限界アラサーOL、余命3年の女子中学生を拾い、ダメにされる
ほづみエイサク
第1話 切った
もう、好きに、死ねよ。
口からついて出て、はじまった。
前向きになれた
時計の音から、耳を塞ぎたい。だけど、手を止められない。
均一的で、熱がない、モニターの光。私の瞳は、瞬きも忘れて、見つめ続けている。
ネイルもしていない指先は、まるで強行軍に疲れ果てた軍人みたいに、ヨタヨタとキーボードを叩く。
私が立ち向かっている作業は、歩くよりも単純だ。
書類を見て、データを打ち込み、整理する。それだけ。
普段通りの作業だし、これだけなら、心を無にして進められる。
だけど、今はひたすら、時間がない。
終電まで30分。
駅までは10分。
タイムリミットは、のこり20分。
終電を逃したら、最後だ。ネカフェに泊まる夜が待っている。それだけは嫌だ。絶対に、嫌だ。想像するだけでも、肌が
アイツがいるのだ。
干からびかけたミミズのような指で、私の腰を撫でまわした――あの店員が。
まるで、土の中に埋められる気分だった。
全身が冷たくて動かなくて、見えない何かに食べられていくような……。
指の感触は、まだ許容できる。
この体は、はっきりと、美しくない。顔立ちも平凡以下だ。
色白が七難を隠しているだけで、魅力のかけらもない。
あの男は、この汚物を前に、なぜ欲情できるのか。不気味で、
思い出したせいで、帰りたい欲が湧き上がってくる。
シャワーを浴びて、アイスを食べて、アニマルビデオに癒され、裸で惰眠を貪りたい。
だけど、この資料は絶対に、終わらせる必要がある。
私はこの会社でしか、生きていけない。
どんなに嫌なことがあっても。
つくづく、身に染みる。
過去が、自分自身を苦しめていると。
「……ちっ」
ストレスのせいか、右のまぶたが、ピクリと動いた。
最初はわずかな動きだったけど、それは地震の初期微動のようなもので、徐々に
最初は、無視しようとする。だけど、ピクピクと動く視界の鬱陶しさに、我慢の限界に達した。
顔全体を、手のひらでほぐしていく。次は頭皮。最後に、目の周りを指の先で押す。筋肉のこわばりがとれ、まぶたは静かになった。
でも、まだだ。
心地よさにかまけて、さらにマッサージを続ける。パフォーマンスを維持するため。自分に言い訳しながら、満足がいくまで繰り返した。
「……ふぅ」
一息つき、モニターに向き直って、タタタとキーボードを叩く。
指が軽い。
視界がボヤけていない。
さっきまでとは、作業効率が段違いだ。
この調子なら、間に合う。
意気揚々と、モニター端の時刻に目をやって、指が止まった。
「……え?」
マッサージにかけた時間は、1分か、2分ぐらい。そう、誤認していた。
意識が飛んでいたのか、それとも体内時計が壊れているのか、わからない。
あるのは、現実。
すでに終電の時刻が過ぎているという、現実だ。
状況が飲み込めるまで、呆然とするしかなかった。
「……死ねよ」
いつも、こうだ。
時間は、待たない。私はどんくさい。
時計が笑っている。
カチ、カチ、カチ。勝ち。時計の勝ち。
彼の声は、私の耳に届いている。
ほら、僕の予想通りになったじゃないか。
理不尽だったよね。
見たことない資料を持ち出して『今日までにやってと言ったでしょ』って。
あの、お
自分は仕事ができて、社員は全員無能だと思っているよ。
他もひどいよね。
怒鳴りっぱなしの課長。
やる気もなかったくせに、産休中の後輩。
私用の命令を平気でする、社長一族。
こんなところ、会社じゃない。
もう、資料なんて放り出しちゃおうよ。
え、一日中、怒られるって?
仕方ないじゃん。
君は忘れてたんだもん。
きっと、言われた事実も、忘却していたんだ。
君は、あのお局より、無能なんだ。
有名な女子大を卒業した彼女は、高校中退の君なんかより、何倍ものモノを知っていて、
みんなも思っているよ。
恵巳だって、わかっているだろ?
どんくさい恵巳。
中退の恵巳。
もう32歳なのに、平社員の、恵巳ちゃん。
「…………クソっ」
切り替えないと。
時計の言葉は無視。
過ぎたことは仕方ないでしょ。
悩んでいる時間は、クソ。
通勤中に流し読みした、『デキる女の条件百選』にも書いてあった。
デスクの引き出しを開けて、ハンドクリームを取り出す。
フタを開けるだけで漂う、バラの香り。胸が軽くなって、温かいため息が漏れる。
私のお気に入り。ささくれた心を癒してくれる、魔法のアイテム。
「……ぁ」
絞り出そうとした瞬間、察した。
中身が残っていない。
いや、いやいや。切り開けば、1回分はかき集められるはず。
ハサミは産休中の後輩に貸しっぱなしだから、カッターを使うしかない。
隣のデスクを殴りたい気持ちを抑えながら、スライダーを動かしていく。
カチ、カチ、カチ。自然と、時計と同じリズムを刻んだ。
刃が露出すると、実感する。
カッターは、刃物だ。私は刃物を握っている。
生唾を飲み込みながら、ハンドクリームを、引き裂く。
中身がうまく出てこなくて、何度も突き刺した。
「あれ……?」
違和感をおぼえて、困惑した。
出てきたハンドクリームが、ゆるい。公園の水飲み場みたいに、あふれ出ている。
ハッとした時には、手遅れだった。
私が切っていたのは、ハンドクリームのチューブじゃない。
自分の、手首だ。
太い血管を破ったのか、血の流れが、とめどない。
ぬるい液体が、よれたスーツの繊維の隙間を流れ、タイツを伝い、ローファーの表面を滑り、床へと広がっていく。
めまいを覚えて、思い出す。私の血は無限ではないし、貧血気味だ。
血の、ねばりつくような、鉄の匂い。
体が凍り、両耳の穴がつながったような、けたたましい耳鳴りが、響く。
まぶたが痙攣して、ついに立てなくなり、私はひざを折った。
血の池に座り込むと、自らの温もりだったものが肌に沁みて、不快感で顔が歪む。
ああ。
この感触はまるで、高校でやってしまった、おもらしみたい。
心の中で、おむつを幾重にも重ねて覆い隠していた過去。虚しいだけの感情があふれて、横漏れした。
「…………あは、あはは……あひゅっ……」
上手に笑えなくて、涙も出てこない。
体が、脱力感で満たされていく。
ねえ。
もういいじゃん、私。
明日って、なに?
なんで、苦しいのに、生きてるの? バカなの?
終わりだよ。全部終わり。
くだらない。
アホ。
クソ。
本当。
全部、どうでもいい。
パワハラ上司も、クソ店員も。私の体も、心も。気持ちを受け入れなかった、あの子も……。
お願いだから、さ。
全部、ハンドクリームになってよ…………。
―――――――――――――――――
この物語は、法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません
また、自死を肯定するものでもありません
毎日12:21投稿予定です。休載する場合は、近況ノートで連絡予定。
次の更新予定
毎日 12:21 予定は変更される可能性があります
限界アラサーOL、余命3年の女子中学生を拾い、ダメにされる ほづみエイサク @urusod
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