砂浜へ

藤田真暢

第1話

「浅見君がヒューボかもしれないの」

 私がルイボスティーのティーパックをマグカップから引き上げないうちに椿が切り出した。この六年間「また会いたいね」とお愛想トークを送り合うだけだったのに突然「久しぶりに会わない?」と誘われた。単なる旧懐の情ではないよねとは思ったけど、まさかこんな話とは。

「グリーフケア用ヒューボってこと?」

 いぶかしみつつ尋ねると、

「多分。見た目は浅見君そっくりなんだ」

 椿は即答した。ヒューボは労働用のアンドロイドだ。要約すると、出生率低下からの人手不足→外国人労働者増加→排外主義、母国へ帰れ運動→再び人手不足→ヒューボ登場という流れになる。人間が受け入れやすいように各機見た目が違い個性もあるけど、根っこは同じ。就く仕事に応じて最適化されているらしい。らしいというのは、私はヒューボに詳しくないからだ。自宅にも職場にもヒューボはいない。

 身近にはいなくても接客用ヒューボはよく見かけるので、最近のヒューボが人と見分けがつかないのは知っている。介護や教育に携わるヒューボは性格や会話能力も人に肉薄しているようだ。グリーフケア用ヒューボはそれを一歩押し進めた形態――デジタルデータをぶち込んで故人を再生させた機体だ。今のところ、制約も多いみたいだけど。ヒューボとしてよみがえり可能なのは幼少期からゴーグに繋いだデジタルデータがある世代(四十代以下)だけだし、GC用ヒューボを利用できるのは四十三才以下のAレベル納税者に限る。稼げない奴は喪失の痛みをヒューボに頼らず癒やせということらしい。

「私はGC用ヒューボに会ったことがないんだよね。身近に配偶者や子どもを亡くした人がいないから」

 私はそう言って身近にAレベル納税者がいないわけではないと言外に匂わせた。二十八才にしてAレベル納税者(推定)である椿と、たかが区役所の派遣に過ぎない私。キリリと痛むほどではないけど、保てプライド。

「私は元上司がGCヒューボになったんだ。倉庫で倒れて労災認定されたから、奥さんも申請しやすかったみたい」

「過労死?」

 椿は大手通販会社ナイル商事で働いている。私達は(ヒューボになったという浅見君も)大学時代、ナイル商事でバイトしていた時に知り合ったのだ。私は二年でバイトを辞めたけど、椿は働き続けて正社員になった。バイト代は悪くなかったものの、今思えばブラックな職場だった。

「過労死だと思う。一週間続けて徹夜で働くような人だった」

 椿は悲しむ様子もなく答えた。今は浅見君ヒューボ説で頭が一杯なのだろう。わりと視野が狭い子だから、椿の中では元上司の早すぎる死はただの過去にすぎなくなっているに違いない。

「椿と同じだね」

「私はもう徹夜なんてしないよ。倉庫に泊まっても、自分の部屋で仮眠して何かあったら起こしてもらう程度。亡くなった上司とは比べものにならない。それでね、みどり

 椿は私の名前を呼ぶ。

「この前、所長会議で元上司に――元上司のヒューボに会って話をしたの」

 ヒューボは上司そのものだったと椿は語った。見た目も話し方も――例えば、汚いと思ってしまうほどの早食いまでも再現されていた(私はヒューボが食事をすることさえ知らなかった)。

「人の好き嫌いがすぐ顔に出てしまう人だったけど、そんなところまで同じだったから、すごく不思議な気持ちになった。上司は死んだと言えるのかなとか奥さんはどんな気持ちだろうとか色々考えて――考えているうちに、浅見君がヒューボかもしれないと思ったの」

「四年前に再会した時にもうヒューボになってたってこと?」

 とりあえず尋ねた。上司のヒューボの再現率が高いことと浅見君ヒューボ説には何の関連もないけど、ニュアンス語法で攻めてくる人に理を説いても始まらない。椿と浅見君は大学時代にも数ヶ月付き合っていた。浅見君が就職で大阪に行くことになって破局したけど、二年後に再会してすぐ結婚した。その話を聞いた時、椿の愛が勝ったと思ったものだ。椿はバイトの初期から浅見君に夢中だった。浅見君が私を好きだとは気付かずに。私と浅見君が一度関係を持ったことも知らない(椿は嫉妬深いから、知っていたらこんな相談を持ちかけてはこない)。高年収で有名なナイル商事で働く椿と、二年間に三度転職して工場でヒューボや準難民を監督する職に就いた浅見君(時給換算なら最低賃金に満たない職だ)。椿は愛を得て、浅見君は金銭的な安定を得た。――二人の結婚を私はそう捉えた。少しの苦みと共に。自分の結婚と同じだったから。私も結婚で金銭的な安定を得た。

