第3話 相談

異端風水師の成り上がり



第三章 相談



 朝、シルフは小屋の扉を開けた。

 外の空気が、顔に触れる。冷たく、湿っていて、どこか重苦しい。貧民街特有の、腐敗と汚物と煙の混じった臭いが鼻を突く。だが、それが当たり前だ。この街で生まれ育った者にとって、この臭いこそが日常なのだ。

 シルフは煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。

 灰色の煙が、朝靄の中に溶けていく。

 通りには、もう人影がある。早朝から働きに出る者たち。物を担いで行く荷運び人足。路地の隅で寝ている酔っ払い。いつもと変わらない光景。

 だが、ふと、シルフは違和感を覚えた。

 自分の小屋の前を、見知らぬ男が通り過ぎたのだ。

 ゆっくりと、まるで散歩でもしているかのように。

 この貧民街で、散歩?

 シルフは眉をひそめた。

 男は痩せこけた体つきで、服はボロボロだ。だが、その足取りには妙な軽さがある。病人のようには見えない。むしろ、どこか元気そうだ。

 男はシルフの小屋の前を通り過ぎ、角を曲がって消えた。

 何だったんだ、今の。

 シルフは首を傾げたが、すぐに気にするのをやめた。変な奴はいくらでもいる。この街では、そんなことでいちいち驚いてられねぇ。


 その日の午後、シルフは回転楼で用心棒の仕事をしていた。

 二階の廊下に立ち、客と妓女たちの出入りを監視する。揉め事が起きないか、金を払わずに逃げようとする奴がいないか、目を光らせる。

 廊下の窓からは、貧民街の通りが見える。

 そこでシルフは、また同じ男を見た。

 朝に自分の小屋の前を通り過ぎた、あの痩せこけた男だ。

 男はまた、ゆっくりと歩いている。今度は違う方向から来て、シルフの小屋の周りを回っているように見えた。

 何してんだ、あいつ。

 シルフは煙草を灰皿に押し付け、窓から身を乗り出した。

 男の後ろから、もう一人、別の男が歩いてくる。年老いた男で、杖をついている。その男も、シルフの小屋の近くで立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

 まるで、空気を味わっているかのように。

 そして、満足そうな顔をして立ち去った。

 おかしい。

 明らかにおかしい。

 シルフは階段を下り、回転楼を出た。


 小屋に戻ると、扉の前に人だかりができていた。

 三人、いや四人。

 男が二人、女が二人。

 全員、シルフの小屋の周りをうろうろしている。

 シルフは大股で近づいた。

「おい、てめぇら。何してやがる」

 男たちは振り返った。

 一人は若い男で、もう一人は中年だ。女たちも、貧民街の住人らしい粗末な服を着ている。

「あ、あんた、この家の持ち主か?」

 若い男が、おどおどした様子で尋ねた。

「そうだが、何の用だ」

「いや、その、噂を聞いてな」

「噂?」

 中年の男が口を挟んだ。

「この家の近くを散歩すると、体の調子が良くなるって噂だ。俺も試しに来てみたんだが、確かに空気が違う気がするんだよ」

 体の調子が良くなる?

