは毛頭ない!)になっている。
「……あ、うん。ごめん。勝手に失礼してほんまごめん……ね?」
ひとまず鏡の女の子に失礼を謝っておく。しかし、これは理不尽というものだ。あれば女の子、なければ男の子って具合だったのに、男の子よりもないだなんて思わないじゃないか。つまり、やはりこんなもの(胸)があるのが悪いんだ!僕は悪くない!僕は悪くねぇ!……こんなもの(胸)は世界の秩序を乱す世界の悪なのだから、……その、……なんとか、なんとかしないと!けしからん!けしからんぞ!(決して意味深ではない)
「……うーん、じゃあ、股ぐら探るしかないんかな。うん、失礼」
葛藤は割愛。女の子なのか、男の子なのか。その大胆にして微細な性差は股にあるのだから、股ぐらを探ることは合理的判断である。
だから男の子以下の無乳(失礼w)相手に特段の躊躇もなく下着のさらに下から直接確認してみたのだが、鎖骨に指を突っ込まれるような激しい不快感が全身を這う。局所的な空白が、全身を隈なく駆け巡るような、そんな不快感だった。
そう。詰まるところ、僕は正真正銘の女の子だったらしい。
***
七月二十一日、午前六時四十五分。(◼️◼️)
なるほど。世にも珍しい教養を一つ得てしまった。世界広しといえども僕だけが持ちうるであろう知見を一つあけっぴろげに披露するのであれば、『ある日突然、自分の身体が女の子になっちゃったとしても、それはあくまでも自分の身体なのだから性的興奮なんてものは湧かない』ってのはどうだろう。
「……そんな世紀末トレビアはさておき、これからどないしたもんかなぁ」
あぁ〜、記憶もねぇ、(性的)自覚もねぇ、やる気も元気もな〜しなし。
東京へ出れば色々あるもんだろうか。しかし残念、ここは滋賀。いったん京都駅までJR琵琶湖線(湖西線)経由でぐるっと回って、京都駅から『のぞみ』だか『ひかり』だかのいかにも世界でたった一つの花みたいな顔しながらうんびゃく号とか平気で言い出す量産型人造人間みたいな名前の新幹線に揺られて二時間とちょっとで到着するところにあるのだから。二時間って。おいおい、二時間かよ。わりとすぐじゃないか。いけるぞ今から。いかんけど。
……しかし。あれなんだよなぁ。
「……滋賀の知識はあるんよなぁ」
滋賀県。県庁所在地は大津市。なのは名ばかりで、県庁やら地方裁判所やらがなんの忖度か置かれてしまったばかりに県庁所在地を名乗らされているものの、活気も元気も隣接する草津市に吸い取られ、あげくJRの新快速電車で京都(草津市から20分ぐらい)大阪(草津市から50分ぐらい)の途中で謎に停まるもんだから「新快速が鹿を轢かない為に減速しているのではないか」とまことしやかに囁かれてしまう涙ぐましい都市(街?)(村?)(集落?)である。
でも大津市にはスポッチャあるし。
イオンは草津に盗られたけれども。
「……知識はある。……知識はあるんよなぁ」
これが意味するところを分析できるほど記憶喪失事情に聡くない僕だけれども、『意味記憶』というものはあるように思う。一般化された知識、それが『意味記憶』だったように思う。一方で『エピソード記憶』が僕にはない。個人の経験や出来事に関するものを『エピソード記憶』というそうだが、そういうものが欠如しているのだ。
僕は何者で、どんな経緯で生きてきたのか、まっさらである。
それは恐怖よりもずっと静かでおどろおどろしいことである。
なんたって、誰も、“自分”を証明できないのだから。
「……はぁぁあー。困った」
こまっちゃったのである。しかし、このまま放心に浸っている場合でもない。ことは一刻を争うのである。そう、暑いのである。ものすごく暑い。比喩的表現で現状の暑さを表現するのであれば「比喩ってる場合じゃねぇぐれぇにアチぃ!」ぐらいに暑い。そのぐらいに暑い。
このままでは茹で死んでしまう。
回せ。回すんだ。思考を、回せ。
「……そういえば、、、」
暑さと倦怠感のせいでろくに回らない頭をフル稼働させていると、不意に姿見鏡の“自分”と目がかちあう。
