第3話 相談
異端風水師の成り上がり
第三章 相談
朝、シルフは小屋の扉を開けた。
外の空気が、顔に触れる。冷たく、湿っていて、どこか重苦しい。貧民街特有の、腐敗と汚物と煙の混じった臭いが鼻を突く。だが、それが当たり前だ。この街で生まれ育った者にとって、この臭いこそが日常なのだ。
シルフは煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。
灰色の煙が、朝靄の中に溶けていく。
通りには、もう人影がある。早朝から働きに出る者たち。物を担いで行く荷運び人足。路地の隅で寝ている酔っ払い。いつもと変わらない光景。
だが、ふと、シルフは違和感を覚えた。
自分の小屋の前を、見知らぬ男が通り過ぎたのだ。
ゆっくりと、まるで散歩でもしているかのように。
この貧民街で、散歩?
シルフは眉をひそめた。
男は痩せこけた体つきで、服はボロボロだ。だが、その足取りには妙な軽さがある。病人のようには見えない。むしろ、どこか元気そうだ。
男はシルフの小屋の前を通り過ぎ、角を曲がって消えた。
何だったんだ、今の。
シルフは首を傾げたが、すぐに気にするのをやめた。変な奴はいくらでもいる。この街では、そんなことでいちいち驚いてられねぇ。
その日の午後、シルフは回転楼で用心棒の仕事をしていた。
二階の廊下に立ち、客と妓女たちの出入りを監視する。揉め事が起きないか、金を払わずに逃げようとする奴がいないか、目を光らせる。
廊下の窓からは、貧民街の通りが見える。
そこでシルフは、また同じ男を見た。
朝に自分の小屋の前を通り過ぎた、あの痩せこけた男だ。
男はまた、ゆっくりと歩いている。今度は違う方向から来て、シルフの小屋の周りを回っているように見えた。
何してんだ、あいつ。
シルフは煙草を灰皿に押し付け、窓から身を乗り出した。
男の後ろから、もう一人、別の男が歩いてくる。年老いた男で、杖をついている。その男も、シルフの小屋の近くで立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
まるで、空気を味わっているかのように。
そして、満足そうな顔をして立ち去った。
おかしい。
明らかにおかしい。
シルフは階段を下り、回転楼を出た。
小屋に戻ると、扉の前に人だかりができていた。
三人、いや四人。
男が二人、女が二人。
全員、シルフの小屋の周りをうろうろしている。
シルフは大股で近づいた。
「おい、てめぇら。何してやがる」
男たちは振り返った。
一人は若い男で、もう一人は中年だ。女たちも、貧民街の住人らしい粗末な服を着ている。
「あ、あんた、この家の持ち主か?」
若い男が、おどおどした様子で尋ねた。
「そうだが、何の用だ」
「いや、その、噂を聞いてな」
「噂?」
中年の男が口を挟んだ。
「この家の近くを散歩すると、体の調子が良くなるって噂だ。俺も試しに来てみたんだが、確かに空気が違う気がするんだよ」
体の調子が良くなる?
