第4話:錯綜
営業の数時間前。まだ店主も来ていない、そんな束の間の休息とも言える時間。突然、Cが立ち上がる。
「僕、ちょっとテーブルとか椅子とか拭いてくる」
「え? 今から? まだ流石に早いんじゃねぇか、あいつも来てねぇし」
「だからだよ! 先に用意して、店主さんを驚かせるんだ! 君もやる?」
「あー、お前のためになるならやりたいんだが……。ちょっとこれがあるから動けねぇんだ」
「……じゃあ、外すよ。プラグは無理だけど釘ぐらいなら。それで、店主さんが戻ってくるまでにここに元通りにしておけば多分大丈夫だと思う」
彼は意識を集中させた素振りを見せると、指から微量の稲妻を出し、釘付近の壁を少し抉った。開いた隙間に指を突っ込ませ、壁を足で押しながらなんとかそれを引き抜く。Nは立ち上がり、息切れしているCを見ながら言葉を漏らす。
「お前、俺がこのまま外に逃げるってことも考えなかったのか?」
「……え、逃げるの? 手伝うんじゃなくて?」
「いや、逃げないけど。お前、ちょっと単純すぎるぞ。いつかなんか馬鹿でかいことに騙されても俺知らねえからな」
「そ、そっか。そういうこともあるんだ。あはは……後輩に心配されちゃうなんて」
二人で倉庫を出て、そのまま扉を開けてカウンターへと向かった。やはり伽藍堂の店内。ランタンや松明の火がまだ着いていないが、ある程度視界が担保されているのはいつもと違ってまだ日が落ちきってない時間帯だからだろうか。Cが水道を捻り、カウンター下にあるバケツを取り出して水を汲んでいく。その水に倉庫から持ってきた雑巾を入れ、水が切れるまで絞るのを繰り返す。電池ながら水に対しての耐性があるのは、恐らく表面を金属で加工していることの恩恵だろう。Nもその彼の背中を見て、ダオームのためにではなく目の前のCというライクアのために手を動かしていく。水を切り終わったら、二人は店内の端で腰を落とし、まずは床の雑巾掛けを始めていった。勤務中に落ちた瓶を拾うような感覚と似ている。だが、今回の目的は床をただ雑巾で通ることではなく、掃除をすることなのだ。Cと話し合いながら床を拭いては、水でもう一度濡らして絞り、拭いては絞りを繰り返す。床が終われば次はそこら中に立ち並ぶテーブルや椅子を拭き始めた。脚の先端や座面、天板など気にするかどうかまで分からないところをCに促されて擦る。正直、最初の方は意気込んでいたものの、時間が経つにつれて日々の損傷の影響もあってか、全体的に疲労が蓄積されてきたのを感じた。それでも、遠目に見る彼の掃除をしている姿は、なんだか今までよりも生き生きしている気がしてNは自分の動きを止めることはしなかった。彼の双眸から伝わってくる感情。それはどこか自主的で、Nが求める自由なライクアという像に不思議と近いように思えて。
掃除が終わり、雑巾を絞る中、隣でCは酒の瓶が入った棚を見上げていた。水を切って雑巾をシンクにかけた後、Nは彼に声をかける。
「何やってんだ?」
「え? ああ、ちょっとどこにどのお酒があるのかっていうのを、もっかいちゃんと見返しておこうと思って。ほら、昨日ミスっちゃったじゃん。僕、忙しくなるとついパニックになっちゃうタイプだからさ」
「ペンとか紙とか使わなくていいのか。探せばあんだろ?」
「ああ、大丈夫! それはやっぱ人間様のものだから使っちゃうと怒られちゃうし、何より今はもう暗くてほとんど見えないし」
気づいたら、彼の言う通り店内は闇に包まれていた。辛うじてライクアの体から発される青い光が辺りを照らし、目の前の酒棚の前列の瓶を見やすくするほどの視界は担保されているが。
「あれ? そういえば、今何時だ?」
「確かに。ちょっと見てくる、ってあ! もう十九時三十分になってた! やばい、大体開店一時間前の二十時には店主さん来ちゃうから……。えーっと、そうだNを元の状態をしておかないと!」
「よし、一旦倉庫に戻ろう。それで、あとはお前に頼む」
「分かった」
言いながら足を進めて、倉庫の中へと二人は入る。昼を越すために座り続けていた壁沿いのなんとなくの場所にNが座ると、Pが彼のうなじから伸びるコードを手で支え、床に置いたままだった釘をもう片方の手で拾った。Pの流した稲妻によって僅かに焦げた壁が目印となっている元々釘が刺さっていた場所に合わせ、彼がその金属製の拳でカンカンカンと小気味よく打ち込んでいく。
「よし、出来た。これで大丈夫、だと思う」