「結婚したのは本物の浅見君だよ。途中で入れ替わったんじゃないかと思うの」

「思うってどういうこと? 入れ替わりを椿は知らないの?」

 退屈なほどに常識人だと思っていた椿とこんな話をするなんて。椿は唇をすぼめて思わしげな表情になり、ためらいがちに話し始めた。

「そこがね……。何となく違和感はあったんだ。どこがとはっきりは言えないけど、浅見君が変わったような気がしてた。知らない人と向き合っているような。浅見君そっくりな顔だし、浅見君と同じように優しく話も聞いてくれる。聴く音楽も同じだし。だけどずっと違和感があった。その時は忙しさに紛れて流してしまったけど、いったん考え出すと間違いないことに思える。二年前に母が亡くなった頃だと思う、最初に違和感を覚えたのは」

「セックスは?」

 単なる興味で尋ねた。椿は嫌な顔もせずに私を見る。

「母が亡くなる前はムチャクチャな状態だったの。何度も発作を起こして、次に起こしたら終わりだと言われて――本当に辛かった。その時期にセックスをしなくなったのがきっかけで今もないんだ」

 赤裸々な子だったと思い出した。口数はさほど多くないけど、話にタブーがない。知り合った当初から何でも話した。親しみと軽く見る気持ちが同時に芽生えたものだ。私は憂いを帯びた椿の目を見つめ返した。

「うちも同じだよ。何があったわけでもないけど、夫はもともと淡泊だし」

 慰めめいたことを口にする。本音を吐き出したいだけかもしれない。

「だけどそういう変化もあって、椿もお母さんを亡くして変わっただろうから、浅見君を見る目が変わっただけじゃないのかな、もちろん浅見君の方にも変化があった前提で」

 椿はいやいやというように頭を軽く横に振る。

「自分でもそう考えてみたけど、違う気がする……」

 椿が頑固者でもあったと思い出す。ここまでやると決めると何時間でも残業した。どうして「ここまで」なのかはわかったためしがなかった。

「でも、浅見君が死んでヒューボになったことを椿は覚えていないんでしょ?」

 椿の目が一瞬泳ぐ。

「……ヒデコによると、喪失による鬱が強すぎる場合は短期記憶を失う治療をしてもらえるんだって。保険が適用されるのは高額納税者だけという話だけど――私はAレベルでも下の方だから該当するのかわからないけど、そんな話もあるみたい。それにそういう措置を取った時は住民票も元のままで保全されるとも教えてくれた。記憶を消しても死亡届が出されていたら意味ないもんね」

「元ソースは?」

 ヒデコは質問者の意を汲むのが好きなAIだから、時には平気で話を創る。耳に心地良いことをまき散らす奴だと夫はヒデコを信用していない。

「見つからなかったけど、私の検索が下手なだけじゃないかな。仕事以外ではショーインやゴーグをうまく使いこなせなくて」

 椿はどうしても浅見君がヒューボだということにしたいようだ。ヒューボである浅見君を売却or返却したいのだろうかと疑ってしまった。案外他に好きな人ができて、浅見君が邪魔になったとか? いずれにしても馬鹿げた話だ。それに、万一椿の疑念が正しかったとしても、何かが変わるとは思えない。浅見君は優しくて思いやりのある人だけど、精神が浅かった。オペラ歌手になる夢を諦めて、文学部に通いながらハードなバイトをこなす日々に疲労した私は寄りかかれる存在として浅見君を好きになりたかった。中高時代は感情の波が激しい音楽家志望の男子しか知らなかったので、浅見君のような穏やかで落ち着いた人が新鮮でもあった。でも、浅見君は恋愛の対象にはならなかった。中身のない会話しかできない人だから。芸術に興味があると言いながら、オペラを聴いてみようともしなかった。自分の知らない世界にいた私にただ憧れるだけだった。