これを“自分”といってよいものなのか。それほどまでに他人のように思える“彼女”は、グランドキャニオンを彷彿とさせる深々とした眉間の皺をこしらえているあたり、相当に気難しい性格をしていたのだろう。僕が?気難しい?僕ってば、もともと気難しくムムムだなんて口を『ヘ』の字なんかにしちゃいながら腕を組んじゃっていたりしちゃっている性格だったのだろうか。あまりにもしっくりとこない。
「……ほんま何歳ぐらいなんやろ。まさか小学生?……いや、将来のニッポンを担う小学生がこしらえていい眉間の皺じゃあないやろ。信じられへんけれど、中学生ぐらいなのだろうか。ほら、中学生といえば多感な年頃や。ちょっとしたことでも「明日世界が終わります」ぐらいのノリで受け取ってしまう年頃なんやから、眉間の皺の一本や二本は頷ける。その他の皺に関してはきっとひょんなことから真剣白刃取りを何連チャンかミスってでいてしまった眉間の皺に違いない。そうでないと日本の未来が危うい」
そうである日本の未来もそれなりに危ないように思うのだけれども。ほら、ここ北九州じゃないから。日本だから。まだジョークで済む。
「……ほんまに、自分のことがわかっとらへんねんな」
僕は、誰なんだ。
「……そうや。個人情報や。“自分”のことが知りたいんなら戸籍やらなんやらあるやろ」
我ながら妙案ではなかろうか。個人情報なんて何に使うのかよくわからんけれど詐欺師が真っ当に詐欺をしてまで欲しがる情報なのだからきっと有益なものに違いないのだ。ここで無意に時間を浪費してやる言われもない。なるべくならば解決策がわかればなおもいい。
やることが決まった。決まったとなれば、足取りは軽い。
そっと姿見鏡の自分とおさらばし、ドアノブに手を掛ける、が。しかし。
伝う汗がドアノブを濡らす。汗だ。汗、汗、汗。それに気付いてしまえばもう終わりだった。立ち所にあらゆる不快感が身体を蝕んでいるように思えたのだ。ぐしゃぐしゃの髪、へばりつくトレーナー、濡れた感触の下着、ネバネバの口の中。一方で、踵を返せば浴室だ。シャワーがある。浴場がある。欲情が湧く。
「………………」
黙りこくる。黙りこくり、う〜ん、とひとしきり悩む仕草を挟み、うんうん、となにやら脳内で助言を受け取りながら、うん?、とほんとうにそれでいいのかと良心が囁くのに対し、うん!、と元気よく答えることで快刀乱麻を断つが如く自己解決する。うんうんうん、と自己正当化も忘れずに。
「……やることは二つや。……一つは、情報収集」
で。
「……もう一つは、……ハッピーでラッキーなお風呂タイムやぁ」
***
七月二十一日、午前七時二十一分。(◼️◼️)
思慮不足だった。いや、配慮とか、考慮とか、遠慮とかも不足気味だったけれども、それにしたって思慮が欠けていた。
風呂は堪能できた。シャワーを浴び、泡に身を包まれながら、溢れるような湯船に身を投じた玉響の至極は、まさしく極楽浄土そのものだった。幸せとはこういうもので、こういうものが幸せなのだろうと、湯気は僕に教えてくれたのだ。あっつい季節にあっつい湯船が心地いいと思えるのだから、『暑い』と『熱い』はまるで別物なのだな、と蕩ける思考ながらに悟った。
「………………」
で、だ。もこもこと湯気を立ち昇らせながら姿見鏡に掛けていた手拭いで窮屈に身体を拭き上げ、さてお着替えはどこにあるのかしらん?なんてお嬢様ムーブをかましていたのが運の尽きだったのだ。あるはずがないじゃないか。用意していないのだから。
「……欲に眼が眩むと、目先のことも見えなくなるもんなんだなぁ(みつを)」
と、いうわけで。ただいま素っ裸で服を探して和室ナウでございます。
しかし、裸、これはなかなかにいいものなのかもしれない。まるで王様になった気分だ。これぞ裸の王様。ちまたの衆愚どもが裸の王様を指差し笑い転げる昔懐かしの寓話であるけれども、“生まれたまま”とかいうアダムとイブの時代から流行っている超トラディショナルファッションに身を包む(?)王様的にはトレンドに乗れていない衆愚を鼻で笑っていたことだろう。これが本当のバカには見えぬ衣装だったのかもしれない。あらやだ!新解釈キチャッたんですけれども!
