第4話 少女の相談

第四章 少女の相談


 シルフは煙管をふかしながら、路地の壁に背中を預けていた。湿った石畳から立ち上る腐臭と、どこかで焼いている羊肉の脂の匂いが鼻につく。貧民街の空気は相変わらず最悪だが、自分の家の周りだけは妙に軽い。風水とやらの効果らしいが、シルフにはどうでもいい話だった。

 金が入る。それだけが重要だ。

 午後の陽射しが強く、シルフの銀髪が汗ばんでいる。西洋人の母親譲りの髪と整った顔立ちは、この街では異様に目立つ。狭い路地には洗濯物が干され、その隙間から射し込む光が銀髪を照らしている。子供の頃から、この髪のせいで「異人の子」「魔女の息子」と罵られてきた。石を投げられたこともある。唾を吐きかけられたこともある。だが裏社会では、そんなものは何の役にも立たない。むしろ妬みを買うだけだ。シルフは煙管の灰を石畳に吐き捨てた。灰が風に舞い、汚水の溜まった溝に落ちていく。


 貧民街は今日も騒がしい。路地の奥からは女の怒鳴り声が聞こえ、どこかで赤子が泣いている。酒場からは酔っ払いの歌声が漏れ、肉屋の前では蠅が群がっていた。シルフの鼻孔に、生ゴミと人糞と汗の匂いが混ざり合って入ってくる。通りを行く人足の足音。荷を担ぐ声。犬の吠える声。全てが混ざり合って、貧民街特有の喧騒を作り出している。だが、自分の家の周りだけは空気が違う。軽くて、清々しい。まるで別世界だ。

 風水とやらのおかげらしいが、シルフにとってはどうでもいい。ただ、金が入るようになった。それだけで十分だった。


 最近は相談者とやらがうるさい。ギャンブルで儲けたい、女にモテたい、商売を当てたい——欲にまみれた野郎どもの顔を見飽きていた。

 昨日も博打狂いの中年が来た。油染みた着物を纏い、酒臭い息を吐きながら「先生、どうか」などと擦り寄ってきた。シルフは問答無用で顔面に拳を叩き込んだ。鼻血を噴き出しながら倒れた中年に、二度と来るな、と蹴りつけた。這いつくばって逃げていく背中を眺めながら、シルフは鼻を鳴らした。ざまあみろ。

 一昨日は妓楼の女衒が来た。「客足が悪い」などと抜かしやがったので、首根っこを掴んで路地の壁に叩きつけてやった。風水が欲しけりゃ、まず掃除しろ。話はそれからだ、と怒鳴りつけたら、涙目で逃げていった。

 その前の日は、商人崩れの男が来た。「商売を当てたい」と言うので、シルフは煙管の火種を男の手の甲に押し付けた。悲鳴を上げる男に、お前の商売なんざ知ったことか、と吐き捨てた。


 欲にまみれた野郎どもばかりだ。シルフは煙管をふかしながら、空を見上げた。雲一つない青空だが、貧民街の空気は濁っている。人いきれと煙と埃が混ざり合い、視界を霞ませている。


「あのう」

 細い声が聞こえた。

 シルフは煙管を口から離して、声のした方を見た。路地の入り口に、小さな影が立っている。粗末な着物を纏った少女だった。年の頃は十歳くらいか。痩せた手足が袖口や裾から覗き、栄養が足りていないのは一目瞭然だ。顔は煤けているが、目だけが妙に澄んでいる。髪は乱れ、足元は裸足だった。貧民街では珍しくもない光景だが、それでもシルフの目には痛々しく映った。

 物乞いか。シルフは舌打ちした。


「何の用だ。さっさと言え」

 シルフは煙管を腰の帯に突っ込みながら、少女を睨みつけた。少女がびくりと肩を震わせる。それでも一歩、二歩と近づいてきた。度胸だけはあるらしい。裸足の足が石畳を踏みしめる音が、静かに響いた。石畳は冷たく、湿っているはずだ。それでも少女は歩いてくる。

