あっつ。

容疑者Y

第一章 あっつ。

第1話 あっつ。

 『鏡に写った自我』

「自我には三つの要素が必要となる。“他人に自分がどう写るのかという想像”“他人に自分の行動がどう写るのかという想像”“それに対する自分の矜持や屈辱感などの意識”である」

                                                    社会学者 チャールズ・クーリー


 諸兄諸姉よ、問いたい、貴方は女の子の皮を被ったことはあるかね。

 いやいや、いや、なにも猟奇的なことを口走っているわけではないのです。清廉潔白な人生を保証してやれないことが歯がゆい今し方ではあるけれども、僕は人並みの倫理観を持ち合わせている、もとい、人並みの倫理観から逸脱する度胸を持ち合わせていない、そんなちっぽけなミジン子のような人間でなのであります。故に、血生臭い事案への補助や幇助を唆したりだとかじゃないのです。ただ、これは哲学的な問いでもなかったりするのです。

 きっと、聡明で賢明であられる諸兄諸姉であろうとも、総じて小首を傾げているところと推察します。

 しかし、なのです。しかし、この問いに、絶賛逼迫中の僕の頭脳がさらに悲鳴を上げる始末なのです。

 非常に不愉快なことに。

 非常に馬鹿げたことに。

 これは、僕が『僕』であるがための問いだったりするのです。


「…………アカン。まだ、おるやんけ」


 洗面台の仄暗い鏡を前に、独り言。

 なんなのだろう、これは。……これが真夏の茹で上がるような暑さが見せる陽炎であったり、さもなくば裸足で駆け込み売り込みを強いられたマッチ棒から煙る素敵な幻想だったりするのであれば、どれほどメルヘンチックなことでしょう。されどもこれはエクゾチックでもなければロマンチックでもなくただただリアリスティックなのです。マジのガチなのです。


 ……ポト。……ポト。……ポト。


 何度も手を桶にして漱いだせいで顔から髪からドボドボです。

 ポト、ポト、ポト、と、水滴が陶器の洗面台を打つたびに、あぁ、これは時間が解決してくれる系のものじゃないんだなぁ、なんてことを痛感させられるのです。

 洗面台の鏡に反射する僕、それはぱっつん前髪がいやに似合う“女の子”。

 僕は、この女の子を“知らない“。

 加えて、加えて言おうものなら、

 僕は“僕”のことさえ“知らない”。


「…………ど、どないせいっていうねん」


 僕は一体ナニモノだというのだろう。

 そんなこと、履歴書のガクチカやらツヨミに頭を悩ませる大学生じゃなあるまいし、未来永劫わかるわけない問いをお得意の美辞麗句に学歴と資格を添えて書き殴ろうってわけでもない。再三となるけれど、これは哲学的問いじゃないのです。

 しかし、もしもどこぞの社会学者曰く、他者に依拠する概念を仮に自我と呼称するのであれば、

 僕は、僕自身のこと、この思案する僕のことを、仮にでも自我とは呼べないように思うのです。


 なんせ、今日、僕は“記憶”と“身体”を丸ごと全てどっかに落っことしてきたのですから。


 ***


 七月二十一日、午前六時五分。(◼️◼️)


「……あっつ」

 

 百年ぐらい眠った日の朝とは、かくあるべきなのだろう。朝、朝、朝、それを三角形に並べた漢字を、僕は「まだまだねみぃ」と読む。

 冴え渡るような悪夢を見ていたような気がする。

 そんなどんよりとした重力に逆らい瞼を開ける。

 ふと見遣れば、薄ぼんやりした視界の奥、くたくたのカーテンと申し分のない陽光が眼球を刺す。


「……あー。朝?……朝やんけ。……まぶしぃ」


 耳朶を殴打せんばかりに響き渡る蝉の大合唱。赤子と蝉はなき叫ぶことが仕事なのだろうが、仕事というからには地域住民への配慮というか、公害に対する知見を広めて実行に移してほしいところだ。まったく。どこのコールセンターに電話をかけて怒鳴ってやればよいのやら。


