第2話 遺産

異端風水師の成り上がり



第二章 遺産



 母の遺品である風水の本を手にしてから、三日が過ぎていた。

 シルフはその間、本をほとんど開かなかった。棚の上に置いたまま、時折視線を送るだけだ。革の表紙は薄暗い部屋の中で鈍く光り、まるで何かを訴えかけているようだった。だが、シルフは手を伸ばさない。

 思い出したくないからだ。

 母のこと。妹のこと。あの頃のこと。

 記憶の底に沈めておきたいものを、この本は掘り起こそうとする。ページをめくれば、母の指が触れた痕跡が残っているような気がして、シルフは目を逸らした。

 それでも、気になる。

 風水。大地の気。龍穴。

 あの本に書かれていた言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 仕事の合間に、ふと本のことを考える。賭場で骰子を振る時も、回転楼で揉め事を収める時も、酒を飲んでいる時も。常に、頭の片隅に本の存在があった。

 なぜだ。

 ただの古書じゃねぇか。

 死んだ母が残した、意味不明な本じゃねぇか。

 そう思いながらも、シルフは本に引き寄せられていた。まるで、見えない糸で繋がれているように。


 四日目の朝、シルフは目を覚ました。

 外からは鶏の鳴き声が聞こえる。貧民街の朝は早い。まだ空が白み始めたばかりだというのに、もう人々は動き出している。生きるために。今日という日を、また生き延びるために。

 シルフは寝台から起き上がり、水瓶の水で顔を洗った。冷たい水が頬を伝う。目が覚める。体が動き出す。

 粗末な朝食を済ませた後、シルフはふと棚の上の本に手を伸ばした。

 革の表紙は冷たく、指先に馴染んだ。埃を払い、膝の上に乗せる。重みがある。ただの紙と革なのに、妙に重く感じられた。

 ページを開く。

 紙の擦れる音。古い本特有の、黴と埃の混じった匂い。だが、その中に僅かに甘い香りが混じっている気がした。母が使っていた香水の匂いだろうか。いや、そんなはずはない。もう何年も前のことだ。

 シルフは読み進めた。

 最初のページには、序文のようなものが書かれている。


 「天地には気が満ち、その気は万物を生かす。気の流れを読み、気の滞りを正すこと。これすなわち風水なり」


 難しい言葉だ。シルフには、半分も理解できない。だが、読み進めるうちに、少しずつ意味が見えてきた。

 陰と陽。五行。木火土金水。それぞれが互いに影響し合い、バランスを保つことで、世界は成り立っている。

 風水とは、そのバランスを整える技術らしい。

 山の配置、川の流れ、建物の向き。全てが気の流れに関係している。そして、その気の流れを正しく導けば、人は幸福になり、国は栄える。

 逆に、気の流れが乱れれば、災いが訪れる。

 ページをめくると、こんな記述があった。


 「風水には二つの流派がある。一つは陰宅風水。墓所の配置を定め、祖先の霊を慰め、子孫の繁栄を願う。これこそが正統なり。皇帝に仕える風水師たちは皆、この道を歩む。もう一つは陽宅風水。生きる者の住まいを整え、日々の運気を高める。だが、これは中元国ではまだ異端とされる。正統派の風水師たちは、陽宅風水を邪道と蔑む。なぜなら、それは西方の魔女たちの術と混じり合って生まれたものだからだ」


 西方の魔女。

 母のことだ。

 シルフは文章を読み返した。

 陽宅風水は異端。正統派からは認められていない。

 だが、この本にはその陽宅風水が詳しく書かれている。

 母は西方の魔女だった。その母が、中元国の風水と西洋の魔術を融合させたのか。

 シルフは鼻を鳴らした。

 正統だろうが異端だろうが、知ったことか。

 効果があるなら、それでいい。


 シルフは読み進めた。

 ページの中程に、こんな一節があった。


 「龍穴とは、大地の気脈が交わる場所なり。そこに墓を建てれば、子孫は繁栄し、そこに都を築けば、国は栄える。だが、家の中にも小さな龍穴を作ることができる。家具の配置、色の使い方、物の置き方。それらを工夫することで、気の流れを整え、住む者に幸運をもたらすのだ」


 家の中で?