 浅見君とは八年前にバイトを辞めて以来会っていないけど、本質は変わらないだろう。浅見君をヒューボで再現するのは簡単だ。浅見君が人間だろうとヒューボだろうと大した違いはないよと椿に言いたかった。でも代わりに、

「私は椿の考えすぎだと思うけど、何かできることがあれば言ってよ」

 そう促した。狂った理論をこれ以上聞きたくない。でも、椿は目に見えてホッとした表情になった。

「ごめんね、翠。浅見君と共通の知り合いで今でもトークを投げ合っているのは翠だけなんだ。だから、翠に浅見君と会って判断してもらいたいの。翠にも違和感があれば、浅見君に検査を受けてもらう。X線検査をすれば、ゴーグか人かはすぐわかるでしょ。今の生活を大事にしたいけど――浅見君と一緒にいる時間が好きだから。でも、本当のことが知りたい。浅見君は突然死か一気に症状が進む病気だったのかな、でないと私の記憶を消せないよね。多分母の死の前後で、私は浅見君の死を受け入れられなかったんだと思う。でも、今なら大丈夫。いくら楽しい生活でも嘘の生活は嫌だから。本当のことを知りたい」

 椿は真剣な表情で私に語りかける。Aレベル納税者ではあっても、私の中には椿を軽んじる気持ちがあった。善良な子だけど心の浅い仕事人間だと侮る気持ちが確かにあった。有能というわけでもなく真面目にがむしゃらに仕事をするしか能のない子だし、私に夢中だった浅見君と結婚した相手だもの、どうしたって甘く見てしまう。でも突然、下に見ていた椿が私を殴りつけた。彼女を妬む気持ちが沸き起こる。私には無理だ。夫に違和感を覚えたとしても、見て見ぬふりをするだろう。今の生活を失いたくない。優しく空気のような夫がいる、精神的にも金銭的にも穏やかな生活を続けたかった。どう足掻こうが何も変わらないという声が頭に響いた。夫がヒューボでも人間でもお前の世界は変わらない。今のこの生活が続くのだ。耳を塞ぎたかった。多分私自身さえヒューボとさほど違いのない存在だ。オリジナルなものは何もなく、V空間を漂う知識や感情を寄せ集めただけ。貴女はそんな風に感じることはない? その問いを口に出せずに、目の前にいる椿を見つめた。


    *


 帝国ホテルのロビーで林翠(旧姓中原)を見つけた時には遅刻を詫びる妻のトークが届いていた。僕はその旨翠に告げて、先に店に入ることにした。八年間音信不通だったにもかかわらず、僕と翠の間には気安く親しみ深い雰囲気が漂っていた。苛酷なバイトを一緒に経験した仲間という絆があるのかもしれない。人は楽しさよりも苦しみや悲しみで連帯する。浅見ゆたかになった時に僕はそんな仲間を失ったが、彼らとの縁を忘れたことはない。

 僕らは車寄せが見えるカウンター席に通された。林翠は大柄で生気に満ちた女性だった。浅見の好きなタイプ――というより、翠が原型で彼女に似た女性が好みのタイプになったのかもしれない。オペラ歌手を目指していた過去を偲ばせるところはなく、ボルドー色のスーツや目元を際立たせる化粧も家事に差し支えない程度に派遣の仕事をしているという話と調和していた。

 林翠は頭の回転が早く、浅見や椿よりも良い話し相手だったので、妻を待ちながらグラスシャンパンを飲み前菜をつまむうちに僕は『マノンレスコー』や『カルメン』の話をしていた。オペラは観たことがないが、原作は読んだ。翠の方は高校生の時にオペラに出演し、その後原作も読んだという。途中で浅見にはふさわしくない話だと気付いたが、とめられなかった。自分の生活と直接には関係ない話、盛り上がったところで一文の得にもならないような話に僕は飢えていた。会った時には芸術家めいた雰囲気はないと思ったが、話すうちに彼女が人の気をそらさない女性だと気付いた。他のことはどうでもよくなる。浅見も妻の椿も、林翠と八年ぶりに会った理由も。彼女に恋をしそうというわけではない。大衆を魅了するプリマドンナの牽引力だ――と規定するのは、僕だからかもしれないが。浅見穣は同じものを個人的に受けとめたのではないか。