「……あぁ、いかん。いかんな。寝ぼけとる」


 いやに思考が空回る。まるで徹夜明けの朝のようだ。寝たのにまるで一睡もしていないかのような思考速度。ギアが軽いせいで、なんだかもっと“重要”なことに思い至っていないようにも感じる。


「……あつい。くるしい。……なんやこれ。……よもや熱中症じゃないだろうな。あぁ、頭が痛い。身体が重い。なんやぁ、これ。すっごい陰鬱な夢を見させられていたような気がしてならへんし、そのせいで気分も晴れへん。全てにおいてコンディションが悪すぎる。……あぁ、鬼やば」


 ヤバヤバのヤバだ。テンションの起伏が荒い。無意識に気分が囃し立てられているような。

 なんとなく知識として熱中症時は意識が朦朧としており、おかしなことを口走ってしまう、ということを知っていたのだが、まさしく今の僕じゃないかとかろうじて自分を俯瞰する。


「……あぁ、つらい。……辛いよぉ」


 あぁ、うん、やっぱりテンションの振れ幅がおかしい。

 精神的コンディションもさることながら、身体のコンディションはもっと深刻なように思う。大量の汗にボサボサの髪、胸元のジメジメ、頭痛に首元からの熱感。この状況を名状しきれないほどのデバフの数々。僕は僕の身体事情に明るくないのだが、たぶん、これはとびっきりに状態が悪いのではないかと思う。


「……ひとまず、起きるかなぁ。……起きるかぁ。うん。起きよう」


 律儀にも肩までかかっていた掛け布団を剥がし、上半身を起こす。

 ボーッとする頭でも寝返りの形跡すらないことに一抹の疑念がよぎったが、寝惚け頭には些事だった。


「……まー、ええかぁ。……んー、おはよう、ぐっともーにんぐ、世界」


 そしてしーゆーあげいん、お布団さん。いい夢みながら待ってなよ。


「……ん?あれ。……そういや、僕、お布団で寝起きをしてたっけかな」


 って、いやいやいや、いや。何をおっしゃるのやら僕のお口さん。たった今、このお布団から起床されたばかりじゃないですか。

 しかし、払拭しきれないモヤが脳裏を曇らせる。この灰皿色の脳細胞がシナプスを程よく刺激してくれるせいもあって、疑念ばかり生まれるものの、疑念は疑念のまま取り残され問題にすら昇華されないってのが歯痒くって仕方がない。違和感と呼ぶには掴みどころのない不快感。なんだぁ、これはぁ、致命的にウザいじゃないか。

 

「……ベッド、ちゃうかったかなぁ」


 ……まぁ、いいだろう。これも些事だ。

 オッカムだったかベッカムだったかの剃刀はよくキレるもんで、問題とすら認識されない疑念はさっさと思考から削ぎ落としてしまうに限る。思考はなるべくクリアな方がいい。そうじゃなければ十秒先の未来を仕損じる。

 僕はすべきことはシンプルだ。

 それは僕がお布団信者であろうとベッド愛好家であろうとも変わらない。


「……顔洗お」


 僕のすべきこと、それは寝惚けたこの頭をさっさと覚醒させてやることだけ。

 グーっと背筋を伸ばし、滞っていた血流をぐんぐん体内に循環させる。ただ、同時にドッと押し寄せてくる倦怠感。まるで手足の先っぽから身体の中枢まで徐々に腐っていっているみたいだ。こりゃ、本格的に熱中症なのかもしれない。


「……思っている以上に重症なんかなぁ。……困るなぁ、いややなぁ、きついなぁ」


 異常なまでの発汗。この分だとパジャマから汗の滝を絞り出せそうだ。


「……今日何曜日なんやろ。病院あいてるんかなぁ。……ともかく、今のお寝惚け頭じゃ正しい判断なんてしようがないんやから、さっさと洗面所行こ。髪を直したいなぁ。っていうか、風呂入るべ。風呂。……っかー、頭がガンガンする。マジでどうなってんやろ」 