シルフは眉をひそめた。
「は?何言ってんだ」
「本当なんだよ。俺の知り合いが、ここに来るようになってから、頭痛が治ったって言ってた」
女の一人が、興奮した様子で言った。
「あたしも、腰の痛みが楽になったんだ。ここの空気、何か違うんだよ。清々しいっていうか、軽いっていうか」
シルフは煙草を灰皿に押し付けた。
そして、若い男の胸ぐらを掴んだ。
「うっぜぇな。どっか散れっつってんだろうが」
男の顔が、恐怖に歪む。
シルフは男を突き飛ばした。
男は地面に尻餅をついた。
「勝手に人んちのまわりうろうろしてやがって。次来たらぶっ殺すぞ」
女たちが悲鳴を上げた。
中年の男が、おずおずと口を開いた。
「す、すまねぇ。もう来ねぇから」
「当たり前だ。失せろ」
四人は慌てて逃げていった。
シルフは鼻を鳴らし、小屋に入った。
扉を閉め、鍵をかける。
クソが。
何だってんだ、あいつら。
だが、それで終わりではなかった。
次の日も、また誰かが小屋の周りをうろついていた。
シルフは扉を開け、その男を睨んだ。
「あん?」
男は慌てて逃げた。
その次の日も、また別の奴が来た。
今度は女だ。
シルフは女の腕を掴み、壁に押し付けた。
「てめぇも散歩か?」
「ひっ」
女は震えている。
シルフは女の顔に煙草の煙を吹きかけた。
「二度と来んな。次来たら、その綺麗な顔に傷つけてやるからな」
女は泣きながら逃げていった。
それからしばらく、シルフの小屋の周りに人は来なくなった。
ようやく静かになった。
クソったれども。
シルフは小屋の中で、風水の本を眺めた。
花を飾り、家具を整え、色を配置した。
それが、こんな結果を招くなんて。
清浄な気にあふれる、と本には書いてあった。
その清浄な気が、外にも漏れ出しているのか?
シルフには分からなかった。
だが、確かに自分の小屋の周りだけ、空気が違う気がする。
軽くて、清々しくて、どこか心地よい。
他の場所と比べれば、明らかに違いが分かる。
まさか、本当に風水の効果が外にまで及んでんのか?
その疑問は、数日後、一人の男によって答えられることになった。
荷運びの男だ。
名前は韓鉄(ハンティエ)。
シルフは時々、この男を使っていた。生活用品を買う時、いらないものを売る時、荷物を運んでもらう時。便利な男だった。腕っぷしは弱いが、口は堅く、仕事は早い。
韓鉄は小屋の扉を叩いた。
シルフは扉を開けた。
「よぅ」
「よぅ、シルフの旦那」
韓鉄は人懐っこい笑みを浮かべた。三十代半ばで、日焼けした顔には皺が刻まれている。荷運びを長年やってきた男の顔だ。
「何の用だ」
「いやぁ、実はちょっと相談があってな」
「相談?」
シルフは眉をひそめた。
韓鉄は小屋の中を覗き込んだ。
「おお、噂通りだ。ここ、本当に空気が違うな。清々しいっていうか、なんていうか」
「うるせぇ。で、相談ってのは何だ」
韓鉄は真面目な顔になった。
「あんたの家の近くを散歩すると、体調が良くなるって評判なんだ」
「知ってる。だから追い払ってんだ」
「そう言うなって。その秘訣を教えてほしいんだよ」
シルフは煙草に火をつけた。
「秘訣なんてねぇよ」
「嘘つけ。何かやってんだろ?花を飾ったり、家具を動かしたり」
韓鉄は小屋の中を指差した。
「あんた、前はこんなに綺麗にしてなかったじゃねぇか。何が変わったんだ?」
シルフは紫煙を吐き出した。
「だから何だ」
「教えてくれよ。うちのばあさんが最近体調悪くて、ここまで連れて来ることもできねえんだ」
韓鉄の声には、切実さが滲んでいた。
「医者にも診せたが、もう年だからどうにもならんって言われた。でも、もしあんたの方法で少しでも楽になるなら、試してみたいんだ」
シルフは韓鉄を見た。
男の目は真剣だった。
嘘をついているようには見えない。
シルフは溜息をついた。
早く帰らねぇかな、こいつ。
だが、韓鉄は動かなかった。
シルフは仕方なく、小屋の中に入り、風水の本を手に取った。
ページをめくる。
東に青いものを置けば、健康運が上がる、と書いてあった。
いや、待て。
もっと具体的なのがあったはずだ。
シルフは本を読み進めた。
そして、ある一節を見つけた。
「東に鉢植えを置くこと。生きた植物は、生命の気を発する。特に東の方角は、木の気を司る。そこに植物を置けば、健康と長寿をもたらす」
鉢植え。
シルフは韓鉄に振り返った。
「おい」
「何だ?」
「東に鉢植え置け」
「え?」
「婆さんの家の東側に、鉢植えを置けってことだ」
韓鉄は目を丸くした。
「それだけか?」
「それだけだ」
「本当に効果あるのか?」
「知るか。試してみろ」
シルフは本を棚に戻した。
韓鉄は困惑した顔をしていたが、やがて頭を下げた。
「分かった。やってみる。ありがとな、旦那」
「帰れ」
韓鉄は小屋を出て行った。
シルフは扉を閉め、寝台に腰を下ろした。
鉢植えなんかで、本当に効果があんのか?
