◆ episode5.

チームパーティーの夜。

部屋は、やたらと生きていた。


開けっぱなしの窓からミラノの夜気が入ってきて

ワインの甘い匂いとピザの油、

誰かが落としたレモンの皮の香りが混ざる。


床には箱。

テーブルには空き瓶。

ソファの背には誰かのジャケット。


笑い声が天井を叩いて、

言葉の意味が削れて、

音だけが残っていく。


現地の男たちが大きい声で肩を叩き合って、

イタリア語の波がどっと来て、どっと引く。


その間に、英語が割り込み、日本語がこぼれる。

言語じゃなく、熱で会話してるみたいだった。


俺はリサの隣にいた。

紙コップの縁が指にふやけて、ぬるくなったワインが舌に残る。

リサはグラスを軽く揺らして、全部見ている顔で笑っていた。

この人がいると、場が落ち着く。

騒ぎが“事故”にならない。


その時だった。


ベランダのほうから、妙に張った声が飛んできた。


「違うって!」

「違わねえって!」


ガラス越しに見えたのは、九条さんとまつりさん。

夜風の中で向かい合って、

真剣な顔をして、どう見てもどうでもいいことで揉めてる。


なんなんだ、この二人。

と思った瞬間、俺は勝手に笑っていた。


「……あの二人、何してんすかね」


俺が小声で言うと、

リサは横目でベランダを見て、口角だけ上げた。


「ね。見てるとさ、こっちの悩みが急にくだらなくなるでしょ」


「わかります。急に、自分の脳が損した気になります」


「損って言うな」


リサは笑った。

笑うと、目が柔らかくなる。


ベランダでは、九条さんが腕を組み、

まつりさんが指を立てている。

次の瞬間、まつりさんが先に吹き出した。

肩が揺れて、頭を少し下げて、

笑いをこらえようとして失敗する笑い方。


それに釣られて、九条さんが笑った。


……あの笑い方。


俺の胸が、変に締まった。


九条さんの笑いって、

いつも“仕事の笑い”だった。

場を締める笑い。

余裕の笑い。

勝った人間の笑い。


でも今のは違う。


勝ち負けの外に落ちたみたいな、子どもが出すやつだ。


俺は息を吸って、吐くのを忘れた。


「……俺、ちょっと泣きそうなんですけど」


自分でも驚くくらい、素直に出た。


リサが、ほんの一瞬だけ俺を見る。

その目が、笑いより先にあたたかい。


「うん。そういう時あるよね」


励ますでもなく、茶化すでもなく。

ただ、受け止める声だった。


俺はもう一度ベランダを見る。


九条さんが、ただの男の顔をしていた。

怖くない、っていうより


――遠くない。

神みたいに置いてきた距離が、ひとつ勝手に縮む。


その光景が、優しすぎた。


ここは、頑張り続けなくても

壊れない場所なのかもしれない。


正しさで証明しなくても、

役に立つ形で張りつかなくても。


それでも、ここに立っていていいのかもしれない。


そう思った瞬間、身体が先に動いていた。


俺は紙コップを置いて、ベランダのドアに手を伸ばす。

ガラスに触れた指先が冷たい。


ドアを開けると、夜風がぶつかった。

ミラノの空気は、少しだけ金属の匂いがする。

遠くでスクーターの音。下の通りの笑い声。

ベランダの手すりが冷たくて、掌が目覚める。


「ちょっと、夜中ですけど」


俺が言うと、二人が同時に振り向いた。


九条さんは眉を寄せてるのに、目が笑ってる。

まつりさんは完全に“何か来た”顔で楽しそう。


「お前、何だよ」


「いや、うるさいです。近所が起きます」


「お前が起きてんだろ」


「俺はもともと起きてます」


言いながら、自分が笑っているのが分かった。

いつもの失敗しない笑いじゃない。

守りのない笑いだった。


俺は二人の間にズカズカ入っていく。


「てか、九条さん。論点、また変わってません?」


「変わってねえよ」


「変わってますって。今、最初と違うとこ殴ってます」


「お前、口が立つようになったな」


まつりさんが腹を抱えて笑う。


「樹くん、今日強くない?最高」


「いや、まつりさんも結構アレです。着地点ゼロで突っ込んでくるし」


「着地点?なにそれ、おいしい?」


「おいしくないです」


三人の声が、ミラノの夜に混ざる。

ベランダの暗さが、俺の肩の力を抜いていく。


その時、九条さんが俺を見て、鼻で笑った。


「……お前、調子出てきたな」


心臓が跳ねた。

でも、あの圧がない。

“採点”じゃない。

面白がってる声だ。


次の瞬間。


九条さんの腕が、いきなり俺の肩に回ってきた。


重みが、どん、と乗る。

力の入れ方が自然で、迷いがない。

まるで最初からそこにあったみたいに。


シャツ越しに体温が伝わってきて、