 シルフは眉をひそめた。

「は?何言ってんだ」

「本当なんだよ。俺の知り合いが、ここに来るようになってから、頭痛が治ったって言ってた」

 女の一人が、興奮した様子で言った。

「あたしも、腰の痛みが楽になったんだ。ここの空気、何か違うんだよ。清々しいっていうか、軽いっていうか」

 シルフは煙草を灰皿に押し付けた。

 そして、若い男の胸ぐらを掴んだ。

「うっぜぇな。どっか散れっつってんだろうが」

 男の顔が、恐怖に歪む。

 シルフは男を突き飛ばした。

 男は地面に尻餅をついた。

「勝手に人んちのまわりうろうろしてやがって。次来たらぶっ殺すぞ」

 女たちが悲鳴を上げた。

 中年の男が、おずおずと口を開いた。

「す、すまねぇ。もう来ねぇから」

「当たり前だ。失せろ」

 四人は慌てて逃げていった。

 シルフは鼻を鳴らし、小屋に入った。

 扉を閉め、鍵をかける。

 クソが。

 何だってんだ、あいつら。


 だが、それで終わりではなかった。

 次の日も、また誰かが小屋の周りをうろついていた。

 シルフは扉を開け、その男を睨んだ。

「あん?」

 男は慌てて逃げた。

 その次の日も、また別の奴が来た。

 今度は女だ。

 シルフは女の腕を掴み、壁に押し付けた。

「てめぇも散歩か?」

「ひっ」

 女は震えている。

 シルフは女の顔に煙草の煙を吹きかけた。

「二度と来んな。次来たら、その綺麗な顔に傷つけてやるからな」

 女は泣きながら逃げていった。

 それからしばらく、シルフの小屋の周りに人は来なくなった。

 ようやく静かになった。

 クソったれども。

 シルフは小屋の中で、風水の本を眺めた。

 花を飾り、家具を整え、色を配置した。

 それが、こんな結果を招くなんて。

 清浄な気にあふれる、と本には書いてあった。

 その清浄な気が、外にも漏れ出しているのか?

 シルフには分からなかった。

 だが、確かに自分の小屋の周りだけ、空気が違う気がする。

 軽くて、清々しくて、どこか心地よい。

 他の場所と比べれば、明らかに違いが分かる。

 まさか、本当に風水の効果が外にまで及んでんのか?


 その疑問は、数日後、一人の男によって答えられることになった。

 荷運びの男だ。

 名前は韓鉄(ハンティエ)。

 シルフは時々、この男を使っていた。生活用品を買う時、いらないものを売る時、荷物を運んでもらう時。便利な男だった。腕っぷしは弱いが、口は堅く、仕事は早い。

 韓鉄は小屋の扉を叩いた。

 シルフは扉を開けた。

「よぅ」

「よぅ、シルフの旦那」

 韓鉄は人懐っこい笑みを浮かべた。三十代半ばで、日焼けした顔には皺が刻まれている。荷運びを長年やってきた男の顔だ。

「何の用だ」

「いやぁ、実はちょっと相談があってな」

「相談?」

 シルフは眉をひそめた。

 韓鉄は小屋の中を覗き込んだ。

「おお、噂通りだ。ここ、本当に空気が違うな。清々しいっていうか、なんていうか」

「うるせぇ。で、相談ってのは何だ」

 韓鉄は真面目な顔になった。

「あんたの家の近くを散歩すると、体調が良くなるって評判なんだ」

「知ってる。だから追い払ってんだ」

「そう言うなって。その秘訣を教えてほしいんだよ」

 シルフは煙草に火をつけた。

「秘訣なんてねぇよ」

「嘘つけ。何かやってんだろ?花を飾ったり、家具を動かしたり」

 韓鉄は小屋の中を指差した。

「あんた、前はこんなに綺麗にしてなかったじゃねぇか。何が変わったんだ?」

 シルフは紫煙を吐き出した。

「だから何だ」

「教えてくれよ。うちのばあさんが最近体調悪くて、ここまで連れて来ることもできねえんだ」

 韓鉄の声には、切実さが滲んでいた。

「医者にも診せたが、もう年だからどうにもならんって言われた。でも、もしあんたの方法で少しでも楽になるなら、試してみたいんだ」

 シルフは韓鉄を見た。

 男の目は真剣だった。

 嘘をついているようには見えない。

 シルフは溜息をついた。

 早く帰らねぇかな、こいつ。

 だが、韓鉄は動かなかった。

 シルフは仕方なく、小屋の中に入り、風水の本を手に取った。

 ページをめくる。

 東に青いものを置けば、健康運が上がる、と書いてあった。

 いや、待て。

 もっと具体的なのがあったはずだ。

 シルフは本を読み進めた。

 そして、ある一節を見つけた。

「東に鉢植えを置くこと。生きた植物は、生命の気を発する。特に東の方角は、木の気を司る。そこに植物を置けば、健康と長寿をもたらす」

 鉢植え。

 シルフは韓鉄に振り返った。

「おい」

「何だ?」

「東に鉢植え置け」

「え?」

「婆さんの家の東側に、鉢植えを置けってことだ」

 韓鉄は目を丸くした。

「それだけか?」

「それだけだ」

「本当に効果あるのか?」

「知るか。試してみろ」

 シルフは本を棚に戻した。

 韓鉄は困惑した顔をしていたが、やがて頭を下げた。

「分かった。やってみる。ありがとな、旦那」

「帰れ」

 韓鉄は小屋を出て行った。


 シルフは扉を閉め、寝台に腰を下ろした。

 鉢植えなんかで、本当に効果があんのか?