 

 スンッと香る畳の匂い。干し草ってやつだろうか。

 裸足の足裏でささくれを踏む。どうやらここは和室の一室らしい。

 …………んん?いやいやいや、いや、ちょっと待て。かなり待て。


「……畳やん。…………あんれ、畳ぃ??」


 試しにもう二、三度ペタペタとささくれの感触を確かめる。

 うむ、うーむ。畳職人でもなければ一畳の縦横の長さがいまいちよくなかっていないせいで「〇〇畳の間取り」とか言われてもピンとすらこない僕ではあるけれども、一般常識としてこれが畳もしくは畳に類するものであることはわかる。

 視線を下へ。ほら、畳だ。シミから年季を感じるが、畳だ。


「……やっぱ、畳らしいんよなぁ」


 ……いや、いやいやいや、“らしい”ってなんやねん。ここ自室やぞ。

 これにはさしもの鈍感系僕でも僕の言動に小首を傾げざるを得ない。

 僕は和室の布団で寝起きをしていただろうか。いや、そもそも、僕はこの和室に見覚えがあるのだろうか。我ながらおかしな自問自答だけれど、干し草の匂いは、ささくれの感触は、僕の記憶に親しみを持って接してはくれない。まるで他人のように冷たく味気ない。


「……いや、待って。……ここ、ほんまに何処や?」


 一陣の焦燥感が胸を空く。改まって部屋を見回す。が、既視感と呼べるものさえない。

 広さは四畳の畳と、半畳が一つ。四畳半というと、どこか官能的な響きのようだが、それと真逆の質素で最低限の家具しか置かれていない印象の和室だ。

 和風の吊り下げ電灯を中心にタンス、文机、本棚、丸机、布団。

 狼狽する神経を宥めんと半分無意識で布団をたたみ窓際に置く。

 窓際に。


「……窓。…………あっ、そうやん、窓や!」


 一目散にカーテンを引き、一呼吸も置かずに窓を全開放させる。

 サッと入り込む風が髪を撫でる、が、間も無くして風も凪いだ。


「……どの辺やぁ。……ほんまに、どこやねん、ここ」


 ……。

 ……。

 ちくしょう。教養のなさがこんな時になって露呈されるとは。まるでわからん。各県の県庁所在地すらよくわかっていない僕が風景を一瞥してわかる情報などたかが知れている。

 

「……とりあえず、ここはどっかのアパートの一室。おそらく二階。……ココスって全国チェーンやったやんな。……奥のあれは川?……いや、湖か。……月極駐車場の看板があるな。なんか書いてないか、……『大津市?』」


 なるほど、するとここは滋賀県か。滋賀県の大津市、そのどこか。

 奥に一望できる湖は琵琶湖だろう。デカい。海だと言われても違和感がない。

 ……なるほど。…………なるほど?


「……いや、だから結局のところ、ここはどこやねん」


 〜さんの部屋とか、〜くんの物置とか、そういう情報が欲しい。滋賀県の大津市と言われても。

 歩くたびに踏み抜きそうになる畳の下の床、ひび割れた外壁、老朽化したアパート。なるほど、ここが日本における健康で文化的な最低限度と言った風体である。建築基準法やら何やら、まるで明るくないけれど違反の温床であろうことは想像に難くない。

 

「……どっかの誰かの世話にでもなっていたのかな。……んー、ここ、親切な友人宅だったりしないかな」


 言葉尻の疑問符は消えそうにない。

 この回答に僕自身納得していない。

 ムズムズうずうずとする気持ちを押さえつけんがためにこめかみをグリグリしてみるのだけれども、痛いだけでパッと閃く超発想が生まれるわけでもなく。「イッテ」と呻く程度には頭の中がこんがらがってしまっている。


「……くー、むー!思い出せー、思い出せーっ!」


 ここは友人宅、だったとして、ならばどの友人のお宅なんだ?

