婚約破棄亡国論

埴輪庭(はにわば)

第1話

 §


 ヘルナロウ王国の歴代の宰相の中で誰よりも白髪が増えたのはグラモン侯爵であった、という評価は後世の歴史家の間でほぼ一致している。


 彼が就任した年の冬、王都の社交界を震撼させた最初の事件はのちに「鏡の間の悲劇」と呼ばれることになる。


 クランベール公爵家の嫡男アレクシスは夜会の最中、婚約者であるメリルダ伯爵令嬢の手を振り払い、居並ぶ貴族たちの前で高らかに宣言した。


「この女は我が妹をいじめた。よって婚約を破棄する」


 その瞬間、メリルダ令嬢の背後に控えていた護衛騎士が無言で一歩前に出た。


 誰もが息を呑んだ。


 アレクシスの顔から血の気が引いたのはその騎士が王国最強と謳われる「黒獅子」の紋章を胸に刻んでいたからである。


 メリルダ伯爵令嬢は静かに微笑んだ。


「お気遣いなく、ベルトラン。殿下のおっしゃる通りですわ」


 その声には一片の動揺もなかった。


「ただ、一つだけ申し上げておきましょうか」


 令嬢は扇を開き、口元を隠した。


「わたくしの実家は王国の穀倉地帯の七割を管理しております。公爵家の領地に流れる三本の河川はすべてわたくしの叔父が治める領地を水源としておりますの。それから──」


 扇がぱちりと閉じられた。


「公爵家が抱える負債の債権者の筆頭はわたくしの祖父でございます」


 夜会場に沈黙が落ちた。


 アレクシスの顔は蝋のように白くなっていた。


「妹君がわたくしから何をされたとおっしゃるのか、具体的にお聞かせ願えますか。証人と証拠を添えて」


 返答はなかった。


 その夜のうちにクランベール公爵が王城に駆け込み、国王に謁見を求めた。


 翌朝、アレクシスは修道院に送られ、公爵家は莫大な違約金の支払いと引き換えにかろうじて取り潰しを免れた。


 メリルダ令嬢はその後、隣国の第二王子に見初められ、現在は王妃として三人の子に恵まれている。


 これがグラモン侯爵の胃に最初の穴を開けた事件である。


 しかしこれは序章に過ぎなかった。


 問題はこの一件が「成功例」として社交界に広まってしまったことにある。


 §


 令嬢たちの間である種の熱狂が生まれた。


 婚約破棄とはつまるところ「新しい恋」への扉なのだ、と。


 理不尽に虐げられた令嬢が真実の愛に出会う物語。


 それは確かに甘美な響きを持っていた。


 ただし、メリルダ令嬢の場合、彼女には実家の財力、叔父の領地、祖父の債権、そして黒獅子の護衛騎士という、四重の防壁があった。


 その現実を見落とした令嬢たちが次々と悲劇を──あるいは喜劇を──演じ始めたのである。


 春が来て、雪解け水が河川を満たす頃、二つ目の事件が起きた。


 ヴォルフスタイン男爵令嬢リゼロッタは学園の卒業式の壇上で婚約者から指弾された。


「この女は我が心の友ミレーヌをいじめた。証拠もある。よって婚約を破棄する」


 リゼロッタ令嬢はその場で気を失った。


 気を失ったまま、担架で医務室に運ばれた。


 三日間、彼女は目を覚まさなかった。


 目を覚ましたとき、彼女は泣きながら言った。


「わたくし、ミレーヌ様とお話ししたことすらございませんのに」


 調査の結果、それは事実だった。


 二人の間には接点がなかった。


 では「いじめ」とは何だったのか。


 ミレーヌと名乗る令嬢の証言によれば、リゼロッタが廊下ですれ違いざまに「睨んだ」のだという。


 それがいじめ。


 グラモン侯爵は報告書を読みながら、こめかみを押さえた。


 視線が合っただけで、いじめ。


 しかも調査を進めるとさらに奇妙な事実が浮かび上がった。


 ミレーヌなる令嬢は男爵家の三女で、特筆すべき財産も、美貌も、才能も持ち合わせていなかった。


 持っていたのはただ一つ。


「わたくしの前世は聖女でしたの」という、証明しようのない主張だけである。


 婚約者だった子爵家の嫡男はその「聖女」に心を奪われていた。


 リゼロッタ令嬢の実家は王都の東門を守る衛兵隊の資金を拠出していた。


 婚約破棄の翌月、資金の拠出は止まった。


 衛兵隊の給金は遅配となり、士気は地に落ちた。


 その隙を突いて、盗賊団が東門から侵入し、商人街の三軒の店が襲われた。


 被害総額は婚約破棄の違約金の十倍に達した。


「聖女」ミレーヌと子爵家嫡男はその後どうなったか。


 三ヶ月で婚約は解消された。


 理由はミレーヌの「聖女としての力」が一向に発現しなかったからである。


 前世の記憶があると言いながら、彼女にできることは「なんとなく悪い予感がする」という曖昧な予言だけだった。


 しかもその予言は十中八九、外れた。


 子爵家嫡男は別の令嬢と婚約し、ミレーヌは実家に戻され、リゼロッタは修道院で静かに暮らしている。


 誰も幸せにならなかった。


 損をしたのは王国だけである。


 §


 夏が来た。


 三つ目の事件は王城の舞踏会で起きた。


 これはグラモン侯爵が直接目撃した。


 レオンハルト辺境伯の嫡男が婚約者である伯爵令嬢の手を振り払った。


「この女は庶民出身の少女をいじめた。よって婚約を破棄する」


 伯爵令嬢は瞬きもせず、冷ややかに言い返した。


「その庶民の少女とはどなたのことでしょう」