分からねぇ。
だが、自分の小屋が変わったのは事実だ。
風水の本に書かれている通りにやったら、確かに運が良くなった。
なら、婆さんも良くなるかもしれねぇ。
シルフは煙草を灰皿に押し付けた。
どうでもいい。
韓鉄が何をしようが、俺には関係ねぇ。
だが、数日後、シルフの考えは変わった。
韓鉄が再び小屋にやってきたのだ。
今度は、一人ではなかった。
後ろに、背の低い老婆がいた。
婆さんは痩せていたが、目は輝いていた。声は大きく、まるで若者のように元気そうだった。
「あんたかい!あんたが韓鉄に教えてくれたのかい!」
婆さんは小屋の扉を叩いた。
シルフは扉を開けた。
「あん?」
「あんたのおかげでほら!このとおりピンピンだ!」
婆さんは両腕を上げ、ぐるりと回った。
その動きは、老人とは思えないほど軽やかだった。
「鉢植えを東に置いたら、次の日には体が軽くなってな!今じゃこの通り、どこも悪くねぇ!」
シルフは目を細めた。
「マジかよ」
「本当だよ!あたしゃもうダメかと思ってたが、あんたのおかげで生き返ったよ!」
婆さんは懐から何かを取り出した。
金色に輝く指輪だ。
「これやるからとっときな」
婆さんは指輪をシルフの手に押し付けた。
「働いて稼ぐからもういらねぇんだ。あんたに感謝の印だ」
シルフは指輪を見た。
金色の輝き。
重みがある。
偽物じゃねぇだろうな。
シルフは指輪を日の光にかざした。
刻印がある。
純金の証だ。
本物だった。
シルフは婆さんを見た。
「あの婆さん、肺病って言ってなかったか?」
韓鉄が横から口を挟んだ。
「そうなんだよ。医者には、もって数ヶ月だって言われてたんだ。でも、鉢植えを置いたら、咳が止まって、熱も下がって、今じゃこの通りピンピンしてる」
「信じられねぇ」
「俺も信じられなかった。でも、事実なんだ」
婆さんは笑った。
「あんたは命の恩人だよ。本当にありがとう」
そう言って、婆さんは韓鉄と共に去っていった。
シルフは小屋の中で、指輪を眺めた。
金の指輪。
重みがある。
これを売れば、かなりの金になる。
だが、シルフは指輪を売らなかった。
なぜだか分からないが、これは取っておくべきだと思った。
風水の力を信じる証として。
母が残した本の力を、認める証として。
シルフは指輪を棚の上に置いた。
黄色い入れ子人形の隣に。
二つの物が、薄暗い灯りの中で並んでいる。
風水の力。
本当に、あるんだな。
だが、シルフの平穏は長く続かなかった。
次の日、回転楼でいつもの同僚に声をかけられたのだ。
名前は孫達(スンダー)。
ギャンブル狂いの男で、いつも女の家を渡り歩いている。金に困っていて、よくシルフに金を借りようとする。だが、シルフは決して貸さない。返ってくるわけがないからだ。
孫達はシルフの肩を叩いた。
「なあ、シルフ」
「あん?」
「お前、最近運がいいらしいな」
「誰が言ってんだ」
「みんな言ってるよ。賭場で連勝してるって」
孫達は人懐っこい笑みを浮かべた。
「俺にもなんか教えてくれよ。秘訣があるんだろ?」
シルフは煙草を灰皿に押し付けた。
「秘訣なんてねぇよ」
「嘘つけ。絶対何かやってんだろ」
孫達は身を乗り出した。
「なあ、頼むよ。俺、最近金に困っててさ。ギャンブルで負けが続いてんだ。少しでも運が良くなる方法があるなら、教えてくれよ」
シルフは孫達を見た。
男の目には、必死さが滲んでいた。
だが、シルフは孫達が嫌いだった。
いつも女に貢がせて、ギャンブルで金を溶かして、借金を作って。そのくせ、反省もせずに同じことを繰り返す。
クソ野郎だ。
シルフは鼻を鳴らした。
「北枕にして寝ろ」