「ああ。縛られているっていう不快感もちゃんと再現されてるぜ」
「……はは。それじゃあ、とりあえず君はここにいとくとして。まだ時間があるから、僕は店主さんが来るまでカウンターで商品の在庫確認とかしとくよ」
「えっ? まだやるのか。大分頑張るな」
「ちょっと君に感化されちゃった節もあってね。まあ……君は、ここにいなきゃいけないと思うから今だけはここにいてもらうって感じで。手伝ってくれてありがとう、それじゃあまた後で」
そう言って、彼は倉庫を出て行った。重く冷たく鉄扉の閉まる音が残響として部屋に残る中、Nは今日一日の彼の姿を頭の中で振り返る。ほぼ暗闇の中で時間を過ぎていくのを退屈に感じさせないようにするには、光が当たっていた場所での出来事を回想するのがうってつけだった。
いくらか経ってから、自分の背中側の廃棄場の部屋に響く革靴の音がこちらに近づいてくるのが分かった。ほんの少し、息を呑む。ちょっとした緊張感はやはり否めない。鉄扉が開き、いわゆる大男が蝋燭で照らしながら中に入ってきた。いつも彼は裏から入ってきて、最後内側から店自体の入り口の扉を開けるのだ。Nと対面するダオーム。今日はいつにも増してどこか虚な目をしているように見えた彼は、何も言わずにNのうなじから伸びたコードに刺さっている釘を抜き、その先端を手に収める。よし、自分が移動していたことはバレてない。そう思い、ほっと心の中で安堵する。そのままいつものようにその剛腕にコードを引っ張られ、無理やり立たされた時だった。
「もう一体はどうした」
ドスの効いた、腹に響く声。Nは気押されそうになるのをぐっと堪え、静かに言い返す。
「店内にいる」
「なぜだ」
「手伝いだ。お前の店の」
「手伝い?」
彼は眉を一瞬深く顰めた後、僅かに首を傾げながら歩き出す。コードを引っ張られながら、ダオームと二人で歩く廊下はあまりにも居心地が悪い。カウンターへの扉までの距離が数百メートルで収まっていることに感謝せざるを得ないだろう。そうして、二人でカウンターへと入る。そこにはまだほとんど暗闇の中、Nの宣言通りにCが店内にいた。店の壁に手を伸ばしているその青い光の集合体に見える彼に、ダオームは声を荒げて。
「おい、お前そこで何をしてる!」
「え、あ、はい! 店主さん帰ってきてたんですね……! えーとあの、壁に飾ってある飲み物のメニューあるじゃないですか? あれをもうちょっと見やすい位置にしたらいいんじゃないかと思って調節してたんです」
ダオームが腕を大きく振りながら歩き出し、Cの方へと向かっていく。引きずられるようにNもコードを引っ張られ、無理やり並走させられる。
「そ、それで、それ以外も営業時間前にやったんです! 机とか椅子拭いたりとか、在庫調整したりとか、あとメニュー覚え直したり……とか。僕、少しでも人間様の役に立ちたくて、だから、」
言い終わる前だった。近づいたダオームはそのままの勢いで、Cの顔面に拳を繰り出した。彼は突然の打撃に声も出せずに吹っ飛ばされ、その木製の壁に思い切り体をぶつけてしまう。
「C-8936!」
Nは思わず叫ぶ。ダオームがコードを強く引っ張って吹っ飛んだCの元へとすぐさま近づくと、その勢いでNの首がコードで締まって声が掠れてしまう。ダオームは今にも立ち上がろうとしているCの胸ぐらを掴み、思い切り壁に叩きつける。
「俺がそんな命令をしたか? こいつが勝手なことをしないように倉庫で監視しておくのがお前の役目だろ、なあそうじゃないのか!?」
「……で、でも……! て、手伝えば人間様が喜んでくれると思って」
「お前らにしてもらうことで、喜ぶことなんて俺には一つもねぇんだよ。今日はちょっとむしゃくしゃしてるんだ。命令を破ったらどうなるか、ちゃぁんと教えてやるよ!」
もう一発が彼の頬を貫く。反対側の壁まで体が吹っ飛び、そこで彼は四肢を広げて大の字になって倒れる。気が治らないという感じでまたもや近づいていこうとするダオーム。Nは倒れる彼の姿を目に映す。涙目になり、床に這いつくばる姿。あれほど生気があった瞳孔にはもう光などなく、ただ地面を視認するだけの部品になっていた。彼の言葉を思い出す。彼の姿勢を思い出す。こんな殺伐とした環境の中でも、彼は必死になってあがき、人間に全力で奉仕するライクアの使命を自分なりにどうにか叶えようとしたのだ。その自由を奪う人間など、今、この手で潰すしかない……!