「……裸とは、自由という権威を身に纏った王族にしか許されないファッション、……なのかもしれない」
悪く思うな、衆愚ども。このファッションは一人用なんだ。君たちは服でも着ておいてくれたまへ。
そんなこんなで優先順位の下がった衣類系を探し出すよりも先に、こんなクッソ暑いのに押し入れの奥底に眠っていた扇風機をめざとく見つけて掘り出し、文机の裏にあったコンセントに繋ぐ。地産地消の風は所詮原産地ココなだけあって生ぬるく、想像以上に想像以下な頼りなさだったけれども、ないよりかはいくぶんかマシなように思えた。
「……さて。サボるのもほどほどに、タンスの中でも漁ろっかな」
遅ればせながら。もともとの目的、個人情報発掘を開始する。
「……なるほど、三段目、二段目と服飾関連で、一段目に小物やな」
壁際にあるタンスは、段数が控えめな代わりに収納量自体は多そうだ。
けれども、夏服冬服合わせたって、それも上下を一式合わせたって、タンスの容量の半分も満たせていないというのはいかがなものか。限界集落さながらの過疎りっぷりだ。もはや裸族であることが推奨されているようなレパートリーに、なんだか裸族を強いられているようで反骨心から裸族をやめてしまいたい欲求に駆られるも、手に取ったどの衣類もシンプルさとチープさを履き違えているようなゲロ以下のバリエーションだったのでしばらく裸族でいる誇りを胸に生きることに決める。蝉の大合唱が、それでいいよ、とソプラノを響かせるように騒ぎ立てていた。
「……ん?……半袖の薄生地。これ、夏用の制服よな?」
実は押し入れにも不織布のカバーを被せられた制服らしきものがハンガーにぶら下がっていたのだが、タンスにたたまれしまわれていた制服はどうも夏用のものらしい。ふと疑問に思い、押し入れにあった制服のカバーを捲り確かめる。冬用だった。
「……なんでぇ、タンスの奥から器用にたたまれた夏服が出てきて、冬すぐ出せる押し入れから冬用が出てくんねん」
普通、夏なのだから、取り出しやすい押し入れから夏用がでてくるもんなのではなかろうか。
あれだろうか。今日はわけのわからないぐらいに唐突に進行した地球温暖化DAYだったりしたのだろうか。もしかすると今日は十二月くらいの冬の日で、異常気象かなにかで真夏のような気候になってしまったとか。まさかと思い窓から身を乗り出すも、なにか混乱が起こっているようには見られない。むしろ全裸で窓に乗り上げる僕こそが混乱の原因になりかねないためさっさと身を引いたが、下界はなんとも穏やかなものだった。
「……って、文机の上に電子時計あるやんけ」
小さいので見落としていたが、文机の上には手のひらサイズの電子時計があり、今日が七月の二十一日で、今が七時二十五分であることがわかる。電波のマークがぴこぴこと点滅しているところをみるに電波時計なのだろう。だったらば微々たる誤差はあれども夏と冬を間違えるようなポカはしまい。
「……やったら余計に謎や。なんで冬服が、
……冬服、が、……。
……おいおい、そんなこともさることながらこの制服かわええな、おい」
広げてみる。断じて女の子の制服にのっぴきならない興味関心があったわけでは無いのだが、いや無いわけでは無いのだが、いや無いわけ無いのだが、ともかくとして畳の上にスカート合わせて『大』の字で広げる。オーソドックスなセーラー服だ。夏服は白を基調としており涼しげな印象であり、冬服は黒を基調とした分厚い生地が特徴的だ。どちらも直線的な襟がうまい具合に主張しており、紅色のスカーフが映えそうだ。
「……おいおいおい。これにこのプリーツスカート合わせんねやろ」
黄金比が過ぎる。気を衒う必要のない完成されたデザインを着こなすのだから、JKの略はJ(常識的に考えて)K(かわいいっしょ!)だったりするのだろうか。ならDK(男子高校生)はなんだろう。D(ドンキー)K(コング)かな。みんな好きだしね、ドンキーコング。しかし、この差よ。
「……この胸元のワッペン、校章かな。……。……ん〜?」
桜がモチーフの校章。一見してザ・校章な校章だけれども、何かが引っ掛かる。
引っ掛かると言っても、この校章に隠された壮大な歴史観とか、意匠を凝らされたデザイン性のありようとかではまったくない。そんなもんいっぺんの興味関心がない。なんとなく、どことなく、なんでもないしに、引っ掛かるのだ。まるで以前にこの校章のワッペンにぶん殴られでもしたかのような。もっともワッペンに殴られるだなんてことはないにしたって、過去になんらかがあったかのようなデジャブを感じる気がする。記憶のない僕がデジャブを、である。
しかし、デジャブなんてのは奇怪な脳のバグとも聞く。
だったらこれも、そんな気の迷いの一種なのだろうか。
……んー。……ん〜?……んー。
「……西大津高校?