「え?」
「北枕だ。頭を北に向けて寝ろ」
孫達は首を傾げた。
「それだけか?」
「それだけだ」
「本当に効果あるのか?」
「知るか。試してみろ」
シルフは立ち去ろうとした。
だが、心の中で呟いた。
そして死ね、くそったれ。
北枕は、死者を寝かせる方角だ。
風水の本には、北枕で寝ると安眠できると書いてあったが、シルフはそれを信じていなかった。
むしろ、孫達が北枕で寝て、そのまま調子に乗って身を持ち崩せばいいと思っていた。
おまえみたいな女のケツ追っかけてるだけの腰抜け野郎は、そのまま博打で身ぐるみ剥がされて野垂れ死にでもしやがれ。
だが、シルフの期待は裏切られた。
一週間後、孫達は貧民街を出て行くと言い出したのだ。
回転楼で、孫達は興奮した様子でシルフに話しかけた。
「シルフ!お前のおかげだよ!」
「あん?」
「北枕にして寝たら、ギャンブルで大勝ちしたんだ!」
孫達は懐から札束を取り出した。
銀貨ではなく、紙幣だ。
かなりの額だ。
「これだけあれば、貧民街を出られる!俺、もうここを出て、まともな暮らしをするんだ!」
シルフは目を細めた。
「マジかよ」
「本当だよ!お前の言う通りにしたら、運が向いてきたんだ!ありがとな、シルフ!」
孫達は笑顔で去っていった。
シルフは煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、天井を見上げた。
おまえはそのまま調子にのって身を持ち崩せくそったれ。また女のケツ追っかけて全部すってんてんになって戻ってこい。
だが、心のどこかで、シルフは驚いていた。
北枕。
それだけで、本当に運が良くなったのか?
風水の力。
本当に、あるんだな。
それとも、あのクソ野郎がたまたま運が向いただけか。
それから数日が過ぎた。
シルフの評判は、少しずつ広がっていた。
韓鉄の婆さんが回復したこと。
孫達がギャンブルで大勝ちしたこと。
噂は、人々の口から口へと伝わっていった。
だが、シルフは気にしなかった。
どうでもいい。
自分の小屋が清浄な気に満ちていればそれでいい。
他の奴らがどう思おうが、知ったことか。
ある日の夕方、シルフは酒場で酒を飲んでいた。
店主の何柱(ホージュー)が、カウンターの向こうから声をかけてきた。
「よぅ、シルフ」
「よぅ」
シルフはカウンターに腰を下ろした。
何柱は五十代の男で、腹が出ていて、顔は脂ぎっている。だが、目は鋭く、商売人の目をしていた。
何柱は酒を注ぎ、シルフの前に置いた。
「飲めよ。今日はおごりだ」
「おごり?珍しいじゃねぇか」
「まぁな。実は、ちょっと相談があってな」
何柱は声を潜めた。
「お前、風水とかそういうのに詳しいんだろ?」
シルフは酒を一口飲んだ。
「誰が言ってんだ」
「噂で聞いたよ。お前に相談したら運が良くなったとか」
「知るか」
「まぁそう言うなって」
何柱は腕を組んだ。
「実はな、この酒場、最近客が減ってんだ。隣に新しい酒場ができてな、そっちに客が流れてる」
「そりゃ大変だな」
「他人事みたいに言うなよ。お前もここの常連だろ」
シルフは鼻を鳴らした。
「で、俺に何をしろってんだ」
「この酒場を繁盛させる方法を教えてくれ」
何柱は真剣な顔をしていた。
「風水とかそういうので、何かできることはないか?」
シルフは酒場を見回した。
薄暗い店内。
汚れたテーブル。
埃まみれの床。
窓は曇り、壁には染みがついている。
酒の匂いと煙草の煙が充満し、空気は重苦しい。
シルフは溜息をついた。
「こんな汚ぇ酒場で儲けなんかでるわけねぇだろ」
「何だと?」
「掃除だ、掃除」