 分からねぇ。

 だが、自分の小屋が変わったのは事実だ。

 風水の本に書かれている通りにやったら、確かに運が良くなった。

 なら、婆さんも良くなるかもしれねぇ。

 シルフは煙草を灰皿に押し付けた。

 どうでもいい。

 韓鉄が何をしようが、俺には関係ねぇ。


 だが、数日後、シルフの考えは変わった。

 韓鉄が再び小屋にやってきたのだ。

 今度は、一人ではなかった。

 後ろに、背の低い老婆がいた。

 婆さんは痩せていたが、目は輝いていた。声は大きく、まるで若者のように元気そうだった。

「あんたかい!あんたが韓鉄に教えてくれたのかい!」

 婆さんは小屋の扉を叩いた。

 シルフは扉を開けた。

「あん?」

「あんたのおかげでほら!このとおりピンピンだ!」

 婆さんは両腕を上げ、ぐるりと回った。

 その動きは、老人とは思えないほど軽やかだった。

「鉢植えを東に置いたら、次の日には体が軽くなってな!今じゃこの通り、どこも悪くねぇ!」

 シルフは目を細めた。

「マジかよ」

「本当だよ!あたしゃもうダメかと思ってたが、あんたのおかげで生き返ったよ!」

 婆さんは懐から何かを取り出した。

 金色に輝く指輪だ。

「これやるからとっときな」

 婆さんは指輪をシルフの手に押し付けた。

「働いて稼ぐからもういらねぇんだ。あんたに感謝の印だ」

 シルフは指輪を見た。

 金色の輝き。

 重みがある。

 偽物じゃねぇだろうな。

 シルフは指輪を日の光にかざした。

 刻印がある。

 純金の証だ。

 本物だった。

 シルフは婆さんを見た。

「あの婆さん、肺病って言ってなかったか?」

 韓鉄が横から口を挟んだ。

「そうなんだよ。医者には、もって数ヶ月だって言われてたんだ。でも、鉢植えを置いたら、咳が止まって、熱も下がって、今じゃこの通りピンピンしてる」

「信じられねぇ」

「俺も信じられなかった。でも、事実なんだ」

 婆さんは笑った。

「あんたは命の恩人だよ。本当にありがとう」

 そう言って、婆さんは韓鉄と共に去っていった。


 シルフは小屋の中で、指輪を眺めた。

 金の指輪。

 重みがある。

 これを売れば、かなりの金になる。

 だが、シルフは指輪を売らなかった。

 なぜだか分からないが、これは取っておくべきだと思った。

 風水の力を信じる証として。

 母が残した本の力を、認める証として。

 シルフは指輪を棚の上に置いた。

 黄色い入れ子人形の隣に。

 二つの物が、薄暗い灯りの中で並んでいる。

 風水の力。

 本当に、あるんだな。


 だが、シルフの平穏は長く続かなかった。

 次の日、回転楼でいつもの同僚に声をかけられたのだ。

 名前は孫達(スンダー)。

 ギャンブル狂いの男で、いつも女の家を渡り歩いている。金に困っていて、よくシルフに金を借りようとする。だが、シルフは決して貸さない。返ってくるわけがないからだ。

 孫達はシルフの肩を叩いた。

「なあ、シルフ」

「あん?」

「お前、最近運がいいらしいな」

