『いざと言う時、逃げる人達』制作意図

* Xにて、本作は三部構成と告知しましたが、

書いているうちに1話、2話と話の質(ジャンル?)が変わってしまったため、

本作の方向性を損なわぬよう、別作品として仕上げる事に致しました。


制作意図をあとがきとして、この作品を完結と致します。

何卒宜しくお願いいたします。 


 本作は、特定の人物への非難、復讐、赦し、あるいは断罪を目的として書かれたものではありません。

 また、誰かに謝罪や反省を求めるための文章でもありません。


 私がここで試みたのは、それらとは異なる第三の立場――

 出来事を「感情の決着」ではなく、「構造として記録する」ことでした。


 作中で触れている学術的概念や歴史的事例は、いずれも実在する研究や記録に基づいています。

 それらは知識を誇示するためではなく、個人の体験がどのような構造の中で起き得るのかを説明するための補助線として用いています。

 (引用と概要の整理にはAIも補助として用いました。)


 本作の語り部「F=私」が選んだのは、周囲への復讐でも断罪でもなく、長い時間をかけて割り当てられてきた過剰な責任を、元の場所へ戻すという行為でした。

 それは相手を変えるためではなく、自分の尊厳を取り戻すための宣言です。


 たとえば、こう言い換えられます。


 「ねえ君、君は気づいてないけど、ずっと私の足を踏んでるんだよね」

 「君はよく私の足を踏む。だから私は、これから離れて生きるね」

 「気づいていなかったからといって、私の怪我が無かったことにはならない」


 本作は、すべての人が同じ選択を取るべきだと主張するものではありません。

 あくまで「F」という人間にとっては、フラットな状態に戻ることが最善だった――その一つのケースとして書いています。

 ただし、その地点に至るためには、出来事を事実として引き受ける姿勢が必要だった、という点だけは明確にしています。


 創作では「黙って去る」が美徳として語られがちですが、「復讐/赦し/断罪/忘却」が、すべての人に回復をもたらすとは限りません。

 忘れようとしても記憶に浮上する人、言葉にしないと体に残ってしまう人、沈黙が「終わり」ではなく「延長」になってしまう人がいます。


 そして、痛みを認知された上で「見なかったこと」にされるのは、当事者にとって、尊厳を折られる出来事です。

 私はそれを、**“落命”**という言葉でしか表し得ない局面がある、と考えています。

 (この言葉の強度は、意図して残しています。)


 沈黙は中立ではありません。

 沈黙は時に、責任の回避となり、出来事を不可視化し、結果として誰かの苦痛や孤立を長引かせることがあります。

 ――その点は歴史的にも学術的にも確認されている事実だと、私は理解しています。


 本作は、価値観の一致を求めるものでもありません。

 ただ、語られないまま処理されがちな構造が存在すること、そしてそれを言葉にする試みがあったこと――その記録として、ここに置いています。


 なお本作には、「理由があったとしても、新たな加害に加担することの責任は免責されない」という「F=私」の信念も残してあります。

 痛みが痛みのまま連鎖するとき、そこに必ず誰かの尊厳が損なわれるからです。


 もし同じように沈黙を強いられ、出口が見えず苦しみながら迷子になっている方がいるなら、こういう脱出の仕方もあり得るのでは――という提案になればと思っています。

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いざと言う時、逃げる人達 植田伊織 @Iori_Ueta

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