シルフは何柱を指差した。
「毎朝這いつくばって玄関を水拭きしやがれ」
「水拭き?」
「そうだ。汚ぇおっさんたちのゲロのぶちまけられた床を水拭きして、ひと舐めしてから俺等を迎えろ」
何柱は顔をしかめた。
「ひと舐めはやりすぎだろ」
「じゃあ水拭きだけでいい。つーかてめぇがゲロ吐いて床汚してんだろうが」
シルフは煙草に火をつけた。
「それと、汚ぇ食卓に花でも飾れ」
「花?」
「そうだ。花を飾ることで、気の流れが良くなる」
シルフは紫煙を吐き出した。
「風水ってのは、環境を整えることだ。汚い場所には悪い気が溜まる。綺麗にすれば、良い気が流れる。そうすれば、客も自然と集まってくる」
何柱は腕を組んで考え込んだ。
「本当にそれで客が来るのか?」
「知るか。やってみろ。どうせてめぇの店なんざ潰れたって俺の知ったこっちゃねぇし」
シルフは酒を飲み干し、立ち上がった。
「じゃあな」
何柱は呟いた。
「水拭きと花か。まぁ、やってみるか」
それから一週間が過ぎた。
シルフは夜、酒場に行った。
だが、扉の前で立ち止まった。
中から、人々の笑い声が聞こえる。
賑やかな声。
楽しそうな声。
いつもの酒場とは、雰囲気が違う。
シルフは扉を開けた。
中に入ると、目を疑った。
店内は満員だった。
全てのテーブルが埋まり、カウンターにも人が並んでいる。
そして、何より驚いたのは、店内の様子だった。
床は綺麗に磨かれ、テーブルは拭かれ、壁の染みも落とされている。
各テーブルには、小さな花瓶が置かれ、色とりどりの花が飾られていた。
空気も、以前とは違う。
重苦しさが消え、清々しさが漂っている。
何柱はカウンターの奥で、忙しそうに酒を注いでいた。
シルフを見つけると、満面の笑みを浮かべた。
「シルフ!お前のおかげだ!」
「何だこりゃ」
「お前の言う通りにしたんだよ!毎朝玄関を水拭きして、テーブルに花を飾って!」
何柱は興奮した様子で話し続けた。
「そしたら、次の日から客が増え始めたんだ!最初は数人だったが、日を追うごとに増えていって、今じゃこの通り超満員だ!」
客の一人が、シルフに声をかけた。
「あんたがシルフか?この酒場を変えたって噂の」
「俺は何もしてねぇよ」
「いやいや、何柱の旦那から聞いたぜ。あんたのアドバイスでこの店が変わったって」
別の客も口を挟んだ。
「汚いけど美味い店として話題になってんだよ。貧民街の外からも客が来てる」
シルフは周囲を見回した。
確かに、見慣れない顔が多い。
服装も、貧民街の住人とは違う。
もっと上等な服を着ている。
中流階級の人間たちだ。
彼らが、わざわざこの貧民街の酒場に来ている。
信じられねぇ。
シルフは何柱に近づいた。
「おい、本当に俺の言った通りにしただけか?」
「ああ。毎朝水拭きして、花を飾って。それだけだ」
何柱は笑った。
「お前の言う通りだったよ。環境を整えれば、客が来る。風水ってのは、本当にすげぇな」
シルフは煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、店内を見回した。
風水の力。
本当に、あるんだな。
その夜、シルフは酒場で酒を飲んだ。
何柱は何杯でもおごってくれた。
客たちも、シルフに酒を奢った。
だが、シルフは調子に乗らなかった。
むしろ、少し不機嫌そうな顔をしていた。
なんで俺が奢られなきゃなんねぇんだ。
別に頼まれたわけでもねぇ。
勝手に掃除して勝手に繁盛しただけだろうが。
俺には関係ねぇ。
酒場を出ると、夜風が頬を撫でた。
シルフは小屋に向かって歩いた。
通りには、もう人影はない。
貧民街の夜は、静かで、冷たい。
