『光の底』<2部>第四章樹Side:馬と鹿

@manitoru

◆ episode1.


あの頃の俺は、

九条さんという人間を「人」だと思っていなかった。


すごい。怖い。神。天才。

そういう言葉でしか処理できない存在だった。


言葉にしてしまえば簡単なのに、実物は簡単じゃない。


目に入った瞬間に、身体が勝手に緊張する。

背筋が伸びる。

呼吸が浅くなる。

そういう種類の人間が、世の中にはいる。


九条さんのいる現場には、いつも“温度”があった。

照明の熱のせいだけじゃない。

人が集まる熱。

視線が吸い寄せられる熱。

空気が薄くなるような緊張の熱。


その中心にいるのが九条さんだった。


声は大きくない。むしろ短い。

なのに、聞こえる。

スタッフのざわめきの上から、すっと刺さってくる。


「そこ違う」

「もう一回」

「今の、いける」

それだけで場が変わる。世界のピントが合う。


俺はいつも、その瞬間に背中がぞくっとした。


怖いのに、見たい。

怖いのに、そこにいたい。

矛盾した気持ちが、いつも足元にまとわりついていた。


近づいたら燃える。

触れたら罰が当たる。

そんな距離で、ずっと見上げていた。


燃えるっていうのは比喩じゃない。


九条さんのまわりには、光が集まる。


熱が集まる。

評価が集まる。

期待が集まる。


それは祝福みたいで、同時に呪いみたいでもあった。

近づけば近づくほど、

その光に自分の粗が照らされる。


自分の遅さ、自分の浅さ、

自分の“まだ足りない”が全部露骨になる。


だから俺は、距離を測った。

一歩近づいて、二歩引く。

笑って頷いて、必要以上に黙る。

そうやって、燃えない場所で生き延びていた。


だから俺は、努力で近づこうとした。

努力なら裏切らないと思ってた。

積み上げれば、いつか隣に立てると思ってた。


俺が持っていたのは、それだけだった。


才能の火花も、天才の直感も、場を制圧する一言もない。

あるのは、粘りだけ。

手数だけ。

眠くても起きる根性だけ。


現場が終わったあとに、ひとりでケーブルを巻く。

誰も見ていないところで、台本に赤を入れる。

次の日の段取りを、ひとつ先回りして作る。


ミスをしない。

遅れない。

言い訳しない。


“役に立つ”という形でしか、

俺はそこにいる理由を作れなかった。


それはきっと、

俺がずっと信じてきた世界のルールだった。


頑張れば、居場所がもらえる。

頑張らなければ、消える。

評価されなければ、いないのと同じ。


俺はそのルールで、呼吸していた。


でも本当は、もっと情けない願いだった。


九条さんの隣に立ちたい、じゃない。

九条さんみたいになりたい、でもない。

「すごい」って言われたい、でも、神になりたいでもない。


ただ――

九条さんに、何者でもない俺でも、

「一緒にいていい」って思われたかった。


たったそれだけの願いが、胸の奥に残っていた。


誰にも言わない。

自分でもできれば見ないふりをしたい。


あまりにも小さくて、子どもみたいで、恥ずかしい願い。

努力の火種の正体は、たぶんそれだった。


だから俺は、走った。

走って、走って、走って、

ようやくミラノに辿り着いた。


あの夜のミラノで、それが叶うまで。


そこまでの話を、俺はまだ時々思い出す。

夜風の匂いと一緒に、唐突に。


煙草の残り香とか、遠くの笑い声とか、

そんな些細なものに引っ張られて、

胸の奥に沈んでいた景色が浮かぶ。


ミラノの夜は、東京より少しだけ甘かった。


石畳が冷たくて、空が近くて、

俺はその空気の中で、初めて息が深くなった。


それが、始まりだった。

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