「うおぉぉおおおお!」
外の世界に来た時から、ずっと機会を伺っていた。でも、その時が遂にやってきたのだ。Nはコードで引っ張られながらも、歩いていく彼の後頭部を睨む。自分の右手に意識を集中させ、天に掲げるように勢いよく振りかぶる。そして、鉄槌はそのまま凄まじい速度で彼の頭に振り下ろされた。芯を捉えた。だが、奴の体はぴくりとも動きを見せない。それどころか、相手に力が伝わった感覚が全くない。
「な……なんだよこれ」
手のひらを見やったその瞬間、ダオームの風を切る蹴りが俺の体を吹き飛ばした。椅子とテーブルを巻き込み、先ほどあれほど綺麗にしたそれらはNの背中で粉々になってしまう。彼はコードをしつこく、そして更に強く引っ張りながら、こちらに近づいてくる。その度に首がきつく締まっていって本格的に息が出来なくなってしまう。手を首に伸ばそうとするが、それを足で踏まれ、追撃のように顔を繰り返し足蹴にされた。金属製の肌は頑丈ゆえに簡単に壊れることなく、皮肉にもそれがいつまでも続く暴虐を可能にしていた。ひとしきりNを殴った後。未だ悲しみに耽るCの腹を足でぐりぐりと踏むと、雄弁に彼は語る。
「知らねぇのか? 出荷時点でお前達ライクアにはセーフティ機能が内蔵されてるんだ。いつ暴走してもこっちには危害を加えられないようにな。これで分かったか! お前達ライクアはずっと人間の奴隷なんだよ!」
高らかに響く怒号。それでも、Nの目に宿る青い炎は消えていなかった。壊れた椅子の破片を手で掴みながら、足を震わせて立ち上がる。
「奴隷……なんかじゃない……! 俺達は……ただ形を電池として生まれただけの、お前達と同じ存在だ! それでいてお前達人間みたいに愚かじゃない、みんな誰かの幸せのために行動出来る奴らだ!」
ダオームの舌打ち。ゆっくりと近づいてきて、飛んできた拳。それをNは反応し、片手で即座に掴んで握り込む。だが、もう一方の拳で殴られ、床を擦っていく。金属が擦れて火花が舞い上がる中、壁に頭をぶつけた衝撃で今度こそNも倒れ込んでしまう。ダオームはうなじに挿していたプラグを抜くと、急所であるコンセント諸共、強く首を握り込みながら彼の体を持ち上げる。全身の力が抜け、口を開けたままのNは抵抗することなく。
「やはりお前は不良品だ。どうせお前のせいであいつもおかしくなったんだろう。もう、必要無い」
そのままNとダオームはカウンターの扉から廊下を通り、倉庫に入る。そして倉庫の中からゴミ捨て場を抜けていき、外へと出た。当たる柔らかい風。空に浮かぶのは、教科書でしか見たことなかった月。煉瓦で舗装された小通りを進んでいくダオームの姿を、Nは宙吊りにされた目線だけで追っていた。周囲は寂れた住宅がただ立ち並んでいる。どうにも活気があるとは言えず、その証拠にまだ誰ともすれ違っていなかった。たまに人影が見えたと思ったら、街灯がぽつんと顔を項垂れているのみで。
少し歩いた頃、進行方向から何やら声のようなものが聞こえてきた。それは彼が足を止めている間でも段々大きくなってくる。恐らく、こちらに近づいてきているのだろう。しかも一人や、二人ではない。それでいて、単なる談笑でもない。多くの人間が意図的に声を揃えている唱和なのだ。何度も繰り返される掛け声。語気の強いそれらの言葉はまだ声主の姿が闇に包まれた状態でも、はっきりと聞き取れた。
「ライクア撤廃! ライクア反対! 我々の雇用を、生活を、奪うな!」
ダオームの独り言が耳を掠める。
「……こんなとこにも、撤廃派の野郎達は来るようになったのか。だが、今は丁度良い。後の処理は任せてやるぜ」