 ……友人。

 ……友人。

 ……友人?

 空回りする思考に引っかかりを覚える。しかし、その引っかかりは前進を産むための発想の卵なんかではなく、なんなら大後退を余儀なくされるような致命的欠損への気づきのような。そんな冷や汗も凍ってしまうほどの、ひとかけらの真実。


「……あ、あれ。あれ。友人。…………そんなもの、僕にいたっけかな」

 

 お友達がいるかいないか、お友達の定義とは、お友達との上手い付き合い方。そんな悩める思春期真っ盛りボーイ&ガールが何を血迷ってかラジオの応募ハガキにしたため送る珠玉の黒歴史のような疑問であれば、ラジオのパーソナリティと一緒に失笑してやれたのだけれども。

 青い春の記憶も、

 暑い夏の記憶も、

 膨よかな秋の記憶も、

 かじかむ冬の記憶も、


「……え、あ、えっ、……え?」


 黒く染まる歴史すらもない、無色透明なアルバム。

 友人がどうのどころの話ではない。

 ここがどこかなんて騒ぎじゃない。


「……僕の家、何処やっけ?」

「……あれ、僕の実家って?」

「……生まれた場所は?」

「……そこで出会っているであろう友人は?」

「……ここまで生きてきての経歴や学歴は?」

「……趣味は?」

「……好きな漫画は?」

「…………そもそも、僕の名前は?」

 

 ……参ったな、声が震えているじゃないか。次第に覚醒する思考はいつになく働き者の様相を呈し、この“違和感”の正体について解析を進めていく。そのたび、その“違和感”は鮮明さを増し、いやがおうにも“真実”を目の当たりにしなくてはならなくなる。

 浮かび上がる真実。

 それは、これが青春を語る一ページではないことを如実に表す。


「…………あは、あはははは。」

 

 人間って生き物は、苦境の崖っぷちに立たされると笑いが込み上げるらしい。

 

「…………いや、嘘やん。……誰やねん、僕」


 これは、あれか。映画でよくある台詞だ。

 

「…………ここは何処で、僕は誰なんだろう」

 

***


 七月二十一日、午前六時十五分。(◼️◼️)


「……いや、いやいや。寝過ぎなだけやろ。ほら、記憶喪失とか。マジ有り得んし」


 はは、ははは。と乾いた笑みが口端から零れる。人のマジの笑いの震源地には、それが爆笑だろうとも悲嘆に暮れた末の嘲笑であろうとも草なんてもんは生えない。大草原なんて生い茂らない。ただ共通して頭の中で平和やらなんやらを空に描きたくなるってだけらしい。


「……いや、ホンマに。……なんでやねん」


 とはいえ、こんな驚天動地のビックリ⭐︎ドッキリ展開にも関わらず、若干の冷静さを保つ僕もいる。もっとも、激動の感情が一周回って不時着しているだけかもしれないけれども。冷静なような気がするくらいには冷静で、きっとこれは冷静ではないのだろうと思えるぐらいには冷静だ。


「……ともかく。ともかく、や。一旦、顔でも洗って落ち着こ。うん。……ええっと、洗面所はぁ?」


 丸机を真ん中に挟む和室の間取り、文机と本棚の逆側に障子がある。

 そろり、そろりと障子の引き手をスライドさせ、顔を覗かせる。

 正面には台所、手前に廊下。廊下には、この障子とは別に三つの戸と玄関扉。どれも年季が入っている印象で、台所から漂う昭和臭ときたら令和の世からすれば還暦を過ぎた歴戦の様相を呈しており、労ってやるべきか、瓦解する前に蜘蛛の子散らす具合で退去すべきか悩みどころだった。