「誰が言ってんだ」

「みんな言ってるよ。賭場で連勝してるって」

 孫達は人懐っこい笑みを浮かべた。

「俺にもなんか教えてくれよ。秘訣があるんだろ?」

 シルフは煙草を灰皿に押し付けた。

「秘訣なんてねぇよ」

「嘘つけ。絶対何かやってんだろ」

 孫達は身を乗り出した。

「なあ、頼むよ。俺、最近金に困っててさ。ギャンブルで負けが続いてんだ。少しでも運が良くなる方法があるなら、教えてくれよ」

 シルフは孫達を見た。

 男の目には、必死さが滲んでいた。

 だが、シルフは孫達が嫌いだった。

 いつも女に貢がせて、ギャンブルで金を溶かして、借金を作って。そのくせ、反省もせずに同じことを繰り返す。

 クソ野郎だ。

 シルフは鼻を鳴らした。

「北枕にして寝ろ」

「え?」

「北枕だ。頭を北に向けて寝ろ」

 孫達は首を傾げた。

「それだけか?」

「それだけだ」

「本当に効果あるのか?」

「知るか。試してみろ」

 シルフは立ち去ろうとした。

 だが、心の中で呟いた。

 そして死ね、くそったれ。

 北枕は、死者を寝かせる方角だ。

 風水の本には、北枕で寝ると安眠できると書いてあったが、シルフはそれを信じていなかった。

 むしろ、孫達が北枕で寝て、そのまま調子に乗って身を持ち崩せばいいと思っていた。

 おまえみたいな女のケツ追っかけてるだけの腰抜け野郎は、そのまま博打で身ぐるみ剥がされて野垂れ死にでもしやがれ。


 だが、シルフの期待は裏切られた。

 一週間後、孫達は貧民街を出て行くと言い出したのだ。

 回転楼で、孫達は興奮した様子でシルフに話しかけた。

「シルフ!お前のおかげだよ!」

「あん?」

「北枕にして寝たら、ギャンブルで大勝ちしたんだ!」

 孫達は懐から札束を取り出した。

 銀貨ではなく、紙幣だ。

 かなりの額だ。

「これだけあれば、貧民街を出られる!俺、もうここを出て、まともな暮らしをするんだ!」

 シルフは目を細めた。

「マジかよ」

「本当だよ!お前の言う通りにしたら、運が向いてきたんだ!ありがとな、シルフ!」

 孫達は笑顔で去っていった。

 シルフは煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、天井を見上げた。

 おまえはそのまま調子にのって身を持ち崩せくそったれ。また女のケツ追っかけて全部すってんてんになって戻ってこい。

 だが、心のどこかで、シルフは驚いていた。

 北枕。

 それだけで、本当に運が良くなったのか?

 風水の力。

 本当に、あるんだな。

 それとも、あのクソ野郎がたまたま運が向いただけか。


 それから数日が過ぎた。

 シルフの評判は、少しずつ広がっていた。

 韓鉄の婆さんが回復したこと。

 孫達がギャンブルで大勝ちしたこと。

 噂は、人々の口から口へと伝わっていった。

 だが、シルフは気にしなかった。

 どうでもいい。

 自分の小屋が清浄な気に満ちていればそれでいい。

 他の奴らがどう思おうが、知ったことか。

 