……あ、ああ、そうだ。……そうだ。この校章、西大津高校のや」
なぜわかったのだろう。僕には記憶がないのに。知識としてあったのだろうか。とはいえ無難オブ無難な桜マークの校章なんて、全国津々浦々、探せばごまんとあるだろう。万が一にも僕が全国の校章を暗記しちゃってる変質者であったとして、その知識の片鱗が他に見えない。
すると、つまり……。
「……僕の母校、もしくは在学中の高校が、西大津高校だった?」
これは大きな一歩かもしれない。その西大津高校ってのを思い出そうにもフィルターがかかっているかのようにぼんやりとしか思い出せないけれども、その奥にある確かな輪郭は、僕のエピソード記憶でなく意味記憶にインプットされていたのかもしれない。
「……もうちょっと、確認せんとアカンな」
セーラー服をたたみ、タンスのそばに置く。タンスの二段目、三段目から得られる情報はこれっきりだろう。思えば終始、服を着用することなく、衣類のしまわれたタンスの段をそっとひっこめってしまっている。終身名誉裸族である僕は、どこの虫の糸かもわからぬ服に身を預けるほどはしたのない女(?)ではなかったというわけさ。
「……一段目、……小物がいろいろって感じやな」
筆ペンやホッチキスなどの文房具類、便箋に封筒、裁縫道具、お財布、手帳、書類。しかし、よほどに几帳面なのだろう、具合を知らない僕でさえ目星をつけやすい程度には整理整頓がなされている。僕は種々ある中から手帳を手に取る。桜の紋、するとこれは西大津高校の生徒手帳だったりするのだろうか。
「……ビンゴ。やっぱり生徒手帳だ。『西大津高校』ってのもちゃんと書いてある」
記憶が証明された。記憶喪失の身にとって、これは大きな進歩だ。
「……どれどれ。校歌に校是、校則。あとぉ、校内行事の予定表に時間割、校舎の見取り図、メモ用の罫線ページにぃ〜」
ペラペラ瞥見していると、最後、材質の異なる硬い裏表紙に差し掛かる。
「……あれ、これ、在籍証明カードじゃあ――――――」
目に止まる見覚えのある顔。
創設者の肖像画のような遠い人物でもなければ、歴史の教科書でお馴染みの近しい人物でもない。
「……あ、これ、僕か」
姿見鏡であいまみえた“自分”であった。
「……『三年一組』
……『岸辺織葉』」
岸辺織葉。海岸の『岸』に、その辺の『辺』、織り機の『織』に葉っぱの『葉』。
そうか、僕、岸辺織葉って名前だったのか。決して写真写りに慣れているような出立ちではなく、それはもう写真写りの意識の欠如甚だしい仏頂面が義務感のみでシャッターを切られているのだから、愛嬌もへったくれもない写真写りになることは条理である。まだ遺影の方が可愛げがあるようにさえ思えた。
「………………」
学校名を言い当てられ、学生手帳まで入手して。あとはなんなりと対処を考えて行動に起こしていければいいのだ。ゼロからイチの進歩。それはきっとイチからニィやサンなんかよりもずっと幅広い一歩であるはずなのだ。誇っていいはずなのだ。それでも、僕は思わずにはいられない。この後に及んで、こう思わざるを得ない。
「……僕は、『岸辺織葉』ではないように思えてならないんだよなぁ」
***
七月二十一日、午前七時三十二分(◼️◼️)
しかし、高校生というと、あれだろうか。親ってものがそこまで偉いものではないってことを知ってしまう歳であり、都合よく子供やら大人やらに区分されてしまう歳であり、培われた常識を疑わなくなる歳だ。それも三年生ともなれば、左右まばらに揺れ動かず中立でいることがなんとなしなマナーであったにもかかわらず権利やらなんやら胡散臭いことを囁かれクソほど興味のない老人を選ばされるハメとなる投票とやらに行ける学年ではないか。