 シルフは顔を上げ、自分の小屋を見回した。

 傾いた壁、剥がれた床、埃まみれの家具。どう見ても、幸運が訪れるような場所には見えない。

 だが、もし本当に効果があるなら?

 もし、ほんの少しでも運が良くなるなら?

 試してみる価値はあるかもしれない。

 どうせ失うものなど、何もないのだから。


 シルフはページをめくり続けた。

 後半には、具体的な方法が書かれている。

 「西に黄色く丸いものを置けば、金運が上がる」

 「東に青いものを置けば、健康運が上がる」

 「南に赤いものを置けば、名声運が上がる」

 「北に黒いものを置けば、知恵運が上がる」

 簡単なことばかりだ。色と方角を合わせて、何かを置くだけ。

 シルフは立ち上がり、部屋を見回した。

 西の方角はどこだ?

 窓の位置から考えると、あの辺りが西になるはずだ。太陽は東から昇り、西に沈む。窓から見える夕日の位置を思い出せば、分かる。

 西の壁際に、古びた棚がある。

 黄色くて丸いもの。

 シルフは部屋の中を探した。黄色いものなんて、この貧民街にはほとんどない。服も、家具も、全てが黒ずんでいる。長年の埃と汚れで、本来の色など分からない。

 だが、ふと、便所の隅に転がっている何かを思い出した。

 シルフは便所に行き、隅を覗き込んだ。

 あった。

 黄色い木製の人形。入れ子になっている民芸品で、北方から来た商人から巻き上げたものだ。丸っこい形をしていて、正直なところ、男性器に似ている。だから、便所に放り込んでいたのだ。

 シルフはそれを拾い上げた。

 埃まみれで、表面は汚れているが、まだ黄色い塗装は残っている。丸い。これで十分だろう。

 西の棚の上に、その人形を置いた。

 丸々とした黄色い人形が、薄暗い部屋の中で妙に目立つ。シルフは鼻を鳴らし、腕を組んだ。

 これで金運が上がんのか?

 馬鹿馬鹿しい。

 だが、信じねぇまでも、試してみることはできる。


 それから数日が過ぎた。

 シルフは相変わらず、回転楼で用心棒の仕事をしていた。揉め事を収め、金を巻き上げ、夜には酒を飲む。いつもと変わらない日々だ。

 だが、ある日の夕方、シルフはいつもより多くの金を手にしていることに気がついた。

 今日はシマの上納金を受け取る日だった。シルフは回転楼の用心棒として、その一部を分け前として受け取る。いつもなら銅貨が数枚、良くて銀貨が一枚程度だ。

 だが、今日は違った。

 趙老板が持ってきた袋の中には、いつもより多くの銀貨が入っていた。

「お?今日は多いじゃねぇか」

 シルフは袋を手に取り、中身を確認した。

 趙老板は油ぎった笑みを浮かべて言った。

「いやぁ、今日は運が良かったんだよ。集金に来るはずだった劉が風邪を引いて来なくてな。だから、お前の分が増えたってわけだ」

 劉。あの痩せぎすのヤクザだ。

 来なかった?

 ということは、劉の取り分がシルフに回ってきたということか。

 シルフは袋を懐にしまいながら、鼻を鳴らした。

「へぇ。ラッキーだな」

 その言葉を口にしながら、シルフはふと、西の棚に置いた黄色い人形のことを思い出した。

 まさか。

 あんなもんで、本当に運が良くなんのか?

 偶然だろ。たまたま劉が風邪引いて、たまたま自分の取り分が増えただけだ。

 だが、シルフの心の奥で、小さな疑念が芽生えた。

 あのチンコ人形のおかげか?


 その夜、シルフは賭場に行った。

 貧民街の裏路地にある、薄暗い賭場だ。煙草の煙が充満し、男たちが卓を囲んで骰子を振っている。金が行き交い、怒号が飛び交い、時には血が流れる場所。

 シルフは卓に着き、手持ちの銀貨を賭けた。

 骰子が転がる。

 乾いた音。

 男たちの視線が、骰子に集中する。

 結果が出た。

 シルフの勝ちだ。

 一回、二回、三回。

 シルフは連勝した。手持ちの銀貨が、あっという間に十倍になった。

 周囲の男たちが、シルフを見る目が変わる。羨望と嫉妬の入り混じった視線。だが、誰も文句は言わない。シルフの腕っぷしを知っているからだ。

 シルフは金を懐にしまい、賭場を後にした。

 外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。

 心臓が高鳴っている。

 これは、偶然なのか?