「商人ギルドの娘、エマだ。お前は彼女を学園で無視し、仲間外れにした」


「無視」


 令嬢の唇が薄く笑みの形をとった。


「商人の娘となぜわたくしが言葉を交わさねばならないのでしょう。身分が違います」


 その返答は辺境伯嫡男の顔を紅潮させた。


「身分の差別など、くだらん。エマは心が美しい。お前のような冷酷な女とは違う」


 侯爵は隣に立つ国王陛下の顔色を窺った。


 陛下の眉間には深い皺が刻まれていた。


 伯爵令嬢は扇で口元を隠した。


「辺境伯家は北方の国境を守護する役目を担っておいでですね」


「それが何だ」


「わたくしの実家は辺境伯家に軍馬と武具を卸しております。取引を停止いたしましょうか」


 沈黙が落ちた。


「それから」


 令嬢は続けた。


「辺境伯家の兵站を支えているのはわたくしの叔母が嫁いだ穀物商です。そちらにも、少々お話をしておきましょうか」


 辺境伯嫡男の顔から血の気が引いた。


「脅しか」


「いいえ」


 令嬢は静かに首を振った。


「事実を申し上げているだけですわ。婚約を破棄なさるのはどうぞご自由に。ただ、その結果として何が起きるか、お考えになったことはございまして?」


 その問いに返答はなかった。


 辺境伯嫡男は舞踏会場を飛び出し、翌日、父親に連れられて王城に謝罪に来た。


 婚約は維持された。


 しかし二人の間の溝は修復不可能なほど深くなっていた。


 伯爵令嬢は三年後、病を得て世を去った。


 辺境伯嫡男はその葬儀にも現れなかった。


 商人ギルドの娘エマは領地を追放された。


 理由は「身分を弁えぬ振る舞い」である。


 辺境伯家の当主が息子の愚行の責任を誰かに負わせる必要があったのだ。


 グラモン侯爵はその顛末を記した報告書を読みながら、長い溜息をついた。


 §


 秋が深まる頃、四つ目の事件が起きた。


 これは最も奇妙な事件だった。


 ある伯爵家の嫡男が婚約者を公衆の面前で糾弾した。


「この女は我が愛する乙女を毒殺しようとした」


 婚約者である令嬢は目を見開いた。


「毒殺? いつ、どこで、どのように?」


「昨夜の晩餐会で、アリシアに出されたスープに毒が入っていた。お前がやったのだ」


 令嬢は首を傾げた。


「昨夜の晩餐会にわたくしは出席しておりませんが」


「嘘をつくな。証人がいる」


「証人?」


「アリシアだ。アリシアが見たと言っている」


 令嬢の表情が奇妙なものに変わった。


 困惑ではない。


 哀れみに近い何かだった。


「アリシア様はどちらにおいでですの?」


 伯爵嫡男は得意げに傍らを示した。


「ここにいる」


 そこには誰もいなかった。


 空気だけがあった。


 舞踏会場が凍りついた。


「ここに」


 嫡男は繰り返した。


「アリシアがここに」


 彼の目は虚空を見つめていた。


 何かを──誰にも見えない何かを。


 グラモン侯爵は背筋が冷たくなるのを感じた。


 伯爵家嫡男はその夜のうちに医師の診察を受けた。


 診断は精神の病だった。


 彼が「アリシア」と呼んでいた存在は彼の心が作り出した幻だった。


 婚約者の令嬢は一方的に破棄を突きつけられた形になった。


 違約金の支払い義務は伯爵家に生じたが「精神の病を理由とする破棄」は前例がなく、法的な処理は混乱を極めた。


 令嬢は傷心のまま領地に戻り、二年後、遠縁の騎士と静かに結婚した。


 伯爵家嫡男は現在も療養中である。


 彼の心の中に「アリシア」は今も住んでいるという。


 §


 冬が来た。


 グラモン侯爵の白髪は就任時の三倍に増えていた。


 王城の執務室で、国王アルヴァンド三世は報告書の山を眺めていた。


 宰相はその傍らで直立していた。


「グラモン」


 国王が口を開いた。


「この一年で、婚約破棄は何件あった」


「記録されているものだけで、三十七件でございます」


「記録されていないものは」


「おそらく、その倍以上かと」


 国王の眉間の皺が深くなった。


「被害総額は」


「金銭的な損害だけで、国家予算の一割に相当いたします」


 沈黙が落ちた。


 暖炉の薪がぱちりと爆ぜた。


「人的な損害は」


「決闘による死者が七名。自害が三名。出家が十二名。国外逃亡が五名」


 国王は額を押さえた。


「なぜだ」


 その問いに宰相は答えられなかった。


 なぜ、若者たちは愚かな行為に走るのか。


 なぜ、婚約という契約の重みを理解できないのか。


 なぜ、感情のままに行動し、その結果を考えないのか。


「陛下」


 宰相は慎重に言葉を選んだ。


「恋とは能動的にするものではございません。陥るものでございます」


 国王の目が宰相に向けられた。


「恋に落ちた者に恋をするなとは申せません。それは川に落ちた者に溺れるなと言うようなものでございます」


「お前にも、覚えがあるか」


 宰相はかすかに頬を赤らめた。


「若い頃のことでございますが」


 国王の目にほんのわずかな笑みが浮かんだ。


「余にもある」


 その告白に宰相は驚きを隠せなかった。


「妃を娶る前のことだ。商人の娘に心を奪われた。身分の差など、くだらぬと思った。すべてを捨てて駆け落ちしようとさえした」


