◆ episode4.
そんな俺のトゲがとけてしまったのは
なんでもないことだった。
ある夜
ホテルのバーで飲むぞと九条さんが言った。
先に行ってろ、と俺とまつりさんだけを残して。
バーの照明は、肌の上に薄い蜂蜜みたいに落ちていた。
木のカウンターは長年の手の脂で艶が出ていて、
グラスを置くと小さく乾いた音がする。
氷が溶ける音だけが、妙に大きい。
さっきの自分の言葉が、まだ喉の奥に引っかかっていた。
余計なことを言った。言わなくてもよかった。
それを分かってるのに、止められなかった。
「……さっきの、あれ。すみませんでした」
言いながら、俺は自分でも情けなくなる。
謝るのは得意じゃない。
得意じゃないくせに、謝らないと落ち着かない性格だ。
まつりさんは、黙って俺の隣に座った。
正面でもなく、遠くでもなく、変に気まずくならない距離。
香水じゃない、石鹸みたいな匂いが一瞬だけした。
「大丈夫だよ。気にしてない」
その声が軽い。
軽いのに、適当じゃない。
俺はそれだけで、少し救われた気がした。
「俺、めんどくさいっすよね。
気にしなくていいとこ気にして、口まで動くタイプで」
自虐のつもりだったけど、言い終わるとちょっと笑えなくなった。
まつりさんは、グラスの縁を指でなぞりながら言った。
「めんどくさくない。ちゃんと見てるんだなって思った」
その“見てる”が、刺さった。
俺は見てしまう。
見てしまうから、苦しい。
でも、見てしまうからこそ現場に残ってこれた。
しばらく沈黙が落ちた。
どこかでピアノが鳴っていた。
演奏ってほど整ってなくて、
誰かが指を遊ばせているみたいな音。
ミラノの夜は、そういう雑さが似合う。
俺はまつりさんを横目で見た。
責めたいわけじゃない。
ただ、
分からないものの前に立って、
どう立てばいいか迷ってるだけだ。
「……まつりさんって、なんなんすか」
言った瞬間、自分でも笑いそうになった。
でも笑えない。
これ、冗談の形をした本気だ。
「なんなんって?」
「いや、悪い意味じゃなくて。
その……
九条さんのあの感じになるの、
俺、初めて見たんですよ。」
“ああなる”という言い方に、俺の語彙の限界が出た。
でも本当に、それ以外に言いようがなかった。
九条さんは、いつも鋭い。
決める。切る。進める。
迷わない。揺れない。許さない。
それが怖くて、同時に憧れだった。
でも今日、食事会のあと。
まつりさんの方を見た瞬間だけ、
九条さんの顔がほどけた。
怒りじゃない。評価でもない。
ただ、呼吸が深くなったみたいな顔。
俺は見てしまった。
見えてしまった。
「俺さ……九条さんがガチで入ってる時って、
誰に対しても距離同じなんすよ。
スタッフにも、クライアントにも、俺にも」
言いながら、胸の奥がきゅっと縮む。
“俺にも”って、言葉にした途端、情けなさが増える。
「でも今日、まつりさんが来た瞬間、空気が変わった。
なんか……抜けた、っていうか。
切り替わった、っていうか」
うまく言えない。
言えないから、余計に苦しい。
「悔しいとか、そういうのじゃないんすけど。
置いてかれた感じがして。
俺、たぶんそれが怖かったんだと思います。
……すみません。変なこと言って」
俺はグラスを持ち上げるでもなく、指の中で回した。
結露が手に冷たい。
落ち着かないとき、俺の指はいつも動く。
まつりさんは、少し間を置いて言った。
「私も、わかんないよ」
その一言が、意外だった。
“わからない”って、彼女の辞書にない言葉だと思ってた。
勝手に。
「呼ばれた理由も、正直よく分かってないし。
九条くんがなんでああなるのかも……うーん、わかんない」
その“わかんない”が、変に可愛げがあって。
俺は肩の力が抜けた。
「あ……そっか。俺だけじゃないんすね」
その瞬間、自分の息がやっと肺の奥まで入った気がした。
安心とも違う。
もっと生々しい、同盟の感じ。
“こっち側”が見つかった感じ。
まつりさんが、ぽつっと言った。
「九条くんって、すごいんだね」
俺は反射で返した。
「そこ、今さらなんすか」
言い方がつい軽くなって、まつりさんが笑った。
それにつられて俺も笑ってしまう。
でも、その笑いの中に、俺はひとつ気づいた。
まつりさんは“すごいから隣にいる”人じゃない。
ただ、目の前の事実をまっすぐ受け取ってるだけだ。
だから、
九条さんの前で余計な力が入らないのかもしれない。
俺は、急にスイッチが入った。
尊敬の話になると止まらない、あの悪癖。
「いや、ほんとすごいんすよ!」
手が勝手に動く。
空中に見えないフレームを作って説明してしまう。
言っているうちに、我に返った。
俺、また熱くなってる。
「……すみません。
尊敬してる人の話になると、勝手に加速するんで」
まつりさんは、笑って首を振った。
「いいじゃん。聞いてて面白い」
その面白いが、俺にはちょっと嬉しかった。
評価じゃないのに、嬉しい。
俺はちゃんと正面から言うことにした。
「さっきのも、それなんすよ。
まつりさんを責めたいわけじゃなくて。
分からないままにされるのが、怖かっただけで。
俺の中で九条さんって、ずっと“そういう存在”だったから」
言いながら、また情けなくなる。
でも、ここで情けなくなっていい気がした。
まつりさんが、そういう空気を作ってしまう。
「うん。そういうの、言ってくれる方がいいよ」
その言葉で、胸の奥の固いところが、少しだけほどけた。
俺は、ずっと言いたかったことを、ようやく言えた気がした。
「まつりさんには、なんか言いやすいんすよね」
「え、今その話?」
「そうです。今です」
俺は笑って、でも真面目に続けた。
「九条さんの周りって、すごい人ばっかじゃないですか。
才能とか、経験とか、存在感とか。
俺も必死でしがみついてる側なんで、
何か持ってないと、隣にいちゃいけない気がずっとしてて」
言いながら、指先が少し震えた。
こういうの、普段は隠すのに。
「でも……まつりさん見て、ちょっと救われたんすよ。
“何者でもなくても、そこにいていい”って、あるんだって」
まつりさんが、少しだけ眉を上げた。
「それ、褒めてる?」
「褒めてます。
たぶん、俺が今まで言った中で一番強い褒め言葉です」
まつりさんが笑って、
俺も笑った。
グラスの氷が、また小さく鳴る。
ピアノの音が、遠くで途切れて、また始まる。
夜の匂いが少し冷えて、窓の外から風が入ってきた。
俺の中の警戒は、もうどこにもなかった。
代わりに残ったのは、妙に静かな連帯感だった。
九条さんという“現象”のそばで、
うまく立てずに揺れている者どうし。
その揺れを、今夜だけは恥だと思わなくていい。
そう思えた。
それだけで、ミラノに来た意味が少し増えた気がした。
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