 それとも、あの黄色い人形のおかげか?

 シルフは小屋に戻り、西の棚を見た。

 黄色い人形が、薄暗い灯りの中で静かに佇んでいる。

 まさか、本当に効果があんのか?


 次の日、シルフは再び風水の本を開いた。

 今度は、もっと真剣に読んだ。

 「東に青いものを置けば、健康運が上がる」

 健康運。

 シルフは特に病気をしているわけではないが、この貧民街では病気になれば死を意味する。健康であることは、生き延びるための最低条件だ。

 青いもの。

 シルフは部屋を探した。

 青い服がある。女に貢がせたものだ。使い古されて、もう着ることはないが、まだ青い色は残っている。

 他には、青い靴もある。これも女から巻き上げたものだ。

 そして、隅に転がっている青い呪い人形もある。誰かがシルフを呪おうとして、小屋の前に置いていったものだ。シルフはそれを拾い上げ、笑い飛ばした。呪いなんて信じない。

 シルフはそれらを全て、東の壁際に置いた。

 青い服、青い靴、青い呪い人形。

 妙な光景だが、誰に見せるわけでもない。

 その夜、シルフは体に異変を感じた。

 下腹部に、妙な痒みがある。

 見てみると、小さなブツブツができていた。

 呪い人形のせいか?

 シルフは苛立ちながら、呪い人形を引きちぎって捨てた。

 その瞬間、痒みが消えた。

 シルフは眉をひそめた。

 偶然か?

 それとも、本当に呪いがかかっていたのか?

 だが、考えても仕方がない。シルフは呪い人形の残骸を窓から放り投げ、寝台に戻った。


 その夜、シルフは女を買った。

 回転楼で働いている妓女の一人、梅花(メイファ)という女だ。二十代半ばで、顔立ちは整っている。だが、目には疲れが見える。この仕事を長く続けているからだろう。

 シルフは梅花を抱いた。

 一度、二度、三度。

 何度抱いても、疲れを感じなかった。

 いつもなら、一度で十分なのに。今夜は違った。体が火照り、欲望が尽きない。

 梅花は驚いた様子で、シルフを見上げた。

「旦那、今夜はすごいね」

 その言葉に、シルフは笑った。

 これも、東に青いもん置いたおかげか?

 健康運が上がったってことか?

 シルフは分からなかったが、悪い気はしなかった。


 翌朝、シルフは再び風水の本を読んだ。

 今度は、もっと詳しく読み込んだ。

 本には、こう書かれていた。


 「風水とは、山や川の配置を見て、大地の気脈を読む技術である。だが、それを一般の家庭で行うことは難しい。そこで、家の中に小さな『山』や『川』を作ることで、同じ効果を得ることができる。これを『陽宅風水』という。家具の配置、色の使い方、物の置き方。全てが、気の流れに影響を与える。西洋の魔女が、地水火風をコインやソードに象徴させて儀式を行うように、風水もまた、目に見えない力を物質に宿らせる技術なのだ」


 西洋の魔女。

 母のことだ。

 母は魔女だったと、誰かが言っていた。

 この本には、西洋の魔術の要素も混じっているらしい。

 シルフは読み進めた。

 「花を飾ることで、気の流れを整えることができる。生花は生命の気を持ち、その気が部屋全体に広がる。特に、玄関や窓辺に花を飾ることで、外からの悪い気を防ぎ、良い気を招き入れることができる」