 だが、半時間経つのに妻が現れないことに気付いた時、現実に引き戻された。「久しぶりに翠と三人で飲まない?」と妻に誘われた時に感じた不安が蘇る。

 僕ら夫婦は普段地元で二人きりの静かな生活を送っている。職場からの呼び出しが多いので、妻が地元を離れたがらないのだ。結婚以来、誰かを交えて外で食事をしたことがない。だから、この突然の誘いには裏があるに違いない。そう考えた僕は浅見穣に連絡を取ったが、通話を切る頃には投げやりな気持ちになっていた。今の生活を失っても別にかまいはしないと思ってしまった。だが、疑いが確信に変わりつつある今、ぼんやりとした不安が僕にまとわりつく。林翠に僕を観察させるために、妻はわざと現れずにいるのではないか。僕が浅見穣なのかどうか、林翠に判断してもらうために。しかし、翠に僕の何がわかるというのだ。そう考えると、こんなことを企てた妻にもそれに乗った翠にも静かな怒りが湧いた。八年間音信不通だった昔のバイト仲間。倉庫を駆け回る合間に切れ切れの会話をした。バイトの後のカラオケ。オペラ歌手になる夢を諦めて歌を棄てた林翠と生まれついての音痴である浅見は歌わずに話をした。他愛もない話を。そして一度だけ身体の関係を持った。――そういえば、翠の態度にはその関係を想起させるものが全くない。僕の方にもないがそれは僕が彼女と関係を持った男ではないからだ。林翠の名前を出した時、ゴーグ越しに浅見の動揺が伝わってきた。今でも彼女に未練があるわけではなさそうだが、過去の記憶が浅見の中に深く刻み込まれているのは確かだった。僕はこの場で浅見が感じる筈の心の痛みを代わりに味わう。林翠にとって自分が何者でもないと知った喪失感。それは浅見の感情であり僕には関係がないのに、痛みは確かに僕の心にあった。それと共に今この時が後退し、失った過去が僕を包み込む。僕の痛みが浅見の痛みと交じり合い、この生活と引き換えに自分が失ったものが目の前に浮かび上がった。

「砂浜を歩くと消えるんだ」

 気が付くとそう口にしていた。何を言っているんだと歯を食いしばったがもう遅い。

「どういうこと、砂浜を歩くと消えるって。何が消えるの?」

 翠が不思議そうに尋ねる。

「ヒューボだよ。彼らは自殺ができないから、代わりに砂浜を歩くと消えてどこかに行くと――もちろん都市伝説の類だがヒューボにもそんなものがあるのかと興味深かった」

 砂浜を歩きたいというのは僕の願望なのかもしれないが、自分と切り離すためにそう語った。

「ヒューボがそんなことを言うんだ?」

「職場のヒューボに聞いたんだ」

「私、ヒューボをよく知らないんだよね。夫と二人だから、ヒューボを使うほどの家事もなくて」

「職場にはいないの?」

「私は区役所の派遣だから」

 短く答えて翠が僕の様子を窺っているのがわかる。ゴーグのオート機能をつけておけばよかったと後悔した。普段は同じことの繰り返しだからオート機能は必要ない。ゴーグにオートでサポートされると、自分が誰なのか本格的にわからなくなってちぎれ飛んでしまいそうだった。

「中学生の時だっけ。ポピュリズム政党の党首が入閣した時、公的機関でのゴーグやヒューボの利用が禁止されたでしょ。敵対勢力に乗っ取られるとかそんな理由で。官公庁だけ禁止して意味あるのかわからないけど、あの法律のおかげで私は楽な仕事にありつけた」

 林翠は僕を見下す様子もなくそう説明してくれた。

「そういえばそうだった」

「浅見君、相変わらず政治ネタに疎いね。昔も前首相の名前が言えなかったもんね」

 翠が明るく笑い、僕は恥ずかしいなと言いながら息を吐いた。浅見穣の教養のなさが幸いしたわけだ。浅見になり代わるまで制限付きのゴーグで暮らしていたので、僕は過去の知識にムラがある。

「だけど、機械なのにヒューボは消えたいとか思うんだね」

「同じ世代でも個体差が大きかったよ。彼は同僚に――人間の女性に恋をしたんだ。でも人間がヒューボを好きになるわけがないと諦めて、砂浜から消えたいなんて言うわけだ。そうかと思えば、自分がヒューボだという認識がないヒューボもいた」

