第1章 1-2 四十八時間


 使用人が駆け込んできたのは、それから十分後のことである——十分という時間が、ユリウスの予測の範囲内であったのか、それとも偶然の一致であったのか、あるいは世界というものが時として人間の予測を裏切らないという稀有な瞬間であったのか、それは定かではないが、少なくとも彼の表情には驚愕の色も困惑の色もなく、ただ静かな確認があるのみだった。


「商会長! 北方のハルトヴィーク町から、緊急の注文が!」


 使用人の声には切迫感があった——それは演技ではなく真正の切迫感であり、真正であるがゆえに、事態の深刻さを物語っていた。だが深刻さというものは、それを認識する者と認識しない者の間に横たわる断絶を生み、そして断絶は時として、適切な対応を阻害する。


「内容は?」


 ユリウスの声は平静であった——平静すぎるほどに平静であり、その平静さは使用人の切迫感と対照を成していたが、それがかえって彼が既にこの事態を予測していたこと、予測していたがゆえに準備を整えていたこと、そして準備が整っているがゆえに動揺する必要がないことを、無言のうちに示していた。


「保存食と医薬品——通常の二倍です!」


 二倍という数字は、単なる数量の増加を示すのみならず、注文した側の心理状態を——恐怖か、あるいは予測か、あるいはその両方か——示していた。そして心理状態の変化は、やがて行動の変化を生み、行動の変化は社会全体の変化を生み、社会の変化は歴史と呼ばれる不可逆の流れになる。


「いつもより、かなり多いね」


 ユリウスは立ち上がった——その動作は緩慢であったが、緩慢であることが決して躊躇を意味するわけではなく、むしろ既に決定された事項を実行に移すための、儀式的な所作であった。彼の表情は相変わらず平静であり、平静であることが彼の性格なのか、あるいは訓練の賜物なのか、それとも前世の記憶がもたらす——過去の悲劇を経験した者だけが持つ——諦念なのか、判断は難しい。


「エレオノーラ、筆記用具を」


「はい」


 エレオノーラは素早く羊皮紙とインクを用意した——その素早さは訓練されたものであり、訓練されているということは、彼女がこの半年の間に、ユリウスという男の思考様式を理解し始めていることを意味していた。監察官として派遣された当初、彼女が期待していた第一級転生者は英雄であったため、その期待と現実の落差は失望を生んだが、しかし失望の後に来るものは——時として——理解であり、理解は時として——期待以上の価値を持つ。


 ユリウスは淀みなく指示を始めた——それは命令というより、既に彼の頭の中で完成している計画の、外部への投影であり、それゆえに修正の余地はなかった。修正の余地がないということは、彼が既に考え得る可能性を検討し、リスクを評価し、そして最善——あるいは最も被害が少ない——選択肢を選び取ったことを意味していた。


「まず、下流の支店へ早船を出す——内容は三つだが、これらは独立した指示ではなく、全体として一つの戦略を構成している」


 彼は指を折った——その動作は教師のようでもあり、将軍のようでもあり、しかし彼自身は商人に過ぎず、商人が戦略を語るという事態そのものが、すでに平時ではないことを暗示していた。


「一つ。倉庫を確保すること——理由は『念のため』で構わない。いや、『念のため』という理由こそが最も適切だろう。具体的な理由を説明すれば、かえって混乱を招くし、混乱は遅延を生み、遅延は——この場合——致命的になる可能性がある」


「二つ。生活物資——保存食と医薬品、毛布など——の在庫を増やすこと。これは通常の商業活動の延長線上にあり、特別な説明を要しない。商人が在庫を増やすことに、誰も疑問を抱かないだろう」


「三つ。エルナ河流域を捜索できる人員を確保すること——傭兵でいい。いや、傭兵の方がいい。彼らは理由を問わず、報酬のために動く。そして理由を問わないということは、無用な詮索がないからね。詮索がなければ情報の拡散も制限できる」


 エレオノーラの手が止まった——それは一瞬のことであったが、その一瞬に、彼女の思考が急速に回転したことが見て取れた。羊皮紙の上のインクが、まだ乾ききらないうちに、彼女は顔を上げた。


「捜索、ですか?」


 その問いには、疑問というより驚愕があり、驚愕というより——ユリウスの予測がどこまで及んでいるのかという——畏怖に近い感情があった。


「ああ。理由は後でわかる——というより、理由を今説明することは、予測を確定させることになる。私は、予測の確定は時として予測の自己実現を促すと信じているから、今は伏せておく方がいい」


 ユリウスは続けた——その口調には迷いがなく、迷いのなさが逆に、彼が既に最悪の事態を想定していることを物語っていた。


「次に、上流の支店へ早船——こちらも三つだ」


「一つ。領都の資金と重要書類を上流の支店に移す」


「二つ。余剰在庫分の生活物資を下流の支店が確保した倉庫へ送ること。これは物流の観点からは非効率だ——通常であれば、上流の物資は上流で消費され、下流の物資は下流で消費される。だが今は、効率より確実性を優先する。下流に集中させることで、管理が容易になり、配分が迅速になり、そして——必要になった時に、即座に対応できる」