 花。

 シルフは花など飾ったことがない。

 だが、回転楼には、客を迎えるために飾られた花がある。余った花は、毎朝捨てられる。

 それを拾えば、タダで手に入る。

 シルフは回転楼に行き、捨てられた花を拾った。

 趙老板の女房が、怪訝そうな顔でシルフを見た。

「あんた、花なんか拾ってどうするんだい?」

「うるせぇ、いいだろ別に」

 シルフは花を抱えて小屋に戻った。

 途中、何人かの男たちがシルフを見て笑った。

「おいおい、シルフが花なんか持ってるぜ」

「女にでも貢ぐのか?」

 シルフは立ち止まり、笑った男の一人を睨みつけた。

「あん?」

 そして、その男の髪の毛を一束掴み、引きちぎった。

「ぎゃあああ!」

 男は悲鳴を上げて地面に倒れた。

 シルフは髪の毛を放り投げ、他の男たちを睨んだ。

「他に何か言いてぇやつは?」

 誰も口を開かなかった。

 シルフは花を抱えて、小屋に戻った。


 小屋の中で、シルフは花を生けた。

 といっても、花瓶などない。

 シルフは空き瓶に水を入れ、そこに花を挿した。

 赤い花、黄色い花、白い花。

 色とりどりの花が、薄暗い部屋を僅かに明るくした。

 花の香りが、部屋に広がる。

 甘く、柔らかい香り。

 それは、この貧民街では決して嗅ぐことのない香りだった。

 シルフは花を眺めながら、鼻を鳴らした。

 花なんて、何の役に立つんだ。

 だが、不思議なことに、部屋の空気が少し軽くなった気がした。

 重苦しい空気が、僅かに和らいだような。


 それから、シルフは毎日のように花を拾ってきた。

 回転楼の余った花、市場で捨てられた花、路地に落ちている花。

 全てを拾い集め、小屋に飾った。

 花は次第に増えていき、小屋の中は花で溢れた。

 そして、シルフは風水の本に書かれている通りに、家具の配置を変えた。

 西に黄色いもの。

 東に青いもの。

 南に赤いもの。

 北に黒いもの。

 それぞれの方角に、適した色のものを置いていく。

 本には、家具の角が人に向かないようにすること、鏡を玄関に向けないこと、寝台の位置を窓から離すこと、などの細かい指示も書かれていた。

 シルフはその全てを実行した。

 家具を動かし、物を配置し直し、掃除をする。

 掃除。

 シルフが掃除をするなど、今まで一度もなかった。

 だが、風水の本には、「清潔な環境でなければ、良い気は流れない」と書かれていた。

 シルフは仕方なく、床を掃き、壁を拭き、埃を払った。

 汗が額を伝う。

 体が動く。

 普段は使わない筋肉が、悲鳴を上げる。

 だが、不思議なことに、悪い気分ではなかった。


 数週間が過ぎた。

 シルフの小屋は、見違えるほど変わっていた。

 床は掃き清められ、壁は拭かれ、家具は整然と並んでいる。

 花が飾られ、色とりどりの物が方角に合わせて配置されている。

 そして、何より驚くべきことに、部屋の空気が変わっていた。

 重苦しさが消え、清々しさが漂っている。

 まるで、ここだけが別世界のようだった。

 貧民街の他の場所は相変わらず陰鬱で、悪臭が漂い、絶望が渦巻いている。

 だが、シルフの小屋だけは違った。

 清浄な空気が流れ、心が落ち着く空間になっていた。

 シルフ自身、その変化に驚いていた。

 本当に、風水には効果があんのか?

 それとも、ただの気のせいか?