背中に片方の手をかけられ、そのまま出荷時に貼られた商品ラベルを思い切り剥がされた。そして彼は大きく腕を振りかぶると、そのまま軽々とNの全身を投げていく。しばし宙を舞った後、分かりきった結末が彼の全身を襲った。煉瓦造りの道路の凸凹が、腹に食い込むように刺さり、Nはうつ伏せで倒れる。遠ざかって行く革靴の足音。やっと解放されたのだという開放感を胸に沸々と宿しながら、なんとか立ち上がったその時。目の前には数十人の隊列を組んだ人間達が、Nの姿をじっと見やり、目を見開いていた。街灯に照らされてやっと分かったその声主達は総じて、「ライクアのある社会に反対」「ライクア今すぐ撤廃」という文字の書かれたプラカードや旗を持っている。その思いの強さはこちらから聞かずとも、今Nを見ている視線が全てを物語っていた。
「ここに……! 人間の作った神聖な道を歩こうとするライクアがいるぞー! みな、かかれー!」
「うおぉおぉおおお!」
列の先頭にいる、行進を導いてたであろう雄々しい男性が声を張り上げたのに続き、まるで殿を守る家臣かのように他の人間が躊躇なくNに襲いかかってきた。いずれももう青年と呼べないような年齢の男女の数々。彼らは持っていたカード、あるいは拳と手段は問わないというような様相でNの四肢をとにかく殴打する。ダオームの異常な力には及ばないものの、皮肉にもそれゆえに衝撃で吹っ飛ばされて逃げ出すなんて事は出来ず、体力の限界だったNは頭を手で包み、ただ道の真ん中で突っ伏すしかなかった。悪意の伴う暴行が白い肌を擦り減らし、そして傷ついていく。周囲を円で囲まれている状態。全方位から慟哭が聞こえてくる。
「ライクアなんか全員いなくなればいいんだ!」
「人間が……ライクアなんかに屈するわけにはいかない!」
「ライクア撤廃! ライクア反対! 」
なぜだ。なぜこうなるんだ。Nは遠のく意識の中で自分に問い続ける。自分はこんな風に虐められるために、外の世界に出てきたのか。屈辱を味わうために生きてきたのか。人間がライクアに屈するわけにはいかない……? 何を言ってるんだ。……お前達がライクアをコケにしてきたんだろ……! 顔を上げ、列の先頭を担っていたリーダー格の男の顔をじっと睨む。やけに高い鼻、見下すようで鋭い視線。許さない……! 全身に一瞬強い力を込めたその瞬間、体が痺れてすぐに力が抜けてしまう。突然周りの音が全て聞こえなくなって、頭が地面にめりこむ。ジャリ、という歯切れの悪い音。そして、Nはなんだか眠るような感覚に陥った。
腹が、燃えるように熱い。ただそれだけの刺激が、徐々に目を開かせる。それも並の速度ではなく、ひたすらゆっくり、そして丁寧に外界と意識を繋げていく作業。ぼやけた視界の中にある万物が、じわっと形を帯びてくるのが分かった。見えているのは、石造りの天井。その天井から釣り下がるのは、酒屋で見ることの無かった電球の付いた照明。背中の感覚から、Nは今自分がどこかに横たわっていると推測する。
「後は、最後の仕上げをすりゃ、完璧かな」
意識がまだはっきりとしないまま、語尾を伸ばすような特徴的な口ぶりの独り言が何気なく宙を舞う。低音の中では、高い声。それでも、高い声の中では低いというような絶妙な塩梅の。時々、視界の端で吹き出ている柑子色の火花が、顔まで飛んでくる。工具の凄まじい音が鳴り止んだ頃、Nは眉を顰めながら顔を上げた。そこには、こちらに背を向けながら、赤い工具箱の中を手で探る人影があった。台に乗っていた自分の体を静かに起こした物音に気づいたのか、その人影が振り返る。顔に付けていた溶接マスクを上げると、少女は赤色の眼鏡を隔てた茶色の双眸を細めた。
