5.ニュアンス
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アロンは、足を止めた。
道は、そこで終わっていた。
正確には――
終わったのではなく、落ちていた。
目の前には崖。 切り取られたような断面。 下は見えない。霧が、深さを隠している。
「……」
息を吸う。 吐く。
風が、頬を撫でる。 その冷たさで、ようやく現実だと分かる。
ここから先は、 歩けばいい場所じゃない。
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戻る、という選択肢が頭に浮かぶ。
だが、足は動かなかった。
戻ったところで、 “さっきまでの道”が安全だという保証はない。
前も後ろも、 同じように分からない。
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アロンは、崖の縁にしゃがみ込む。
石を一つ、落とす。
音は、しばらくしなかった。
それから、ずっと下のほうで、 小さな音がした。
――生きていれば、 あそこまで落ちる。
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心臓が、はっきりと速くなる。
今まで感じていた空腹や疲労とは違う。
これは、 失うかもしれないという感覚だった。
息が浅くなる。 手が、震える。
「……怖いな」
初めて、 その言葉が口から出た。
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それでも。
アロンは、崖を降りることにした。
理由は、ない。
正解でもない。 合理でもない。
ただ―― ここに立ち尽くしている自分が、 一番「死んでいる」気がした。
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手を伸ばす。
岩は、冷たくて、ざらついている。
指に力を入れる。 体重を預ける。
足場を探す。 見つからない。
それでも、降りる。
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途中で、足を滑らせた。
一瞬、 身体が宙に浮く。
心臓が、喉まで跳ね上がる。
だが、 指が岩に引っかかった。
爪が、割れる。 痛みが走る。
「……っ」
声は出なかった。
ただ、 生きたいと思った。
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それは、考えじゃない。
反射でもない。
生と死が、 初めて「繋がった」瞬間だった。
落ちれば死ぬ。 掴めば生きる。
選んでいるのは、 世界じゃない。
――自分だ。
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しばらくして、 アロンは地面に降り立った。
膝が笑う。 呼吸が荒い。
それでも、立っている。
「……生きてる」
その言葉は、 確認でも、喜びでもなかった。
ただの事実だった。
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同じ頃。
森の別の場所で、 天才たちは、分かれていた。
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ノーマは、川を見つけていた。
流れ。 水量。 傾斜。
「川は、道になる」
彼はそう判断する。
水は、低い方へ流れる。 低い場所には、出口がある。
仲間たちは、無言で頷く。
理由は、分かる。 反論の余地もない。
ノーマの背中を、 誰も疑わない。
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ヴィンは、空を見ていた。
雲の厚み。 風向き。 湿度。
「天候が変わる」
それは予測だった。 だが、確度は高い。
雨が降れば、 川は脅威になる。
霧が出れば、 方向感覚は狂う。
「今、動くべきじゃない」
彼の言葉には、 焦りがない。
計算の中に、 自分も含まれている。
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マリアンは、振り返っていた。
森。 線路。 止まったままの列車。
「戻る」
その判断は、 他の二人とは違う。
前進ではない。 だが、後退でもない。
「まだ、全員が揃っていない」
彼女は、 “人数”を見ていた。
知性の総量。 判断の同期率。
列車には、 まだ使えるものが残っている。
情報も、物資も、 人も。
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三人は、 同じ天才だった。
同じ教育。 同じ知識。 同じ目的。
だが―― 見ている世界は、 もう同じではなかった。
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ノーマは、流れを信じた。
ヴィンは、未来を警戒した。
マリアンは、過去を捨てなかった。
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そして誰も、 「正しい」とは言わなかった。
誰も、 「間違い」とも言えなかった。
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森の底で。
アロンは、 まだ荒い呼吸のまま、 空を見上げていた。
崖の上は、見えない。
戻れない。 だが、それでいい。
怖さは、消えていない。
それでも、 一歩、前に出る。
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生と死は、 循環だと、彼はまだ知らない。
だが――
生きるという選択が、 すでに世界を分け始めていた。
IQ100の天才 七星北斗(化物) @sitiseihokuto
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