 シルフには分からなかった。

 だが、一つだけ確かなことがあった。

 金運が上がった。

 賭場で勝つ回数が増え、仕事での分け前も増えた。

 偶然かもしれねぇ。

 だが、偶然にしちゃ、あまりにも続きすぎてる。


 ある日、シルフは回転楼で趙老板に声をかけられた。

「よぅ、シルフ。最近、お前の小屋がやたらと綺麗になってるって噂だぜ」

「あん?誰がそんなこと言ってんだ」

「いやぁ、路地の連中がな。お前の小屋から花の香りがするとか、妙に空気が清々しいとか」

 趙老板は油ぎった笑みを浮かべた。

「まさか、女でもできたのか?」

「うるせぇ。そんなんじゃねぇよ」

 シルフは煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。

 趙老板は肩を竦めた。

「まぁ、いいけどな。だが、気をつけろよ。妙なことをしてると、変な噂が立つからな」

「知ったことか」

 シルフは立ち去ろうとした。

 だが、趙老板が声をかけた。

「そういえば、お前の母親、西方の魔女だったんだってな」

 シルフの足が止まった。

 振り返ると、趙老板が意味深な笑みを浮かべていた。

「魔術とか、そういうのを使ってたんだろ?お前もその血を引いてるんじゃないのか?」

「だったら何だ」

「いや、別に。ただ、最近のお前は妙に運がいいみたいだからさ。もしかして、母親から何か受け継いだんじゃないかと思ってな」

 シルフは鼻を鳴らした。

「んなわけねぇだろ」

 だが、心の奥で、シルフは思った。

 もしかしたら、母はこの風水の本を通して、何かを伝えようとしていたのかもしれない。

 西洋の魔術と、中元国の風水。

 二つの異なる文化が、この本の中で融合している。

 そして、その本を使うことで、シルフの運命が変わり始めている。

 母は、何を考えてたんだ。

 なぜ、この本を俺に残したんだ。


 その夜、シルフは小屋に戻り、風水の本を開いた。

 ページをめくる音が、静寂の中に響く。

 シルフは本を読み進めた。

 そして、ある一節に目が留まった。


 「風水とは、運命を変える技術である。だが、それは単に物を置くだけではない。心を整え、環境を整え、行動を整える。その全てが揃って初めて、真の風水となる。物を置くことは、その第一歩に過ぎない。次に必要なのは、自らの心を見つめ、自らの行いを正すことだ」


 心を整える。

 行いを正す。

 シルフは顔をしかめた。

 そんな綺麗事、この貧民街で通用すんのか。

 心を整えたって、腹は膨れねぇ。

 行いを正したって、金は手に入らねぇ。

 だが、シルフは読み続けた。


 「風水師とは、ただ物を置く者ではない。人々の運命を導く者である。大地の気を読み、天の意志を受け取り、それを人々に伝える。そのためには、自らが清らかでなければならない。汚れた心では、清らかな気を受け取ることはできない」