タバコとワインの匂いが近くなる。


俺は一瞬、身体が固まった。

でも、逃げる理由がなかった。


「……樹、おもしれーじゃん。」


小さく言われた。

言葉より、腕の重さのほうが先に胸に入った。


俺はうまく返せなくて、ただ笑った。


横で、まつりさんがニヤッとする。

悪い顔。


「はい。儀式」


小さなショットグラスが差し出される。

中は淡い黄色。月明かりみたいな色の酒。


「今?」


「今」


「強いでしょ、それ」


「強い方がいい夜もある」


理屈がない。

でも、この場では理屈が邪魔だった。


九条さんが肩を組んだまま、短く言う。


「飲め」


「……はい」


俺は一気に流し込んだ。


甘い。

でも次の瞬間、喉の奥が燃える。

レモンの香りが鼻に抜ける前に、アルコールが内側を殴ってくる。


「っ……!」


咳が出た。

目尻が熱くなる。

まつりさんが爆笑して、九条さんも笑う。


「ほら、顔」


「顔やばい」


「俺、今、呼吸してないです」


「して」


笑いながら息を吸うと、

夜風が冷たくて、火照りが一瞬で拡散した。


そこへ、足音。


リサが部屋の中から出てきた。

呆れた顔。なのに、口元だけは笑ってる。


「もう。なにやってんの三人で」


“叱る”じゃなく、“しょうがない”の声。


「しょうがないな」


そう言いながら、

リサはまつりさんの手元のグラスをひょい、と奪った。


俺が咳き込んだショットの残りか、次の一杯か。

とにかく迷いがない。


リサはそれを、ためらいなく一気に飲んだ。


喉が動く。

目も瞬かない。

あっさり空になった。


九条さんが吹き出す。


「リサ、お前……やるな」


まつりさんが両手を上げて騒ぐ。


「うわ、最強。怖い。惚れる」


リサは何事もなかったみたいに息を吐いて、軽く肩をすくめた。


「ほら。深呼吸して。樹も」


俺は笑うしかなかった。


四人が、ベランダの手すりの前に並ぶ。

誰も譲らない。誰も決めない。

ただ、そこに立つ。


ミラノの街の灯りが、遠くで揺れていた。

夜が静かで、でも死んでいない。

この街の心臓の鼓動が、

どこかで鳴っている気がした。


俺は、はっきりと思った。


――ああ。俺、ここにいていい。


“役に立つ俺”じゃなくてもいい。

“空気を壊さない俺”じゃなくてもいい。


ふざけて、

混ざって、

咳き込んで、

笑ってる俺でいい。


九条さんの腕の重さ。

レモンの熱。

リサの「しょうがない」。

まつりさんの笑い声。


それが、証明だった。



数年たっても、時々、あの夜が胸の奥で鳴る。


例えば、どこかでレモンの皮を搾った匂いがした時。

あるいは、冷たい金属に掌を置いた時。

妙に乾いた夜風に当たった時。


ミラノのベランダ。

手すりの冷たさ。

下の通りのざわめき。

どうでもいい口喧嘩の声。

そして、肩に落ちてきた九条さんの腕の重み。


俺は長い間、勘違いしていた。


才能や結果が揃って、

ようやく“許される”んだと思ってた。


すごい自分になったら、

仲間に入れるんだと思ってた。


でも本当は、もっと小さな願いだった。


何者でもない自分でも、

尊敬して、

好きで、

遠いと思っていた九条さんの隣に、


ただ“居ていい”と思われたかった。


恥ずかしいくらい単純で、

情けないくらいしつこい願い。


消したくても消えない。

胸の底に残り続けるやつ。


俺はそれを叶えるために必死で頑張った。


役に立とうとした。

気を遣った。

壊さないように、邪魔しないように。


でも皮肉なことに――

それが叶ったのは、頑張り方をやめた瞬間だった。


笑って、混ざって、むせて。

自分のままでそこに立っただけ。

そしたら九条さんが、

当たり前みたいに肩を組んできた。


言葉じゃなく、体温で。


あの時、ようやく分かった。


愛って、

称賛でも、

特別扱いでも、

勝ち取る勲章でもない。


“ここにいていい”が、

さりげなく手渡されることなんだ。


俺が欲しかったのは

天才になることじゃなかった。


あの人の隣で笑っても、

世界が崩れないという許可だった。


そしてその許可は、

俺の情けない願いのまま、

ちゃんと届いてしまった。


そしてそれは、いまでも続いている。




──第二部 第四章:「馬と鹿」終

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『光の底』<2部>第四章樹Side:馬と鹿 @manitoru

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