「……マジかよ。ふつーに小学生高学年ぐらいでニアピン賞やと思ってたのに」
信じられなさすぎて生徒手帳を三度見はしたけれど、やはりJKだった。
「………………いやぁ。えぇ。もうこれ、特殊詐欺とかに使えるレベルやろ」
信じられない。本当に信じられない。どれくらい信じられなかって言えば他県民が滋賀県の面積における琵琶湖の面積比率が六分の一であることを知った時ぐらいには信じることができそうにない。それくらいに信じられないものだ。
「……高校生といえば、進路選択の時期や。受験だろうか。それとも就活だろうか」
ふと本棚に視線を送れば、分厚い参考書からどこぞの赤本まで所狭しと差し込まれていた。
僕は本棚の前に座り、ノートを数冊、本棚から引っこ抜く。
「……ふむふむ。……うーっわ。あれかな。お勉強が趣味の方なのかな」
勝手に見ておいて勝手に引くのはあまりにも自分勝手だけれども、それでも予習→授業→復習とそれぞれノートがとられており、なおかつそれが5教科全てで行われており、しまいにはノートナンバーがそれぞれ三桁なのだから気でも触れているんじゃなかろうかと思わずにはいられなかった。
どのノートもどっからのページでも、乱れることのない機械フォントの文字列。
「……明朝体よりも明朝体している気がするんやけど。明朝体って結局なにかよくわかんないけど」
いや、書き込みの量がエグすぎてもう鉛で真っ黒なこの文字列を明るい朝と呼ぶのは朝に失礼だ。だったら何がいいとかも何も思い浮かばないので明朝体の親戚であるゴシック体だろうかなんて思ったりしたけれども、ゴシック体もゴシック体でなんだかよくわからないのであまり考えないようにした。
ノートの隅に日付があった。日付を信じるに、毎日、毎日、こなされていたようだ。
「……ん?……でも、これ飛んでない?」
落丁を疑ったが、そうではないようで。
「……七月の十四日からの書き込みが5教科それぞれないんじゃない?
……あー、うん。そうだね。ない、ない。今日が七月二十一日だから、一週間ほどの空白があることになるんだけれど、……飽きちゃったのかな?……飽きるとか、そんなんじゃあ、ない気がするけど」
慣習ってのは、そう抜け落とせないからこその慣習であって、それこそみる角度によっては妄執とさえ受け取れるもののはずだけれど。
ともかく、そんな落丁(?)はともかくだ。やはり僕がこんなにも頑張っている学生だったようにはやはり思えない。しかし、現に僕は生徒手帳に挟まれていた証明カードの写真そのままであるし、ここが岸辺織葉のアパートであることは所持品からして断定したっていいだろう。腑に落ちないことばかりであるけれど、事実が事実を物語っているのだから、僕はただ事実に従順になるほかならない非力な徒である。
「……赤本、解けるかな?」
ペラペラと、観光地並みの知名度を誇る某国公立大学の過去問を一瞥する。
……ふむふむ?
「……いや、解けないんですけど」
歯が立たないどころか歯形さえ残せそうにない。完敗である。ノーヒットノーラン大量失点コールド負けである。
余計に訳がわからなくなってきやがったぜ。詰め込み学習の弊害か、はたまたノートを書き書きすることばかりに奔走していた末路なのか、どちらにしたって僕には一ミリだって大学受験に必要な知識がないってのは決定的事実のようだ。僕はバカだった。それが記憶喪失の延長線上なのか、それとも、、、
「……それとも?
