第1章 1-1 齟齬


 世界には二種類の人間がいる——とまで断言すれば語弊があるかもしれないが、少なくとも帳簿をつける者とつけない者という分類は可能であろうし、そしてこの分類が、時として剣や魔法よりも深く人間の本質を規定するのだという事実を、ユリウス・ルーベルは前世においても現世においても、正しく理解していた。


 彼の前世——現代日本という世界の住人にとっては神話にすら登場しない異界の、森貴之という男——は、小さな物流会社を経営し、利益と損失を計算し、取引先の要望に応じ、そして最後に「正しい判断」をして誰一人救えなかった、そのような人生を送った者であったが、その記憶を携えて彼がこの世界に転生したという事実は、果たして祝福と呼ぶべきなのか呪詛と呼ぶべきなのか、本人にさえ判然としない。


 第一級転生者。


 前世の能力をある程度行使できる者。全転生者の中で、わずか一パーセント。誰もが羨望し、国家が監視し、歴史が期待する存在——だが、彼が保持していたのは、伝説の剣士が振るう必殺の剣技でも、古代の魔導師が操る失われた魔法でもなく、ただの「帳簿をつける能力」という、およそ英雄譚には登場しそうもない、地味で実務的な、しかし森貴之という男にとっては生存そのものであった技能だった。


「これでは転生チートにもならない」


 ユリウス自身、そう思っていた——第一級転生者という称号が、いかに過大評価であるかを最もよく知っているのは、称号を与えられた本人であるという、歴史が繰り返してきた皮肉の一つである。


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 ヴェルデンハイムは、ヴェルデン伯領の領都であり、人口一万を数え、エルナ河が北西から流れ込んで領都付近で南へと向きを変えるという地理的条件によって物流の要衝となっていたが、同時に北方という位置ゆえに冬の寒気は厳しく、それゆえ建物の多くは石造りであり窓は小さく壁は厚いという、防寒のための工夫が結果として街全体に重厚な——ある者は荘厳と評し、別の者は陰鬱と評するかもしれない——印象を与えていた。


 ルーベル商会の事務所も、この街の様式に従っていた。二階建ての石造り建築で、一階は商品倉庫、二階が事務所と居住区という、商人の家としては標準的な構造を持ち、二階の窓からはエルナ河に停泊するはしけが見える——それらのはしけが、いつの日か別の目的で使用されることになろうとは、この時点では誰も、ユリウス自身でさえ、完全には予測していなかった。


 その事務所で、ユリウス・ルーベルは帳簿をつけていた。羽根ペンが規則正しく羊皮紙の上を滑り、インクの匂いと紙の匂いが混じり合う中で、彼は数字を追っていた——前世で慣れ親しんだ行為であり、現世でも変わらず続けている行為であり、そして彼にとっては呼吸と同じくらい自然な行為であった。


「十月第三週、麦の取引量、前年比マイナス十二パーセント」


 それは独白というより事実の確認であり、確認というより儀式であり、儀式というより——彼が世界を理解するための方法論であった。


「医薬品の注文、前月比プラス三十パーセント。保存食、プラス二十パーセント」


 数字は何かを語っている——それがまだ言語として結晶化していないだけで、数字という記号の背後には必ず意味があり、意味の背後には人間の判断があり、判断の背後には恐怖や欲望や意図があり、そしてそれらの集積が、やがて歴史と呼ばれる不可逆の流れになるのだということを、ユリウスは前世で学び、現世で実践していた。


 だが、それが何なのか——まだ、判然としない。


「お茶をお持ちしました」


 扉が開き、若い女性が入ってきた。エレオノーラ・ヴァイス。二十歳。ヴァイス男爵家の三女にして、国家派遣の監察官——表向きは秘書であり補佐であるが、実際は第一級転生者であるユリウス・ルーベルの監視役であり、将来的には配偶者となることさえ想定されているという、制度が個人に押し付ける役割の典型であった。


