ジンクス

 図書室は、城のいちばん奥にあった。

 人の気配が薄く、時間まで眠っているみたいな場所。


 古い記録書を一冊、また一冊。

 王家の系譜。

 即位年。

 肖像画の説明。


 ノワレ家の名は、何度も出てくる。


 ——けれど。


 ある代だけが、抜け落ちていた。


「……?」


 ページを戻す。見落としたかと思って、指でなぞる。

 父王の名。その次に続くはずの――姫の名。


 空白。


 代わりに、簡素な一文だけが残されている。


 「その姫は、正式な記録を残さず、歴史から姿を消した」


 理由は書かれていない。

 年表にも、余白にも。

 ただ、存在していた“事実”だけが、慎重に消されている。


 胸の奥が、冷たくなる。


 その姫は、何をした?

 何を選んだ?

 ふと、別の記録が目に留まった。

 小さな注釈。まるで、書き足すのを躊躇ったみたいな文字。


 「その姫は、最後の曲を完成させたと言われている」


 ——最後の曲。


 あの、終わりのない旋律。


 私は、思わず本を閉じた。

 これ以上読んだら、何かが決定してしまいそうで。


 セレスティア・ノワレ。

 今の私と、同じ立場だったのだろうか?

 完成させた者は、歴史に残らない。

 それなのに、曲だけが残っている。


 音は、生き延びる。

 人よりも、確かに。


 私は、胸に手を当てた。

 そこには、まだ続きを知っている感覚が、静かに眠っていた。


◇❖◇


 それからの私は、意識的に“触れない”ようにしていた。


 あの曲にも。

 欠けた楽譜にも。

 消えた姫の記録にも。


 代わりに選んだのは、何気ない日常だった。


 朝はフレシアと一緒に廊下を歩き、窓から差し込む光を眺める。

 庭で花の名前を教えてもらい、温室の奥で静かに咲く星形の花に足を止める。

 食堂では、決まった時間に同じ紅茶が出される。


 ――それだけ。


 怖かったのだ。

 これ以上知ってしまえば、戻れなくなる気がして。

 けれど、逃げ場だと思っていた日常は、思っていたよりも饒舌だった。


「この城の時計は、少し進みが早いのですよ」


 フレシアが何気なく言った一言。

 理由を尋ねると、彼女は首をかしげる。


「昔から、そう決まっているのです。

 “夜が明ける前に、時間を進めるため”だとか」


 胸が、わずかにざわめいた。

 ――夜が明ける前に。


 どこかで、見た言葉。


 別の日、庭園で出会った老庭師は、私にこう言った。


「星の花は、夜にだけ香る。

 でも、朝には必ず摘み取られる。

 残しておくと……迷う者が出るからね」


 迷う者。


 その言葉が、静かに胸に落ちた。私は気づき始めていた。この城の“普通”は、誰かが丁寧に整えたものだということに。


 忘れないように。

 思い出さないように。

 そして、完成させないように。

 日常のあちこちに、小さな綻びがある。


 歌われない歌。

 弾かれない曲。

 語られない名前。


 触れないようにしていたはずなのに、世界の方が、そっと触れてくる。


 セレスティア・ノワレ。

 星の名を持つ姫。


 私はまだ、何も選んでいない。

 けれど、日常はもう――

 静かに、答えの方へ傾き始めていた。

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