……うぅ〜、わからん、わからん、わからんっ!」
どないすればいいのだろう。記憶がなくって、性別に違和感があって、そもそもの自分が自分じゃないようで。どれにしたってどうしようもなくどないもできんことばかりで、貧弱CPUでは処理落ち確実である。不安と焦燥感に駆られ、空回りする思考はみるみるうちに熱を帯びショートしかかるものだから、居ても立っても居られない。
……ひとまず!ひとまず、やれることをやろう。そうしよう。
「……やれること?……やれること、かぁ」
うーん。
……う〜ん。
…………う〜〜〜ん。……はぁ、うんうん。
「……西大津高校。……登校すべきなんやろなぁ」
僕が僕のことをわからないのだから、僕を知っている僕以外の誰かに僕を教えてもらう他にない。ひととなりとか、ひとでなしだとか、そいうのは誰だって履歴書に文字起こしする際に筆が止まるのだから、記憶喪失の僕がアパートの一室から見つけ出すだなんて俄然無理なのである。やはり、僕が僕であることを僕が納得するためには、僕だけの独力では厳しいと言わざるを得ない。
「……しかし、あぁ、怖ぇなぁ、おい」
玄関を見遣る。玄関が歪んで見える。それぐらいには怖かったりする。
「……でも、このままってのも大概なんよなぁ」
廊下を見遣る。暗澹とした四隅の影が濃く浮かび上がる。それぐらいには望みがなかったりする。
たったひとりのこんなところでファーストペンギンを待つわけにもいかないのだ。僕がファーストでありラストであることが、ひたすらに孤独な心に染み入るけれども、束の間の安寧はいつだって孤独に寄り添ってくれている。進展か、維持か。そこまで思い至って、あぁ、維持はないなぁ、とささくれたった畳に肌を擦り付けながらに思った。なんとなく、ただなんとなく、維持という言葉にモヤッとした感情の噴出を覚えたから。
「……行くかぁ。西大津高校。……JKデビューや、こんちくしょう」
決心というにはあまりにおぼつかないし、たよりのないものだったけれども。
ひとまず、セーラー服を着れる大義名分ができたことを喜ぼうと思う。
***
七月二十一日、午前七時五十八分。(◼️◼️)
春先に増えると風聞に聞く裸族のみなさん、セーラー服を着ましょう。セーラー服。
「……ふふ。馴染む。あまりにも馴染む。なんら苦慮することなく女性もの下着ふくめ女性もの制服を着用できてしまったことに記憶喪失前の正気を疑わざるを得ない僕ではあるものの、このあまりに完成されすぎている戦闘服(セーラー服)のまえには過去も未来も今現在さえもかしずくほかないことは条理やな。うん」
おしむらくは、スポブラが無粋であることぐらいか。
いやそもそも、ブラ、いるのか。マイナスなんだぞ。なにかの間違いでアキレスを追い抜かしてしまった亀ぐらいにはパラドックスにパラドックスを掛け合わせてしまった胸事情なのに、“身の程を識れ”ってやつではなかろうか(ド直球)。まぁ、しかし、これみよがしにブラ(スポブラではあるものの)がタンスに入っていたということは、なけなしではあるもののブラを着用している自分でいることに胸を張っていたのだろう。張っていたのは虚勢だろうが、張れるものは張っておかなくては運否天賦も傾くはずがないのだから張っておいた方が良かったりするのだろう。
「……腹減った。登校前になんかつまむか」
和室を離れ、台所にある冷蔵庫へ。オープン冷蔵庫。
「……うっわ。ろくなもんがない。……それに、なんやこれ」
スッカスカな冷蔵庫から申し訳程度にあったおにぎりを取り出す。なんだか変だ、という僕の勘はあながち侮れるものではなかったようで、商品表記にある消費期限がべらぼうに過ぎてしまっているのだ。『七月十五日』とあるもんだから、約一週間前のおにぎり。さしもの僕でも食するのは憚られる。
しかし、うーむ、一週間。
「……一週間前のおにぎり。……一週間。……一週間っていうと、ノートの書き込みが途絶えたタイミングに符合するんやないか。なんかしら意味があるんやなかろうか。……わからんな。ともかく、これらが忘れ去られ取り残してしまった食品だったものの残骸であったとして、この冷蔵庫の中身じゃ一週間どころか一日として腹の虫を抑えられない。……いままでどないしとったんや、マジで」
仕方がない。いきしなにコンビニで何かを買おうか。我らが平和堂はまだ開店前だろうし。
財布の中をチラリと覗く。いまいち何をしたのかよくわからないでお馴染み北里・野口ペアが一枚ずつ。
「……こりゃあ、節約必須やな」
こんなアパートの入居者って時点で富豪であることはこれっぽっちも期待していなのだが、それにしたって懐具合が寂しすぎる。どれぐらい寂しいかといえば、昔日のころの畿内に近江が除外されていたことを知った滋賀県民ぐらいに寂しい。いや、いまの近畿地方でも三重とかいう見栄も張れず見えないところでひっそりと近畿圏内であることを忘れられている県に比べれば……。いや、いやいや、伊勢とかすごいしね!伊勢神宮とか!あと、ほら、うん、いろいろ!うん!