「ああ、ありがとう」


ユリウスは帳簿から目を上げた——この動作にどれほどの意味があるのか、彼自身も測りかねていたが、少なくとも礼儀としては必要な動作であり、そして礼儀とは、人間が互いの領域を侵さないために発明した防護壁であるという認識を、彼は持っていた。


 彼女は六人目の監察官である。前任の五人は、いずれも三年で任を辞した——任期は制度上三年であり更新も可能であったが、更新を選んだ者は一人もいなかった。理由は様々だったが、要するに「期待外れ」だったのだろう——第一級転生者と聞けば、誰もが魔法使いか勇者のような世界を人類を救う英雄を想像し、少なくともその肩書に見合った何らかの超越的な能力を期待するのが人間の自然な反応である。しかし、ユリウスは帳簿をつけ商いをするだけの男であり、その落差は監察官たちの職業的使命感をも上回る失望を生んだに違いない。


 エレオノーラもまた、当初は失望していた——ユリウスにはわかっていた。彼女が努めて平静を装っていたことも、その平静の裏にある落胆も、そして落胆を隠そうとする彼女の誠実さも、すべて彼には読み取れた。


 しかし半年が過ぎた今、彼女の目には僅かな変化が生まれていた——それを興味と呼ぶべきか、あるいは理解と呼ぶべきか、定義は難しいが、少なくとも最初の失望とは異なる何かが、そこにはあった。


「何か、気になることでも?」


 彼女が尋ねた——聡明な女性である。ユリウスの表情から、あるいは彼が帳簿を眺める時間の長さから、あるいは羽根ペンの動きの微細な変化から、何かを読み取ったのだろう。被観察者にとって観察されているという自覚は、時として不快であるが、時として——特に観察者が聡明である場合——有用でもある。


「北方の村から、注文が増えているね」


 ユリウスは帳簿を指した——指差すという動作は、情報の共有を意味し、情報の共有は信頼の表明を意味するが、同時に責任の分散をも意味する、という多層的な意味を持つ行為であった。


「通常の二倍の食料と医薬品。医薬品は内服ではなく外傷薬ばかりだ」


「魔物の活性化、でしょうか」


 エレオノーラは即座に答えた——彼女もまた情報を集めている。監察官という職務が要求する能力であり、同時に彼女個人の資質でもあった。


「今週に入って、北方で小規模な魔物の群発が報告されています。東の森、北の峠、北西の河岸——三方で、ほぼ同時に」


「三方、か」


 ユリウスは呟いた。


 三方。点ではなく、線——魔物の活性化は通常、特定の地点で発生し、そこから拡散するという経過を辿るが、三方で同時に発生するというのは、単なる偶然と見做すには不自然であり、何らかの共通要因——それが気候的なものか、あるいは別の原因によるものか、現時点では判断できないが——が存在することを示唆していた。


「何かが、合わないね」


 魔物の活性化は季節の変わり目に起こる——それ自体は珍しくない。転生システムという、この世界の人間存在の根幹を成す機構が、季節の変化という環境要因に影響を受けて不安定化し、その結果として適応に失敗した者が魔物化するという現象は、年に数回は観測される。だが一地方の三方で同時に、というのは——少なくともユリウスが知る限りにおいては——異例であり、異例であるということは、既知の理論では説明できない何かが作動しているということを意味した。


 そして——


 ユリウスは別の帳簿を開いた。彼の動作は緩慢であったが、その緩慢さは迷いではなく確信の表れであり、既に彼の思考は次の段階へと進んでいた。


「市場での取引記録なんだけど」


「取引量が、減っていますね」


 エレオノーラが覗き込んだ——彼女もまた、数字を読める。監察官として派遣される人材は、当然ながら一定以上の教育を受けており、商業取引の基礎を理解している。


「そう。特に、大口の商人たちが買い控えている。いや、売り控えているから彼らの倉庫はいっぱいだ。だから、これ以上買えないんだ」


 ユリウスは指で数字を追った——その指の動きは、まるで未来を辿るかのようであった。


「彼らが在庫を積み上げるのは、恐怖からじゃない——恐怖であれば、逆に在庫を放出して現金化しようとするだろう。そうではなく、『売り時を逃したくない』という、極めて人間的な、そして極めて商人的な欲望だ」