「自分を人間だと思い込んでいるの?」

「そういう機体の方があれこれ惑わず働けるんじゃないかな」

「アイデンティティーの安定が良き労働者を生むというわけだね」

 林翠が軽い口調で言い、僕はほほ笑んだ。こんな会話は妻とはできない。仕事の愚痴と――愚痴と――愚痴ばかり。無理もないとは思う。早朝から深夜まで働き、たまに早く帰ると呼び出しがかかる。妻が所長を務める倉庫では商品のピックアップや梱包など作業工程の大部分をヒューボがこなすが、彼らでは対処できないイレギュラーな事態も多いらしい。だが、本社の方ではヒューボ任せで人間の出る幕はないと考えているので、倉庫にはろくな人材を送ってこない、ゆえに所長である妻は休む暇もない――というわけだ。仕事が苛酷な分妻の稼ぎは良く、低賃金労働者(名ばかり正社員)である僕も何不自由ない生活を送れる。愚痴を聞くのはその生活に付随する義務のようなものだ。

 僕は妻の姿を脳裏に思い浮かべる。疲れた目をした女性。年齢よりも年上に見える彼女の外見からは内に秘めた強い意志や闘志は全く窺い知れない。浅見穣が選んだ女性。僕が選んだ女性。それから横を向いて林翠を見やる。生気に満ちた聡明な女性を。僕の視線を感じたのか翠は横を向き、僕の目を射るように見た。

「貴方もヒューボなの?」

 僕の目をまっすぐに見つめたまま翠が尋ねる。

「何だって?」

 心底驚いて訊き返した。

「自分をヒューボだと認識していない個体もいるなら尋ねても無駄なのかもしれないけど、椿はそう疑ってる」

「僕がヒューボだと?」

 僕の混じりけのない驚きが伝わったのか、翠は説明を始めた。――亡くなった上司を再現したヒューボと話したのがきっかけで、椿は心の中にあった違和感を自覚したのだと。違和感は二年前からあり、椿は夫が浅見穣ではなく彼を模したグリーフケア用のヒューボではないかと疑っている。

「疑うということは、椿ちゃんは夫が亡くなってGC用ヒューボと入れ替わったのを覚えていないんだよね?」

 僕が確認すると、

「高額納税者の特権で短期記憶を消す治療を施されんじゃないかと言ってた。夫の話では、そんな治療を受けられるのは本物の富裕層だけみたいだけど。夫はサラリーマンだけど、業務で地域の名士会に入らされているから、そういう話を聞く機会があるの」

 林翠は感情を込めずに淡々と答えた。

「君は妻の話を聞いてどう思った?」

 思わず尋ねる。林翠は楽しげに笑った。

「馬鹿げていると思った、もちろん。くだらないドラマの観すぎだって。今は知らないけど、昔は嘘っぽいドラマを観るのが椿のストレス解消法だったの。若くして難病で亡くなった恋人が蘇る話もあったよ。でも、今日浅見君に会って、根っこのところでは椿が正しいとわかった」

 彼女は僕の心までも覗こうとするような目で僕を見る。たじろいだ僕は視線を外し、車寄せを意味なく眺めた。

「どういう意味……?」

 前を向いたまま尋ねる。

「だって貴方浅見君じゃないでしょ。八年経ったからって、浅見君が『マノンレスコー』を語れるわけがない。優しくていい人だけど、中身がない人だったもの。オペラ歌手になる夢は破れたし、バイトも大変だしで浅見君の優しさにほろっとなることもあったけど、付き合う気にはなれなかったな」

 彼女の声は明るく迷いがない。僕は奥にあるものを見つめずに済んだ。

「僕が浅見穣ではなさそうだと妻に言うつもりなのか?」

 林翠は頭を大きく横に振る。

「違和感はなかったと言うつもり。椿はしばらく子どもを作る気もなさそうだし、だとしたら貴方がヒューボでも……というか、浅見君より貴方の方が面白い人だよ」

「ありがとう」

 面白いと言ってくれたことに対して礼を述べる。

「正直、椿が羨ましい。私だって夫が結婚前の夫とは別人だと感じるけど、それを突きつめる勇気はない。夫がいないと金銭的に辛いし、それに夫が別人だろうとヒューボだろうと、同じことだとも思うの。何も変わらないって」