「陛下……」


「止めたのは父だ。先王は余を地下牢に三日間閉じ込め、こう言った」


 国王は遠い目をした。


「『お前の心が痛むのは三日だ。だがお前の愚行で傷つく者たちは一生その痛みを抱えて生きる。お前一人の恋と千人の民の暮らし。どちらが重い』」


 沈黙が流れた。


「商人の娘はどうなったのだ、と余は訊いた。父は答えた。『すでに嫁いだ。良い男だ。お前より、よほど彼女を幸せにできる男だ』」


 国王は深い息をついた。


「それが嘘か真かは分からぬ。だが余はその言葉で目が覚めた」


 宰相は黙って聞いていた。


「今の若者たちにはそのような言葉をかける者がおらぬのだろう。いや、いたとしても、聞く耳を持たぬのかもしれぬ」


「恋は盲目と申します」


「盲目で済めばよいが」


 国王は報告書の山を見下ろした。


「これは盲目どころではない。狂気だ」


 その言葉に宰相は頷くしかなかった。


 扉が開いた。


 王妃ヘルザベスが静かに部屋に入ってきた。


 年齢を感じさせない美貌とすべてを見透かすような深い瞳。


 国王は妻の姿を見て、わずかに表情を和らげた。


「聞いていたのか」


「壁に耳あり、でございますわ」


 王妃は国王の傍らに立った。


「婚約破棄の問題、わたくしにも考えがございます」


 宰相は姿勢を正した。


 この王妃の「考え」は常に傾聴に値する。


 彼女は外交においても内政においても、その知謀で王国を幾度も救ってきた。


「お聞かせ願えますか」


 王妃は微笑んだ。


 その笑みにはどこか不穏なものが混じっていた。


「問題の根源は何だとお考えですか、宰相」


「若者の愚かさでございましょうか」


「違いますわ」


 王妃は首を振った。


「愚かさはいつの時代にもございます。若者とはそういうものですもの」


「では何が」


「手法の問題です」


 宰相は眉をひそめた。


「令嬢たちは復讐したいのです。あるいは自分を貶めた者に一矢報いたいのです。それ自体は人として自然な感情でしょう」


 王妃の声は淡々としていた。


「問題はその手法が稚拙すぎることです」


「稚拙」


「ええ。公衆の面前で恥をかかせる。証拠もなく告発する。感情のままに行動する。それでは自分も傷つき、周囲も巻き込み、国家にまで被害が及びます」


 宰相は頷いた。


「メリルダ令嬢のようにしたたかに立ち回れる者は稀でございます」


「そうです」


 王妃は窓辺に歩み寄った。


「メリルダはなぜ成功したのでしょう」


「実家の財力と周到な準備があったからでございます」


「それだけですか」


 王妃は振り返った。


「彼女には師がおりました」


 宰相の目が見開かれた。


「師?」


「わたくしの姉です」


 その言葉に部屋の空気が変わった。


 王妃の姉。


 クロエ・ヴァンデンベルグ。


 王国最大の諜報機関を束ねる女傑。


「影の女公爵」と呼ばれ、その名を口にすることすら憚られる存在。


「姉はメリルダに謀略の基礎を教えました。情報の集め方、弱点の突き方、味方の作り方、そして何より──」


 王妃は薄く笑った。


「感情を制御し、冷静に状況を分析する方法を」


 宰相は言葉を失った。


「つまり、わたくしの提案はこうです」


 王妃は国王と宰相を交互に見た。


「全ての貴族令嬢を対象に講義を行うのです。謀略の、正しい講義を」


 沈黙が落ちた。


 やがて、国王が口を開いた。


「謀略を教えると」


「はい」


「令嬢たちに」


「はい」


「それは……」


 国王は言葉を選んだ。


「逆効果ではないか。謀略を学んだ令嬢たちがより巧妙により陰湿に動くようになるのでは」


「いいえ」


 王妃は首を振った。


「謀略を学ぶということは謀略の限界を知るということです。何ができて、何ができないか。どこまでやれば成功し、どこからが破滅か。それを知れば、無謀な行動は減りましょう」


 宰相は顎に手を当てた。


「剣術を学べば、剣の怖さが分かる、というようなものでございますか」


「その通りです」


 王妃は頷いた。


「素人は剣を振り回せば相手を倒せると思い込みます。しかし剣術を学んだ者は剣を抜くことの重さを知っています」


「なるほど……」


「それに」


 王妃は少し声を低くした。


「どうしても復讐したい、どうしても一矢報いたい、という令嬢は必ず現れます。それを止めることはできません」


「確かに」


「ならば、せめて正しい方法を教えるべきです。王国に被害が及ばない方法を。自分自身も傷つかない方法を」


 宰相は深く考え込んだ。


 理屈としては筋が通っている。


 しかし貴族令嬢に謀略を教えるという発想はあまりにも斬新だった。


 いや、斬新というよりは──


「危険ではないでしょうか」


 宰相は率直に懸念を述べた。


「謀略に長けた令嬢たちが王家に牙を剥く可能性は」


「ありますわ」


 王妃はあっさりと認めた。


「しかしそれは現状でも同じこと。むしろ、体系的に教育することで、わたくしたちは彼女たちの能力を把握できます。誰が優秀で、誰が危険か。それを知ることは王家の安全にもつながりましょう」