「欲……?」


「そう。魔物が増えれば物価は上がる——需要が供給を上回る状況が発生し、結果として価格は上昇する。だから彼らは今は売らずに、値が上がるのを待つ——その判断は、動機としては不純かもしれないが、結果としては正しい行動を生む。商人というものは、時として理由が間違っていても行動は正しいということがある——それが市場の機能であり、市場の残酷さでもあるが」


 ユリウスは淡々と説明した——説明というより、思考を声に出しているだけであったが、その思考の過程を共有することが、エレオノーラとの信頼関係を構築する上で有効であることを、彼は理解していた。


 エレオノーラは黙って頷いた——最近の彼女は、ユリウスの言葉の裏にあるものを探すことに興味を持ち始めていた。上質なパズルのような言葉や態度が指し示す先にあるもの、あるいは言葉そのものが持つ多層的な意味を、探っているようだった。


 帳簿が示す『過去の数字が暗示する未来』と、在庫が示す『現実の流通減』——その間には齟齬がある。そして齟齬があるということは、どちらかが間違っているか、あるいは両方が正しいが異なる事態を示しているか、いずれにせよ現在の理解が不完全であることを意味し、不完全な理解に基づく判断は不可逆の過誤を生む、という認識が、ユリウスの思考の根底にはあった。


 ユリウスの脳裏に、前世の記憶が蘇った——記憶というものは、通常は時間の経過とともに薄れるものであるが、第一級転生者と呼ばれる種類の転生者は例外であり、それは時間を超越して、まるで昨日の出来事のように鮮明に再生される。


 九州北部豪雨。深夜の電話。取引先の社長からだった——声は疲労と不安に満ちていたが、それでも判断を下そうとする意志があった。


『今すぐ誰か寄こしてくれ。倉庫に水が・・・商品が水没しそうだ』


 そのとき森貴之——ユリウスの前世——は、正しい判断をした。社員の人命を優先し、無理な要求に断りを入れた——経営者として、人間として、それは疑いようもなく正しい判断であった。


『さすがにこの天気では社員を動かすことはできません。社長もまずはご自身の安全を。無理はしないでください』


 そして豪雨は去った。倉庫は流されていた。取引先の社長は九死に一生を得たけれど、工場も、倉庫も、仕掛品も、出荷を待つ商品も泥流に沈むか流された。倉庫が流されたということは、社員を手伝いに出せば、彼らの命を危険にさらすところだったということだった——その判断は誤りではなく、正しい判断だった。


 そして、取引先の社長は首を吊り、会社は清算された。


「出荷待ちの商品だけでも出荷できれば、当座の売上が立った。従業員に給料が払えた」


 遺書には、そう書かれていた——簡潔で、事実のみを記した文章であったが、その背後には絶望があり、責任感があり、そして正しい判断をした森貴之への、恨みではないが、やはり何らかの感情があったに違いない。


 正しい判断をして、誰も救えなかった——それは矛盾ではない。判断の正しさと結果の良さは、必ずしも一致しない。だが人間は、判断の正しさを結果によって評価する——そしてその評価の不公正さが、時として判断を下す者を追い詰める。


 齟齬がある時、世界は何かを隠している——ユリウスはそれを、前世で学んでいた。帳簿の数字と現実の間に齟齬がある時、その齟齬は単なる計算ミスではなく、認識の不足であり、認識の不足は判断の誤りを生み、判断の誤りは取り返しのつかない結果を生む、という連鎖を、彼は身をもって経験していた。


「ユリウス様?」


 エレオノーラの声が、記憶を断ち切った——いや、断ち切ったのではなく、現在へと引き戻したというべきだろう。記憶は消えない。ただ、現在という時間が記憶を覆い隠すだけだ。


「ああ、すまない」


 ユリウスは帳簿を閉じた——その動作は、決断の表れであった。思考の段階は終わり、行動の段階が始まる。


 そして——決断した。


「エレオノーラ」


「はい」


「手を打とうか」






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