「あの、風水師の、お兄さんですか」

「やめろ」

 シルフは即座に遮った。銀髪を乱暴に掻き上げて、少女に向かって一歩踏み出す。

「二度とそうやって呼ぶんじゃねぇぞ、クソガキ。道士サマ方に睨まれたら、めんどくせぇことになるからな。お前も俺も、首が飛ぶぞ」

 少女の目に涙が浮かんだ。ぽろぽろと頬を伝い落ちる。小さな肩が震えている。

 シルフは面倒臭そうに鼻を鳴らした。泣かれるのは苦手だ。昔、妹がよく泣いた。病に倒れて、痩せ細っていく妹の顔が脳裏をよぎる。妹の小さな手が、シルフの指を握っていた感触を思い出す。あの頃のことを思い出したくない。シルフは煙管を取り出して、再び火をつけた。

「泣くな、うるせぇ。で、用は何だ」

 声は荒いままだったが、シルフは壁から背中を離した。少女は袖で涙を拭い、小さく息を吸い込む。

「父が、病気で」

「医者に診せろ。俺は医者じゃねぇ」

「お金が、ありません」


 シルフは煙を吐き出した。煙が少女の顔に吹きかかり、少女が咳き込む。貧民街で金がないなど当たり前の話だ。だが最近、どうでもいい野郎どもの相談ばかり受けていたところだった。ガキの相談なら、まあ、少しはマシかもしれない。

 それに、この少女は何かを握りしめている。小さな拳が震えていた。指の隙間から、何か光るものが覗いている。

「何か持ってんだろ。見せてみろ」

 シルフは煙を吐き出しながら、顎で少女の手を示した。少女は恐る恐る手を開く。掌の上に、簪が一本、陽の光を受けて鈍く輝いていた。細工は丁寧で、花の形に彫られた銀の飾りが揺れている。貧民街にはそぐわない品だ。少女の汚れた手とのコントラストが、妙に鮮烈だった。

「へえ、上等じゃねぇか」

 シルフは簪をひったくるように摘み上げて、光にかざした。重さといい細工といい、そこそこの値がつく。少女の持ち物にしては明らかに不釣り合いだった。盗品か、と思ったが、少女の様子が違う。大切そうに握りしめていた手つきが、シルフの疑念を打ち消した。

「誕生日に、買ってもらったんです」

 少女の声が震えている。

「父が、まだ軍にいた頃」


 シルフは簪を指先で弄びながら、少女を見下ろした。軍、と少女は言った。ということは、この簪は少女にとって裕福だった頃の唯一の思い出か。そんなものを差し出すほど、追い詰められているのか。シルフは簪の銀の飾りを指で撫でた。冷たく、滑らかな感触が指先に伝わる。

 シルフは簪を懐に放り込んだ。

「話せ。全部だ」

 少女は小さく頷いて、口を開いた。


 少女——小梅と名乗った——の話は、シルフが聞いていて虫唾が走るほど酷かった。

 父親の名は李。元は軍で名を馳せた軍人だったが、四年前に戦で負傷し、もう戦えなくなった。中央を追われ、貧民街に流れ着いた。そこまでは、まあよくある話だ。戦で負傷した兵士が貧民街に流れ着くのは、珍しくもない。

 問題はその後だった。

 李は酒に溺れた。毎日、朝から晩まで酒を飲み続け、小梅が雑用で稼いだ僅かな銭を全て酒代に消した。小梅は毎朝、夜明け前から街に出て、洗濯や掃除の雑用を掛け持ちしている。稼いだ銭を持って帰ると、父親が奪い取って酒場に消える。母親は病に倒れ、療養中だが、薬を買う金もない。小梅が稼いだ銭は全て父親の酒代に消え、母親は日に日に弱っていく。

「母は、咳が止まらなくて」

 小梅の声が細く震えた。

「血も、吐くようになって。でも、薬が買えません」

 シルフは煙管を噛んだ。母親の病状は、おそらく肺の病だ。貧民街ではよくある病だが、放置すれば死ぬ。薬があれば助かるかもしれないが、金がなければ薬も買えない。

「父は、毎日酒を飲んで。暴れて。私を殴って」

 小梅の頬には、古い痣があった。青黒く変色した痣が、煤けた顔に浮かび上がっている。シルフは目を細めた。


「で、お前はその簪を持ってきたってわけか」

 シルフは煙管の灰を払い落としながら言った。小梅が小さく頷く。

「父を、どうにかしたいんです。お願いします」

 小梅の目が、シルフを見上げている。澄んだ目だ。諦めていない目だ。

 シルフは煙管を噛んだまま、小梅を見下ろした。アル中の親父。シルフの父親もそうだった。あの野郎も毎日酒を飲んでは暴れ、シルフと妹を殴った。殴られた痛みは、今でも身体が覚えている。骨に響く鈍い痛み。顔を殴られた時の、頭の中で響く音。床に叩きつけられた時の、背中の痛み。妹の泣き声も、母親の悲鳴も、全てが記憶に焼きついている。母親が逃げ出したのも無理はない。あいつらはどうしようもない化け物だ。子供にとっては災害以外の何物でもない。