 国王は妻の顔をじっと見つめた。


「お前はそこまで考えているのか」


「わたくしは常に最悪を想定いたします」


 王妃の声は静かだった。


「それが王妃としての務めですもの」


 国王は長い沈黙の後、頷いた。


「よかろう。グラモン、準備を進めよ」


「御意」


 宰相は深く頭を下げた。


 しかしその胸中には不安が渦巻いていた。


 令嬢たちに謀略を教える。


 それはパンドラの箱を開けることではないのか。


 §


 春が巡ってきた。


 王城の一角に新しい施設が設けられた。


 名称は「淑女のための教養講座」。


 表向きは礼儀作法と社交術を学ぶ場とされた。


 しかしその実態を知る者は王国でも限られていた。


 初日、百名を超える令嬢たちが集まった。


 彼女たちの多くは十五歳から二十歳。


 婚約適齢期の、あるいはすでに婚約している令嬢たちである。


 講堂に入った令嬢たちは壇上の講師陣を見て、一様に驚きの表情を浮かべた。


 並んでいたのは王国でも指折りの策謀家たちだった。


 まず、クロエ・ヴァンデンベルグ。


「影の女公爵」その人である。


 銀髪を高く結い上げた壮年の女性で、その眼光は氷のように冷たかった。


 次にアルフォンス・デュヴァル侯爵。


 外交において「狐」と呼ばれ、隣国との交渉で幾度も王国を有利に導いた男だ。


 そして、エレオノーラ・シュタインバッハ伯爵夫人。


 社交界の女王と呼ばれ、その一言で貴族の家が浮きも沈みもすると言われている。


 最後にヴィクトール・ヘルムート男爵。


 かつて暗殺者として恐れられ、今は王家の影の仕事を一手に引き受けている男。


 令嬢たちはその顔ぶれを見て、自分たちがどのような場所に足を踏み入れたのかを悟った。


 最初に口を開いたのはクロエだった。


「本日より、皆様には『正しい謀略の巡らせ方』をお教えいたします」


 その言葉に講堂がざわめいた。


「謀略という言葉に嫌悪を感じる方もおられるでしょう。しかし考えてみてください」


 クロエは令嬢たちを見渡した。


「皆様はこれまでに傷つけられた経験がおありでしょう。裏切られた経験が。理不尽な仕打ちを受けた経験が」


 いくつかの令嬢たちが小さく頷いた。


「その時、皆様は何を望みましたか。復讐でしょうか。正義でしょうか。あるいはただ相手に自分の痛みを分からせたかっただけかもしれません」


 沈黙が落ちた。


「それは人として自然な感情です。恥じることはありません」


 クロエの声は意外なほど穏やかだった。


「問題はその感情をどのように処理するか、です」


 彼女は壇上を歩き始めた。


「感情のままに行動すれば、どうなるでしょう。公衆の面前で相手を糾弾する。証拠もなく告発する。結果として、自分も傷つき、周囲も巻き込み、最悪の場合は王国にまで被害が及びます」