「三つ。空の艀(はしけ)を集めて、領都へ回航すること——できるだけ多く」


「艀を……?」


 エレオノーラの声には、今度は明確な困惑があった。艀は貨物を運ぶものであり、空の艀を集めるという指示は、通常の商業活動の論理では説明がつかない——説明がつかないということは、彼女がまだユリウスの思考の全体像を把握していないということであった。把握していないということは、事態が彼女の想像を超えているということを意味していた。


「そう。できるだけ多く——艀は貨物を運ぶためだけのものではない。時として、貨物以外のものを運ぶ必要が生じる」


 ユリウスは窓の外を見た——エルナ河が流れている。その河が、やがて人々の命を運ぶ道となることを、彼は既に予見していた。だが予見を口にすることは、予見の自己実現を信奉する彼には、予見を現実化する圧力となり、圧力は時として不必要な錯誤を生む。だから彼は、今は沈黙を選ぶ。


「伝書鳩も使おう。速度が重要だ。一時間の遅れが、十人の命の差になるかもしれないし、一日の遅れが、百人の命の差になるかもしれない。だから、あらゆる手段を使う」


「上流と下流、両方に?」


「ああ。情報の伝達速度が、生存率を左右する——これは前世で学んだ教訓だ」


 前世、という言葉を口にした時、ユリウスの表情に一瞬、翳りが走った——それは記憶の痛みであり、痛みは過去の失敗を想起させ、失敗の想起は現在の行動を促す。彼は前世で誰も救えなかった。だから現世では、救えるだけ救おうとする——それが贖罪なのか、それとも単なる執着なのか、彼自身にもわからない。


「それから——」


 ユリウスは振り返った——その視線は、エレオノーラを通り越して、何か遠くのもの、あるいは未来のもの、あるいは既に起こり始めているが誰も認識していないものを、見ているようだった。


「王都の知り合いに一報を——内容は『北で魔物。物流が滞るかもしれない』、その程度でいい。詳細は不要だし、こちらだって詳細は全くわからない。私の推測を伝えればかえって混乱を招く。商人というものは、情報の断片から全体を推測する能力に長けているから、この程度で十分だろう」


「それだけで、伝わるのですか?」


「伝わるさ——商人は『滞る』という言葉に敏感だからね。彼らは滞りを恐れ、滞りに備え、そして滞りから利益を得ようとする——それが商人の本能であり、本能というものは理性よりも速く反応する。そして速い反応が、時として——意図せずして——正しい結果を生む」


 エレオノーラは羊皮紙を見下ろした——そこに書かれた指示を、改めて確認する。倉庫の確保。在庫の積み増し。人員の確保。資金と重要書類の移動。空の艀の回航。そして商人への一報——それらは個別には意味を成すが、全体としては、一つの大きな、そして暗い予測を示していた。


「これは——」


 彼女は顔を上げた——その目には、理解と、理解したくないという感情と、そして理解せざるを得ないという諦念が、複雑に絡み合っていた。


「ヴェルデンハイムから引き上げる準備、ですね」


 引き上げるという言葉を口にした時、彼女の声は僅かに震えていた——それは恐怖ではなく、認識の重さであり、認識の重さは責任の重さでもあった。監察官として、彼女もまたこの判断に——少なくとも記録上は——関与することになる。そして関与は、責任を意味する。


 ユリウスは微笑んだ——珍しいことだった。彼が微笑むのは、誰かが彼の意図を理解した時であり、意図の理解は喜ばしいことであるはずだが、しかし今回の意図は喜ばしくない。だから彼の微笑みには、喜びではなく、共感があり、共感の裏には悲しみがあった。


「『念のため』だよ——伯爵軍が勝てば、これらの準備は全部無駄になる。倉庫は空のままだし、艀は使われないし、商人たちは臆病者のルーベルが空騒ぎをしたと笑うだろう。そして私は、過剰反応をした臆病な商人として記憶されるだけさ」


「ですが——」


「だが、無駄になる方が、いいだろう?」


 その言葉には、問いかけの形式を取りながら、実際には答えが含まれていた——準備して無駄になることと、準備せずに必要になること、その二つを天秤にかければ、答えは自明である。だが自明であることと、実行することは別であり、実行するためには決断が必要であり、決断には責任が伴い、そして責任は——時として——正しい判断をした者をさえ、後の世に批判される原因となる。


 エレオノーラは頷いた——彼女は、ユリウスの意図を理解していた。理解というより、共有していた。備えて損することはない——それは真実である。だが備えずに失うものは大きい——それもまた真実である。そして二つの真実の間で、人間は選択を迫られる。ユリウスは既に選択した。そして彼女は、その選択を記録する。