 ある日の夕方、シルフは酒場で酒を飲んでいた。

 店主の何柱(ホージュー)が、カウンターの向こうから声をかけてきた。

「よぅ、シルフ」

「よぅ」

 シルフはカウンターに腰を下ろした。

 何柱は五十代の男で、腹が出ていて、顔は脂ぎっている。だが、目は鋭く、商売人の目をしていた。

 何柱は酒を注ぎ、シルフの前に置いた。

「飲めよ。今日はおごりだ」

「おごり?珍しいじゃねぇか」

「まぁな。実は、ちょっと相談があってな」

 何柱は声を潜めた。

「お前、風水とかそういうのに詳しいんだろ?」

 シルフは酒を一口飲んだ。

「誰が言ってんだ」

「噂で聞いたよ。お前に相談したら運が良くなったとか」

「知るか」

「まぁそう言うなって」

 何柱は腕を組んだ。

「実はな、この酒場、最近客が減ってんだ。隣に新しい酒場ができてな、そっちに客が流れてる」

「そりゃ大変だな」

「他人事みたいに言うなよ。お前もここの常連だろ」

 シルフは鼻を鳴らした。

「で、俺に何をしろってんだ」

「この酒場を繁盛させる方法を教えてくれ」

 何柱は真剣な顔をしていた。

「風水とかそういうので、何かできることはないか?」

 シルフは酒場を見回した。

 薄暗い店内。

 汚れたテーブル。

 埃まみれの床。

 窓は曇り、壁には染みがついている。

 酒の匂いと煙草の煙が充満し、空気は重苦しい。

 シルフは溜息をついた。

「こんな汚ぇ酒場で儲けなんかでるわけねぇだろ」

「何だと?」

「掃除だ、掃除」

 シルフは何柱を指差した。

「毎朝這いつくばって玄関を水拭きしやがれ」

「水拭き?」

「そうだ。汚ぇおっさんたちのゲロのぶちまけられた床を水拭きして、ひと舐めしてから俺等を迎えろ」

 何柱は顔をしかめた。

「ひと舐めはやりすぎだろ」

「じゃあ水拭きだけでいい。つーかてめぇがゲロ吐いて床汚してんだろうが」

 シルフは煙草に火をつけた。

「それと、汚ぇ食卓に花でも飾れ」

「花?」

「そうだ。花を飾ることで、気の流れが良くなる」

 シルフは紫煙を吐き出した。

「風水ってのは、環境を整えることだ。汚い場所には悪い気が溜まる。綺麗にすれば、良い気が流れる。そうすれば、客も自然と集まってくる」

 何柱は腕を組んで考え込んだ。

「本当にそれで客が来るのか?」

「知るか。やってみろ。どうせてめぇの店なんざ潰れたって俺の知ったこっちゃねぇし」

 シルフは酒を飲み干し、立ち上がった。

「じゃあな」

 何柱は呟いた。

「水拭きと花か。まぁ、やってみるか」


 それから一週間が過ぎた。

 シルフは夜、酒場に行った。

 だが、扉の前で立ち止まった。

 中から、人々の笑い声が聞こえる。

 賑やかな声。

 楽しそうな声。

 いつもの酒場とは、雰囲気が違う。

 シルフは扉を開けた。

 中に入ると、目を疑った。

 店内は満員だった。

 全てのテーブルが埋まり、カウンターにも人が並んでいる。

 そして、何より驚いたのは、店内の様子だった。

 床は綺麗に磨かれ、テーブルは拭かれ、壁の染みも落とされている。

 各テーブルには、小さな花瓶が置かれ、色とりどりの花が飾られていた。

 空気も、以前とは違う。

 重苦しさが消え、清々しさが漂っている。

 何柱はカウンターの奥で、忙しそうに酒を注いでいた。

 シルフを見つけると、満面の笑みを浮かべた。

「シルフ!お前のおかげだ!」

「何だこりゃ」

「お前の言う通りにしたんだよ!毎朝玄関を水拭きして、テーブルに花を飾って!」

 何柱は興奮した様子で話し続けた。

「そしたら、次の日から客が増え始めたんだ!最初は数人だったが、日を追うごとに増えていって、今じゃこの通り超満員だ!」

 客の一人が、シルフに声をかけた。

「あんたがシルフか?この酒場を変えたって噂の」

「俺は何もしてねぇよ」

「いやいや、何柱の旦那から聞いたぜ。あんたのアドバイスでこの店が変わったって」

 別の客も口を挟んだ。

「汚いけど美味い店として話題になってんだよ。貧民街の外からも客が来てる」

 シルフは周囲を見回した。

 確かに、見慣れない顔が多い。

 服装も、貧民街の住人とは違う。

 もっと上等な服を着ている。

 中流階級の人間たちだ。

 彼らが、わざわざこの貧民街の酒場に来ている。

 信じられねぇ。

 シルフは何柱に近づいた。

「おい、本当に俺の言った通りにしただけか?」

「ああ。毎朝水拭きして、花を飾って。それだけだ」

 何柱は笑った。

「お前の言う通りだったよ。環境を整えれば、客が来る。風水ってのは、本当にすげぇな」

 シルフは煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、店内を見回した。

 風水の力。

 本当に、あるんだな。


