第1話 : 偽りの月の、灼熱の婚礼
葉月 結衣は、嫁ぐ夜、黒い御召(おめし)の着物に、葉月家の紋がわずかに透ける薄い水色の羽織を纏っていた。
それは、本来、妹の彩乃(あやの)のために用意されていた婚礼衣装だったが、それを纏う結衣は、華やかさとは程遠い。
静謐な月光が差す馬車の中、結衣は膝の上でそっと手を重ねていた。その指先から微かに漏れ出る【影の御業(みわざ)】の力。
それは、周囲の闇の気を静かに鎮め、水のように柔らかい結界を生み出す力だ。
だが、結衣はその力を、誰かを守るために使ったことはほとんどない。孤独な日々の中で、ただ庭の枯れかけた花や、傷ついた鳥をそっと癒すためだけに、この力を用いてきた。
(──私は、本当に身代わりでよかったのだろうか)
嫁ぎ先は、国で最も危険で、最も高貴な血筋を持つ、神楽家。
そして婚約者は、”日輪の加護”という規格外の力を持つ”冷鉄の将”
妹の彩乃は、その恐ろしさに耐えられず、夜中に荷物をまとめて実家を飛び出してしまったのだ。
結衣は彩乃を恨まない。妹は陽の光のように華やかで、周囲の愛を一身に受けて育った。対して結衣は、姉でありながら、日陰の身だった。
家への義理もあったが、それ以上に、結衣の心に潜む、わずかな”運命への期待”が、身代わりを強要させた。
彩乃の代わりに嫁ぐことで、自分に与えられた”影の御業”の真の使命を知るのではないか、という漠然とした予感。
葉月家は、神楽の”日輪の加護”を鎮め、調和させる”月の契り”を司る役割を代々担ってきた。
結衣の力はまだ微弱だが、それが妹ではなく、自分に宿っていることは、結衣自身が一番よく理解していた。
馬車が軋み、大きく揺れた。外から聞こえる風の音が、急に熱を帯びたかのように重くなる。
「着きましたぞ、結衣様。鎮守府、神楽邸に」
御者(ぎょしゃ)の低い声に促され、結衣は馬車を降りた。
目の前に広がるのは、古都の豪邸らしい厳かな門構えだったが、その威容よりも先に、結衣の肌を焼く異常な熱気が襲ってきた。
まるで真夏の日中に立っているかのような熱さだ。しかし、時刻は真夜中。
門灯に照らされた庭の松は、葉が黒ずんでおり、まるで熱で焼かれたかのようだ。
「おや、ご苦労様。ようこそ、神楽邸へ」
出迎えた老齢の執事の目には、冷たい観察の色が宿っていた。
「彩乃様……いえ、結衣様ですね。お寒いでしょう。さあ、中へ」
執事はそう言いながら、結衣が身に着けている羽織の薄さに皮肉めいた視線を送った。
この屋敷で寒いなどと感じる者はいない。
これは、当主・神楽暁久の”日輪の加護”が常に発動している証拠だった。
その加護が放つ熱は、普通の人間にとっては耐え難い苦痛を伴う。
結衣は、熱気の中でわずかに力を震わせた。体内の”影の御業”が、本能的に周囲の熱を中和しようと、微かな冷気を放ち始める。
この灼熱は、ただの力ではない。孤独と、極度の緊張、そして制御できないものへの恐怖が、熱の暴力となって屋敷を満たしているように、結衣には感じられた。
邸内に通され、廊下を歩く。どの壁にも、太陽の紋章と、それを囲むように結界の術式が施されている。
そして、執事が立ち止まったのは、鎮守府の中枢、司令官の執務室の前だった。
「こちらで当主がお待ちです。結衣様、どうぞ」
この熱気の源、そして冷鉄の将と呼ばれる男の居室。結衣は静かに呼吸を整え、重い扉を押した。
扉を開けた瞬間、熱気はさらに跳ね上がった。まるで炎が燃え盛る竈(かまど)の中に足を踏み入れたかのようだ。
結衣はたたらを踏みそうになったが、そこで、熱気の中心にいる男の姿を捉えた。
神楽 暁久。軍服姿の彼は、その熱にもかかわらず、全く汗をかいていないように見える。
無駄のない引き締まった体躯、鋭い眼光、そして全てを寄せ付けない冷酷な空気。
彼は、結衣が想像していた以上に、”絶対的な「光」”そのものだった。
暁久は机に向かい、こちらを一瞥しただけで、すぐに視線を書類に戻した。
まるで、そこにいるのが人間ではなく、家具か、無視すべき存在であるかのように。
「……婚約者だと聞いた」
低く、温度のない声が、熱気の部屋に響いた。
「はい。葉月結衣と申します。妹の彩乃の代わりに……」
「身代わり、か」
暁久は初めてペンを置き、ゆっくりと結衣に向き直った。その冷徹な視線が、結衣の存在を、品定めするように見つめる。
「聞いているぞ。妹は、この家を恐れて逃げた。ならば貴女は、家を救うという名目の下、この神楽家の財と、力を求めてきたのだろう」
彼の言葉には、侮蔑と諦めが混じっていた。
「残念ながら、俺に、お前たちが求める安寧と力は提供できない。この屋敷の熱が、お前の望む『安寧』を許さないように」
「……違います」
結衣は、ひどく緊張していたが、はっきりと答えた。
「私は、何も求めません。ただ、彩乃の代わりに、葉月家の役目を果たすために参りました」
暁久は微かに口元を歪めた。嘲笑に近い表情だった。
「葉月家の役目? 俺の暴走を止める『月の契り』とでも言いたいのか。お前のような影のような女に、そんな力があるように見えないな」
彼は立ち上がり、結衣に向かって歩み寄った。その一歩ごとに、熱気が増していく。
彼の体から放たれる”日輪の加護”の熱は、結衣の顔の産毛まで焼くほどだった。
「私の熱は、感情の昂ぶりで、周囲を焼き尽くす。お前が偽りだとしても、ここにいる限り、いずれ焼け死ぬかもしれない。それでも、留まるか?」
その言葉は、優しさの欠片もない、冷酷な通告だった。結衣は、この灼熱の中で初めて、自分自身が持つ力の意味を感じ取っていた。
体内の”影の御業”が、この凄まじい熱に対し、抗うのではなく、静かに受け止め、鎮めようと蠢いている。
「……はい」
結衣は、その熱をまっすぐに見つめ返し、静かに頷いた。
「この熱が、貴方様を孤独にしているのであれば、私は、ここに留まります」
その、真っ直ぐな眼差しに、暁久は今までの婚約者たちとは違うものを結衣から感じ取るのだった。
宵闇に咲く花嫁─日輪の冷徹軍人と月の身代わり娘─ 藤宮美鈴 @MISUZU1022
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