 シルフは煙管を吐き捨てた。石畳に当たって、火種が散る。

「アル中ってのはな、化け物なんだよ」

 シルフの声は低く、冷たかった。小梅が顔を上げる。

「ちょっとくらいインテリアを変えただけじゃ、何も変わらねぇ。あいつらは酒さえあれば、家族なんてどうでもいいんだ。お前の親父も同じだ」

「でも——」

「黙れ」

 シルフは小梅の言葉を遮った。


 だが、シルフの脳裏には、あの本——母親の遺品として届いた風水の秘伝書——に書かれていた一節が蘇っていた。黒い装丁の分厚い本。中国語で書かれた、手書きの文字。母親の筆跡だった。あの女は、風水を知っていた。そして、その知識をシルフに遺していった。

 秘伝書には、様々な風水の技が記されていた。室内の配置で運を操作する技。花や水を使って気を流す技。そして、最も強力な技——便所を清める技。


 便所を清めよ。

 厠は家の気の流れを司る。

 ここを清浄に保てば、家の全ての気が正される。

 酒毒も、病魔も、全ては濁った気から生まれる。

 便所を磨け。魂を込めて磨け。

 そうすれば、家の全てが変わる。


 シルフは鼻を鳴らした。便所掃除で人生が変わるなんて、馬鹿げた話だ。だが、今までの風水も馬鹿げていた。それでも効果はあった。ギャンブル狂いは大勝ちし、病弱な老婆は回復した。汚い酒場は大繁盛した。鉢植えの配置を変えただけで、人の運命が変わった。

 シルフは小梅を見下ろした。少女の目は、まだ諦めていない。その目が、昔の妹と重なった。妹も、最後まで諦めなかった。病に倒れても、シルフの手を握って笑っていた。

「便所だ」

「え?」

 小梅が目を瞬かせた。シルフは腕を組んで、小梅を睨みつける。

「便所を掃除しろ。肥桶を舐めても平気なくらいピカピカにだ。それを毎日続けろ」


 小梅の顔が困惑に染まった。当然だろう。便所掃除で父親の酒癖が治るなんて、誰が信じる。だがシルフは構わず続けた。

「手ぇ抜いて『効果がない』とか抜かしやがったら、その肥桶舐めさせに行くからな。覚悟しろ」

 シルフは小梅の頭を乱暴に撫でた。というより、叩きつけるように撫でた。小梅が「痛っ」と声を上げる。

「毎日だぞ。朝も、昼も、夜も。便所を磨き続けろ。肥桶も、床も、壁も。全部だ」

 シルフは煙管を取り出して、火をつけた。

「それから、居間も掃除しろ。厨房も、玄関も。家中を磨け。ゴミ一つ残すな」

 小梅が小さく頷く。その目には、まだ困惑が残っているが、諦めてはいない。

「さっさと帰れ。邪魔だ」

 シルフは小梅を路地から追い出すように、背中を押した。小梅はよろけながらも、振り返ってシルフを見る。

「本当に、治りますか」

「知るか。やってみろ」

 シルフは煙管を取り出して、再び火をつけた。煙が小梅の顔に吹きかかる。小梅は咳き込みながら、それでも頭を下げた。

「ありがとうございます」

「うるせぇ。消えろ」


 シルフは小梅が路地を去るのを見届けてから、懐から簪を取り出した。陽の光を受けて、銀の飾りが揺れている。花の形に彫られた細工が、光を反射して輝いていた。

「ガキの誕生日プレゼントか。安っぽい親父の愛情だな」

 シルフは簪を弄びながら、鼻を鳴らした。だが、懐には仕舞い直した。売るのは後でいい。今は、小梅が便所掃除をするかどうかだ。あのガキが、本当に毎日便所を磨き続けるかどうか。