 令嬢たちの表情が引き締まった。


「この一年で、王国が被った被害をご存知ですか」


 クロエは数字を挙げた。


 決闘による死者。自害者。出家者。国外逃亡者。


 そして、金銭的な損害。


 令嬢たちの顔から、血の気が引いていった。


「これらの悲劇の多くは避けられたものです。正しい知識があれば。正しい判断ができれば」


 クロエは令嬢たちの前に立った。


「わたくしたちは皆様にその知識と判断力をお教えいたします。どうか、心を開いてお聞きください」


 講義が始まった。


 最初の講師はアルフォンス・デュヴァル侯爵だった。


「謀略の基本は情報です」


 彼は穏やかな声で語り始めた。


「相手を知らずして、策を立てることはできません。まずは情報を集める方法をお教えいたしましょう」


 令嬢たちは熱心に耳を傾けた。


「情報源は大きく分けて三つございます。一つ目は公開情報。これは誰でも手に入れられるものです。家系図、領地の記録、社交界での評判など」


 侯爵は黒板に図を描いた。


「二つ目は人的情報。使用人、商人、他の貴族からの噂話など。これは信頼関係を築くことで得られます」


 令嬢たちはメモを取り始めた。


「三つ目は秘匿情報。これは特別な手段でしか得られないものです。しかし皆様にはお勧めいたしません」


「なぜですか」


 一人の令嬢が手を挙げた。


「秘匿情報を得るためには相応のリスクが伴います。発覚すれば、社会的な死を意味することもあります。皆様のような若い令嬢にはそのリスクを負う価値はございません」


 侯爵は真剣な目で令嬢たちを見た。


「覚えておいてください。最も優れた謀略とは公開情報だけで成り立つものです。秘密を握る必要がないほど、相手の弱点を見抜ける目を養うこと。それが真の知恵です」


 講義は続いた。


 エレオノーラ伯爵夫人は「味方の作り方」を教えた。


「一人で戦ってはなりません」


 彼女は優雅に扇を開いた。


「どれほど正しい主張も、味方がいなければ空しく響くだけ。まずは皆様の味方になってくれる人を見つけることから始めましょう」


「どのように見つけるのですか」


「共通の利益を持つ人を探すのです」


 伯爵夫人は微笑んだ。


「皆様が傷つけられたとき、同じように傷ついた人がいないか。その人と手を結ぶのです」


 令嬢たちは顔を見合わせた。


「ただし、注意が必要です。復讐だけを目的とする同盟はもろいものです。復讐が終われば、瓦解します」


「ではどうすれば」


「長期的な利益を共有することです。例えば、商業上の取引。例えば、子女の縁組。例えば、政治的な連携。そのような絆で結ばれた同盟は簡単には崩れません」


 伯爵夫人の言葉は令嬢たちに新しい視点を与えた。


 復讐は一瞬の感情だ。


 しかし同盟は長く続く。


 それを理解した者から、目の色が変わっていった。


 昼食後、ヴィクトール・ヘルムート男爵の講義が始まった。


 彼の話は最も実践的だった。


「謀略において、最も重要なのは何だとお思いですか」


 男爵は令嬢たちを見回した。


 いくつかの答えが返ってきた。


「情報です」


「味方です」


「計画です」


 男爵は首を振った。


「撤退です」


 その言葉に講堂が静まり返った。


「どれほど優れた計画も、状況次第では失敗します。その時、いかに素早く、いかに損害を最小限に抑えて撤退できるか。それが生き残る者と滅びる者を分けます」


 男爵は黒板に一本の線を引いた。


「この線を『引き際』と呼びます。謀略を始める前にこの線を決めておくのです。ここまで来たら、撤退する。どれほど悔しくても、どれほど惜しくても」


 令嬢たちは真剣な表情で聞いていた。


「引き際を決めずに始めた謀略は必ず破滅に至ります。感情に流され、深入りし、気がついた時には引き返せなくなっている。この一年で破滅した若者たちの多くはこの過ちを犯しました」