シルフは煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、空を見上げた。
金がどんどん入ってきた。
韓鉄の婆さんからの指輪。
何柱からの礼金。
賭場での勝ち金。
全てが、シルフの懐を潤した。
だが、シルフは貧民街を出ようとは思わなかった。
ここでの生活は悪くない。
金は入るし、誰も手出しできねぇ。
なかなか気分がいいじゃねぇか。
シルフは小屋の扉を開けた。
中は、清浄な空気で満たされている。
花の香り。
整った家具。
色とりどりの物。
全てが、シルフの運命を変えた証だ。
シルフは寝台に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、天井を見上げた。
窓の外から、犬の遠吠えが聞こえた。
だが、シルフは気にしなかった。
今は、ただ心地よい疲労感に身を任せていた。
母の残した本。
風水の力。
それが、シルフの人生を変え始めている。
少しずつ。
確実に。
次の日、シルフは賭場に行った。
いつもの薄暗い場所。
煙草の煙が充満し、男たちが卓を囲んで骰子を振っている。
シルフは卓に着き、手持ちの銀貨を賭けた。
骰子が転がる。
乾いた音。
結果が出た。
シルフの勝ちだ。
一回、二回、三回。
連勝が続く。
周囲の男たちが、シルフを見る目が変わる。
羨望と嫉妬の入り混じった視線。
だが、誰も文句は言わない。
シルフの腕っぷしを知っているからだ。
そして、最近のシルフが妙に運がいいことも知っている。
シルフは金を懐にしまい、賭場を後にした。
外に出ると、路地の角で誰かが立っていた。
痩せた男だ。
顔には傷があり、目つきは鋭い。
シルフは男を睨んだ。
「あん?」
男は一歩下がった。
「いや、何でもねぇ」
そう言って、男は去っていった。
シルフは鼻を鳴らした。
最近、こういう視線を感じることが多い。
羨望、嫉妬、恐れ。
いろんな感情が混じった視線。
だが、シルフは気にしなかった。
見られるのは慣れている。
むしろ、見られることで、自分の存在感が増す。
それが、この貧民街での生き方だ。
小屋に戻ると、扉の前に誰かが座っていた。
若い女だ。
二十代前半で、顔立ちは整っている。だが、服は汚れていて、髪は乱れている。
シルフは女を見下ろした。
「何の用だ」
女は顔を上げた。
その目には、涙が浮かんでいた。
「お願いします。助けてください」
「あん?」
「私の弟が病気なんです。医者に診せたけど、治らなくて」
女は立ち上がり、シルフにすがりついた。
「あなたなら、何とかできるって聞きました。お願いします。弟を助けてください」
シルフは女を突き飛ばした。
女は地面に倒れた。
「知るか。俺は医者じゃねぇ。てめぇの弟なんざ知ったこっちゃねぇ」
「でも、風水で人を治せるって」
「治せるわけねぇだろ。勝手な噂広めてんじゃねぇぞクソ女」
シルフは扉を開けた。
「二度と来んな。次来たらその綺麗な顔ぶん殴って、そこらの男に売り飛ばしてやるからな」
「お願いします!」
女は泣き叫んだ。
だが、シルフは扉を閉めた。
女の声が、扉の向こうから聞こえる。
だが、やがて静かになった。
シルフは寝台に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、天井を見上げた。
俺は医者じゃねぇ。
風水で病気を治せるなんて、そんなわけねぇ。
韓鉄の婆さんが治ったのは、たまたまだ。
偶然だ。
俺には、そんな力はねぇ。
その夜、シルフは風水の本を開いた。
ページをめくり、読み進める。