 シルフは煙管をふかしながら、路地の奥へと歩いていった。石畳を踏む足音が、静かに響く。


 それから、一ヶ月の間に、いくつかの出来事があった。


 最初の出来事は、一週間後だった。

 例の女衒が、また小屋にやってきたのだ。あの時、首根っこを掴んで壁に叩きつけてやった野郎だ。シルフは煙管をふかしながら、女衒を睨みつけた。

「てめぇ、また来やがったのか」

 女衒は両手を上げて、へらへらと笑った。

「いやいや、シルフの旦那。今日は礼を言いに来たんですよ」

「礼?」

「ええ。旦那の言う通りにしたんです。毎日、妓楼を掃除して。床も壁も窓も、全部ピカピカに磨いて」

 女衒は興奮した様子で続けた。

「そしたら、売上が倍になったんですよ!客が増えて増えて、今じゃ予約待ちですよ!」

 シルフは煙を吐き出した。

「で?」

「お礼にと思いまして。うちの一番いい女をサービスしますよ。タダで」

 女衒はニヤリと笑った。

「美人で、若くて、テクニックも抜群ですぜ。旦那のお好みに——」

 シルフは女衒の顔面を掴んだ。

「あ?」

「ひっ」

 シルフは女衒を引きずって、路地の奥へと歩いた。そこには、ゴミ箱があった。生ゴミと汚物が混ざり合った、悪臭を放つゴミ箱だ。

「ちょ、待って、旦那——」

 シルフは女衒の頭を掴んで、ゴミ箱に顔から突っ込んだ。

 ゴボゴボという音がした。

 女衒の足がばたばたと暴れる。

 シルフは数秒待ってから、女衒を引き上げた。

 女衒の顔は、生ゴミまみれだった。腐った野菜と魚の内臓が、顔にこびりついている。

「二度と来んな。次来たら、そのゴミ箱に頭から埋めてやるからな」

 シルフは女衒を突き飛ばした。女衒は這いつくばって逃げていった。

 シルフは鼻を鳴らして、小屋に戻った。


 二つ目の出来事は、その数日後だった。

 シルフの家の周りに、やたらと猫が集まるようになったのだ。

 最初は一匹だった。黒い猫が、シルフの小屋の前でじっと座っていた。シルフは猫を追い払おうとしたが、猫は動かない。ただ、じっとシルフを見つめている。

「何だ、てめぇ」

 シルフは猫を蹴り飛ばそうとした。だが、猫は素早く逃げた。そして、少し離れた場所からまた座って、シルフを見つめている。

 翌日、猫は二匹になった。

 翌々日、三匹。

 一週間後には、五匹以上の猫がシルフの小屋の周りをうろついていた。

 シルフは煙管をふかしながら、猫たちを眺めた。

「風水の効果か?猫まで寄ってくんのか」

 猫たちは、シルフの家の周りの清浄な空気が気に入ったらしい。いつも小屋の周りでくつろいでいる。シルフが外に出ると、猫たちが寄ってくる。足元にすり寄ってくる猫もいる。

 そして、猫たちはプレゼントを持ってくるようになった。

 ネズミの死骸だ。

 朝、小屋の扉を開けると、ネズミの死骸が置いてあった。小さな灰色のネズミが、小屋の前に横たわっている。シルフは舌打ちした。

「いらねぇよ、こんなもん」

 シルフはネズミの死骸を拾い上げて、路地の隅に投げ捨てた。

 だが、翌日もまたネズミの死骸が置いてあった。

 その次の日も。

 猫たちは、シルフへの感謝のつもりでネズミを持ってきているらしい。だが、シルフにとっては迷惑以外の何物でもない。


 そして、三つ目の出来事。

 ネズミの死骸が、排水口に溜まり始めたのだ。

 シルフが捨てたネズミの死骸が、雨で流されて排水口に詰まった。腐ったネズミの臭いが、路地中に漂うようになった。シルフの家の周りだけは清浄な空気だったが、その周辺は悪臭に包まれた。

「クソが」

 シルフは仕方なく、どぶさらいを始めた。

 排水口に手を突っ込んで、ネズミの死骸を取り出す。ヘドロまみれの手。腐臭。シルフは顔をしかめながら、どぶをさらい続けた。手が汚れ、服も汚れた。だが、やらなければ臭いは消えない。