 男爵の声は静かだが重かった。


「皆様にはそうなってほしくない。だからこそ、最初にこれをお教えするのです」


 講義は夕刻まで続いた。


 令嬢たちは疲れ果てた表情で講堂を後にした。


 しかしその目には新しい光が宿っていた。


 最終日、クロエ・ヴァンデンベルグが壇上に立った。


「皆様、一週間の講義、お疲れ様でございました」


 令嬢たちは姿勢を正した。


「最後に最も重要なことをお伝えいたします」


 クロエは令嬢たちを見渡した。


「謀略とは剣と同じです。使い方を誤れば、自分を傷つけます。使う必要がないなら、使わないに越したことはありません」


 その言葉に令嬢たちは頷いた。


「しかし時には剣を抜かねばならぬこともある。その時のために技を磨いておくのです」


 クロエは一冊の本を手に取った。


「これはわたくしが若い頃に書いた手記です。謀略の実例とその成功と失敗の分析が記されています。皆様にはこれをお貸しいたします」


 令嬢たちは目を輝かせた。


「ただし、条件がございます」


 クロエの声が厳しくなった。


「この知識を私欲のために使ってはなりません。王国に害を及ぼしてはなりません。そして何より──」


 彼女は一呼吸置いた。


「罪のない者を傷つけてはなりません」


 令嬢たちは静かに頷いた。


「この三つを破った者にはわたくしが直接対処いたします」


 その言葉の重みを令嬢たちは十分に理解していた。


「影の女公爵」の敵になることがどれほど恐ろしいか。


 それを知らぬ者はこの講堂にはいなかった。


 講義は終わった。


 令嬢たちはそれぞれの家に戻っていった。


 §


 講義の効果はすぐに現れた。


 その年の夏、婚約破棄の件数は激減した。


 前年の三分の一にも満たない数字である。


 グラモン侯爵は報告書を読みながら、目を疑った。


「これは……本当ですか」


「はい」


 部下は頷いた。


「婚約破棄に至る前に当事者間で解決される例が増えております」


「どのように」


「多くの場合、令嬢側が先手を打っています。婚約者の浮気を察知した時点で、証拠を集め、味方を固め、然るべき準備を整えてから交渉に臨むのです」


 宰相は感嘆の息を漏らした。


「それで」


「婚約者側が態度を改める例もございます。あるいは穏便に婚約を解消し、互いに傷つかずに別れる例も」


「公衆の面前での糾弾は」


「ほぼ皆無になりました。令嬢たちはそれが最も愚かな選択だと学んだようです」


 グラモン侯爵は深く息をついた。


 王妃の提案は見事に的中した。


 謀略を学んだ令嬢たちは謀略の限界を知った。


 そして、感情に任せた行動の危険性を理解した。


 結果として、王国は平和になったのである。


 しかしすべてが順調だったわけではない。


 秋が深まる頃、一つの事件が起きた。


 ある公爵家の令嬢が婚約者の浮気相手を追放に追い込んだのである。


 浮気相手は男爵家の令嬢だった。


 公爵令嬢は講義で学んだ手法を完璧に実行した。


 まず、情報を集めた。


 浮気の証拠を複数の証人の証言と物的証拠で固めた。


 次に味方を作った。


 男爵令嬢に不満を持つ貴族たちを巧みに味方に引き入れた。


 そして、引き際を決めた。


 目的は浮気を止めさせること。それ以上は求めない。


 計画は完璧だった。


 しかし結果は予想外のものになった。


 公爵令嬢が証拠を突きつけた時、男爵令嬢は逃亡した。


 しかし彼女には行く宛がなかった。


 実家は彼女を受け入れず、親族も背を向けた。


 三日後、彼女は橋の上から身を投げた。


 公爵令嬢はその報せを聞いて、顔色を変えた。


「そこまでは……望んでいなかったのに」


 彼女の声は震えていた。


「追放されれば、どこかで新しい人生を始められると思っていたのに」


 クロエ・ヴァンデンベルグは公爵令嬢の前に立った。


「謀略には予測できない結果が伴うことがあります」


 その声は冷たかった。


「あなたはすべてを計算したつもりでした。しかし相手の心までは計算できなかった」


 公爵令嬢はうつむいた。


「男爵令嬢にはあなたの婚約者以外に生きる場所がなかったのです。それをあなたは見落としました」


「わたくしは……どうすればよかったのでしょう」


「知りません」