「……誰かぁ〜、……いませんかぁ〜」


 居たら居たで恐怖なのだが、居ないと居ないで困る。ジレンマだ。居ない場合、とうとうこの部屋の所在が不明となり「ここはドコ?」問題はしばらくお蔵入りすることは想像に難くない。静謐が保たれる廊下。結局、呼びかけには反応はなかった。

 なるほど、これはお蔵入り確定かもしれない。


「……おいおい、お蔵入りしている場合じゃないんよ。このままだと「僕はダレ?」問題も一緒にお蔵入りしちゃうでしょうが」


 それはもう文字通りの死活問題なのだけれども。住所不明に身元不明、そんなもん浜辺に打ち捨てられた水死体のようなもんだ。自力も他力も期待できないのにどうやって生きて行けというのだろう。乞食だって満足にできない。

 というわけで、両問題とも現状維持ってのはとーっても困る。何かどう困るのか聞かれればちょっと考え込んだ挙句、いやこれヤバいぐらい困るやんけ、ってなるくらいには困る。つまり、非常に困るのである。


「……どのドアだろ。玄関ドア除いて三つあるけど」


 廊下左手側には、障子と戸一つ。

 廊下右手側には、戸が二つ。

 廊下奥に玄関戸があるけれども現段階で下界に外出する勇気はない。ちょっと洒落にならないレベルで怖いので、まずは手前三つの戸から開けようと思う。


「……うーん。まず手始めに左側の戸から」


 ドアノブを捻る。


「……空き部屋?」


 そこは空っぽの空き部屋。いいしれぬ不気味さが背筋を這う。ただただ空っぽなわけではない。まるでアパートの内見にでも来たかのような人跡のなさ。まるで誰かが作為的に不自然を作り出しているのではないかと疑いたくなるぐらいに、背後の廊下との生活感の対比で異常さが浮き彫りとなっている。

 ひとまず、僕は見なかったことにした。

 どちみち、ここは洗面所じゃないのだから。


「……次、右側の戸は、っと」


 右側には戸が二つあり、片方のドアノブを捻ると、そこはトイレだった。

 ならばもう一つの戸は、と。おおよそ予想がついていたが、脱衣所を兼ねた洗面所だ。磨りガラス色の折れ戸の向こうには浴槽が見える。やっとビンゴだ。洗面所といっても、簡素な洗面器に収納棚、くぐもった姿見鏡にはタオルが引っ掛けられている。驚いたことに洗面鏡はない。そのための姿見鏡だろうが、格安であろうことが類推されるアパートでも、アパートである以上、アパートである矜持を持ってして洗面鏡ぐらいデフォで設けておいてほしいものだ。

 鉄色の取っ手を右に回す。

 蛇口から水道水が溢れる。

 掌で掬い、顔に浴びせる。

 ひどくジメジメとした空間のせいか、湧き出るように汗が流れる。おそらく建物の構造上、換気なんてまるでなっちゃいないのだろう。一つ二つと不運が連鎖しようものなら、この熱波で人を殺せるかもしれない。完全犯罪、密室殺人、僕はその完璧な非道を事故とでも呼ぼうかしらん。


「……犯人は地球温暖化だったのかもしれない。くっ、なんて人間ってのは業が深いのかしら」


 さて、そんなことはどうでもいい。そんなことより蛇口から出てくる水がヌルいことの方が問題だ。

 ついつい冷水かと期待したものだから、このガッカリ感は天井知らずの底知らずだ。この落胆、ドコのダレにぶつければ良いのやら。そういえばさっきちょうど良さげな完全密室犯罪スポットを見つけたところだ。現場は整っているのかもしれない。あとは恨みつらみだ。漠然とした将来への不安だとか、非合理的な同調圧力への不満だとか、そんなものをポイっとこの洗面所に放り投げれば死んでくれるのかしら。残念、死ぬのは僕でした。