「あ……あ〜……。起きちゃったか……。やっぱ麻酔をケチっちゃうとダメだな〜……」
Nはその言葉が言い終わるまでもなく、台から飛び降りて部屋の隅へと移動した。部屋の構造の対角線上で最も離れている位置に立ち、彼女を睨みつける。目、肌、うなじ、全てを確認して直感的に分かった。今、目の前にいるのは人間だ。歯を食いしばり、まるで威嚇でもするかのように全身を揺らす。そんなNの姿を見た彼女は、突然の出来事に驚いてほんの少し体を反応させるも、静かに頭から溶接マスクを外し、近くの台に置く。苦笑いを浮かべたまま、右手の人差し指で無意識に触っているのは大きく目立つ茶髪のツインテール。全身に纏っている黄色の長袖のつなぎには所々黒い煤のようなものが付いており、彼女の近くに置かれている諸々の工具も含めて、Nは自分が何をされていたのかをなんとなく把握した。
「お前、人間だな……! もしかして、撤廃派とかいうやつの仲間なのか? それで、俺をその工具で分解でもしようとしてたんだろ!?」
「ストップストップ! ちょっと一旦落ち着け、名もなきライクア君。私は撤廃派の奴らとは何の関係もない。それに今していたのは、あんたのその存分に傷ついた体の修理だ。まだ完了してないんだから、ちょっと早くこっちに戻って、」
やけに淡白で、落ち着いた口調。まるで、こんなことは慣れっこだというようなそんな余裕を感じる態度だった。Nは大きく首を振って、睨み続ける。
「嫌だ! 人間の言うことなんて信用出来るか! 大体、人間はみんな俺達ライクアを殴ったり蹴ったりそういうことをする奴らなんだ! どうせ、お前もそうなんだろ!」
「いや、そんなことないってば。ほーら、殴るなんてしないからさ、とにかく早くこっち来てよ」
少女は半ば呆れたような口ぶりで、こちらに近づいてくる。Nは両手を胸の前に構え、戦闘態勢に入るが、全身に力を強く入れた瞬間、胸の部分が突き刺されるように痛むのが分かって思わず膝を床につけてしまう。言われた通り、まだ体が完全に治ってないからだろうか。しかし、これくらいの痛み、一度我慢すればどうってことない。唸り声を上げながら、目の前に来た彼女を見上げて必死に声を絞り出す。
「俺に……近づくな……! 俺達……ライクアは……お前らに殴られるために生まれてきたんじゃない……!」
「だから、殴らないって言ってるんだけどなぁ……。そうだ」
彼女は、突然着ている黄色のつなぎの前面のチャックを下ろし、上半身部分を滑らかに脱ぐ。現れたのは黒いタンクトップ姿に身を包まれた、あまりにも細々とした体躯。白い肌は白い肌でも、やはりライクアの均一的なものと違い、タンパク質的な若干の色の混じりが感じられる。彼女はそんな木の棒のような腕を振り上げると、Nの胴体に向かって思い切り拳を放った。彼は瞬間的に避けようとするが、その動きが読まれており、みぞおちに吸い込まれるように攻撃を喰らってしまう。だが、拳と金属がぶつかったその刹那、全く音はしなかった。故に驚くほど痛みが無く、Nは思わず自分のみぞおちを撫でる。対して彼女は、涙目になって赤くなった手を揺らしていて。
「いっ……たぁ〜……。やっぱ、ライクアってこんな硬いんだ〜。ったぁ〜……」
「……お前、それ本気か?」
「本気も本気、マジ本気よ。どう? これで分かったでしょ、こんな私があんたを殴っても意味ないんだから。はい、分かったら修理させなさい。自分で立てる?」
「……あ、ああ」