 シルフは一時間ほどかけて、どぶをさらい終えた。

 ネズミの死骸を全て取り出し、ヘドロも掻き出した。排水口から水が流れるようになり、悪臭も消えた。

 シルフは手を洗って、煙管に火をつけた。

「めんどくせぇ」


 だが、その日を境に、シルフに声をかけてくる女が増えた。

 通りを歩いていると、若い女が話しかけてきた。

「あの、ちょっといいですか」

 シルフは女を見た。顔立ちは整っている。化粧も濃くない。服装も上品だ。貧民街の女にしては、上等すぎる。

「何の用だ」

「あなた、シルフさんですよね。噂を聞いて」

 女は微笑んだ。

「もしよければ、お茶でも」

 シルフは煙管を取り出して、火をつけた。

「いらねぇ」

 そう言って、シルフは懐からネズミの死骸を取り出した。猫が持ってきたネズミの死骸だ。どぶさらいをしている時に、何匹か拾って持ち歩いていた。美人局かもしれねぇ。そう思って、用心のために持っていたのだ。

「ほら」

 シルフはネズミの死骸を女に差し出した。

 女の顔が青ざめた。

「ひっ」

 女は悲鳴を上げて逃げていった。

 シルフは鼻を鳴らして、ネズミの死骸を懐に戻した。


 それから数日、同じようなことが何度かあった。

 イイ女が声をかけてくる。

 シルフはネズミの死骸を差し出す。

 女は悲鳴を上げて逃げる。

 シルフは、この方法が気に入った。面倒な女を追い払うには、ネズミの死骸が一番効果的だ。

 猫たちが持ってくるネズミの死骸も、無駄ではなくなった。シルフは毎朝、ネズミの死骸を拾い集めて、懐に入れて持ち歩くようになった。


 そして、一ヶ月が経った。

 シルフは相変わらず煙管をふかしながら、路地で時間を潰していた。最近は相談者も減り、静かな日々が戻っている。恐喝や用心棒の仕事も順調だ。風水とやらのおかげか、妙に運がいい。昨日は博打で大勝ちし、一昨日は妓楼の用心棒の仕事で余分に金をもらった。

 シルフは煙管の灰を払い落としながら、空を見上げた。雲が流れている。秋の気配が、僅かに空気に混じっていた。貧民街の臭気は相変わらずだが、シルフの家の周りだけは清々しい。

 そんな午後、路地の入り口に人影が現れた。

 シルフは煙管を口から離して、顔を上げた。

 少女が立っていた。いや、少女——小梅か?


 シルフは目を細めた。一ヶ月前とは別人のようだった。粗末な着物ではなく、質の良い布地の着物を纏っている。色は淡い青で、貧民街ではまず見かけない上等な品だ。顔は洗われ、髪も綺麗に結われている。何より、頬に血色が戻り、痩せた手足にも肉がついていた。裸足だった足には、新しい草履が履かれている。

 シルフは煙管を腰に挟みながら、小梅を見た。一ヶ月前の、煤けた顔で裸足だった少女とは別人だ。まるで、貧民街の少女ではなくなったようだった。

「誰だ、お前」

 シルフは煙管を腰に挟みながら言った。少女——いや、小梅だ——が微笑んだ。本物の笑顔だった。一ヶ月前には見られなかった、澄んだ笑顔だ。

「ありがとう、風水師のお兄さん」

 小梅は深々と頭を下げた。シルフは眉をひそめる。

「だから、そう呼ぶなって言っただろうが」

 だが、シルフの声には苛立ちが混じっていなかった。むしろ、困惑していた。この変化は何だ。一ヶ月で、ここまで変わるものなのか。

「父が、酒をやめたんです」

 小梅の声が弾んでいる。

「便所を磨いたら、父が変わったんです。最初は何も変わらなかったけど、毎日毎日磨き続けたら、ある日突然、父が酒を飲まなくなって」

 小梅は言葉を続けた。


 便所を磨き始めた最初の一週間は、何も変わらなかった。父親は相変わらず酒を飲み続け、小梅を殴り続けた。だが小梅は諦めなかった。毎日、朝も昼も夜も、便所を磨き続けた。肥桶を空にして、床を磨き、壁を磨いた。ゴミ一つ残さず、全てを綺麗にした。手は荒れ、膝は痛み、腰も痛んだ。それでも小梅は磨き続けた。

 二週間目、父親の様子が少しだけ変わった。酒を飲む量が減った。まだ暴れることはあったが、以前よりも回数が減った。小梅の顔を見る目が、僅かに変わった気がした。

 三週間目、父親が便所を見て、何かを呟いた。小梅には聞こえなかったが、父親の目には何かが宿っていた。後悔か。それとも、恥か。父親は便所の前で立ち尽くし、長い間そこを見つめていた。