 クロエは首を振った。


「わたくしにも、正解は分かりません。ただ、一つだけ言えることがあります」


 公爵令嬢は顔を上げた。


「謀略とは人の人生を変える力です。時には命を奪う力です。その力を使う以上、あなたには責任があります」


「責任……」


「その責任を背負う覚悟がなければ、謀略など使うべきではありません」


 公爵令嬢は長い間、黙っていた。


 やがて、彼女は静かに頷いた。


「分かりました。わたくしはこの責任を背負います。一生」


 その言葉を聞いて、クロエは初めて、わずかに表情を和らげた。


「それでよい。忘れないことです」


 この事件は講義に新しい章を加えるきっかけとなった。


「結果の責任」という章である。


 謀略を使う者はその結果のすべてに責任を負う。


 予測できた結果だけでなく、予測できなかった結果にも。


 それが新しい教えとなった。


 §


 年が変わった。


 講義は二期目に入り、新しい令嬢たちが集まった。


 今度は前年の受講生たちが一部の講義を担当することになった。


 彼女たちは自分たちの経験を──成功も失敗も──後輩たちに伝えた。


 その中にあの公爵令嬢の姿もあった。


 彼女は「結果の責任」の章を担当した。


 その講義は涙なしには聞けないものだったという。


 グラモン侯爵は二年目の報告書を読みながら、感慨深い思いに浸っていた。


 婚約破棄の件数はさらに減少した。


 公衆の面前での糾弾はほぼ根絶された。


 そして何より、令嬢たちの間に一種の連帯感が生まれていた。


 彼女たちは互いを競争相手ではなく、仲間として見るようになった。


 同じ講義を受けた者同士の絆である。


「陛下」


 宰相は国王に報告した。


「王妃殿下の提案は大成功でございます」


 国王は頷いた。


「ヘルザベスにはいつも驚かされる」


「まったくでございます」


「しかし」


 国王の目が鋭くなった。


「この先、どうなるか。それはまだ分からぬ」


「御意」


 宰相も、その懸念を共有していた。


 謀略に長けた令嬢たちが王国の各地に散らばっている。


 彼女たちがいつか王家に牙を剥く可能性はゼロではない。


 しかし王妃は言った。


「それでよいのです」


 国王と宰相は王妃の言葉に耳を傾けた。


「謀略に長けた令嬢たちがいることで、王家もまた緊張を強いられます。その緊張が王家の堕落を防ぐのです」


「堕落を」


「権力は放置すれば腐敗します。しかし常に監視され、脅かされていれば、腐敗する暇がありません」


 王妃は微笑んだ。


「わたくしはこの国の未来を信じています。令嬢たちの力を信じています。そして何より──」


 彼女は国王と宰相を見た。


「わたくしはこの国の民の知恵を信じています」


 その言葉に国王は深く頷いた。


 講義は三年目に入った。


 今度は令嬢だけでなく、若い貴族の男たちも対象に加えられた。


 最初は反発があった。


「男に女の教えを受けろと言うのか」


 そんな声が上がった。


 しかしクロエ・ヴァンデンベルグは冷たく言い放った。


「この一年で破滅した若者の八割は男でございます。それでも学ぶ必要がないとお思いですか」


 反論する者はいなかった。


 講義は男女混合で行われるようになった。


 興味深いことに男たちの学びは女たちより遅かった。


 彼らは感情を制御することに慣れていなかった。


 プライドが冷静な判断を妨げた。


 しかし徐々に変化が現れた。


 彼らもまた、謀略の限界を学び、引き際の重要性を理解するようになった。


 そして何より、彼らは令嬢たちを新しい目で見るようになった。


 かつては「守るべき存在」「飾り物」と見なしていた令嬢たち。


 しかし今、彼らは知った。


 彼女たちがどれほど賢く、どれほど強かで、どれほど恐ろしい存在であるかを。


 ある若い伯爵が講義の後でこう漏らした。


「俺は今まで、女を甘く見ていた」


 その言葉を聞いた令嬢たちは顔を見合わせて笑った。


 §


 年月が流れた。


 講義を受けた世代が徐々に社会の中枢に進出していった。


 彼らはかつての愚かな貴族たちとは異なっていた。


 感情に任せて行動しない。


 情報を集め、味方を固め、引き際を決めてから動く。


 そして何より、結果の責任を自覚している。