 なんて、物騒な思案に耽るもほどほどに、顔も口の中も水道水で濯ぎ終わる。


「……はぁ、洗われた気分や。…………あっ、しもた、手拭いがないやんか」


 手探りに手拭いの在処を探るが、しかし、手近な場所にはないようだ。

 これでは埒が明かない、と思い切って捜索範囲を広げるべく諸手を大ぶりに振ってみる。指やら腕やらをぶつける。すると、指先に触り慣れない感触を覚える。ツルツルとした硬い感触。


「……なんやこれ。…………あぁ、わかった。あれや、たぶん姿見鏡やな」


 洗面器の横にあった姿見鏡を思い出す。記憶が正しければ、その姿見鏡には手拭いが引っかかっていたはずだけども、と手探りを続けると、布の感触。ビンゴだ。ひそかに自分の記憶力を自画自賛しながら、水の滴る顔面を手拭いで覆う。


「……この秀でた記憶力であと思い出さんとアカンのは、名前と住所と経歴と人間関係諸々ぐらいや。勝ったな、ガハハ」


 ジリジリと蒸される夏の殺人的猛暑の中、我ながら最高に面白くない冗談だと思った。

 さて、この皮膚を透かして臓物にまで猛威を振るう呪いのような暑さの密室空間にて、それでも僕はこのような呑気を演じられていたのは、ひとえに現実からの逃避に全力を注げていたからだろう。それは決して、僕が強いことの証左とはなり得ないのだ。

 だからというべきか、ゆめゆめ履き違えちゃならなんのだろう。

 これから向き合う物語は、“僕”についての葛藤に終始することとなる。


「……ふぅ」


 自分は特別だとか、自分には役割があるだとか、自分の人生は夢を叶える道中にあるだとか。

 “そういったもののない僕“が、それでも歩く理由を、探していかなければならないのだから。


「……何はともあれ、ひとまず思考もサッパリしたんや」


 手拭いを首から掛け、目元を拭う。僕はそろそろ“僕”についてしっかり思い出す努力をせねばならないのだろう、と奮起する。下手をすれば病院、なんだったら警察案件なのだから、事態は一刻を争うものかもしれない。慎重に、そして冷静に、状況を見極めなければならない。


「……そろそろちゃんと、この事態についてまとめていかないと、、、」


 ――――――目線を洗面器から話す。


「……とりかえしのつかないことにな、……ってから、で、は」


 ――――――目線が姿見鏡に向かう。

 ――――――目線と目線が合致する。


「………………は?」

 

 それはもう、不意。ただその一言に尽きた。

 ダラダラと惰性のままに流れる汗が跳ねたのか、もしくは先の手探りの際に飛散した水滴の跡か。姿見鏡には何本かの水の跡がスッと筋のように通っていた。それがイヤに目についた。まるで、あえて焦点を合わせないようにしているようだった。が、次第にピントは定まる。ボヤけていた姿見鏡の自分の姿に輪郭が生まれ、部位が形を成し、ディティールを鮮明とさせる。


 諸兄諸姉よ、問いたい、貴方は少女の皮を被ったことはあるかね。


 姿見鏡には、“僕”が映し出されて然るべき姿見鏡には、

 肩を窄める“少女”の姿がハッキリと映し出されていた。

 ただ茫然自失と呟く僕、それを一秒一コンマ一ミクロンも遅延なく誤謬なく同期する“彼女”。


「……ど、どちら様ですか?」


 柔らかそうな唇を不安げに動かす“彼女”。そのひとをまるで他人よりも他人に思えたのは、記憶を失ったいまでも自認する性が“男”だからだろう。“僕”なのだから。これは性自認が雄というだけの思い込みなのかもしれないし、記憶喪失の延長線上なのかもしれない。なんだったら僕はいまだにタチの悪いイタズラの可能性だってあると考えている。

 それでも、僕は、とうとう“僕”のことさえも見失ってしまったことに変わりない。

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