「一つ、伺ってもよろしいでしょうか」


「どうぞ」


 エレオノーラの声には、今度は個人的な——監察官としてではなく、一人の人間としての——好奇心があった。


「いつから——こうなると、思っていたのですか?」


 ユリウスは窓の外を見た——エルナ河が、静かに流れている。艀が、ゆっくりと進んでいる。荷を積んだ艀もあれば、空の艀もある。それらの艀が、やがて別の——より重い——荷を運ぶことになるとは、艀を操る船頭たちは知らない。知らないということは、時として幸福である。


「さあね」


 彼は答えた——答えたというより、答えることを避けた。いつから予測していたのか、という問いに対する正確な答えは、おそらく存在しない。予測というものは、ある瞬間に突然、啓示のように訪れるのではなく、無数の観察と無数の思考の集積の中で、まるで霧が晴れるように、徐々に形を成していくものだからだ。そして形を成した瞬間を特定することは、霧のどの分子が最初に消えたかを特定するのと同じくらい、困難である。


「ただ——帳簿が示す過去から想定される未来と、ヒトやモノが動き示す現実に、齟齬があった。その齟齬が、何を意味するか——考えただけだよ」


 それは謙遜ではなく、事実であった。彼は預言者ではないし、神の声を聞くわけでもないし、未来を見通す魔法を持っているわけでもない。ただ、数字を読み、数字の背後にある人間の判断を読み、判断の背後にある恐怖や欲望や誤認を読み、そしてそれらの集積が、論理的必然として、どのような結果を生むか——それを推測しただけだ。推測は時として外れる。だが外れることを恐れて推測しなければ、当たる可能性さえ失われる。


 エレオノーラは、ユリウスの横顔を見つめた——その横顔は相変わらず平静であったが、その平静の裏に、あるいは平静そのものの中に、何か——決意とも覚悟ともそして諦念とも呼べない、しかし確かに存在するもの——があった。


 彼の目は、未来を見据えていた——まだ来ない災厄を、まだ起こらない悲劇を、まだ誰も認識していない危機を。そして、その危機に対して、彼ができる限りの——商人としての、第一級転生者としての、そして前世の記憶を持つ一人の人間としての——準備をしようとしていた。


 準備が報われるかどうかは、わからない。準備が無駄になる可能性もは大いにある。だが準備をしないという選択は、彼にはできない——それが前世のトラウマなのか、それとも現世の責任感なのか、あるいはその両方なのか、彼自身にもわからないが、少なくとも彼は、何もせずに後悔するという選択を、二度と選ばないと決めていた。


「さて」


 ユリウスは机に戻った——その動作は、思考から行動への、あるいは予測から実行への、移行を示していた。


「手紙を書こうか」


 羽根ペンを取り、新しい羊皮紙を広げる——その動作は儀式的であり、儀式であることによって、行為に重みを与え、重みは責任を意味し、責任は——時として——個人を歴史の一部にする。


「四十八時間もあれば、少しは何とかなるだろうね」


 四十八時間——二日間。時間というものは、平時においては抽象的な概念に過ぎないが、危機においては具体的な制約となり、制約は人間の行動を規定する。そして制約があることによって、人間は——逆説的に——行動を開始する。制約がなければ、人間は無限に思考し、無限に躊躇し、無限に議論し、そして結局、何もしない。だが制約があれば、人間は動かざるを得ない。


 四十八時間という制約は、ユリウスが設定したものだが、同時に現実が要求したものでもあった——それ以上待てば、準備は間に合わない。それ以下では、準備が不完全になる。四十八時間は、可能性と必要性の、ぎりぎりの均衡点だった。

エレオノーラは頷き、彼の隣に立った——それは秘書としての位置であり、監察官としての位置であり、そして何より、この事態を——この決断を、この責任を、この不確実な未来を——共有する者としての位置であった。


 窓の外では、夕陽がエルナ河を赤く染めていた——赤は美しい色であり、同時に血の色でもある。静かな夕暮れ——だがその静けさは、嵐の前の静けさであり、静けさの向こうで、世界は既に動き始めていた。


 帳簿と現実の齟齬が、予測を生み、予測が判断を生み、判断が行動を生み、そして行動が——やがて——歴史と呼ばれる不可逆の流れになる。


 その流れの中で、ユリウス・ルーベルという一人の商人が、一人の第一級転生者が、一人の前世の記憶と前世のトラウマを持つ男が、何を為すことができるのか——それは、まだ誰にもわからなかった。


 ただ、彼は帳簿をつけ、数字を読み、齟齬を発見し、そして——行動する。

それが彼にできる全てであり、同時に、彼がしなければならない全てであった。






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その男、第一級転生者につき 紺屋灯探 @ilpalazzo

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