 王国の政治は目に見えて変わった。


 派閥争いは以前より巧妙になった。


 しかし同時に以前より穏やかにもなった。


 相手を完全に破滅させることの愚かさを皆が知っていたからである。


 グラモン侯爵は引退の日を迎えた。


 彼は後任の宰相に引き継ぎを行いながら、感慨深い思いに浸っていた。


「この十五年で、王国は変わりました」


 後任の宰相は女性であった。講義の第一期生の一人である。


「変わりましたね」


 彼女は頷いた。


「わたくしも、あの講義がなければ、今ここにはいなかったでしょう」


「どのような講義が最も印象に残っていますか」


「引き際の講義です」


 彼女は遠い目をした。


「あの講義がなければ、わたくしは今頃、修道院にいたかもしれません」


 グラモン侯爵はその言葉の意味を問わなかった。


 誰にでも語りたくない過去はある。


「最後に一つだけ」


 引退する宰相は後任に言った。


「講義を続けてください。この国の未来のために」


「もちろんです」


 新しい宰相は力強く頷いた。


「わたくしが生きている限り、講義は続きます」


 その約束は守られた。


 §


 それからさらに数十年後。


 ヘルナロウ王国は大陸でも有数の繁栄を誇る国となっていた。


 その秘密を知る者は少ない。


 しかし一部の歴史家たちはこう記している。


「ヘルナロウ王国の繁栄は一人の王妃の提案に始まる。彼女は貴族令嬢たちに謀略を教えることで、王国を救ったのだ」


 その評価が正しいかどうかは歴史の審判に委ねるしかない。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 王城の地下には今も「淑女のための教養講座」の記録が眠っている。


 そこには数え切れないほどの令嬢たちの名前が記されている。


 彼女たちの多くは今も王国のどこかで暮らしている。


 妻として、母として、あるいは政治家として。


 彼女たちは決して語らない。


 自分たちが何を学んだのか。


 どのような技を身につけたのか。


 しかしその目を見れば分かる。


 静かな自信と鋭い知性とそして何より──


 引き際を知る者だけが持つ、穏やかな微笑みを。


 ある晩秋の夕暮れ、王城の庭園で一人の老婦人が散歩をしていた。


 銀髪を高く結い上げた姿は凛としており、年を感じさせない。


 かつて「影の女公爵」と呼ばれたクロエ・ヴァンデンベルグ。


 彼女は庭園のベンチに腰を下ろし、沈む夕日を眺めていた。


 傍らに一人の若い女性が歩み寄った。


「クロエ様」


「何かしら」


「来年の講義の内容について、ご相談が」


 クロエは若い女性を見上げた。


 この女性は講義の第五期生である。今は講義の責任者を務めている。


「新しい章を加えたいと思っております」


「どのような」


「『許しの技術』という章を」


 クロエの目がわずかに見開かれた。


「許し、ですか」


「はい。謀略を学ぶことは相手を打ち負かすことだけではありません。時には許すことも必要です」


 若い女性は真剣な目でクロエを見た。


「相手を完全に打ち負かすことが必ずしも最善ではないことは講義で学びました。しかし打ち負かす代わりに何をすべきか。その答えが『許し』ではないかと」


 クロエは長い沈黙の後、かすかに笑った。


「あなたはわたくしより優れているかもしれないわね」


「そのようなことは」


「いいえ、本当よ」


 クロエは夕日を見つめた。


「わたくしは一生をかけて謀略を学んだ。しかし許すことは学ばなかった。学べなかったのかもしれない」


「クロエ様……」


「あなたの提案を認めましょう。『許しの技術』の章を加えなさい」


 若い女性は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 クロエは立ち上がった。


「さあ、戻りましょう。夕食の時間だわ」


 並んで歩く二人の姿を、夕日が金色に染めていた。


(了)

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婚約破棄亡国論 埴輪庭(はにわば) @takinogawa03

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