 その夜、シルフは酒場で酒を飲んだ。

 何柱は何杯でもおごってくれた。

 客たちも、シルフに酒を奢った。

 だが、シルフは調子に乗らなかった。

 むしろ、少し不機嫌そうな顔をしていた。

 なんで俺が奢られなきゃなんねぇんだ。

 別に頼まれたわけでもねぇ。

 勝手に掃除して勝手に繁盛しただけだろうが。

 俺には関係ねぇ。


 酒場を出ると、夜風が頬を撫でた。

 シルフは小屋に向かって歩いた。

 通りには、もう人影はない。

 貧民街の夜は、静かで、冷たい。

 シルフは煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、空を見上げた。

 金がどんどん入ってきた。

 韓鉄の婆さんからの指輪。

 何柱からの礼金。

 賭場での勝ち金。

 全てが、シルフの懐を潤した。

 だが、シルフは貧民街を出ようとは思わなかった。

 ここでの生活は悪くない。

 金は入るし、誰も手出しできねぇ。

 なかなか気分がいいじゃねぇか。

 シルフは小屋の扉を開けた。

 中は、清浄な空気で満たされている。

 花の香り。

 整った家具。

 色とりどりの物。

 全てが、シルフの運命を変えた証だ。

 シルフは寝台に腰を下ろし、煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、天井を見上げた。

 窓の外から、犬の遠吠えが聞こえた。

 だが、シルフは気にしなかった。

 今は、ただ心地よい疲労感に身を任せていた。

 母の残した本。

 風水の力。

 それが、シルフの人生を変え始めている。

 少しずつ。

 確実に。


 次の日、シルフは賭場に行った。

 いつもの薄暗い場所。

 煙草の煙が充満し、男たちが卓を囲んで骰子を振っている。

 シルフは卓に着き、手持ちの銀貨を賭けた。

 骰子が転がる。

 乾いた音。

 結果が出た。

 シルフの勝ちだ。

 一回、二回、三回。

 連勝が続く。

 周囲の男たちが、シルフを見る目が変わる。

 羨望と嫉妬の入り混じった視線。

 だが、誰も文句は言わない。

 シルフの腕っぷしを知っているからだ。

 そして、最近のシルフが妙に運がいいことも知っている。

 シルフは金を懐にしまい、賭場を後にした。

 外に出ると、路地の角で誰かが立っていた。

 痩せた男だ。

 顔には傷があり、目つきは鋭い。

 シルフは男を睨んだ。

「あん?」

 男は一歩下がった。

「いや、何でもねぇ」

 そう言って、男は去っていった。

 シルフは鼻を鳴らした。

 最近、こういう視線を感じることが多い。

 羨望、嫉妬、恐れ。

 いろんな感情が混じった視線。

 だが、シルフは気にしなかった。

 見られるのは慣れている。

 むしろ、見られることで、自分の存在感が増す。

 それが、この貧民街での生き方だ。


 小屋に戻ると、扉の前に誰かが座っていた。

 若い女だ。

 二十代前半で、顔立ちは整っている。だが、服は汚れていて、髪は乱れている。

 シルフは女を見下ろした。

「何の用だ」

 女は顔を上げた。

 その目には、涙が浮かんでいた。

「お願いします。助けてください」

「あん?」

「私の弟が病気なんです。医者に診せたけど、治らなくて」

 女は立ち上がり、シルフにすがりついた。

「あなたなら、何とかできるって聞きました。お願いします。弟を助けてください」

 シルフは女を突き飛ばした。

 女は地面に倒れた。

「知るか。俺は医者じゃねぇ。てめぇの弟なんざ知ったこっちゃねぇ」

「でも、風水で人を治せるって」

「治せるわけねぇだろ。勝手な噂広めてんじゃねぇぞクソ女」

 シルフは扉を開けた。

「二度と来んな。次来たらその綺麗な顔ぶん殴って、そこらの男に売り飛ばしてやるからな」

「お願いします!」

 女は泣き叫んだ。

 だが、シルフは扉を閉めた。

 女の声が、扉の向こうから聞こえる。

 だが、やがて静かになった。

 シルフは寝台に腰を下ろし、煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、天井を見上げた。

 俺は医者じゃねぇ。

 風水で病気を治せるなんて、そんなわけねぇ。

 韓鉄の婆さんが治ったのは、たまたまだ。

 偶然だ。

 俺には、そんな力はねぇ。


 その夜、シルフは風水の本を開いた。

 ページをめくり、読み進める。

 そして、ある一節に目が留まった。

「風水とは、環境を整えることで、人の運命を変える技術である。だが、それには限界がある。風水は万能ではない。病を治すこともできるが、それは環境を整えることで、体の自然治癒力を高めるからだ。風水そのものが病を治すわけではない」