 清らかな心。

 シルフには、そんなもんはねぇ。

 だが、ふと、シルフは自分の小屋を見回した。

 清潔な床、整然と並んだ家具、飾られた花。

 この空間だけは、確かに清らかだ。

 そして、その清らかさは、シルフ自身が作り出したもんだ。

 もしかしたら、自分の心も、少しずつ変わってんのかもしれねぇ。

 そう思った瞬間、シルフは鼻を鳴らして頭を振った。

 馬鹿馬鹿しい。

 自分が変わるなんて、あるわけねぇ。

 クソ野郎はクソ野郎のままだ。


 だが、シルフの心の奥底では、何かが変わり始めていた。

 小さな、ほんの小さな変化。

 それは、まるで種が芽を出すように、静かに、だが確実に、シルフの中で育ち始めていた。

 母が残した風水の本。

 それは、ただの本ではなかった。

 母からシルフへの、最後のメッセージ。

 そして、シルフの人生を変える、最初の鍵だった。


 シルフは本を閉じ、棚の上に戻した。

 窓の外からは、貧民街の喧騒が聞こえてくる。

 酔っ払いの怒鳴り声、女の笑い声、犬の遠吠え。

 いつもと変わらない夜。

 だが、この小屋の中だけは、静かで、清らかだった。

 シルフは寝台に横たわり、目を閉じた。

 明日もまた、同じ日々が続く。

 だが、その日々の中に、少しずつ変化が生まれている。

 シルフは、まだそれに気づいていなかった。

 だが、やがて気づく日が来るだろう。

 自分が、変わり始めていることに。

 そして、その変化が、シルフを成り上がりへと導くことに。


 シルフの小屋に置かれた黄色い入れ子人形は、薄暗い灯りの中で静かに佇んでいた。

 その丸い形は、確かに男性器を思わせる。

 だが、今のシルフには、それがただの下品な民芸品ではなく、金運を呼び込む風水の道具に見えた。

 便所に転がしていたものが、今では西の棚の上で、シルフの運命を変える役割を担っている。

 人生とは、不思議なものだ。

 ゴミだと思っていたものが、宝になる。

 捨てようとしていたものが、救いになる。

 母が残した本も、そうだった。

 最初は、ただの古ぼけた書物にしか見えなかった。

 だが、今では、シルフの人生を変える可能性を秘めた、かけがえのないものになっている。


 数日後、シルフは再び劉に会った。

 路地の角で、劉が煙草を吸っていた。

 シルフは近づき、声をかけた。

「よぅ、劉。この前は風邪で休んだんだってな」

 劉は顔を上げ、シルフを見た。

 その顔には、まだ疲れが残っている。

「ああ。ひどい風邪でな。三日も寝込んじまった」

「そのおかげで、俺の取り分が増えたぜ。ありがとな」

 シルフは笑った。

 劉は苦笑いを浮かべた。

「くそ、シルフの野郎。まるで俺が風邪を引くのを待ってたみたいな言い方だな」

「待ってたわけじゃねぇが、結果的にはラッキーだったな」

 シルフは煙草に火をつけ、紫煙を吐き出した。

 劉は首を振った。

「お前、最近やたらと運がいいらしいな」

「あん?」

「賭場でも連勝してるって聞いたぜ。何か秘訣でもあるのか?」

 シルフは一瞬、黄色い入れ子人形のことを思い出した。

 だが、口には出さなかった。

「秘訣なんてねぇよ。ただの運だ」

「そうか。まぁ、いいけどな」

 劉は煙草を灰皿に押し付け、立ち去ろうとした。

 だが、振り返ってこう言った。

「気をつけろよ、シルフ。運がいいってのは、妬まれる原因になる。この街じゃ、目立つやつは潰されるからな」

 その言葉に、シルフは鼻を鳴らした。

「潰したけりゃ潰してみろ。返り討ちにしてやる」

 劉は肩を竦めて去っていった。


 シルフは小屋に戻り、風水の本を開いた。

 もっと読み込まなければ。

 もっと知識を得なければ。

 この風水という技術を、完全に自分のものにしなければ。

 シルフの心の中で、新しい目標が芽生え始めていた。

 ただ生き延びるだけではなく。

 ただ金を稼ぐだけではなく。

 成り上がる。

 この貧民街を抜け出して、都の中心で生きる。

 立派な屋敷に住み、美味い飯を食い、誰にも頭を下げずに生きる。

 幼い頃に抱いていた夢。

 妹に約束した、あの夢。

 それを、今度こそ実現する。

 風水の力を使って。

 母が残してくれたこの本を使って。


 シルフは本を読み続けた。

 夜が更け、外の喧騒が静まっていく。

 だが、シルフの心は静まらなかった。

 燃えるような情熱が、胸の奥で燃え上がっていた。

 これが、シルフの人生を変える第一歩だった。

 母の遺産。

 それは、ただの古書じゃなかった。

 未来への扉を開く、鍵だった。


 そして、シルフは知らなかった。

 この風水の本が、やがてシルフを異端の風水師へと導くことを。

 正統な風水師たちが決して認めない、独自の道を歩ませることを。

 だが、それはまだ先の話だ。

 今は、ただ一歩ずつ、前に進むだけ。

 この貧民街から、抜け出すために。

 成り上がるために。


 シルフは本を閉じ、寝台に横たわった。

 天井を見上げる。

 剥がれかけた板が、薄暗い灯りの中で揺れている。

 だが、シルフの目には、もう天井は見えていなかった。

 見えているのは、遥か彼方の未来。

 輝かしい未来。

 成り上がった自分の姿。

 それが、はっきりと見えていた。


 外からは、犬の遠吠えが聞こえた。

 貧民街の夜は、相変わらず陰鬱で、冷たい。

 だが、シルフの心は、燃えていた。

 熱く、激しく、燃え続けていた。

 この炎が消えることは、もうねぇ。

 シルフは、そう確信していた。


 そして、シルフの小屋の中だけは、清浄な空気が流れ続けていた。

 花の香り、整った家具、色とりどりの物。

 その全てが、シルフの運命を変える力を持っていた。

 だが、その力を最も汚しているのは、他でもないシルフ自身だった。

 清浄な空間に、汚れた心を持つ男が住んでいる。

 その矛盾こそが、シルフの本質だった。

 だが、やがてその矛盾も、解消される日が来るだろう。

 シルフが本当の意味で変わる日が。

 それは、まだ遠い未来の話だが。


▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

ここまでお読みいただきありがとうございます!

シルフのことをちょっとでも好きになってくださった方

(第一話に引き続きあんまりいないかな)

これからの展開が気になるなーと思ってくださった方など

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よろしくお願いします!

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