◆ episode2.
ミラノに来るまで、俺は長かった。
現場を回して、夜を潰して、
恥をかいて、胃が痛くなる日を越えて。
「ようやく」ここまで来た。
そういう実感が、骨に染みてた。
“ようやく”って言葉は、味がする。
苦い。乾いてる。舌の奥に残る。
それが俺の努力の味だった。
徹夜明けの缶コーヒー。
モニターの青白い光。
耳の奥で鳴る機材のファンの音。
「あと一本いける?」って軽く言われる重さ。
笑いながら「いけます」って言う自分の声の薄さ。
帰りの電車で、
眠りかけた瞬間に駅を乗り過ごすあの感じ。
積み上げた日々は、どれも派手じゃない。
でも確かに体に残る。
だから、ミラノに着いた瞬間、
空気が違って、光が違って、
俺は少しだけ誇らしかった。
ここまで来た。俺は来た。
たぶん、その誇りがあったからこそ、
次の衝撃が強かった。
ミラノで、まつりさんを見た瞬間。
正直、頭の中が真っ白になった。
軽いキャリー。
軽い挨拶。
軽い足取り。
空港の床をコロコロ転がるスーツケースの音が、
まるで散歩のリズムみたいに軽く聞こえた。
長旅の疲れも、緊張も、
彼女の肩には乗っていないように見えた。
リサと話す声のトーンが高い。
小さく手を振って、まるで近所に来たみたいに笑う。
俺の数年分の執念の横を、
コンビニに寄るみたいなテンションで通り過ぎた。
なんでこの人がここにいるんだ。
声には出さなかったけど、胸の奥で何度も繰り返した。
ムカつく、とかいう単純な嫉妬じゃない。
怖かった。
努力が正義だと思ってきた自分の世界が、
あっさり否定される気がしたから。
俺はずっと、努力に救われてきた。
努力している限り、俺はここにいていい。
努力している限り、俺は無価値じゃない。
そう思って、やっと立っていられた。
その努力を、
まつりさんは踏みにじったわけじゃない。
彼女は何もしていない。
何もしていないのに、俺のルールが揺らぐ。
そこが一番怖かった。
九条さんはまつりさんを見て雑な挨拶をした。
視線を一瞬だけ向けて、
「おー来てたのか。」
それだけ。
その“それだけ”が、俺には刺さった。
九条さんにとって、まつりさんは
“特別な挨拶が必要な存在”じゃない。
“説明が必要な存在”でもない。
ただ、そこにいることが自然な存在。
そういう扱いだった。
リサは笑って、淡々と、いつも通り。
手続きの確認をして、移動の段取りを回して、
風みたいに動く。
冷静で、早い。
場を回す大人の背中。
まつりさんだけが、何も知らない顔で笑っている。
その笑顔が、余計に腹立たしかった。
彼女は勝ち誇っていない。
努力を笑ってもいない。
俺を見下してもいない。
ただ、心底ふつうに笑っている。
それが、俺には残酷だった。
努力が正義の世界に住んでいる俺からしたら、
努力じゃない場所で笑っている人間は、
“世界の外側”にいるように見えたから。
頑張らないと居場所がない。
そういう世界で生きてきた俺にとって、
あの「さらっとした存在」は、理解不能だった。
理解不能だから、拒絶した。
拒絶したから、嫌いになりかけた。
嫌いになりかけたから、
自分が小さく見えて、さらに腹が立った。
俺は機材の入った鞄の取っ手を、やけに強く握った。
重さと、革の感触が手のひらに食い込む。
その痛みで、なんとか平静を保った。
――落ち着け。
――ここは現場だ。
――俺の役割をやれ。
そう言い聞かせるほど、
胸の奥の不安は大きくなった。
この人がいることで、
俺はどこに立てばいいんだ。
努力してきた自分の意味はどこに行くんだ。
九条さんの隣に立つために積んできた全部は、
何だったんだ。
答えは出なかった。
でも、その答えの出ない感じが、
ミラノの強い光より眩しかった。
その日、俺は初めて、
努力だけでは守れないものがあると知った。
そして、その“守れないもの”が、
この先、俺を救うことになるとは――
この時の俺はまだ、まったく知らなかった。
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