宵闇に咲く花嫁─日輪の冷徹軍人と月の身代わり娘─

藤宮美鈴

序章

 わたつみの 豊旗雲に いり日さし 今夜の月よ あかときよがれ

(柿本人麻呂・万葉集)



 ──海を照らす入日と、夜明けまで澄み渡る月。それは、この国の根源たる「日輪」と「月影」の加護が、完全に調和した理想の情景を詠った歌だ。

 

だが、今の世に、澄み渡った月と日が揃い、平和を謳歌する瞬間は存在しない。


あるのは、闇と光の際で、均衡を保とうともがき続ける、ただ一人の軍人だけだ。

 

鎮守府、最高司令官執務室。

 分厚い鋼鉄と、結界を込めた檜の壁で覆われたこの部屋は、国で最も安全とされる場所であるにもかかわらず、常に異常な熱気を帯びていた。

 

室温は優に摂氏四十度を超えている。真冬であっても、この部屋に長居すれば汗が噴き出し、肌はひりつく。だが、最高司令官たる神楽(かぐら) 暁久(あきひさ)は、厚手の軍服の上着さえ羽織ったまま、書類の山に向かっていた。

 

三十代を少し過ぎたばかりの暁久は、顔立ちこそ整っているものの、その表情に感情の揺らぎはない。全てを凍てつかせるような冷酷な視線と、一切の無駄のない動作は、彼が「冷鉄の将」と呼ばれる所以だった。

 

冷徹でなければ、耐えられない。

 彼は、自らの内に脈打つ「日輪の加護」すなわち神炎(しんえん)の力を、肌身離さず制御し続ける重責を負っていた。


彼の力が国を守る最終兵器である一方、それは一瞬で周囲を焼き尽くす、制御不能な熱の塊でもあるからだ。


「報告します。藤井の残党、『月影の残光』の動きが、このところ活発です。主に国境付近で『影喰らい』を出現させています」


 副官が分厚い報告書を机に置いた。藤井──その名を聞いた途端、暁久の無表情な顔の奥に、一瞬だけ痛みが走る。


藤井葵。かつて暁久が最も信頼し、右腕としていた男。だがその葵こそが、暁久の力を奪い、暴走させようと企んだ最大の裏切り者だった。

 

四年前、葵が仕掛けた呪術により、暁久の神炎は制御を失い、鎮守府の一部を焼き尽くした。


幸いにも葵は自らの術に飲まれて消滅したが、あの事故で、暁久は彼の”愛する者”を失った。

 

それ以来、暁久の心は閉ざされた。彼は、力を求める者、愛を求める者、その全てを*”裏切りの火種”として見做し、近づく者を拒絶し続けている。


彼が冷徹を装うのは、感情の昂ぶりによる神炎の暴走を防ぐためであり、同時に、これ以上誰も傷つけまいとする孤独な防御策だった。


「残党どもは、私の力を利用しようとしている。そして、その力を鎮める『月』の力を探している」

 

暁久は冷たい声で呟いた。彼の力が太陽(日輪)の極致ならば、それを鎮め、調和させるのが月(月影)の役割だ。


神楽家の当主には代々、「影の御業」を持つ葉月家の娘が嫁ぐことになっていた。だが、過去の事件以来、真にその役目を果たせる娘はいなかった。


「葉月家より、新たな婚約者の準備が整ったと連絡が入りました。双子の妹である彩乃様が……」


「結構だ」

暁久は副官の言葉を遮った。


「どうせまた、家名と財産目当ての、偽りの光だ」

 

彼はペンを置き、立ち上がった。窓の外の夜空には、冷たい月が昇っている。その光は鎮守府の熱を冷ますにはあまりにも微力だ。


「彩乃様は、体調不良のため、代わりに双子の姉、葉月 結衣様が当家へ参られます」

 

報告に、暁久の眉がわずかに動いた。身代わり? 妹が逃げ出し、押し付けられたか。いっそ清々しいほどの、露骨な打算だ。


「……すぐに引き取らせろ」


「それが、彩乃様は既に実家を出られてしまい、結衣様が今夜中にこちらへ到着されます。葉月家からの依頼で、すでに手続きは完了しており……」

 

暁久は舌打ちをした。また、面倒な偽りの月が来る。どうせ、すぐにこの灼熱の屋敷から逃げ出すだろう。

 

彼は窓の外に視線を戻した。月光は冷たい。だが、なぜかその時、彼の胸の奥で、長年硬く閉ざされていた日輪の加護の熱が、ごくわずかに、ざわついた気がした。


それは暴走ではなく、何かを予感するような静かな振動だった。

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