 自然治癒力。

 なるほど。

 だから、韓鉄の婆さんは治ったのか。

 鉢植えを置くことで、環境が整い、体の治癒力が高まった。

 それで、肺病が治った。

 だが、それは婆さんの体がまだ治癒力を持っていたからだ。

 もし、完全に治癒力が失われていたら、風水でも治せない。

 シルフは本を閉じた。

 風水は万能じゃねぇ。

 だが、それでも使える。

 金になるなら、な。


 シルフは寝台に横たわった。

 天井を見上げる。

 剥がれかけた板が、薄暗い灯りの中で揺れている。

 金は入る。

 賭場でも勝つ。

 酒場でも酒を奢られる。

 なかなか、いい気分だ。

 シルフは目を閉じた。

 明日もまた、同じ日々が続く。

 用心棒の仕事をして、賭場で骰子を振って、酒を飲む。

 時々、誰かが相談に来るかもしれねぇ。

 その時は、適当に答えてやればいい。

 金になるなら、な。


 窓の外から、夜風が吹き込んできた。

 花の香りが、部屋に広がる。

 清浄な空気が、シルフを包み込む。

 だが、シルフの心は、相変わらず荒れていた。

 綺麗な環境に住んでいても、心は汚れたまま。

 それでいい。

 心を綺麗にする必要なんて、ねぇ。

 生き延びて、金を稼ぐ。

 それだけでいい。


 翌朝、シルフは目を覚ました。

 外からは鶏の鳴き声が聞こえる。

 いつもと変わらない朝。

 シルフは扉を開けた。

 外には、誰もいなかった。

 散歩に来る奴らも、暴力で追い払ってからは来なくなった。

 静かでいい。

 シルフは煙草に火をつけた。

 紫煙を吐き出し、空を見上げた。

 今日も、また同じ日々が続く。

 用心棒の仕事。

 賭場。

 酒場。

 そして、時々舞い込む相談事。

 それが、シルフの生活だ。

 悪くねぇ。


 シルフは通りを歩いた。

 誰かとすれ違う。

 男は目を逸らした。

 シルフを見て、怯えたようだ。

 シルフはニヤリと笑った。

 そうだ。

 それでいい。

 怖がられるくらいがちょうどいい。

 シルフは回転楼に向かった。

 今日も、用心棒の仕事がある。

 揉め事を収めて、金を巻き上げて、夜には酒を飲む。

 いつもと変わらない日々。

 だが、風水が少しだけ金を運んでくる。

 それだけのことだ。


 路地の角で、また誰かがシルフを見ていた。

 痩せた男だ。

 顔には傷があり、目つきは鋭い。

 シルフは男を睨んだ。

「オイコラ見てんじゃねぇぞ」

 男は慌てて逃げた。

 シルフは鼻を鳴らし、歩き続けた。

 煙草の煙が、朝靄の中に溶けていく。

 貧民街の朝は、いつもと変わらない。

 だが、シルフの懐には、金の指輪がある。

 賭場での勝ち金がある。

 何柱からの礼金がある。

 全てが、風水のおかげだ。

 シルフはニヤリと笑った。

 悪くねぇ。

 この調子で、もっと金を稼いでやる。

 誰にも頭を下げずに、好き勝手に生きてやる。

 それが、シルフの生き方だ。


▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

ここまでお読みいただきありがとうございます!

シルフのことをちょっとでも好きになってくださった方

(そろそろいてもいいんじゃないかな)

これからの展開が気になるなーと思ってくださった方など

もしよろしければ、★や♡、コメントなどで応援してくださると嬉しいです!

よろしくお願いします!

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