「……とりあえず、現状をまとめみようか。めちゃんこめちゃくちゃすぎて、何が何だかわからんからな」
赤いスカーフを襟元で結びながら、脳内で現状を箇条書きしていく。
① 記憶喪失。いわゆる意味記憶はあるけれども、思い出とか経歴とかのエピソード記憶が綺麗さっぱり無くなってしまっている。
② 性別の違和感。女の子の身体であるけれども、男の子だった気がする。気がするってだけで、セーラー服は着こなせている。
③ 人格の違和感。自分は『岸辺織葉』ではなかった気がする。だったら誰々だった気がするわけでもないが、そんな気がする。
「……ひとつでも手いっぱいなのに三つ同時って。なんやそれ。……まぁ、泣き言ボヤいてなんとかなるならそれでもええんやけど。ここでウジウジしてたってキリがないから玄関先の景色を見にいくわけで」
すくなくとも、ここでわかった岸辺織葉の端的な人物像は、とっても几帳面で、ちょっと引くほど勉学に励む優等生で、女性らしい私服を一着たりとも持っておらず、眉間の皺の濃さからなんかしら思い悩んでいたのか疑いたくなる人物ってところだろう。
それだけにしては、……“変”なことも多いけれど。
「……いろいろ腑に落ちんのよなぁ。裕福でもないだろう家庭が空き部屋作れるほど大きな一室を借りていることとか、タンスが綺麗に半分しか入ってないところとか。……それに、夏服がタンスの奥にあって冬服が取りやすい押し入れにあったこととか」
前者ふたつは、ここに同居人がいた、とかだろうか。しかし、それっぽい痕跡はひとつもない。タンスの中には狙っても世に出せないであろう激ダサ衣類郡しかないし。とはいえ、ひとり暮らしにしてはムダが多い。ほんとうは誰か同居人がいて、愛想尽かして出ていってしまった、とか?
後者ひとつは、ほんとうにわけがわからない。長袖を着たがる理由……。
……そっと手首を見やる。キレイなものだった。ほっとひとり安心する。
「……いよいよわからん。……あ〜、そのための外出なんやけど、こんなこともわからんまま外出したくないんやけどぉ」
記憶喪失で、性別に違和感があって、人格にも違和感があって。まさか、まさかだけれども、僕という人格はなんらかの現実逃避用の人格とかじゃないだろうな。ほら、よくフィクションであるやつだ。ストレスフルな環境に疲れ果てて人格が入れ替わってしまう的な。で、もっとよくあるやつが、本来の記憶が復活していくごとに仮の人格である僕が徐々に薄れていっちゃう的な。
……うわぁ、考えたくねぇ。
……考えたくねぇけど、考えなくちゃならんのよなぁ。
「……ともかく、や!」
自分の今の立ち位置なんてわからない。わかるはずもない。
けれども、生きているのか死んでいるのかさえもわからない今だからこそ。
「……必死に生きよう。……ああ、もう。必死に頑張ろう」
それしかできないのだから、できないことを列挙するよりも、できることを積み上げる他にない。
誰にするわけでもない決意表明が空のアパートにこだまする。
時刻は午前八時を回っていた。
***
七月二十一日、午前八時四分。(◼️◼️)
姿見鏡の前でチャックをチェック!さいどセーラー服とご対面!よぉし、可愛い!正義!可愛いは正義!裁判官は法と良心と可愛いを基準に罪人を裁くべきであり、福祉国家を名乗るのであれば文化的かつ最低限度の生活には加えて可愛くあるべきとも条文に付されるべきであろう。憲法的正義、それすなわち可愛いである!
「……ふふふ。……もういい加減に行こう。本気で遅れる」
成形タイでもない紅色スカーフを器用に巻き終え、
バックにそれっぽい荷物をギュッと詰め、玄関口のコインローファーに足をつっこむ。
最終確認。忘れ物はおそらくなし。戸締りも万全。和室の窓のクレセント錠も閉めた。
「……ん〜。あぁ、イヤだなぁ。怖いなぁ」
どこぞの怪談噺じゃないけれども、地に足つかぬ枯れ尾花よりもずっと地の足すくむ通学の方が厳しいと思える日が来ようとは。
緊張で指先が冷えている感覚のまま、ドアノブをひねる。
「……怪しいものじゃありません。どうぞ、よろしく――――――」
――――――ガチャ、ズズズズ。
それはもう、ただの勢いで開いたドアから外へ飛び出したものだから、落語でも聞かないトンチを口走ってしまう。
しかし、ふわっとアパートの内では感じなかった香りが鼻腔をつき、カラッとした空気が喉を枯らす。
「――――――……どうぞ、よろしく」