そして、ある一節に目が留まった。
「風水とは、環境を整えることで、人の運命を変える技術である。だが、それには限界がある。風水は万能ではない。病を治すこともできるが、それは環境を整えることで、体の自然治癒力を高めるからだ。風水そのものが病を治すわけではない」
自然治癒力。
なるほど。
だから、韓鉄の婆さんは治ったのか。
鉢植えを置くことで、環境が整い、体の治癒力が高まった。
それで、肺病が治った。
だが、それは婆さんの体がまだ治癒力を持っていたからだ。
もし、完全に治癒力が失われていたら、風水でも治せない。
シルフは本を閉じた。
風水は万能じゃねぇ。
だが、それでも使える。
金になるなら、な。
シルフは寝台に横たわった。
天井を見上げる。
剥がれかけた板が、薄暗い灯りの中で揺れている。
金は入る。
賭場でも勝つ。
酒場でも酒を奢られる。
なかなか、いい気分だ。
シルフは目を閉じた。
明日もまた、同じ日々が続く。
用心棒の仕事をして、賭場で骰子を振って、酒を飲む。
時々、誰かが相談に来るかもしれねぇ。
その時は、適当に答えてやればいい。
金になるなら、な。
窓の外から、夜風が吹き込んできた。
花の香りが、部屋に広がる。
清浄な空気が、シルフを包み込む。
だが、シルフの心は、相変わらず荒れていた。
綺麗な環境に住んでいても、心は汚れたまま。
それでいい。
心を綺麗にする必要なんて、ねぇ。
生き延びて、金を稼ぐ。
それだけでいい。
翌朝、シルフは目を覚ました。
外からは鶏の鳴き声が聞こえる。
いつもと変わらない朝。
シルフは扉を開けた。
外には、誰もいなかった。
散歩に来る奴らも、暴力で追い払ってからは来なくなった。
静かでいい。
シルフは煙草に火をつけた。
紫煙を吐き出し、空を見上げた。
今日も、また同じ日々が続く。
用心棒の仕事。
賭場。
酒場。
そして、時々舞い込む相談事。
それが、シルフの生活だ。
悪くねぇ。
シルフは通りを歩いた。
誰かとすれ違う。
男は目を逸らした。
シルフを見て、怯えたようだ。
シルフはニヤリと笑った。
そうだ。
それでいい。
怖がられるくらいがちょうどいい。
シルフは回転楼に向かった。
今日も、用心棒の仕事がある。
揉め事を収めて、金を巻き上げて、夜には酒を飲む。
いつもと変わらない日々。
だが、風水が少しだけ金を運んでくる。
それだけのことだ。
路地の角で、また誰かがシルフを見ていた。
痩せた男だ。
顔には傷があり、目つきは鋭い。
シルフは男を睨んだ。
「オイコラ見てんじゃねぇぞ」
男は慌てて逃げた。
シルフは鼻を鳴らし、歩き続けた。
煙草の煙が、朝靄の中に溶けていく。
貧民街の朝は、いつもと変わらない。
だが、シルフの懐には、金の指輪がある。
賭場での勝ち金がある。
何柱からの礼金がある。
全てが、風水のおかげだ。
シルフはニヤリと笑った。
悪くねぇ。
この調子で、もっと金を稼いでやる。
誰にも頭を下げずに、好き勝手に生きてやる。
それが、シルフの生き方だ。
▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
ここまでお読みいただきありがとうございます!
シルフのことをちょっとでも好きになってくださった方
(そろそろいてもいいんじゃないかな)
これからの展開が気になるなーと思ってくださった方など
もしよろしければ、★や♡、コメントなどで応援してくださると嬉しいです!
よろしくお願いします!
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