 翠は淡々と話し始めたが途中で口調が変わり、苦さが混じった。僕は彼女を見る。その瞬間、彼女も同じだとわかった。どうなってもかまわない。どうなろうと何も変わらないと思いながら生きているのだと。おそらく今に始まったことではない。彼女の諦念の源はわからないが、かつて付き合う気のない浅見穣と一夜の関係を結んだのはきっとそのせいだ。

「一緒に砂浜を歩こうか?」

 ふと誘ってみた。

「いいね」

 林翠は小さく笑う。

「どこかに消える時、私も一緒に連れていってよ」

 僕は先に立ち上がり、翠に手を貸した。本当に夜の砂浜を歩きたかった。

 歩いても消えはしないが。僕はヒューボではない。小二まで家族と千葉市で暮らしていたが法改正によって両親は母国に送り返された。運転手だった父は二度免許停止処分を受けており、悪質異邦人と見なされたのだ。日本で生まれた僕だけが難民特区に入れられた。心身が健康で成績が良かったので、成人後は準難民として工場で働けた。真面目に生きて保証金を貯めれば準日本人になれると教わったが、当時の賃金では二十年以上かかる計算だった。

 上司だった浅見穣が同僚とホテルに行く間、彼になりすましたのは上司の覚えを良くしたかったからだ。僕は日本人ではないが見た目や声質が浅見によく似ていたし、日本語能力も浅見に劣らない。仕事面でも浅見の代わりができた。

 浅見は妻の椿を友人として好きだったが、結婚したのは金銭的に安定した生活を送るためだ。忙しい妻とはすれ違いが多く、やがて同僚と関係を結ぶようになった。浅見の妻は嫉妬深く、夫のゴーグの位置情報を常時監視していた。だから浅見は休みの日や通勤途中ではなく、勤務時間中にホテルに行くしかなかったのだ。浅見になりすました僕は彼のゴーグを着けて制限のないV空間を漂った。準難民用のゴーグではNHKニュースや環境音楽しか視聴できないので、普段はリサイクル箱で見つけた古典小説を読むのが唯一の楽しみだった。

 浅見のゴーグを通じて僕は彼の言動やパターンを学んだ。彼の妻からトークが届くと彼らしく返答したし、そのうち通話するのも平気になった。一泊二日のなりすましを受け入れたのは、給料一月分の謝礼を提示されたからだ。勘づかれるのではないかと恐れたが、問題なかった。浅見の妻のために料理を作り、彼女の話に相槌を打つうちになりすましの時間は過ぎた。

 不倫相手が妊娠した時、浅見は僕に恒久的な入れ替わりを提案した。

――妻は離婚を絶対受け入れない。千絵との関係も探り当てるだろうし、そうなったら、僕は慰謝料を貯めるまで離婚できない。子どもを私生児にするのは嫌なんだ。

 思い詰めたような顔で語る浅見を見て彼とかかわったことを後悔したが、どうしようもなかった。浅見には僕が望んだような力はなく、時給も待遇も良くはならなかったが、僕を追い落とすことはできた。差別心のない親切な上司だと思っていた浅見に「難民特区に戻りたいのか?」と言われた時、僕は自分を棄てた。

 僕はささやかな整形を経て浅見穣になり、浅見は準難民のトーゴになった。トーゴは日本人女性と結婚し、彼女が女児を出産したので準日本人に昇格した。今は、かつての浅見穣を知る人がいない福岡で暮らしている。人口減に悩むこの国では、半分でも日本人の血を引いた子どもは尊ばれる。準日本人にも多少の制約はあるが、浅見は愛を選んだわけだ。

 今の僕は準難民ではなく、かつて目指していた準日本人でもない。日本人だ。仕事は楽だし妻の稼ぎが良いので欲しいものは何でも買える。紙の古い本ではなくショーインで新刊の電子書籍を読むのが今の楽しみだ。難民特区にいた頃の友人だけでなく、準難民の仲間と比べても自分が恵まれているのはよくわかっている。努力や才能ではなく、ある日本人に似ていたというだけで僕は今の場所にいるのだ。そのことに悔いはない筈だが砂浜を歩きどこかに消えることを夢見る。その時傍らに聡明な女性がいてくれれば、言うことはない。

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