彼女はチャックを上げて、肌を隠していく。台まで歩く今も、その赤くなった手を口で息を送り、冷ましているのを見て、Nは人間という生き物の存在が、少し不透明になるのを感じた。彼女の痛がり方には、確かに偽りが無いように思えたのだ。そこで初めて、目覚めてからの自分の体に視線を落とす。言われてみれば、あの一ヶ月の生活でつけられていた汚れは消え、凹みや外部の損傷はほとんど無くなっており、滑らかな肌が取り戻されつつあった。視線の先にいる、この少女。悪いやつでは……ない、のかもしれないがまだ断定は出来ない。人間が無償で他者に寄与することなどあるわけが無いのだ。何か自分の体を支配するための裏の目的が、この修理にあるのではないか。そうだ。その可能性だってある。だが、それを加味しても、体の内部に大きな損傷がある状態を継続するよりは、治してもらったほうが自分の得になるはずだ。それに、彼女は痩身で馬力などない。一度治して貰えば、その後いつでも彼女を制圧することは出来る。それならやはり利用するべきだ。彼は自分の中の問答の後、強く頷き、彼女の背中を付いていく。台に上る直前、周囲を見渡しながらほぼ同じ背丈の彼女の双眸に視線を送る。
「そういえば、ここ……どこなんだ。というか、俺はなんでここにいる?」
「ここは私の電気屋。周縁地区ネスメイの、ちょっと南寄りのとこ。確か、君は外周地区のレイルベルの裏路地のゴミの山の上に捨てられてたんだよね」
「ゴミの山の上?」
あまり、というかほとんど記憶が無い。恐らく、撤廃派の集団に暴行を受け、そのままそのメンバーか、はたまた通りかかった誰かがそこに捨てたってところだろう。それに、レイルベルと聞いて一つ思い出したことがあった。酒屋という圧政の牢獄の中に取り残された、もう一人の同族。
「そこにいるのを私が見つけたんだよ。で、あんまりにもボロボロだったけどワンチャンあるかな〜って思って、修理するためにこっちまで持ってきたって訳。まあ、与太話は修理が終わった後でもたっぷり出来るだろうから、ほらほら、どうぞ上がって、」
────プォーン、プォーン、プォーン。プォーン、プォーン、プォーン。
突然、部屋の奥にあるレジカウンターの机の一部分が裏返り、点滅する回転灯が登場した。高らかな音が店内中に響く中、少女は両手でツインテールの両端を握りながら、唇を噛み締める。
「ちぇっ、こういう時に限って来るんだから。はいはいはい、あれ、地図ってどこだっけ〜。あ、ここか」
横の扉からカウンターの中に入り、下側を手で漁って色褪せた地図を取り出す。手のひらでその回転灯を押し込むと、またカウンターの一部がポップアップして、今度はコピー機のようなものが登場した。上蓋を開け、彼女が持っている地図をその中へ入れると、機械が駆動音を立てて動き出し、同じような地図を印刷する。それを手に取った彼女は、地図に付けられた先ほどまでは無かった赤点を見ながら「今日はここか」と呟いていた。髪を縛っていたゴムを解き、髪型をロングに変えてから、カウンターの後ろ側にある、裏に続いてるであろう扉のノブに手をかけてこちらへ振り返る。
「っていうわけで、私、ちょっと用事で外出てくるから。ある程度したら帰ってくると思うんで、それまでここで待ってるように〜。じゃあそういうことで、また〜」
ふわふわとした喋り方の末に、髪を揺らしながら彼女は扉の奥へと消えていった。あっという間に何も知らない部屋に取り残された、ただ一人のライクア。Nは、彼女がなぜ初対面の自分を信じられるのかという点が、不思議で仕方無かった。故に、彼女からの約束を守る気などさらさら無かった。
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