◆ episode3.
仕事の合間。
ミラノの街は、光が強い。
石畳が白く反射して、目が痛い。
強いのは太陽だけじゃない。
空気の乾き方も、音の跳ね返り方も、東京と違う。
路地の壁が熱を抱えて、息を吸うたび喉が少しだけざらつく。
遠くでトラムのベルが鳴り、スクーターが風を切って走り抜ける。
イタリア語が飛び交って、
何を言ってるか分からないのに、テンションだけは伝わる。
現場の空気はもっと鋭かった。
九条さんがいるだけで、背骨が勝手にまっすぐになる。
現地スタッフも、こちらのスタッフも、言葉が短くなる。
笑い声が小さくなる。
ピントを合わせるみたいに、全員の意識が一点に寄る。
その日、九条さんはいつもの九条さんだった。
判断が速い。
声が短い。
余計な言葉を使わない。
「今」だけを見ている。
だから誰もサボれない。
だから誰も迷えない。
「ライト、もう二段上」
「寄り、あと三センチ」
「そこ、立ち位置ずれた」
一言が、刃みたいに空気を切る。
痛いのに、ありがたい。
九条さんが言うと、世界が整う。
俺はその整う瞬間を、ずっと信じてきた。
なのに。
まつりさんが近くにいると、九条さんの呼吸だけが変わる。
最初に気づいたのは、声じゃない。
間だった。
九条さんは普段、間を置かない。
迷いのない人間の時間の使い方をしている。
でも、まつりさんの前では一拍だけ“待つ”。
たとえば。
まつりさんが、反射板の近くをうろうろして、光を半分ふさいだ。
画が白く飛んで、スタッフが慌てる。
俺も反射板を持つ手に力が入った。
九条さんが言った。
「それ、そっちじゃない」
いつも通りの指示。
いつも通りのトーン。
でも次の瞬間、その声が少しだけ柔らかくなる。
まつりさんが振り返る。
九条さんが眉を寄せる。
「お前、わざとだろ」
まつりさんは首を傾げる。
「わざとじゃない」
たわいもない。
本当にどうでもいい会話。
現場の緊張からしたら、ノイズにすらならないレベル。
なのに九条さんが、威圧しない。
判断を急がない。
“怒らない”。
むしろ、口元だけが少し上がっている。
俺は、その「差」に、何度も目を奪われた。
九条さんは、普段の現場では笑わないわけじゃない。
でもあれは、“確認の笑い”だ。
場を締める笑い。
余裕の笑い。
仕事の笑い。
まつりさんの前で出る笑いは違う。
抑えきれないやつ。
子どもみたいに、喉の奥から出てくるやつ。
その違いが、俺には怖かった。
まつりさんは何もしない。
価値を証明しようともしない。
気の利いたことも言わない。
仕事の武器を持ってないみたいに見える。
なのに、そこにいる。
それなのに、場の空気が変わる。
不思議なことに、スタッフが少しだけ息を吸える。
肩の力がほんの一瞬抜ける。
「九条がいる現場」の張り詰めた糸が、切れずに緩む。
俺はそれが理解できなかった。
努力で場を支えるとか、
スキルで場を回すとか、そういう仕組みなら分かる。
でもこれは、仕組みじゃない。
存在だけで起きている。
たとえばまた別の瞬間。
現地スタッフが早口のイタリア語で何か言った。
九条さんは即座に返す。
短く、冷静に、容赦なく。
相手が一瞬たじろぐ。
そこにまつりさんが、間の抜けた顔で口を挟んだ。
「ねえ、今のって、怒ってる?」
九条さんが一拍止まる。
俺の心臓も一拍止まる。
現地スタッフも「え?」って顔になる。
九条さんは、ため息をつきかけてやめて、言った。
「怒ってねえよ。説明してただけ」
「ふーん」
その「ふーん」が、妙にあっけらかんとしてて、
九条さんの苛立ちを一瞬で無効化した。
スタッフの顔が緩む。
空気が戻る。
現地の風が通る。
俺は見てしまった。
九条さんが、無意識に呼吸を深くしているのを。
ここだ。
ここが変だ。
九条さんが、深呼吸をする。
九条さんが、
“自分を落ち着かせるための時間”を使う。
普段ならそんな余白はない。
余白を作る必要がない人だった。
余白のない速度で走り続けるから、天才なんだと思っていた。
なのに、まつりさんがいると、余白が生まれる。
九条さんの時間が、少しだけ人間の時間に戻る。
俺はその事実を、うまく飲み込めなかった。
嫉妬なのか。
驚きなのか。
恐怖なのか。
たぶん全部だ。
俺は、ずっと努力で隣に立とうとしてきた。
努力で、価値を示そうとしてきた。
努力で、居場所を守ろうとしてきた。
なのに、まつりさんは違う。
守っていない。
示していない。
奪ってもいない。
ただ、そこにいる。
それで中心が動く。
リサが横で小さく言った。
「樹。見て。九条さんの顔」
俺は見ていた。
見たくなくても見えてしまう。
九条さんが、人間の顔をしていた。
仕事の顔じゃなくて。
神の顔じゃなくて。
“ただの男”の顔。
笑うと、少年みたいに目が細くなる。
呆れると、頬が少しだけゆるむ。
何かを言い返そうとして、飲み込むとき、唇の端が揺れる。
その全部が、俺には新鮮だった。
リサは、嬉しそうな声で言った。
「ね。
ああいう顔、そうそう見れない」
俺は喉の奥で「そうだね」としか返せなかった。
認めたくないのに、認めざるを得なかった。
俺は初めて思った。
この人、何か“勝ち方”が違う。
努力の勝ちでも、才能の勝ちでもない。
“存在の勝ち”。
存在してるだけで、九条さんの呼吸が変わる。
存在してるだけで、場が一瞬救われる。
それが何なのか、まだ言葉にはならない。
でも、否定はできなくなった。
ムカつく、の裏側に、
小さな困惑が生まれていた。
そして、その困惑は、
少しずつ熱に変わっていった。
――知りたい。
俺は、あの「さらっとした存在」を、
少しだけ観察し始めた。
敵を見る目じゃなく、
現象を見る目で。
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