晴天。まばらなコンクリ建築。新緑。燦々たる琵琶湖の湖面。外への一歩はあまりにもあっけなく、されども広大に思えた。さながら、こんなところでひとつ大事なものをおっことしてしまったら最後、どうしたって見つけられないじゃないだろうかと思えてしまえるかのような、そんな広大さ。ギギギと錆をひきづる玄関ドアを閉め、財布の中にあったシリンダー錠をドアノブに差し込み回す。
「……あ、しまった。洗面所のドアも襖も開けっぱなしや」
さすがに和室の窓は閉めた覚えがあるが、なんともだらしないことをしてしまったと後悔する。
「……まぁ、ええっか。換気になってええやろ」
むしろ換気代が浮いてお得まであるんじゃないの。エコなんじゃないの。僕のズボラが環境問題にエコがフィットで世界がハッピーなんじゃないの。だからこれは世界の皆さまのためであり、人類のためであり、決してもう一回ドアの施錠を外して閉めに行くってのが面倒臭いわけではないのですよ、ええ。
「……ふぅ。外、やな。……ここが滋賀県ってことは、あれが琵琶湖かな」
二階通路から見渡せるのは目路の限り一面湖畔だ。でかい。さすが日の本一番。
燦々とした太陽光に瞼が落ちる。これが外だ。コンクリートから捻じ曲がるように薫る蜃気楼に、宝石箱のようなキラキラが輝く琵琶湖の湖面、往来を行き交うゲジゲジナンバー。記憶が綺麗さっぱりないのにも関わらず、愛着のような、そんな不思議な感覚を想起する。
「……琵琶湖。……なみなみならぬ、ただならぬ愛を感じる気がする」
どうしてだろう。一見してもしなくともなんら関連性の見えない商品名に無理やり『琵琶湖』の冠を被せたくなる衝動が。激情が!
琵琶湖米、琵琶湖牛乳、琵琶湖〇〇事務所から琵琶湖〇〇病院まで。これはあれか、静岡県民がとりあえずで『富士山』を使いたがるのと同じ心理だった理するのだろうか。あれ、山梨だっけ。富山かもしれない(字面だけ)。ま、そのへんの田舎事情はあまり存じ上げないですけれども、山でマウントを取っていらっしゃる文明未開の地と違って、我々はほら、日本のオアシスだから。
だからみなさん、富士山関係ないのに『富士』『FUJI』を名乗っちゃう系日本人の皆さん、どうぞ琵琶湖も同列にお願いします。
「……お。あれってもしかして、同じ制服やない?」
幸運なこともあるようで、二階から俯瞰する景色に見覚えのあるセーラー服JKが数人徒党を組んで登校している姿が見える。
見失わないようにしなければ。ただでさえノーヒントのノープランで学舎に赴こうって腹なのに、行き当たりばったりのヒントを逃していては遅刻も免れない。
だから駆け足気味に塗装の剥げた外階段を、歩みのトロいJKに視線を奪われながら降っている。
と、途端、
――――――視界が、歪み、曲がり、傾く。
――――――あっ……ぶな!
自分が足を踏み外したことを知ったのは、手元の手すりに無意識ながらにしがみついていたあとだった。
典型的な目眩の症状だ。それも場所が場所なだけにかなり危なかった。
「……気をつけんと。そもそも体調崩しとるん忘れとった。……いまはなんや不思議なドーパミンやらセロトリンやらでなんとかなっとる感じやけど、気をつけんと大怪我や」
同じ轍は踏まない。もとい、同じ階段は踏み外さない。
一段、一段、確かめるように階段を下った先、小走りでJK集団の尻を捉える。さながらスニーキングミッションだが、ともすればストーキングミッションになるあたりドキドキでハラハラなわけだけれども、僕自身もJKなわけだからおおらかにどっしり構えておこうと思う。
そうこうあって、僕は無事どことも知れぬボロアパートの一室から足抜けすることとあいなった。
***
七月二十一日、午前◻︎時◻︎◻︎分。(◼️◼️)
ボロアパートの一室。
無音。無音。無音。ゆらぎ。無音。無音。
無音。窓ガラスが破られる。無音。無音。
がたり。無音。無音。無音。無音。無音。
無音。ばたり。無音。無音。無音。無音。
無音。無音。ばたり。無音。無音。無音。
無音。無音。無音。ばたり。無音。無音。
どん。無音。無音。無音。どんッ。無音。
とめどなく溢れ出すような激情だけが影を落とす。不在にしているアパートの一室にて静謐をこだまさせる異常事態は、着実に刻一刻と影を伸ばしている。知るはずもなく、知るよしもなく、知るすべもなく、ただひたすらに邂逅を待つばかりだと言うことを“互いに”まだ知らない。
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