 そして四週間目——父親が酒をやめた。

「突然、父が泣き出したんです」

 小梅の声が震えている。

「便所を見て、泣き出して。それから、お酒を飲まなくなって」


 小梅は続けた。便所を磨いた後、居間も厨房も、玄関まで全てを美しく磨いた。すると家の空気が変わった。清々しい空気が流れ始めた。重苦しかった家の中が、軽くなった。母親の咳が止まった。血を吐くこともなくなった。母親の顔に血色が戻り、笑顔が戻った。

 父親は反省し、傭兵団に入った。昔の仲間が父親を迎え入れてくれた。父親は傭兵団で指南役として働き始め、高給取りになった。家には金が入るようになり、小梅は雑用をしなくても良くなった。母親は薬を買えるようになり、日に日に元気になっていった。

 小梅の顔には、一ヶ月前には見られなかった本物の笑顔があった。

「本当に、ありがとうございました」

 小梅は再び頭を下げた。そして懐から、小さな包みを取り出した。

「これ、父からです」

 シルフは包みを受け取って、開いた。中には、銀貨が数枚入っていた。貧民街では、かなりの額だ。

「父が、お礼にって」

 シルフは銀貨を見つめた。便所掃除で人生が変わった。馬鹿げた話だが、本当に変わった。この銀貨が、その証拠だ。

「受け取っとく」

 シルフは包みを懐に仕舞った。小梅が笑顔で頷く。

「また、困ったことがあったら、来てもいいですか」

「来るな。めんどくせぇ」

 シルフは煙管を取り出して、火をつけた。だが、その声には苛立ちが混じっていなかった。

 小梅は笑顔で頭を下げて、路地を去っていった。その後ろ姿は、もう貧民街の少女ではなかった。


 シルフは煙管をふかしながら、小梅の背中を眺めていた。質の良い着物を纏い、草履を履いた少女の背中。一ヶ月前とは、まるで別人だ。

「誰だ、あいつ。あんな身なりのいいガキは知らねぇな」

 シルフは煙を吐き出しながら、呟いた。だが、口元には僅かに笑みが浮かんでいた。すぐに消したが。

 シルフは懐から簪を取り出した。陽の光を受けて、銀の飾りが揺れている。花の形に彫られた細工が、光を反射して輝いていた。

「まあ、いいか」

 シルフは簪を懐に仕舞い直した。売るのはやめた。この簪は、小梅の誕生日プレゼントだ。父親が娘のために買った、唯一の愛情の証だ。そんなものを売る気にはなれなかった。


 シルフは煙管をふかしながら、路地の奥へと歩いていった。煙管の煙が、石畳の上を這うように消えていく。貧民街の臭気が鼻につくが、シルフの家の周りだけは清々しい。風水とやらのおかげだ。

 便所掃除で人生が変わる。馬鹿げた話だ。

 だが、風水とはそういうものなのかもしれない。

 シルフは煙管をふかしながら、貧民街の空を見上げた。相変わらず空気は臭く、陽射しは強く、人いきれが鼻につく。通りには人足が荷を担ぎ、女たちが洗濯物を干している。犬が吠え、子供が走り回っている。いつもと変わらない、貧民街の午後だ。

 だが、悪くない。

 シルフは鼻を鳴らして、路地の奥へと歩いていった。煙管の煙が、石畳の上を這うように消えていく。懐の中で、簪と銀貨が僅かに重さを感じさせた。


 貧民街のクソ野郎は、今日も生きている。

 風水とやらに翻弄されながら。

 だが、悪くない。

 シルフは煙管をふかしながら、そう思った。


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ここまでお読みいただきありがとうございます!

やっと良心的な人間が出てきましたよ!

トイレ掃除の好きな方、

健気な幼女が好きな方、

今後の展開が気になるなーと思ってくださった方など、

もしよろしければ、★や♡、コメントなどで応援してくださると嬉しいです!


次の章では小梅の父ちゃんが出てきますよ。

よろしくお願いします!

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2025年12月19日 20:00
2025年12月20日 20:00
2025年12月21日 20:00

中元国の貧民街のイケメンクソ野郎が、風水を使って成り上がります @kossori_013

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